第一編 名和田克樹と仲間たち。見えない世界が見えると高校生もラクじゃない。
「克樹、麻由さんのパンツくれよ。またチケット取るからさ。今度は白がいいな」
蒸し暑い六月某日、授業の合間の休み時間にいつものように名和田克樹は友人の渡辺と他愛の無い会話をしていた。教室にはエアコンなど備え付けられておらず、渡辺はうちわで二人に風が当たるよう忙しなく腕を動かしている。
「ダメダメ、あれが最初で最後だよ。つい欲に目がくらんで過ちを犯してしまっただけだ。ベタなエロマンガじゃないんだから。それと、そんなこと真顔で言うなよ」
克樹は以前、渡辺のために三歳年上の姉である麻由の下着を盗んだことがある。どうしても観に行きたかったライブチケットと引き換えに。それを思い出すと、今でも身を掻きむしりたくなるような羞恥に襲われることがある。
「バレてないだろ。大丈夫だって。」
「いや、多分バレてる。姉貴は変に奥ゆかしい所があるからな、ひょっとしたら家族が壊れるなんて大袈裟に考えたのかもしれない。自分が我慢すればいいとか思っちゃうんだよ。でも、次は流石にマズイよ」
ウソである。多分、といったものの、実は犯行現場を本人に直接見られて問い詰められている。渡辺の名前もゲロしている。というかゲロするまでもなく見抜かれた。だがアッサリと、もうしないでね、で終わってしまったのだ。本当の事を渡辺が知ろうものなら調子に乗りそうでコワいと思ったので、話していないだけである。麻由は自分に忍耐を強いる性格、というのも間違いではないが、本当の理由は別の所にある。
「麻由さんいいよなー美人だし。ちょっとキツそうな雰囲気だけど、実はそうでもないし。そのギャップもいいんだよな。俺、昨日も麻由さんで……」
「やめろ、この色妄全開野郎」
克樹は渡辺の次の言葉を遮った。
「お前はいいよな、あんなカワイイ姉妹がいてよ。少しはその幸せを親友に分け与えようという慈悲の心を持ち合わせていないのかよ」
「そんなに姉貴の事が気になるんだったら、本人に直接言えよ。絶対断られるだろうけど、というか、俺が絶対阻止する。フツーに彼女作ればいいじゃないか」
「俺は忙しいから女と付き合ってる暇はないんだよ。医師を目指すものとして、女性についても色々と深く理解せねばならんのだ。決して煩悩のためではない。パンツはそのためのツールに過ぎん」
渡辺は拳を握りしめ意気顕揚に己の信条を語る。
「百パー煩悩だろうが、このパンツフェチ野郎」
「じゃあ、紗由ちゃんでいいよ」
渡辺は妹の紗由の名前を出す。
「もっと駄目だ」
渡辺と話すといつもこの調子なのだが、この明け透けな性格は憎めないので、克樹は渡辺との付き合いを続けている。渡辺は細見で身長があり、シルバーフレームの小さめのメガネをかけている。切れ長の目に高い鼻梁、全体的に整った顔立ちをしている。スーツを着てネクタイを締めれば、パッと見、出来る若手ビジネスマン風になる。成績も悪くない、むしろ優秀な方だ。中身と外見が一致していないタイプと言える。今のようなアホ話も真顔で喋る。克樹は長い付き合いだから分かっているが、そうではない人間がこの姿を見ると、関わってはいけない人という誤解を受けかねない。否、誤解では無い。半分は当たっている。
克樹は犯行時の光景を今もハッキリと思い出せる。留守中を狙い、麻由の部屋に忍び込み、引出を開け物色する。何かのコレクションのように整然と並んだ下着を一瞥した。渡辺が欲した紫は見当たらない。代わりに何がいいかと思案していた所、
「克っちゃん、そんな趣味があるのか?」
と麻由に犯行現場を直接見咎められた時には心臓が破裂するかと思った位だ。
「な、何故ここに?飲み会の筈じゃ……?」
「急きょ中止になった。インフルエンザが流行っているでしょ。まぁ、ちょっと胸騒ぎもしてね、中止にならなくても、キャンセルしていたかもね。」
克樹と姉弟でありながら麻由には能力こそ備わっていないが、盗聴撮しているのではないかと思ってしまう勘の良さを見せる時がある。情けないような、呆れたような表情をされたのはあれが初めてだったかもしれない。麻由は察しがいいから下手な嘘をついても意味が無い。そこで、克樹はためらいなく親友を売った。
――元々悪いのは渡辺だし。買収された俺も俺だけど。
だがしかし、
「ふん、まぁいいわ。でも、次は許さないから」
で麻由が終わらせてしまったのには拍子抜けした。元々他人に対してはアッサリした性格で、あまり執着しないところはあった。この反応は克樹にとって全くの予想外で思わず
「え、それだけ?」
と聞き返してしまった。
「パンツの一枚くらいくれてやるわ。有難く思いなさい。渡辺君も昔はいい子だったんだが。真面目そうな顔して。男はみんなそうなるのかな?克っちゃんにもあげようか?」
「要るかよ」
冗談であってもニコニコ笑顔で弟に自らの下着を上げようとする姉に克樹は軽い眩暈を覚える。こんな性格だったっけ?気付くと麻由は何か思案顔をしている。不気味な笑みも浮かべている。目付きが危ない。何か企んでいるのか?麻由は時々こうなる。
――そういえば、あの後特に何も変わった様子は無いな。杞憂で済んでくれればいいけど。
「なあ、やっぱり克樹は大学行かないのか?」
バカ話に飽きて話題は進路に変わる。高校三年生なら当然すぎる話題だ。
「豊原は相変わらずW大狙いだってよ。阿部は教えてくれない。でも実際、この時期じゃ何とも言えないよな。克樹だって成績悪くないんだから、欲出さなきゃ十分いけるだろ」
「俺、興味ないし。前も言ったけど家業を継ぐよ。」
「電気屋だっけ?儲かってんの?」
本当の仕事のことは誰にも話していない。電気屋は勿論ダミーだ。実際は国から協会を経由して、給料が支払われている。
「良く分からないけどこうして高校に行ける位にはね。この学校も偏差値で選んじゃったけど、もう勉強はいいかな」
地域の公立進学校に入ってはみたものの、克樹はイマイチ馴染めなかった。元々、大学進学に興味が無かったということもある。地域で成績トップクラスの生徒が集まってくる学校で、それなりにレベルも高い。しかし、全国的にみれば同レベルの学校は掃いて捨てる程ある。生徒は大した努力もせずに、「オレはやればできる、まだ本気を出してないだけ」と無駄にプライドが高い。過去の成功体験から離れられず、くすぶっている連中も少なく無い。高校生活は勉強だけじゃない、と逃げに回る。勿論、克樹もそれは認めている。勉強だけではない。それ以上に大切なことは他に幾らでもある。しかし、この高校から勉強を取ったら他に何が残るのか、甚だ疑問ではある。スポーツをやるのなら他に良い学校はある。少なくとも周りは地元の進学校、成績のいい生徒が集まる学校としか見てはいないだろう。進学実績は後発の私立高校に押され、徐々に低迷してきているのが実情だ。数十年後には、取り立てて特徴のない“フツーの学校”に成り下がっているのではないか、と言う気がしてならないのである。
「渡辺は医学部一本か。おまえンちは医者だから分かりやすいよな。産婦人科だっけ?」
「内科と小児科だ。何度も言わせるな」
