七話
分からない。
鮎に手を引かれて歩いていた木ノ実は、そう呟いた。
「――分からないって、何が?」
「鮎ちゃん……うん、あのね――」
「あー待って、今の無し。どうせ、あの男が何を考えてるか分からないって言うんでしょう?」
「う、うん……すごいね。分かっちゃうんだ……?」
木ノ実は僅かに目を伏せた。
あの男、とは勿論、この場に居ない鉄郎の事である。
「止めときなさい。あんな奴の考えることなんてどうせろくでもないわよ。勝手に出て行った。それでいいじゃない。木ノ実の為にならないわ」
「鮎ちゃん……でも、でもね。これってやっぱり、私のせいかなって――」
「ちょ、は!?どうしてそうなるのよ……?木ノ実が悪いところなんて一つも無いわ!」
慌てたのは鮎だ。
木ノ実には何でも自分で背負いこんでしまう悪い癖がある。それは鮎にとって友人として好ましく思える部分でもあるのだが、やはり悪い癖なのだ。
「あいつ何て言ったと思う!?年下の女に命令されるのは嫌、よ!?こんな時代に、大した実力も無いくせに……!」
「え、でも……私にはそんなこと」
「とにかく!早く忘れるのが一番よ!」
鮎はまた手を引いて歩き始めた。
「あいつはいつもそう。勝手に対抗意識燃やして、突っかかってきて、勝手に心折れて、勝手にどっかいくの。いつも、そう……」
「……」
木ノ実は鮎と鉄郎の関係をよく知らない。
けれど、もしかしたら、と木ノ実は思う。二人は昔何かあったんじゃないかと。
鮎の言いようは鉄郎への浅からぬ因縁を感じさせたのだ。
「それに、どうせすぐ帰ってくるわよ。あいつ弱っちいんだから。すぐ泣きついてくるわ。その時は、その時は……」
「あ、鮎ちゃん……?」
自分の世界に入ってしまった鮎に手を引かれて、また歩き始める木ノ実。
(忘れろ、だなんて無理だよ……だって、大切な仲間なんだよ?)
木ノ実は内省する。
(けど、すぐに追いかけることもできないなんて。私、また拒絶されるのが怖いんだ)
鉄郎はコミュニティを離れる理由を殆ど語らなかったが、木ノ実はその持ち前の直感である程度察していた。
(やっぱり、私といるのが嫌だったのかな……?)
ジワ、と木ノ実の目じりに涙が溜まった。
その想像はあまりに残酷だった。善かれよかれと思って行動していても、彼にとって私はただ厄介な敵でしか無かったのではないか、と。
(そうだよね。私は、私が鉄郎さんを誘わなければ、鉄郎さんと一緒にいた使い魔さんも死ななかったんだから)
木ノ実は過去を振り返る。
木ノ実は鉄郎とは世界が崩壊するまで、いやさ、あの決戦の話が出るまで、ほとんど話したことは無かったのだ。
塾で時たま見かけて、使い魔と仲良さそうに帰っていく。そんな姿しか知らなかった。
(そんな印象が変わったのは、あの時だ)
それは、三週間と少し前の事であった。
木ノ実が番條に敗北し、修行して力を付け、戦力となる生き残りをかき集め、そして決戦のための作戦を皆に伝え終えた、少し後のこと。
鉄郎が一人で木ノ実の元を訪れ、言ったのだ。
『なあ、もし言わされてるんなら、止めたっていいと思う』
『え……?』
『戦力差は百分の一以下だ。一応体裁作戦って事になってるが、殆ど特攻作戦じゃないか。かなり絶望的な』
『それでもやらなければいけないんです。私は、みんなの思いを――』
『だから、それだよ』
『え、それ……って、どれです?』
『もしそういう、やらなければいけない、とかやれるのは自分たちだけだ、とかなんとかそれっぽい義務感に突き動かされて、周りが言うのに流されてこの戦いに挑もうってのなら、今からでも止めたっていいって言ってるんだ』
(そう言えば、この頃はあんな敬語じゃなかったな……)
『そんなんじゃありません!私は自分の意思で番條を倒すって決めたんです!流されて、とか空気、とかそんなことでは!倒さなきゃ未来が無いんです!』
『……なら良いんだ。ただ、今全てを掛ける必要は無いって、そう伝えたかったんだ。業腹だろうけど、どこかでひっそりと生きていく、そんな選択もあるって言いたいんだ。あんたなら、一人でだって生きていけるだろうしな?』
『そんな……そんな目を瞑って生きるようなことは、したくありません。それは、未来を諦めることです』
『……そうなんだろうな?いや、水を差したようで悪かった。ただそういう選択もあるって知ってほしかったんだ』
『いいえ。私を心配してくれたんですよね……?それは、ありがとうございます』
『……じゃ、作戦頑張ろう』
『はい!』
最初木ノ実は、鉄郎がなぜそんなことを言ったのか分からなかった。
(でも、気付いたら、胸が軽くなってた。今歩いてる道だけが道じゃないって分かったから)
きっと気負い過ぎた自分に気付いて、肩の荷を下ろしに来てくれたのだろう、と木ノ実は想像するが。
鉄郎の方はただ土壇場で恐れをなして逃げ出したかっただけである。つまりただの悪あがきであったのだ。
(その時から、鉄郎さんの言葉を思い出すと、不思議と安心できたっけ。今が全てじゃないって、そう教えてくれる)
木ノ実の中では早くも過去の鉄郎の美化が始まっていた。
思い出とは自分の都合の良い様に改変されるものである。それは、世界を救った猪鹿倉木ノ実と言えど例外ではなかった。
(彼が出て行くと言った時、その彼に甘えるような私の気持ちを嫌われたんだと思った。けど……違うみたいだった)
鉄郎はそんな木ノ実の気持ちには全く気付いていない。
だが実際鉄郎が木ノ実のその気持ちに気付いていたら、確かに迷惑に感じていただろうことは、どうにも救いようが無い。
(じゃあ、なんで……?)
鉄郎がコミュニティを離れた理由。それは亡くした使い魔を思い出してしまうから。
だがそれは建前に近い。鉄郎自身も気付いていないが、鉄郎は木ノ実や鮎に深い劣等感を抱えていた。逃げる生き方をしてきた鉄郎に、彼女たちは眩しすぎたのだ。
自分なら、自分だけなら、この崩壊世界でももっと幸せに生きられる。そんな思いが、鉄郎の心の深くにあったのだ。
(私は世界を救った、何て言われるけど、本当にそうかな?)
木ノ実は周りを見渡した。
人の気配の無い町。希望無く俯く生存者たち。生まれる不和。
(鉄郎さんは希望が無いから出て行った……?ううん、違う気がする。それもあるかもしれないけど、きっと根本じゃない)
考える。考える。考える。
(どうして?どうして?どうしていなくなってしまうの?なんでそれがこんなに、悲しいの?)
木ノ実には分からなかった。
鳥本鉄郎と言う人間と、もしかしたら二度と関わることができないかもしれない。そう考えると、胸を締め付けられる様な痛みが走る。
その理由も。
「わかんない。わかんないよぅ……」
「木ノ実?……ほら、泣かないで?よしよし……大丈夫よ、木ノ実は強いんだから」
「鮎ちゃん……うううう」
木ノ実は鉄郎が劣等感を抱えているなど想像もしない。
木ノ実にとって鉄郎は頼れる年上で、憧れるばかりなのだから。
誤解とすれ違いから始まった二人の仲は、こじれるばかりであった。