表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

生物兵器

作者: 瑞原螢

「ボギー! 一時の方向!」

 静かだったフライトは、僚機の無線連絡で破られた。

 そのパイロットは、すかさずレーダーレンジをスーパーサーチに切り替える。確かに索敵範囲ギリギリに敵影が映っている。敵は三機。多くはないが、自分達は二機だ。


 傍から見れば、ありふれた戦闘機同士の空中戦に見えるだろうが、彼らにとってはいささか事情が異なっていた。

 精鋭のファイターパイロットである彼らは、普通の空中戦だったら多少の不利な状況などものともしないし、むしろ楽しめるぐらいの腕だったが、今回の任務は、とある物をとある味方の元まで届ける事だ。


「フレイアよりバルキリー。こっちは迂回してる余裕は無い。強行突破する。援護してくれ」

「了解。ブレイク!」

 短い応答の後、僚機は増槽を捨て加速しながら、太陽を背にして敵機に襲いかかるべく上昇をしていった。

 もう一つの問題は、彼の機の問題だった。僚機は普通の空戦装備だったが、彼の機が増槽の代わりに腹に抱いていたのは、その『届ける物』が入った特殊なポッドだった。増槽と違って、それは空戦になったからといって簡単に投棄する訳にはいかないし、何せ増槽を装備していなかった分、航続距離にも問題が有る。なので彼は、強行突破を選択したのだった。


 彼は僚機とは逆に、降下しながら加速し、チャフを撒き散らしていった。

「フォックス・ワン!」

 数秒の間を置いて、僚機の通信が連続する。

「ビンゴ! 死体袋行きだ!」

 遥か頭上に、小さく煙の花が咲いている。

 これで二対二、と普通なら余裕が出るところだが、今の彼は戦力にならない事は自分でも知っている。逃げるしかないとなれば、空戦の実力の半分も出せない。


「フレイア、ケツの穴を締めろ!」

 僚機に言われるまでもなく、彼は自機の後ろに付こうとしている敵機を気にしていた。このまま加速して振り切れるか、機動で振り切った方が良いのかは微妙な状況だ。


 ビーッ!

 後方警戒のブザーが鳴る。赤外線誘導ミサイルだ。彼はフレアをばら撒きつつ、冷静に敵機の位置を確認した。どうやら、既に爆風を回避するための機動に入っている。

 脱出してしまうのは簡単だが、それでは任務失敗だ。しかし、このままミサイルをかわし切れば、この『不完全な戦闘機』であっても、先に回避運動を始めた敵機の後ろを取って喰ってしまう事は可能だ。そうなれば、任務達成はとても楽になる。


 彼は一瞬の内に腹を決め、ミサイルを引き付けると、最大8Gが掛かってグレイアウトするほどの急旋回に続けて垂直上昇をした。腹に抱えていたのが特殊なポッドだったのは、ある意味幸いだった。増槽を付けた状態でそんな機動をしたら、ちぎれ飛んでいただろうから。果たして、ミサイルはその動きについて来れずに真っ直ぐに飛んでいく。

 頭上(実際には、水平方向なのだが)に向かって伸びていくその煙の棒の行く先を目で追っていた彼だが、今頃になって近接信管が働いたのだろうか、突如としてミサイルが爆発した。

「!」

 彼はその爆風に耐えるため、機体を半横転させて機の腹をその爆発の方に向けた。機の腹には例のポッドがあるのだが、機体自体がやられては元も子もないので仕方ない。

 ドンッ!と爆風が押し寄せ、機体が大きく揺すぶられる。しかし、爆風が収まっても、機体の振動は収まらない。昇降舵が破損したようだ。いずれにせよ、まともに操縦が出来るような状態ではない。