――それに、本当にすべきことは他にある。
その日の帰り、克樹は市内のとある交差点を訪れた。三日前にそこで交通事故が発生し、一人の死者が出ている。克樹はそこに佇む、うつろな表情をした三十半ば位の男性と向かい合った。何かを話しているかに見えるが、二人から何の言葉も聞こえてこない。自転車に乗った中年の女性が何をしているのか伺うような視線を投げかけながら自転車横断帯を渡って行った。尤も彼女に見えていたのは克樹一人だけなのだが。
「鈴木さん、こんな所に居たって暑いだけですよ。鈴木さんのウチまで俺が送るからさ、一緒に帰りましょうよ」
鈴木、と呼ばれた彼が今回の事故の死者であった。肉体を離れた者に対して暑いだけというのもおかしな話だが、克樹は新念・鈴木に語りかける。世間一般には霊や魂と呼んだ方が伝わりやすいのかもしれないが、克樹達は彼らのことを「念」と呼んでいる。死してなお、想いを残し現世にとどまる残留思念状態――略して念である。
この鈴木のように、死後間もない段階の念を新念と呼んでいる。新念は肉体から切り離されたばかりのため意識が混濁している。語りかけた所でまともに意思疎通などは出来ない。自分が死んでしまったことすら自覚できていない場合もある。赤子のようなものなのだ。それでも生前の記憶は残っており、克樹の言わんとしていることはある程度通じる。
「この場所にずっと執着していると残念になりますよ。そうなると俺も鈴木さんを祓わなくてはならなくなりますので。お互い良いこと無いですよ」
新念に早く家族の元に戻ってもらわないと現世から往生できなくなる。そうなった念を残念と呼んでいる。残念化すると霊感の強いものに取り憑いて現世で悪事を働くようになる。宗教者が豹変して世間とトラブルを起こすのも残念に取り憑かれてしまっているパターンが多かったりする。現世での影響力が強かった人間ほど執着も強い傾向にある。大物権力者が失脚し、非業とも言える死を遂げた時等は要注意なのだ。と言ってもそんなことは滅多にない。仮にあったとしても、克樹のような若手では無く、力量のある者が対応する。それこそ日本最高クラスの人間が。
「理沙ちゃんに会わなくていいんですか」
愛娘の名を語りかけると、新念・鈴木は初めて反応を見せた。大切な忘れものに気付いたように動揺を見せる。路面に根付いていた鈴木の脚が離れる。そのタイミングで克樹は鈴木の腕を引く。新念・鈴木は宙に浮き、克樹の背中に着いた。
「じゃあ、行きますよ」
克樹は自転車に跨り、鈴木の家に向かう。家に近づくにつれ、背中の新念・鈴木が先を急げと言わんばかりにジタバタ動くようになった。見慣れた景色が生前の記憶を呼び起こし、意識が明瞭になりつつある。
「ちょっと、もうすぐ着きますから。急かさないで下さいよ。危ないですって」
途中、反対側の歩道で克樹同様に背中に念をつけた男子高校生を見かけた。白の半袖シャツにグレーのスラックスを履いている。背丈は一七〇位だろうか。色白でメガネを掛けている。黒髪センター分け。どこにでもいそうな地味な格好の男子だ。向こうは克樹に気付いた様子はない。
「アイツ誰だ?初めて見る顔だ。ここの高校生は俺一人だけど……あの制服、何処だったっけ?夏服じゃ良く分からないな」
同年代の同業者に気を取られて、前から来た自転車の女子高生と危うく正面衝突しそうになった。
「やばいやばい、こんなことで任務失敗したら免許取り消しだよ。まずはコッチを優先させないとな」
克樹は背中の新念・鈴木を一瞥した。先ほどとは打って変わって、表情に張りが出てきた。家族に会うという目的を得たことで、大分意識がハッキリしてきている。家に戻り家族に会い、そこに自分が居ないことに気付き、自らの死を認識することになる。新念はそこでまた別の死の苦しみに直面することになるが、家族との対話(と言ってもお互いのクーリングダウン期間のようなものだけど)を重ねることで、乗り越え、天に還る。定番のプロセスだ。
鈴木の家に到着すると、新念・鈴木は克樹の背中を離れ、吸い込まれるように中に入って行った。
「一丁上がり。あの様子なら四十九日でちゃんと往生してくれるだろう。これで今日の仕事はおしまい。帰ろっと」
順調に任務を完遂できたことに克樹は満足した。
「俺以外にも、この辺に高校生SCって居るの?」
夜、克樹は父親の耕三に尋ねた。Spiritual Communicatorを略してSCと呼んでいる。昔は別の名称を使っていたらしいが、横文字を使った方がカッコいいという理由で、今はSCになっている。つまり近い将来、カッコよさの基準が変わった時にさらに見直されるかもしれないということだ。克樹の父もSC、と言うより名和田家は代々SCの家系である。特に克樹の曽祖父は日本でも有名なSCだった。日本SC協会の古株達の間ではその名を知らない者はいない。名和田家は協会内では多少、名の通った家柄なのだ。
「別の地区じゃないか。常呂河の方に確か一人いたはずだ」
「常呂河って隣のとなりのエリアじゃないか。」
克樹たちと同じ熊鷹市民が常呂河市内で不幸にして亡くなってしまった場合、常呂河エリア担当のSCが新念をこちらまで連れてくることになる。それはおかしなことでは無い。しかし、物理的な距離があるため、交通費は実費で協会から支給されるとは言え、普通は経済力が無く、学業もある高校生に役目は回ってこない。
「今、何処も人手不足なんだよ。各エリアのSCは皆、東京の方に回されてる。三宝原理教会って知ってるか?今、急激に信者を増やしている新興の宗教団体なんだが、信者のトラブルが後を絶たないみたいでな、協会の方で調査した所、そこの教主が取り憑かれているって話だ。邪念クラスの奴にな。三宝原理教会絡みで色々と人手がかかっているんだ」
「邪念ってヤバい奴じゃん」
現世に執着し往生できなくなった念を残念と呼び、残念は往々にして現世で悪事を働くことがあるのは先に説明した通りだ。さらに力の増した残念を邪念と呼び、それとは区別している。取り憑いた人間だけでなく、強烈な念動力で周囲の人間の精神も操る。個人レベルを大きく超えて、組織化した犯罪者集団を形成してしまうのだ。こうなると最早、一人のSCでは太刀打ちできない。数人、時には数十人のSCでチームを編成し、必要に応じて警察と連携しながら、対応することになる。邪念が現れることは滅多にないのだが、それが今、現実に起きているようだ。
「もし本当に邪念だったら二十年振り位かな。実は俺も来週から応援に行くことになっているんだ。俺も邪念案件に直接関わるのは初めてだな」
「マジで?スゴイな」
「まぁ、まずは協会に行って現状について話を聞くだけだよ。具体的にどうするかはその後だ。やっぱ一口目のビールは最高だな」
耕三は手に持っていた缶ビールを開けて一口すすった。
「あー、また飲んでる。一日二本までって言ってたのに。お母さんに言っちゃお」
六歳年下の妹、紗由が二人の会話を嗅ぎ付け、二階の自室から降りてきた。
「おう、紗由も飲むか?」
「いらないよ、私まだ小学生だよ。そんな苦いのどこが美味しいの?」
