二話
「ふぃー、この部屋はこんなもんか。燕ー、火頼む」
「はーい」
燕が指を向けると、そこから墨で描いた火に見えるものが飛んだ。
それが壁にぶつかると、そこから部屋を覆うように一気に広がると、またすぐ消えた。しかし壁に貼ってあるカレンダーや、床に敷いたカーペットなどが燃えた様子はない。
部屋の景観を損なっていた埃や黒いシミだけが燃えて、消えた。
「ここで最後か?」
「うん。全部浄化済み」
「じゃあバリケードに使えるものだけ運び出して、今日は終わりだな」
終わり、と聞くと燕はぱっと笑う。
「それじゃあ今日の配給貰ってくるから、あと頼むな」
「あ!わたしツナ缶がいい!!」
「あったらな」
鉄郎がビルを出ると、空はもう夕焼けに染まっていた。
力仕事で肩に凝りを感じていた鉄郎は、そこで大きく伸びをする。
――と、そこへ声がかかる。
「お疲れ様です、鳥本さん。精が出ますね」
鉄郎は声の主を見て、一瞬、声を失った。
「これをどうぞ、今日の分の配給です。――どうかしました?」
「あっ、ああいえ。どうも、わざわざありがとうございます」
缶詰めやら乾パンやらが入ったカバンを差し出すその声の主――彼女の名前を猪鹿倉木ノ実と言った。
歳は17。栗色の髪をショートボブにし、はねっ毛を一房まとめている。服装は水色を基調にしたセーラー服で、その上に髪と同じ色のカーディガンを羽織っている。顔立ちはよく整っているが、一見して特徴のない、印象に残らない少女であった。しかしその目をよく見ると、瞳孔に鮮やかな赤が一筋混じり、濁っているようにも見える。
「ここの瘴気、かなり薄くなってますね。ありがとうございます、これで人が住めますね」
「いえ……、どうも」
「たしか、燕ちゃんはツナ缶がお気に入りでしたよね」
「あぁ……はい。あ、鯖缶でも大丈夫です」
ニコニコと笑顔でカバンをあさる木ノ実と対照的に、鉄郎は居心地が悪そうに腕をさすった。
「というか、今日はどうしたんですか?わざわざ配給を配りにくるなんて」
河西に告げ口でもされたのだろうか、と鉄郎。
「え?どうして、って言うと。その、大したことはないんですが。あ、ありました」
「どうも。では」
「え、あ、ちょ、ちょっと待って下さい!」
「はい?」
用は済んだ、とばかりにその場を去ろうとする鉄郎。
それを慌てて引き留めた木ノ実は、どこか照れた様子で続ける。
「あ、の。実は生きてる冷凍車が見つかったんです。それで、お肉が沢山手に入ったので腐っちゃう前にみんなでバーベキューをしようって。あっちなんですけど、良かったら――」
「ご主じ~~ん!縦にしても横にしても扉を通らないのがあって――って、主人公ちゃんじゃん。どしたの?」
木ノ実のセリフを遮って、燕が上から降ってくる。どうやら飛び降りたらしい。
「主人公……ちゃん?それ、私ですか?」
燕はそこで、しまった、という様な顔をした。鉄郎は内心ため息を吐く。
主人公ちゃん。それは、鉄郎と燕が二人で話すときの、猪鹿倉木ノ実の代名詞だ。
(今日の燕はどうも、よく口を滑らせるな)
最近の生活にストレスが溜まっていたのかもしれない。それなら、後でケアが必要だろう……と、鉄郎は現実逃避気味に考える。
「や……ほら、3週間前の戦いであなたは俺や河西、みんなを率いて戦い、そして番條を倒した訳でしょう?世界を救った。物語の主人公みたいだな?と」
もちろんそれだけではない。鉄郎は彼女の行動より、その内面とか、性質を嫌ってこう呼ぶことが多かった。
「あ、そういう事……で、でもでも!!主人公なんてそんな、私、そんな立派なものじゃないですよ!?」
「ははは、謙遜ですか?」
「いえいえ、とんでもない――」
「あ!ツナ缶じゃん!!」
言うが早いか、燕は木ノ実の手からツナ缶をあっという間に奪うと、またビルへと入っていった。
「あ、おい燕!!すみません、落ち着きがなくって」
「いえ……」
鉄郎は自分の分の食料を取ると、燕の後を追った。
その背中に、木ノ実は声を掛けるが――
「あの、バーベキューは……」
鉄郎は聞こえななかった振りをし、ビルへと消えた。
後には、呆然と鉄郎を見送った木ノ実が残された。