「バルキリー、昇降舵をやられた。お客さんをリリースしてから脱出する」

「了解。地上部隊に連絡して回収させるが、お前の回収は後回しになるかも知れんから、それまでピクニックを楽しんでいてくれ」

「了解」

 短い通信の間にも、彼はなんとか機を水平に立て直そうとしていたが、それも十分には出来ないと判断すると、ポッドを切り離し、左手で頭上のリングを掴むと、右手で座席横の脱出レバーを引いた。



 パラシュートが完全に開かなかったせいか完全な軟着陸とは行かなかったが、それでもそのお陰でポッドが壊れ、彼女はその外へと出る事が出来ていた。


 彼女は『れいむ』。ゆっくりの中でも、ありふれた種だ。

 ただ、普通の『れいむ』ではない。なにせ、軍が関わっているほどだ。


 実は、全く自己中心的な個体、所謂『でいぶ』の遺伝因子を強く持っている個体を選び抜き、掛け合わせ、さらにわがままし放題の生活を満喫させ、わざわざ『でいぶ』としての性格を強くしたという、生粋で特別な『でいぶ』なのだ。

 勿論、特別なのはその性格だけではない。その体もとてつもなく強靭になっているのだ。そうでもなければ、このポッドの落下で死んでいるだろうし、それ以前にあの8G機動の時にペチャンコになっていただろう。いや、厳密にはペチャンコになっていたかも知れないが、そこから復元したのだろう。



 もともと、ゆっくりという生物は、非常に丈夫なのだ。その体の脆さと、自己認証能力(治癒能力)の低さゆえに、弱いと思われているのだが、その実、体の多くの部分を欠損してもそう簡単には死なないし、銃撃、放射線、毒などに対しては、他の生物とは比べ物にならないぐらいに強い。

 そこに目をつけた軍部は、ゆっくりを生物兵器として使う事を考えた。最新のバイオテクノロジーを使って、言うなれば化け物を作り出したのだ。

 自己治癒能力を数百倍に向上させた上で、外皮は柔軟性に富んだゴム状の組成となっている。切創に対しては、外皮と内部の餡子の間にある生ゴム状の物質が滲み出てきて、傷を塞ぐようになっている。まるで人間のかさぶたのように、傷を迅速に塞いでしまうのだ。

 これを殺そうとするのは、実に厄介だという事は簡単に分かる。一番簡単な方法でも、バラバラにしてしまうか、大きく切り裂いて中身を絞り出すしかないのだ。これは、潰せば済む普通のゆっくりと比べれば、とんでもない事だというのは分かるだろう。


 強靭な体を持つゆっくりをどうやって兵器とするか、それが軍にとっての次の課題だった。それはつまり、兵器となりうる性格をその強靭な体に結びつける必要があるという意味だった。

 そこで、ゆっくりの中でも悪名高いタイプの性格を持つ四種が、その候補として挙げられた。


・自分あるいは自分らが生き延びるためなら、仲間さえも売る『ゲスまりさ』。・麗しき物は自らの性行為で、全てのゆっくりの幸せと盲信する『レイパーありす』。・自己中心的で、自分の幸せこそが周囲の幸せと考える『でいぶ』。・悲しい程に、自らの知識こそが最高峰と信じる『もりのけんじゃぱちゅりー』。


 それらの候補の中、彼らが目を付けたのが『でいぶ』だった。


 その自己中心的な性格と(極端に辛い物は好まないものの)留まる所を知らない食欲は、強靭な体とセットになれば破壊的な様相を呈するだろうと考えられたのだ。

 勿論、一匹や二匹では、駆除にはそれほど手間取らないだろうし、戦局を左右するようなものにはならないだろう。しかし、多数の『強化でいぶ』が敵国内へと投入された場合、民間人の生活に大混乱が巻き起こるだろう事は想像に難くない。投入される量と環境、それに、食糧事情によっては、餓死者が多数出るかも知れないのだ。

 そして、ゆっくりは細菌でもウィルスでもないために、生物兵器禁止条約の範疇には無い。何より細菌やウィルスのように人間に直接的危害を加えるわけではないので、(その裏に、たとえ餓死者とかが居たとしても)第三国の批難の的になりにくいという訳だ。