紗由は以前、耕三のイタズラに騙されて一口飲んだことがある。直ぐに吐き出してしまったが。
「まだ子供だな。ビールの美味さが分からないなんてな。克樹はどうだ?お前ならもう分かるだろう?」
「俺もまだ未成年だっつーの。未成年者に飲ませたら罰せられるよ。父さん、気を付けた方がいいよ、マジで」
「何だよ、冗談だよ、冗談。お前らカタいな。今の子供はしっかりしてるよ」
「実際、お父さんよりお兄ちゃんの方がしっかりしてるし」
「なんだよ、相変わらず紗由は克樹の味方ばかりするよな」
耕三は末の娘の自分への信頼の薄さに不平を洩らす。
「本当のことを言っただけだよ。いつもテレビつけたまま寝ちゃうし、この前も買ったばかりの傘を忘れて来るし」
「大人は色々忙しいの、いちいち細かいことまで気が回らないの。紗由も大人になったら分かるよ」
「お母さんは全然忘れないよ」
「女は執念深いからな」
「何それ。お母さんに言いつけてやる」
「お母さんは関係ないだろう」
「そこまで、お前ら五月蠅い」
父娘の下らない口ゲンカに話の腰を折られた克樹が仲裁する。普段は落ち着いて理性的な耕三も紗由と向かい合うと妙に感情的になる。特にこの三人が揃う時。理由は分かっている。克樹は二人を離すことにした。
「もう遅いから寝るよ。お休み」
「待って、お兄ちゃん。私も」
お茶の間を出た克樹の後を紗由が追った。
「紗由、あまり父さんをからかうなよ。お前の事を一番気にかけてんだからさ」
「ホントに?そうは思えないけど」
悪戯笑いを浮かべ、紗由は恍けた振りをする。この年で男の心を弄ぶ事を覚えてしまっているのか?克樹は兄として六歳年下の妹の先行きが心配になってくる。
「いつもムキになってケンカになるのがいい証拠だよ。ホントは紗由に味方になってもらいたいんだよ。いつも俺ばかりじゃなくて。それにお前らのケンカをいちいち仲裁するのもメンドクさいし。もう少し父さんの気持ちも汲み取ってやって欲しいな」
「うん、わかった。お兄ちゃんがそう言うなら!」
紗由は素直に頷き、おやすみと言って自分の部屋に入って行った。
茶の間に一人取り残された耕三はテレビのニュース番組を見ながら、ポテチをつまみに残りのビールで晩酌する。年甲斐もなく、耕三はジャンクフードの類が大好きなのである。テレビからはオジサン達に人気の女子アナの淡々とした声が流れて来る。タイムリーにも三宝原理教会の信者と、そして近隣住民とのトラブルについて特集を組んて報じていた。子供二人が自室に引き上げはしたが、耕三はテレビ音声のボリュームを上げる。
「紗由の奴、克樹には懐いているのにな。昔は俺に対しても素直だったんだが。もう反抗期が始まっているのかな?そういえば、麻由と克樹って反抗期あったかな?」
耕三は昔の記憶を引き出そうとするが、無駄に反抗的な二人のビジョンが殆ど出てこない。
――ただいまー
玄関から麻由の声が聞こえた。
「お父さん、まだ起きてたの。いつも早いのに」
「おう、遅いな、アルバイトしていたのか?」
「まあね」
麻由は耕三の問いかけに頷き、洗面所に向かう。茶の間に戻ると冷蔵庫を開けて、ジュースを取り出し、コップ一杯を一気に飲み干した。
「何かのど乾いちゃって」
耕三の冷かすような視線に麻由が応える。たった今、音声ボリュームを上げたテレビのニュースに麻由の視線が止まった。
「協会の人間から話は聞いたよ。麻由、首を突っ込み過ぎだ。」
「……お母さんは私の気持ちを理解してくれている。お父さんは何故それができない?」
「あのな、そういう問題じゃない。単純に心配なんだよ。お前の身に何か起きたらと思うと気が気じゃないんだよ」
「大丈夫。十分気を付けているから。実際に何も起きていないでしょう?私の事を信用してくれないの?」
「してないわけじゃない。能力が無いのに、関わろうとするのは危険だといっている。今が大丈夫でもこの先もそうだとは限らないだろ。今回の件は特にそうだ。」
「私だけが蚊帳の外なのは絶対イヤ」
「気にし過ぎだ。何度も言っているだろ。家族の一員であることには変わりないよ。念のことなんか気にしないで、麻由には普通の生活をしてほしいんだよ」
「私にとって念は普通のことだから、出来る範囲で何かしたい。応援してくれてもいいはず。お母さんは直ぐに理解してくれたのに、お父さんが未だに分からないのが私には不思議で仕方ない。私に何かあった時、自分に責任が振ってかかるのが怖いの?私が克っちゃんや紗由と違うから……」
乾いた音が茶の間に響く。気付くと耕三は麻由の頬を叩いていた。
「……ごめん、言い過ぎた。でも、私の気持ちは変わらない」
麻由は茶の間を出た。またしても一人茶の間に残された耕三は卓袱台に頬杖をつき嘆息して呟く。
「どいつもこいつも自分の気持ち、自分の気持ちって……じゃあ俺の気持ちはどうなるんだ?人の心配なんざまるで何処吹く風だ。倫子も一体何故、容認するんだ。紗由と言い、娘たちの始末に何でここまで手を焼かなきゃならんのだ。親父失格か、俺は?」
翌日、学校帰りの克樹は昨日見かけた高校生SCに再び遭遇した。同じ場所で。しかし、今日は念を引きつれていない。歩く方向も昨日とは逆だ。
「やぁ、また会ったね、って、そっちは気付いてないよな。昨日もここにいたよね。キミもSCなんでしょ」
突然話しかけられ、警戒した表情を浮かべたが、SCという言葉を聞いて直ぐに顔を緩めた。
「ああ、常呂河地区だけどね……君はこのエリアのSC?」
「うん、名和田っていいます」
「……ああ、君が名和田君か。名前は知ってるよ。」
表情が僅かに強張る。
「ハハ……そうなんだ。」
「割と伝統を重んじる世界だから余計にね。昨日、新念を引きつれた高校生を見たような記憶があるけど、あれが君だったのか」
「やっぱり念が近づくと感覚で分かるよね。二日続けてこっちまでって大変だな。わざわざ様子を看に来たの?」
「ああ、ウチのエリアは新念を送り届けた後、翌日も看ることになっているから。本来ならコッチのSCにお願いしたいトコなんだけど、このエリアは二日目までは看ないんだって?人手不足も付け足されて断られた。だから結局、俺が来ることになったんだ。コッチはいいね」
まれに家族の元に還っても、落ち着かずに自身が死亡した現場に戻ってしまう新念もいる。その場合、放っておくと残念になりかねない。新念の扱いにはエリアルールや担当者によって多少の違いがある。
「コッチに連れて来たのなら、無理に常呂河ルールを通す必要も無いはずだけどな」
「自分が担当した念は最後まで面倒看ろ、って支部長に言われた。俺もそのつもりではいたけど。まあ、大丈夫だったけどね。」
「じゃあ、今日はもう帰りってこと?よかったらウチに寄って行かないか?同じ高校生SCだし。君が普段どんな活動をしているのか知りたいんだ。ええと、名前をまだきいてなかったな」
「新井」
簡潔に応える。新井はずり落ちたメガネのブリッジを中指で上げた。
「悪いけど、もう今日は帰らなきゃならないんだ。人手不足だしね。他にもやることがある」
「三宝原理教会で人手を取られているのか?」