 かの戦闘機隊が担っていたのは、その試作体の緊急輸送だったのだ。



「ゆぎぎ……、かわいいれいむを、せまいところにおしこめたり、ふりまわしたり、ぶつけたり、にんげんさんたちはとんだゲスだね!」

 でいぶはいつも通りに、自分に起こった悲劇の原因と思う相手に毒づいた。ただいつもと違うのは、その毒づくべき相手が周りに見当たらない事だった。

 不愉快な気分になりながらも、彼女は周囲を見回し、その事に気が付いた。


 周りに人家など見えない。どころか、はっきりと動物さえ確認出来ない。砂漠、と言うほどではないが、森でもないし、草原でさえない。言うなれば荒野、といったところだろうか。

「ゆゆっ……? かわいそうなれいむを、ひとりぼっちにしておくなんて、ゆるせないね! れいむのどれいのにんげんさんは、さっさとさがしにくるべきだよ!」

 聞いている人間など居ないことは既に分かってはいたが、それでも思っている事をつい口に出してしまうのは、殆どのゆっくり共通の性なのだろう。


 色々と毒づくものの、結局のところ、でいぶはそこから大きく動く事はなかった。風が吹くたびにバタバタと暴れるパラシュートを嫌ってポッドから少しは離れていたが、実際に人間が迎えに来るべきだと思っていたし、どこに向かえばいいのかも分からなかったからだ。

 ただ、それは結果としては正しい事だった。彼女が下手に動いたところで、どこかに辿り着く前にお腹が減ってのたれ死にするのがオチだったろうし、(彼女が知る由も無かったが)自分が入っていたポッドに付いているビーコンは、ちゃんと位置信号を発し続けていたからだ。



 でいぶは、とてつもない違和感を感じていた。あのゆっくり出来ない狭い場所から脱出出来たし、そのゆっくり出来ない場所に押し込めた人間さんも近くには居ないというのに、何故だかとてもゆっくり出来ない気分なのだ。


 そうだ、ゆっくり出来るおちびちゃんが居ないからだ。彼女はそう思った。見ているだけでゆっくり出来るおちびちゃんが、ここに居ないのが原因だ。

 ……でも、と、でいぶの心にモヤモヤとした物が漂う。

 あの変な部屋に押し込められる前、おちびちゃんはれいむに酷い事を言った。「へんなはだのいろをした、くちょばばあは、ちんでね!」って。それで、かわいいれいむにそんな事を言うゲスなおちびちゃんは、居なくなれば良いと思ったんだ。で、今、願い通りにおちびちゃんは居ない。なのに何故、ゆっくり出来ないんだろう?


 そうだ、ゆっくり出来るだんなさんのまりさが居ないからだ。彼女はそう思った。一緒に居るだけでゆっくり出来るまりさが、ここに居ないのが原因だ。

 ……でも、と、でいぶの心にモヤモヤとした物が漂う。

 あのゲスなおちびちゃんを踏み殺そうとした時、まりさは身を挺してそれを止めた。それで、子育ての得意なれいむにそんな邪魔をするまりさは、居なくなれば良いと思ったんだ。で、今、願い通りにまりさは居ない。なのに何故、ゆっくり出来ないんだろう?


 そうだ、ゆっくり出来るお歌を歌おう。れいむの上手なお歌は、きっとゆっくり出来るはずだ。

「ゆっくり~のひ~、すっきり~のひ~♪」

 彼女は、本ゆんは気が付かないが外れた調子で、それでも、大きい声で歌い出した。

「まったり~のひ~、にっこり~の……」

 その声は歌い始めてすぐに小さくなっていき、風の音に遮られると、そのまま歌うのを止めてしまった。

 ゆっくり出来るはずのお歌も、何故だかゆっくり出来ない。

 いつも歌を聞いて喜んでくれる、おちびちゃんやまりさが居ないせいだろうか? でも、おちびちゃんやまりさが居なくなれば良いと思ったのは、れいむ自身だ。



 風が強くなってきた。さっきまではせいぜいヒュウヒュウだったが、今はゴウゴウと音を立てて土煙を巻いている。

 強い風はゆっくり出来ない。でいぶはそう思っていた。生命の危険は特段無いのだが、色んな物が飛んできたり、そうでなくても強い風が自分に当たるのは、なんとなくゆっくり出来ないのだ。

 風を避ける場所……、そう、ゆっくり出来るお家が必要だ。さっきまで押し込められていたポッドでも風は避けられるが、パラシュートと繋がったままのそれは強い風が吹く度にゆらゆらと揺れたり動いたりしていて、ゆっくり出来なさそうだ。そうでなくても、ゆっくりするには狭過ぎる。


 でいぶは、ゆっくり出来るお家が無いかと再度辺りを見回した。

 何せ荒野だ。家の体を為した物は見当たらない。ただ幸運な事に、近くには立ち枯れた木の根元らしきものが有った。根元以外の部分は既に朽ち果ててどこかへ行ってしまったのだろうが、樹齢にして最低でも数十年の大木であったろうと推測されるような大きさだ。


 多くの場合、大きな木が地面に張る根同士の間の隙間は、他のいくらかの小動物と同じく、野生のゆっくり達にとっては立派な住処となる。このでいぶは軍施設生まれの軍施設育ちだったが、それがお家に成り得るのだという事は本能的に知っていた。


 でいぶは面倒臭そうにノロノロと動いて、それでも木の根元まで辿り着き、その根の隙間をうかがった。まるで洞穴のようになっているそれは、彼女が住処とするには十分な大きさのようだった。

 中に入ってみると、実際に風は避けられる。確かに軍施設の中のお家に比べれば狭いのだが、それでも住処としては充分な広さだし、何しろ人間さんの目に晒されていないのはゆっくり出来る事だ。


 でいぶは、その仮の住処の中に落ち着いた。いや、厳密には落ち着いてはいなかった。ゆっくり出来ていなかったからだ。

 お家としては問題ないはずのその場所で、何故ゆっくり出来ないのだろう? お家で一緒にゆっくりしてくれるおちびちゃんやまりさが居ないからだろうか? でも、居なくなれば良いと思ったのはれいむ自身だ。じゃぁ、何故なんだろう?


 しばらくぼーっと何事かを考えていたでいぶは、ふと思いついた。そうだ、ゆっくり出来ないのはご飯さんが無いからだ。ご飯さんをお腹一杯にむーしゃむーしゃすれば、きっとゆっくり出来るはずだ。

 そこまで考えが至ると、再び憎悪の感情がでいぶの心の中に湧き上がってきた。れいむのご飯さんを持ってこなければいけない奴隷の人間さんは、何をしているのだろう?れいむのご飯さんを探してこなければいけないまりさは、何をしているのだろう?

 つまり……、人間さんやまりさは、居なければれいむのご飯さんを持ってこれない。でも、いつも居たらゆっくり出来ない。だから、ご飯さんを持ってくる時だけ来ればいいんだ。でも、居なかったられいむのお腹が減ったのを気が付かないかも知れない……。

 でいぶの思考は、既に彼女自身の思考能力を超えつつあった。難しい事を考えるのはゆっくり出来ない……。結局、彼女は、そうして考えるのを止めた。


 元々、『燃費』の悪いれいむ種は、それに加えて食べる事が大好きだ。食べる事自体がゆっくり出来る事だと思っているゆっくり(に限らず、人間や家畜等もそうだが……)本来の性質とも相まって、それほどお腹が減っていなくても食事をする事を好む。