「それもあるかもね。少し騒ぎ過ぎだけど。ウチのエリアは根本的に人員が少ないんだ。エリア人口に対するSCの人数比が全国ワーストなんだよ、常呂河は。皆いつもバタバタしてる。人員はいつもコッチのエリアに優先的に回されるからね。キミの所の影響力が強いからウチがその煽りを受けているんだよ」
新井は苛立ちを抑えるように話す。
「まあ、名和田君がそんなこと知る必要も無いか。話しても仕方ないよね。」
見下すように両手を上げ、首を振る。
「ちょっと待て。ウチはそんなことしていないぞ。今は誰も協会の活動に直接関わっていない」
「キミが何も知らないだけだよ。まぁその方がいいかもね」
「おい、どういう事だ。何を言っている?」
克樹は新井に詰め寄る。
「おいおい、止めてくれよ。喧嘩したってこっちには勝ち目なんて無いんだからさ。弱いものイジメするのか」
新井は媚びるような表情を浮かべ、後ろに下がる。
「お前、ヒトの事をコケにするのもいい加減にしろよ。俺はお前とケンカしたいわけじゃないんだ。もしお前に言っていることが本当なら、何があったのか教えてくれ」
「……キミは本当に何も知らないのか?協会内で今、何が起きているのか」
溜息交じりに新井は言葉を重ねようとした所に、救急車がサイレンを鳴らして道路を走り去っていった。脳を直接揺さぶるような高い電子音が低く小さく、離れていくまでの数秒、二人の間に沈黙が流れた。
「今の会長がルールを変えて三選を目指しているのは知っているよね?現状は二選までだ。一人の人間が長期に会長を務めると独裁化になりかねないから任期には制限がある。ルールを変えるため、現会長は同調する人間を増やそうと躍起になっている。反対派のとの派閥闘争が起きている」
「それは聞いたことがある。それとウチがどう人員配置に関係しているんだよ」
「外部の人間が関わっているって話だ。誰なのかは知らない。俺が言えることは此処までだ。後は自分で調べるんだね。さっきも言ったけど、今は本当に人手不足で忙しいんだ。キミにイチイチ説明する時間が勿体ない。お互いにSCをやっていれば、またどこかで会うかもね。バイバイ」
新井は擦り落ちたメガネを持ち上げると、足早に去って行った。
「……ヤな感じの奴だ。でも、人員の話は初めて聞いたな。本当か?ちょっと調べてみる必要があるな」
「どうした克樹?浮かない顔して」
休み時間に渡辺がいつものように克樹に話しかけてきた。
「別に。何でも無いよ」
本当は昨日の新井の話が気になって仕方がないのだが、渡辺にこの話は出来ない。未だにSCのことを渡辺に話していないのである。能力を持たない一般の人間に話してもロクなことにならないので、SCは皆そのことを伏せて日々生活しているのだ。
「なんだよ、つれないな。生理でも来てんのか?」
事情を知らない渡辺は能天気につまらない下ネタを振ってくる。
「それより来月の四十キロ競歩はどうする?」
面倒なので下ネタはスルーし、校内イベントの話題に変えた。一学期の期末試験終了後に全校生徒が四十キロを踏破するイベントが行われる。
「まだ先の話だろ。決めてないよ」
渡辺の決めていない、の意味は参加不参加ではなく、何を着て参加するかということになる。被り物のコスプレは言うに及ばす、姉妹女友達から借りたのか女子生徒の制服を着る男子生徒、中には褌一丁で参加するツワモノもおり、皆思い思いの格好で四十キロの長丁場に挑むのだ。克樹は昨年、定番の某ユルキャラの被り物で参加したが、夏場の被り物は自殺行為に等しく、意識朦朧になりながらも何とかゴールまで辿り着いた苦い経験がある。無知は時に死を招きかねないことを、身を以て学習したのである。
「そうだ、麻由さんの制服を貸してくれよ。オレ、今年は女子高生でいくわ」
「断る!」
「即答かよ!」
一寸の躊躇も無い拒否に渡辺はたじろぐ。克樹は渡辺がそれを言い出すことを予想していた。今回、早めにその線を断ち切っておくため四十キロ競歩の話題に触れたのだ。
「姉貴にそんなこと言ったら確実に渡辺が疑われるだろ。貸してくれるワケがない」
「自分で使うって言えば?」
「断る。この前の件で、俺まで疑惑の眼で見られているんだからな。そんなこと言ったら再燃しかねないよ」
そうは言ったものの、正直な所、麻由は制服を貸してしまうのではないかと言う不安が克樹にはあるのだ。この前のパンツの件も妙にアッサリ許している。そして、同時に見せた不気味な思案顔、まさか渡辺に対して好意を抱いているという訳では無いにしても、三つ年上の姉が渡辺に対して何を考えているのか、克樹は未だ把握出来ずにいた。
「冷たいな。分かったよ(じゃあ紗由ちゃんに頼もっかな……イヤ、無理か)」
「何か言ったか?」
「別に。今、ふと思ったんだけどさ、紗由ちゃんは麻由さんに苦手意識を持って無いか?」
「うん?やっぱり分かる?」
「接し方が違い過ぎるよ。克樹と麻由さんとでは。麻由さんがいると紗由ちゃん、妙に大人しくなるからな。」
「まぁ、いつも姉貴に怒られているからね。親父が紗由を叱れないから、姉貴は紗由に厳しいんだ。というか、主な原因は紗由が総じてユルいことにあるんだけど」
「それに克樹にはお兄ちゃんなのによ、麻由さんにはお姉ちゃんじゃなくて麻由呼ばわりだろ?そういや克樹も麻由さんのことを名前で呼んでるよな」
「言われてみると確かに。何でだろ。何故か姉貴は麻由なんだよな」
「克樹も実は麻由さんのことが苦手なんじゃない?」
「うーん、そんなことは無いんだけどな。まぁ、紗由のことで俺まで怒られたりするけど。紗由に甘いって。おまけにお前のせいで弱みまで握られてるし」
「お前のせいで、は余計だ。同罪だよ。一度でいいから麻由さんにお姉ちゃんって言ってみたいよ、俺は。そして、厳しくもそれ以上に優しさに満ち溢れた女神の様な姉の慈愛に抱擁され……ぐふふ」
「そんなことを真顔で言うんじゃない」
また始まった、と克樹は呆れる。
「いや、姉弟じゃないな、やはりここは夫婦として永遠の愛を誓った者同士として……俺、昨日も麻由さんで……」
「やめろ、この妄想全開自慰野郎」
克樹は渡辺の次の言葉を遮る。
「何だよ、冷たいな。お前はあんな美人の姉とカワイイ妹がいるから、その幸せを何とも思わないのかもしれない。だが、それを少しでも親友に分け与える慈悲の気持ちを持ち合わせていないのかよ。このジャ●アンがぁぁ!」
「怒りながら言う事じゃないだろうが」
「フン、まぁいい。麻由さんがダメでも紗由ちゃんがいる。数年後には……」
「もっと駄目だ。絶対阻止する。」
この遣り取りにデジャヴ感を覚えつつ、克樹は渡辺の妄想に釘を刺す。
都内某所、克樹はSC協会本部を訪ねた。今日は日曜だが本部は稼働している。平日ならビジネスパーソンの往来が激しい筈の本部界隈も休日の人気はまばらだ。本部に休業日は無い。当然のことながら念が問題を起すのは平日に限った話ではないからだ。休日に出勤することは誰も歓迎しないが、持ち回りシフトで事務員達が献身的にサポートしている。とは言っても休日出勤しているのは一部の事務員だけで、事務室内は閑散とした静けさに包まれている。特殊な世界であるが故に、此処で働く人間達は仕事に対する意識が高い。慢性的な人手不足もあり、仕事に忙殺されプライベートはおろそかになりがちだ。しかし、克樹が今から会う人間はそのような「意識の高い職員」のカテゴリから外れるかもしれない。