 食糧が他者の手によって供給される可能性が少ないと判断したでいぶは、渋々ながら自分で食糧を探そうと考え、少しばかり風が収まっていた住処の外へと出て来た。


 さっきも見回して分かってはいたが、周囲にまともな食糧などは無さそうだった。ただ、食べる事が出来そうな草の類が多少は生えている。でいぶは、それでもやはり渋々と、その草を口に含んでみた。

「む~しゃ、む~しゃ、いまさん~……」

 恐らく、野生のゆっくりだったら十分に食糧となるだろうし、むしろご馳走の類であったろうその草だが、しかし、普段からゆっくりとしては贅沢な餌を与えられていただろうでいぶには、とてもゆっくりできる味ではなかった。流石に吐き出す事はしなかったが、彼女はその一口だけで食事を中断した。


 でいぶは、とぼとぼと仮の住処へと戻って行った。



 でいぶは、ゆっくり出来ていなかったが、何故ゆっくり出来ないかを考える事に疲れてしまっていた。自分の考えに間違っている部分が有るなどとは全く考えた事のない彼女にとって、それは答えの出ない事であったし、それについて考える事自体がゆっくり出来ない事だったからだ。

 疲れたでいぶは、少しばかり眠ろうと考えた。少なくとも眠っている間は、ゆっくり出来るかも知れない。彼女はそう思っていた。いや、そう信じたかった。


 混沌としていた思考を彼女自身が遮断しようとしていたせいかも知れないが、思いの他すんなりと、でいぶは眠りに落ちた。



 でいぶは、寝苦しさを覚えて飛び起きた。何故に寝苦しかったのかは分からない。あるいは悪い夢を見ていたのかも知れないが、それさえも思い出せない。ただ確かなのは、眠っていてもゆっくり出来なかったという事実だけだった。

 実際には彼女が眠りに落ちてから一、二時間程度は経っていたのだろうが、でいぶ自身は少しも眠れた気がしていなかった。それぐらい気が立って、ゆっくり出来ていなかったのだ。


 でいぶの脳裏には、これからどれだけ長く続くか分からないゆっくり出来ない状況に対して、あまりにも漠然とした恐怖が頭をもたげてきた。ここに住み、そこらに生えている草でも食べれば、生き延びる事に関しては当分は大丈夫そうだ。ただ、そうして生き延びていても、ゆっくり出来ない状態が長く続くだけだ。

 勿論、死んだ方がゆっくり出来るなどという馬鹿げた事は思わないが、ひたすらゆっくり出来ない状態が続くのと、死ぬのとでは、どちらがよりゆっくり出来ない事なのか、でいぶは自分では判断が付かない。ただ一つだけ分かっているのは、どちらもゆっくり出来ないという事だけだった。


 そんな事を思うに至り、でいぶはその住処に居る事自体に急に圧迫感を感じ、外へと飛び出した。



 と、風の音に混じって、何やらそれとは違う音が聞こえるような気が、でいぶにはした。地面もほんの僅かに震えているような気がする。音のする方向を見ると、遥か遠くに土煙が上がっているようだ。また強い風が土煙を上げているのか、それとも、何かの動物が走っているのだろうか?

 正体不明のそれは、少しずつ近づいてきているように見えた。


 でいぶの心は、何故だかワクワクしていた。勿論、正体不明の『それ』が自分の敵であり殺されてしまうかもしれないという危険性は、彼女自身にも分かっていた。でも、それは『ドキドキ』ではなく、間違いなく『ワクワク』だった。

 彼女が少しばかり前に想像した自分自身の最悪のシナリオは、これから何もゆっくり出来る事がなく、自身のゆん生を終わる事だった。それに比べれば、少しでもゆっくり出来る何かが起きる可能性の有る『イベント』は、でいぶにとっては歓迎すべき事なのだった。


 でいぶは、その近づいてくる物が人間さんの乗り物ではないかという事に気が付いた。つまり、その人間さんは自分を探しに来たのではないかと思い始めた。

 彼女は何故だか、少しばかりゆっくりした気分になりつつあった。それは、人間さんに対してという訳ではなく、とにかく誰でも良いから、自分に対して興味を持っている相手が居るのだという事に対して、ゆっくりした物を感じていたのだった。