「克樹君久しぶりね、いつ以来かなぁ、随分大人っぽくなったね。若い子はちょっと見ない内にすぐに成長しちゃう。最近どう?順調?」
事務所の一角にパーティションで区切られたミーティングスペースに案内された。四人掛けの簡素なテーブルの対面に座った若い女性事務員に化粧気は全く無い、それどころか眼の下に黒い隈を作っている。顔立ちは整っており、身支度を整えれば衆人振り向くような美しさを発露する。
「ええ、すみません上原さん、忙しいのに突然」
上原は克樹がSC免許を協会に申請した時の担当である。彼女がまだ事務員として駆け出しの頃で、その対応は当時十五歳の克樹ですら不安を覚える位であったが、今ではこうして頼れる位にまで成長している。
「いいよ、日曜は割と落ちついているしね。お父さんには色々ご迷惑かけちゃっているし、この位じゃ釣り合いが取れない位。最近は麻由ちゃんもかな」
「え?麻由が……?」
克樹が意外そうな反応を示す。上原の口から麻由の名を聞くとは予想だにしていなかった。上原は一瞬、しまった、といった顔を浮かべたが、
「あ、あぁ、お姉さんがいるって聞いたから。克樹君だけじゃなくてお姉さんにも迷惑かけちゃっているんだろうなってこと。特に意味はないの、ごめん。で、話って何?」
と話を強引に本題に転開してお茶を濁した。
克樹は猶も気にはなったが本来の要件ではないし、追及するのも気が引けたので、頭を切り替えることにした。先日の新井との一件について説明し人員配置について聞いてみた。
「これがもし本当だったら親父には聞きづらいし、今の俺には上原さん以外に聞ける人もいないんです。自分の知らない所で優遇されているなんて俺は嫌なんです。」
克樹の話が一通り終わると、上原の口から出てきた答えは意外なものだった。
「名和田家優遇の人員配置……ごめん、私は聞いたことがないな。私はまだこの中じゃ駆け出しだからね。もしあったとしても、そういう大人の世界の話は教えてもらえないの。でも、特別に克樹君のエリアの人員が多いってことは無いと思う。ちょっと待って」
上原は一端席を外し、事務所の書棚から一冊のバインダーを取り出してきた。慣れた手つきでページを捲り、克樹の前に示す。
「各エリアのSCの人数と管内の人口を一覧にした表なんだけど、全国平均が人口約二十万人当たりで一人という割合。克樹君のところは大体八十万人で四人だから、平均水準だね。新井君の地区は三百万で……五人?これは少ないな。」
上原は唇に指を当てて、納得できないと言った表情を浮かべた。首都圏エリアの人口密集地で全国平均を大きく下回る人員。これで不自然に感じない方がおかしいだろう。
「最も、都市部に比べて地方の対人口比率が高くなっているのは事実だけど。人口密度が低い分、カバーエリアが広くなるからね。移動が大変になるのよ。総じて都市部の比率は低くなりがちね。一票の格差と似た様なモノかもね。
でも、人員の配置は全体のバランスを考えて公平に割り振られているはずなのに。これは極端すぎる……なんで今まで誰も何も言わなかったんだろう?新井君が不満に思うのも当然ね」
「まぁ、とりあえずウチが優遇されている訳ではないですよね」
溜飲を下ろした克樹が確認するように言葉を投げる。
「えぇ、そうね。この表をみればそれは明らかだし。むしろおかしいのは常呂河の方ね。これは徳田さんに伝えないといけない。それとここの支部長は……」
「小郷さん……でしたよね」
克樹が言葉を継いだ。同じ県内の支部長なだけに顔と名前くらいは知っているのだ。全国的にはまだ珍しい女性の支部長で指導が厳しいことで知られている。直接話したことは無く、キレイな人だがコワそうという印象を受けた。
「小郷さん、か。シッカリしている人なんだけどな。ひょっとしてあの人の方針なのかな。でもこれは少なすぎる気がする」
「でも、とりあえず良かったです。この数日間、気になって仕方が無かったから。次、新井に会ったときにはこのことをちゃんと言ってやりますよ」
懸念が払拭された克樹の表情は晴れ晴れとしている。
――自分のことが解決すれば万事OKか、この辺りはまだ高校生かな、上原は心の中で笑った。
「もし常呂河の理由が分かったら俺にも教えてもらえませんか。放っておいちゃいけないと思うし、ちゃんとした理由があるなら知りたいし、可能なら常呂河に手を貸しますよ。俺、もっとチカラつけたいし。逆に考えれば、それだけ常呂河のSCは鍛えられているってことですよね」
正面から克樹に見据えられ、上原は思わずドキリとする。
――前言撤回。最初会った時はちょっとオドオドしていてカワイイ男の子だったのに。中身も成長しているんだ。
上原は顔の火照りと全身の軽い強張りを感じた。
「じゃあ、俺は用が済んだからこれで失礼します」
あ、それと、と言って上原は克樹を引き止めた。
「力量評価表が更新されたけど、見ていく?」
力量評価表は協会に所属するSCの実力を項目別に六段階にランク付けしたもので、一年に一度、前年の活動実績や他のSCの評判、研修受講などを元にSCとしての能力が評価される。通知表のようなものである。Sが最高で以下A~Eと続く。
念力、経験、折衝力、観察力、判断力、応用力、精神力の七項目に加え、それらを統合した総合評価。特に重要なのが念力。これが無いと念との折衝ができないのでSCとしての活動が出来ない。基礎体力のようなものである。ただし、念力は先天的なもので、本人の持って生まれた資質である。後天的に獲得することはできない。研鑽次第で伸長させることも可能だが、伸び代は少ないと言われている。本人の努力で大きく伸ばすことの出来る他の項目とは性質が異なる。通常、十歳になるまでには念力が発現し、念の視認や会話が可能になる。肉体の成長と共に念力も向上し、個人差はあるが、だいたい二十代でピークに達する。念力の場合は肉体的な体力と異なり、ピークに達した後は大きく変化することはない。そのため、老化する肉体と若い頃と変わらない念力の懸隔を自覚せずに無茶をした結果、痛い目に会う年配のSCも少なく無い。
因みにS評価が下されることは滅多になく、一項目でもS評価を持つ者は全国でも片手で数えられる位しかいないと言われている。
上原から渡されたタブレット端末にID、パスワードを入力し、専用サイトにログインする。力量評価表は本人以外、原則として見ることができない。世の常として、力量の高い者に依頼が集中する。全国隈なく廻られたネットワークが崩れ、エリア担当制が維持できなくなる恐れがあるからだ。
克樹の最新の評価は念力B、経験D、折衝力D、観察力C、判断力D、精神力D、総合D。駆け出しのSCとしてはこの程度である。だが……
「うーん、去年とあまり変わってないな」