 近づくにつれ、徐々にそれが何かははっきりしてきた。それは二台の軍用車で、先の方は三人ばかり兵士が乗った車載機関銃付きの1/4トントラックで、後ろの方は軽装甲車だった。

 二台はポッドに向かって走っていたが、途中で1/4トントラックに乗っていた兵士の一人がでいぶの方を指差すと、その発見したであろうでいぶの方へと向かって少しだけ進路を変えて走ってきた。そして少しずつスピードを落とし、彼女の近くで二台ともが停車した。


「よぉ、待たせたな。迎えに来たぞ」

 1/4トントラックから降りてきた兵士の一人、その隊の隊長と思わしき男が、でいぶの近くでしゃがみ、顔を覗き込みながら言った。

「ゆ! にんげんさん、まってたよ!」

 でいぶは、鬚の剃り残しが目立つ……と言うより、無精髭がうっすらと生えている、その兵士の顔を見つめ返しながら言った。

 それを聞いた隊長はおもむろに左手で、被っている鉄兜の淵を上げた。そこからは、目を丸くして驚いている表情が覗いていた。

 無理もない。相手は『でいぶ』なのだ。「むかえがおそいぞ、このくそじじい!」とか「さっさとあまあまよこせ、このくそじじい!」とかが普通の第一声のはずなのだ。

 隊長は1/4トントラックの方を振り返った。そこには恐らく自分と同じ表情なのであろう二人の兵士の顔があり、軽装甲車のハッチから顔を出していた兵士もそれと同じ顔をしていた。


「随分とご機嫌のようだな。何かあったのか?」

「ゆ? なにもないけど、れいむはいま、ゆっくりできてるよ!」」

 向き直った隊長が言うと、でいぶは逆に不思議そうな顔で答えた。ただ、隊長の方はある程度は想定内だったのか、今度の答えに対しては驚くようなそぶりは見せなかった。



 でいぶは自己中心的であり、自身の価値観が絶対的に正しいと信じている、と思われている。これは一般的には正しい。ただ、見方を変えれば必ずしも正しいとは言い切れない。

 実はでいぶは、他の誰の価値観に比較しても自分の価値観が正しいと思っているのだ。つまり、飽くまでその価値観は『比較的』なのであるが、『他者の誰よりも』正しいと思っているので、外見上は『絶対的』に見えるのだ。

 こうした事は、普段の他者とのコミュニケーションにおいてはあまり意味を持たない。でいぶはどんな他者よりも『比較的』自分の方が正しいと思うので、それは傍から見れば『絶対的』に自分が正しいと思っているようにしか見えないからだ。


 しかし、でいぶが自身のゆっくり感を考える段に至ると、それは意味を持つ。

 でいぶは常に自分がよりゆっくり出来るであろう事を考え、そうしたいと思う。つまり、どんなに恵まれた環境を与えようが、それが日常になってしまうと、その恵まれた環境でさえ不満になり、より良い環境を欲しがる(そして、良く知られているような悪態をつく)。

 問題は、逆の場合だ。極端に劣悪な環境に置かれた場合でも、やはり『より良い』環境を求める。そこから少しでも良い環境になれば、でいぶはゆっくり出来るのだ。


 常識的に考えれば、多少良い環境になったところで以前に経験した良い環境に比べて劣悪であれば、それに対して不満を言うだろうが、そこはゆっくりならではの餡子脳だ。目の前の相対的ゆっくり感が、過去の絶対的ゆっくり感に勝ってしまうのだ。



「ジャイアント・ラットよりラット・ネスト。ターゲットを回収。……コンディションはコード77。……ええ、間違いありません。こっちもビックリするほど素直でしたから。……残念ですが。……了解。処理を実行して帰投します」