折衝力がDからCに上がっただけだった。通常、念力以外はEからスタートする。最初は伸び代が大きいので2回・3回と更新されると、数項目なら簡単にC程度にまで到達する。
「え、そうなんだ?どれどれ……」
上原は克樹の隣の椅子に腰を下ろし、タブレット端末を覗きこむ。
「ちょっと、上原さん、これは本人以外は見ちゃ駄目なんじゃ」
「まぁまぁ、気にしない。割とみんなナイショでバラしてるよ。」
上原はタブレット端末を遠ざけようとする克樹の腕を掴み、引き寄せる。上原の豊かな胸が克樹の上腕に接触する。柔らかな感触、眼前に迫る手抜きのボサボサ髪から漂う芳香が克樹の思考を掻き乱し、軽い眩暈を引き起こす。
「秘密を知らないのは実は本人だけ、なんてことはよくある話じゃない。あ、すごい、念力Bなんだ。克樹君の年齢でBって中々いないよ。これならいずれAはカタいな。あわよくばSも狙えるかもね。」
眼の下に隈の出来た、疲労感の漂う顔で上原は克樹に微笑む。身繕いを整え、美しさを最大限に引き上げた状態もいいが、戦闘モード解除時の笑顔にもいじらしさを感じさせ、また違った魅力がある。
「やっぱり流石ね、名和田家は。確かお父さんはAだったような……」
上原は克樹から端末を取り上げ、管理者権限でログインして他人の評価表を漁り始めた。表情が真剣になっている。
「お、島津さんSだよ。だよねー。あの人凄いからな。顔もカッコいいし。いいなー。え?赤城がA?マジか?アイツ、上の人間に賄賂渡してんじゃね?これは要チェックや。あ、そうそう、アヤちゃんはちゃあんと成長してますかね……お姉さんがチェックしちゃいますよー」
――おいおい、他人の評価表を漁りまくってるよ。職権乱用じゃねーか
飛んで行った克樹の意識が戻る。
「でも、観察力がCに上がっただけなんですよね」
食い入るように端末を操作している上原に状況を話す。
「ん、……あぁ、でも、克樹君位ならこんなものといえばこんなものなんだけど……キミ、活動サボってるってことはないよね?やっぱり学校が忙しかったりする?」
端末から克樹へと再び視線を戻し、上原は我に返る。
「うーん、言われてみると最近あまり活動できてないかも」
「活動報告件数も評価対象になるからね。原因それかもしれないよ」
ちょっと振り返って考えてみれば当たり前のことだったのかもしれない。渡辺や紗由に振り回されて本業がおろそかになっていた。一番知りたかった人員配置の件は結局分からなかったが、別の収穫もあった。たまには本部を訪ねるのも悪くない。
「常呂河の件、私の方でも何かわかったら連絡するね。ちょっと不審感が出ちゃったかもしれないけど、ホントに誰も私心なんて無いし、公平にみているから」
別れ際、上原は申し訳なさそうに弁解した。上原自身に責は無いのだが、本部の管理側の人間としては当然と言えば当然のコメントだろう。
――俺の目の前で評価表漁りまくった人間がそんなこと言うなよ……
克樹は本心を呑み込みつつ、
「ええ、分かってます。」
と答え本部を後にした。何か忘れている気もするけれど。
「今のが耕三君の息子さんか」
克樹を見送った上原の後ろから声が掛かる。上原は声の方向を振り向く。
「あ、会長」
いつの間にか痩身の老人が立っていた。会長と呼ばれた彼は薄くなった白髪交じりの頭髪をオールバックに固め、レンズが薄茶色のサングラスを着用している。背丈は上原より頭半分高い位。男性の中ではやや低い方か。この暑い中スーツにネクタイを締めているが、涼しい表情をしている。顔には汗ひとつ浮いていない。ネクタイの可愛いアヒル柄が風体に不釣り合いだ。カンタンに言えば変わった爺さんだ。
「久しぶりに話でもと思ったのだが、遅かったみたいだな。彼が来ると小耳に挟んだのでね」
「まだ間に合いますよ。私、呼んできますね」
駆けだそうとした上原を会長が引き止める。
「いや、いい。大体分かった。成長しているようじゃないか。高校生にしては大分弁えている。ゲームのやり過ぎで眼の下に隈を作って仕事している社会人も見習った方がいいんじゃないか。もちろん、プライベートなことまでは私にも口出しできないがね」
会長は上原の顔と髪を意地悪そうに凝視する。
「あ、いや、これは……会長、そんなに私のことを見つめないでください。私の事が好きなんですね?そうですね?奥さんに言いますよ?」
「キミよりワイフの方が美人だよ」
「ウッ……」
捨て身(?)の切り返しをアッサリ圧し折られ、上原は言葉を失った。
「人員の件は私が預かろう。システム運用の在り方も徳田に見直させた方がよさそうだな」
――ゲッ、バレてる。監視カメラでもついてるの、このブース?
上原の心中を見透かすように会長は言葉を重ねる。
「直接話さなくても私の耳に届くんだよ。お喋り好きな取り巻きの連中が大勢いるからね」
上原には能力は無い。しかし、自分がどのような場所にいるのか、その場所に集まる人間が普通とは異なることを改めて認識させられた。自身の迂闊さを反省し、素直に謝罪する。
「申し訳ありませんでした。つい調子に乗って閲覧禁止情報にアクセスしてしまいました。私のアカウントをアクセス不可にして頂いて構いません」
「つまらない言い訳をせずに直ぐに謝罪できるのはキミのいいところだ。世の中それが出来ない人間が多すぎる。そもそもカンタンに閲覧できてしまうシステム運用の在り方にも問題がある。我々には商売上の競争相手というのがいないためか、潰れるということが基本的にないからか、内部統治がどうにも杜撰だ。ここにも手をいれないといけないな。やることが一杯あって結構なことだよ」
会長は大して困った様子も見せず快活に笑う。
「耕三君の方はどうだ?」
「教会に潜伏しているメンバーと連携を取り情報収集と分析をされています。近隣住民や元信者とのトラブルも相変わらず、一方で新たな入信希望者も絶えず、です。このまま探っているだけでは状況は悪くなるだけ。教祖の動向を見ながら……多分近い内に直接的な交戦をすることになるとのことです」
「そうか、他の信者と隔離させないと厄介だな、どこも苦しいだろうが、フォローの人員を増やす必要があるな。私の方から発信しよう」
「それと、一部規則の変更も要望されています」
「ああ、アレね。聞いているよ。以前からずっと話は出ていた。その件については、来週の幹部会で取り上げる。外部の規則委員の方々にも根回し済みだ。おそらく通るだろう。何せ二十年ぶりだからな、前回の事を知っている人間もだいぶ減ってきている。色々大変だが、彼ら一家には散々に苦労してもらわないとな……先々代にそう言われている」
会長はイタズラを考える子供のように楽しそうな笑顔を見せた。
「渡辺君、久しぶり」
麻由は渡辺を一瞥すると、軽く微笑んだ。背筋を伸ばし、両腕脚を組んで椅子に座っている。白いVネックのTシャツにストーンウォッシュのジーンズというラフな格好だが、スリムで引き締まった滑らかな身体の線が表出して健康的な色気がある。胸元のシルバーのネックレスが照明の光を反射して輝いている。
麻由は克樹を通じて渡辺を呼び出したのである。渡辺は件の事できついお叱りを受けるものと覚悟しているため、表情がいつも以上にカタい。一方で、夏らしく薄着の麻由を目前にして、引き込まれてしまってもいる。麻由は挨拶を交わした後、無言で立ち尽くす渡辺の様子を観察し、満足したような顔で言葉を発した。
「克っちゃんは外へ。渡辺君と二人で話がしたい」
「別にいいだろ。渡辺は俺の友達だ。ここへ連れて来たのも俺だ。俺だって聞く権利がある。そもそも二人だけで何を話すっていうんだよ。アヤシイな」
克樹は抵抗する。渡辺を援護するためでもある。克樹も渡辺と同じ展開を予想している。
「は・や・く!後で渡辺君に聞けばいいだけ」
麻由は強い口調で跳ねつけた。克樹を見据え入口を指さす。麻由が克樹の言葉をここまで明確に拒絶する事は滅多に無い。克樹は仕方無いと言った風に、渋々と部屋から出て行った。
「驚いた?そんな緊張しないで欲しいんだけど。そんなに私の事が怖い?」
麻由は口角を引き上げ、渡辺の緊張を解こうとする。しかし眼は笑っていない。
「久しぶりだから、少しお話しようかと思っているだけ。それとも何か後ろめたいことでも?」
渡辺は覚悟を決め、両手膝をつけた。
「すみませんでした。克樹君をそそのかして下着を盗ませたのは僕です。さらにもう一枚お願いしてました。もうしません。許してください。何ならお返しします」
麻由は足元にひれ伏す渡辺を無言で見下ろす。渡辺のシャツは背中一面汗で濡れている。麻由は鼻で軽く笑った。
「別にそのことを話したかったわけじゃないんだけどね。勿論、知ってはいるけど」
渡辺は顔を上げた。
「では許して頂けるということで」
「そうは言ってない」
アッサリ否定され、再び渡辺は俯く。
「まぁ、一回目は黙ってはいたけど、二回目は流石に見逃せない。クセになるし。紫じゃないと満足できないって?」
渡辺は克樹が口を割ったことを悟る。もう開き直るしかない。
「紫は高貴な色っていいますからね。でも、もらったピンクも家宝の様に大切に扱ってます。でも麻由さんはグレー系が好きなんですね。一番多いとか」
「一番多いとか、じゃねーし……克樹ぃ、一体何を喋った」
麻由は頭を抱えた。渡辺は尚も話を続ける。
「グレーとか黒が好きな人の性格は……」
「もういい。」
麻由はピシャリと遮る。渡辺はウッ、と息を呑み込む。
「すみません、俺、ちょっとテンパってて。バカですよね」
やはり克樹のようにはバカ話に乗ってきてはくれない。渡辺はこの重い空気を打破できる話題は何かないものか、と額に汗を拭う余裕も無く、頭を回転させる。渡辺の焦る様子をみた麻由はこの位でいいかと満足した。
「渡辺君、もういいから。ちょっと立って」
渡辺は麻由の顔を見上げ、静かに立ち上がる。
「背、高いね」
麻由は立上がった渡辺を見上げる。視線を上に向けたまま、何かを躊躇っているようだったが、直ぐに意を決したように立ち上がり、渡辺の頭を両手に抱え、自分の唇を渡辺のそれに重ね合わせた。
「うっ、ぷ」
渡辺は全身に強烈な電流が走ったのを感じた。視界が一瞬、ブラックアウトする。身体の筋肉が硬直したが、鼻腔を着く甘ったるい匂いを知覚し直ぐに弛緩する。
「克っちゃんのこと、よろしく、それと今日の事は内緒だから。誰かに喋ったらコロす」
麻由は渡辺の耳元で囁くように話しかけ、人差し指を渡辺の口に当て、封をした。渡辺は頷く。
「今日はもう、いい。わざわざウチまで来てくれてご苦労様」
再び椅子に腰を下ろし、背を向けたまま手を振った。渡辺は無言で退出した。麻由は入口の引き戸に視線を向け、少しやり過ぎてしまったかもしれないと思った。
「お、どうだった。怒られちゃった?」
廊下で待っていた克樹が部屋から出てきた渡辺に声を掛ける。
「……きょうはもう帰る。邪魔したな」
「え、おい、ちょっと……大丈夫か?」
渡辺は克樹に一度も目をあわせることなく、出て行った。足取りは覚束なく、フラフラしている。こんな渡辺を見るのは初めての事だ。一体何かあったのか、克樹は麻由の部屋に視線を向けた。
――渡辺は帰宅後、自室の机に座り、麻由の部屋での出来事を反芻し、理解しようとすることで身体の火照りを冷ましていた。
麻由さん、オレを自宅にまで呼び出して……パンツのことで糾弾するものかと思っていたが、まさかキスをしてくるとは全く予想外だった。悔しいがあの時は完全にパニックになってしまい何も言葉を出せなかった。一体何故?青木に相談してみようかな、でも絶対冷かされるな。やめとこう。
オレの事が好きなのか?中坊の頃は半分麻由さん目当てに克樹の家まで割と頻繁に遊びに行っていたものだが、麻由さんの方からオレに惚れてしまうとはな、キスまでさせてしまうあたり罪な男だぜ、オレも。申し訳ないが麻由さん、貴女のその気持ちには応えることはできません。女性とお付き合いする余裕は今のボクにはないのです。この一年は受験に費やすと決めたんです。パンツは一時の気の慰めにすぎないのです、本当は。確かにボクは貴女の事は大好きです。。無事、東都大医学部に合格した際には、一年後には貴女の気持ちをきっと受け取りましょう。その時までは、どうかその気持ちは内に秘め、待っていて頂きたい、……って、そんなこと百パー無ぇな。
あの時、オレはかなり緊張していた。後ろめたさもあったが、久しぶりに会った麻由さんはさらにキレイになっていた。眩しすぎて直視できないレベル。普段みせないラフなスタイルもまたよかったな。オレの緊張を解すためにキスをしたとか。有り得ん。キスをした後すぐに帰されたし、なにより自分を安売りするような人では無い筈だ。これも絶対無いよな。
やはりちょっとこれはオレ的には考えたくないが、最後、克っちゃんをよろしくと言った、弟のためにオレをキスで買収しようとしたというのか?弟のために友人に自分を売る姉なんているのか?オレが半分麻由さん目当てに克樹と付き合っていることにも気づいているのだろうか?ただ、昔から麻由さんは克樹の事を通常の姉弟以上に気にかけている所はあった。アイツ、小学生の頃は病弱で友達いなかったからな。オレが学校からの連絡係で克樹の家まで見舞うと、麻由さんの方がうれしそうな顔をしたのを未だ覚えている位だし。オレの知らない特別な事情でもあるというのか?あの容姿がありながら、だれか男と付き合っている話も聞いたことが無い。とするとまだ……まぁ、それはいい。そんな人がオレに突然キスをする、何かあるとしか思えないな。他人の込み入った事情をほじくるのは趣味じゃないが気になって仕方がない。今まであまり気にしたことが無かったが、色々と記憶を掘り起こすと点と点が結びついて線になる、そんな感じだ。克樹との付き合い、永くなりそうだな。
……あのマシュマロのような柔らかさと弾力、ジューシーなフルーツのようなみずみずしさと甘い香り、怒涛のように打ち寄せた官能の衝撃、稲妻に打たれたようだった。あれほどのキスは初めてだ。ただ唇を合わせただけなのに。流石麻由さん、そこにシビれる、憧れるゥ。俺の身体の奥からこみ上げてくるこの衝動、制御不能になりそうだ。……麻由さん、貴女の突然のキスは、これを狙っていたのなら予想以上の効果を上げましたよ!