 1/4トントラックに戻った隊長と思わしき男は、無線で何やら話していたが、それが終わると、部下の兵士達に目で合図をしてから、少しばかり堅い表情ででいぶに近づいてきた。


 彼は若干よれて曲がってしまった板チョコをポケットから取り出すと、それの銀紙を剥ぎ取った。

「喰うか?」

「ゆゆっ? おにいさん、ありがとう!」

 でいぶは、それらしからぬお礼を口にし、板チョコを口に入れて貰う。

「む~しゃ、む~しゃ、しあわせ~♪」

 やはりでいぶらしからぬ事だが、丸呑みせずに味わいながら嬉しそうに食べる彼女を、隊長は対照的に苦々しげな表情で見つめていた。


 およそその陽気とは似つかわしくない厚手の手袋をした兵士が、何かのタンクに繋がっているホースの先をでいぶに向けた。

「ちょっと、おとなしくしててくれよ……」

 言い終わるや否や、ホースの先からは白い煙のようなものが強烈に吹き出す。

「ゆ? なんだかさむ……」

 でいぶは疑問の台詞を言い終わる前に、その体も心も動かせなくなった。


 白く冷たく輝くようになったでいぶを確認すると、凍りついた彼女から数メートルほど離れるように、少しばかり二台の車両が移動した。

「悪いな。お前にゃ別に何の恨みも無いんだけどな……」

 1/4トントラックの機銃手はそう言うと、車載機銃をでいぶに向かって一連射した。と、でいぶはバラバラに砕け散った。その中身の餡子は完全に凍り切っていたわけではなかったが、外皮は完全に砕け、即死の状態だった。


「ま、上の連中は、俺達の事ですら正味25セントのクソ製造機だと思ってるぐらいだ。恨むんだったら、ゆっくりに生まれた事を恨むんだな……」

 機銃手は自嘲気味につぶやいた。



 軍による『でいぶ』の生物兵器化は、実験最終段階で難航していた。


 『でいぶ』の凶悪(そして、醜悪)な性格は、周囲にその影響を受ける者がいるからこそ維持出来るものであり、つまりは環境への依存性が高い。他者とのコミュニケーションが遮断された状態に置かれると、その自己中心的な主張自体が無意味なものになってしまう。

 食糧がある内は、その場に居ない(もしくは、架空の)他者を罵りながらも、それを貪り喰う事で自我を保つ事が出来るのだが、その旺盛な食欲により、食糧の欠乏、もしくは、飢餓状態に陥るようになるまではそう長い時間は掛からない。

 飢餓状態になってもやはり、その状態に陥ったのは他者のせいだと思い続けるのではあるが、時間が経過し、状況が改善しない(多くの場合そうした『でいぶ』は自分で食糧を集める能力に欠けるため、時間が経過しても自力で飢餓状態が解決する事は殆どない)と、元々ゆっくりの中でも感情が不安定な傾向があるれいむ種の一種である『でいぶ』は、自我、もしくは、自分の主張自体に疑問を持つようになってしまう。


 一度こうなってしまうと、自らの信念よりも生存本能が優先されてしまい、生存のために簡単に自己主張を曲げてしまう。つまり、懐柔されやすくなってしまう。これが何を意味しているかというと、『でいぶ』としての性格(つまり特徴)が失われてしまうという事なのだ(勿論、主張を曲げないまま餓死してしまう個体や、飢餓状態での自我の維持が出来ずに発狂死してしまう個体もいるようではあるが、それはごく一部だとされている)。


 こうして一度懐柔されてしまった『でいぶ』は、最早ただのれいむに過ぎない。普通のれいむ種と同じく、環境によっては再び『でいぶ』となる可能性も有るが、少なくともその時点では普通のれいむでしかないのだ。


 軍の研究は、いかにして『でいぶ』の性格をより攻撃的で強固なものにするかへと移りつつあった。

 より効果的な兵器に仕立て上げるために。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