「すごい数だな、これ」
克樹は百を超える位牌を目の当たりにして息を呑んだ。名和田家の仏壇の下の開きの中には大きな金庫が置かれている。普段は誰も開きに意識を向けることもないし、ましてやその中の金庫を開けようなどと考えることも無い。週末、克樹は一時的に帰宅した耕三に呼ばれ、その金庫の中を見る機会を得た。
「昔から引き継がれてきたものだ。克樹が小さい頃に一度見せたことがあったはずだが、流石に覚えてないよな。まぁ、オレもたまにしか開けないし」
金庫は結界のような役割を果たしていたらしい。普段は何も感じなかったか、直接目の前に整然と並ぶ位牌から湧出する膨大な念エネルギーに克樹は圧倒される。
其々の位牌には念が宿っている。人格がある。汲々整然と棚に並べるのは実は失礼な扱いをしているとも思ったが、言葉を呑み込んだ。これだけの数をまともに並べたら、自分達の生活スペースが無くなってしまう。耕三は話を続けた。
「じいさんが現役だった頃はこの倍はあったらしい。じいさんが亡くなった時に多くの念達は一緒に往生したんだが、それでもこれだけ残っている」
「よくみると奥行きハンパないな、この金庫。この収納、こんなに大きかったのか」
克樹は金庫の中を覗く。六段に分かれた棚は引出しになっており、四列に並んだ位牌が棚の奥まで整然と並んでいる。
「親父が特注で造らせたものだ。念の気配をほぼ完全にシャットアウトできるようになっている。昔はこんなの無かったはずだからな。これだけの念エネルギーに始終浸りながらよく生活できたと思うよ。親父は工作とか発明が好きだったからこんなモノ考え付いたんだろう」
――お爺ちゃんナイスプレイ!
克樹は心の中でサムズアップする。この念エネルギーの中で生活する自信がない。
「この位牌の数がSCの家柄としてのステータスにもなる。じいさんが亡くなった時に大分減ったがそれでもこれだけある家は全国でも多くは無い。親父や俺が連れて来た念もこの中に居るが、大半はじいさんが連れて来た連中だ。克樹もいずれ連れてくることになるだろう」
「どうやって?」
克樹にとって初めて聞く話だ。何故こんな大事なことを今まで教えてくれなかったのか、腹立たしい気持ちにもなる。
「世話した念がそう言ってきたら。一緒についていきたいって、な。それと祓った残念が正気を取り戻して憑いてくることもある。滅多に無いけどな」
――え、ポケ●ン?……
「そこもSCの力量が問われる。魅力を感じさせれば念達は憑いていきたいと言ってくる。中にはゴメンナサイしたくなるような念もいるけどな」
克樹も今までに十数人くらいの念を看てきたが一度もそんなことを言われたことが無い。だから知らなかったわけだが。自分のSCとしての力量の無さを痛感させられる。
「ってことは、オレ、そんなに魅力ないってことか?」
「まあ、そう暗い顔するな、高校生なんだから当然だよ。大して人生経験も積んでいない小僧っ子について行こうなんて念の方が物好きなんだから。今まで相手は年上ばかりだっただろ?当たり前といえば当たり前だ。まぁ、でも俺が初めて連れて来たのは高校生くらいの時か。今はもう居ないけどね」
――励ましになってねぇよ
「まぁ、やたらに連れてくればいいってもんじゃないよ。念の中には当然、扱いに困るような気の荒い奴もいる。ここにいる念達の力を活用できるようになれば大したものだ。これを渡しておく」
そう言って耕三は一冊の日に焼けた古いノートを克樹に手渡した。
「親父が此処にいる念達についてまとめたものだ。性格、特長、扱い易さなんかが書かれてある。クセのある奴を扱う時なんかは特に参考にするといい。俺は殆ど見なかったけどな」
「なんで?」
「実を言うと扱いにくい連中も多くてな、恥ずかしいが俺も親父も持て余してしまって殆ど活用できなかったんだ」
耕三は顔を顰めて頭を掻いた。
「だからじいさんはやっぱり凄かったんだと思うよ。片っ端から連れてきちゃうんだからな。ダボハゼじゃないんだからよ。そんな連中も上手くまとめ上げていたみたいだな。本人が亡くなるまで手放した念は居ない。だから未だにこれだけの位牌が残っているんだが」
克樹は改めて金庫の中を覗く。位牌の数がSCとしてのステータスになるという話も納得できる気がした。整然とならんだ位牌達が名和田家の歴史であり、実績であり、力を示す指標になり得るのだ。耕三を始め、SC協会内では伝説的な存在となっている曽祖父、さらにその先の先祖達が連綿と繋いできた足跡の一端を目の当たりにし、克樹は背筋に冷たいものを感じて身震いした。
「ん、エアコン効き過ぎだな」
耕三はリモコンを操作し設定温度を上げる。
――エアコンかよ!
ベタな展開に克樹は一人ツッコむ。
「それ以外にも、根本的に念の力を使いこなすのは簡単じゃない。燃費の悪い念だとこちらが直ぐに疲弊してしまうし、相性もある。仲良くない人と一緒にいても気疲れするだろ。それと同じだ。ただ、念自体が強力だとSCの負荷は大分軽くなるけどな」
相手が念であっても、現実の人付き合いと大差はないのだ。
耕三はさらに説明を続ける。
「その意味では紗由とセンセイの関係がいい例だ。センセイ位の念は今の日本にそうはいないハズだ。紗由は誰に教わるわけでも無く勝手にセンセイの力を悪用しているが、念の力を活用することに本当の意味がある」
センセイとは前述した克樹の曽祖父・相三が連れて来た念である。名和田家大勢の念の中でも圧倒的な力を有しているだけでなく、高い見識もある。今となっては詳しく知る者が居なくなっているが、相三の残した最大の遺産であり、以来、三代以上にわたって用心棒兼、相談役として名和田家を支え続けている。
「アイツは才能あるよ。しかもいくらセンセイが強力な念と言ってもあれだけ連れ回して自分は何ともないんだからな。性格は多いに問題あるけど。アイツもいずれどうするか決めなきゃならない時が来る。それまで俺の方でジックリ適正を見極めるつもりだ」
紗由も自分と同じくSCになるのだろうか、克樹は六歳年下の妹が将来をどう考えているのか、ふと気になった。
「でもそのセンセイを小間使いみたいに連れ回す紗由って、実はとんでもなく罰当たりな奴なんじゃないか?っていうか、今日も勝手にセンセイを連れ出してるし」
「そうだな、例えるなら、そこら辺の野球クラブの小学生がメジャーリーガー相手に毎日野球盤ゲームで遊ぶようなものだ」
――メジャーリーガーと野球盤って……それを認識していながら放置する親父もどうかしてるよ。俺も麻由みたく、もう少し紗由の事シバいた方がいいかも。
「まぁ、見方によっては最強のボディーガードとも言える。俺が何も言わずにいるのはアイツを野放しにするより、センセイが憑いていた方がまだ安心だからだ。紗由にはまだこの金庫のことは内緒だぞ。アイツがこれを知ったら何をし出すかわからん」
耕三は克樹に口止めをする。克樹は心底同意した。
「松尾君、すごーい」
ゲームセンターのクレーンゲーム機の前で三人の小学生がはしゃいでいる。紗由はクラスメートのほのかの誘いで市内の繁華街まで遊びに来ていた。
「松尾君って、なにやってもできるよね。スゴすぎ」
ほのかはゲーム機の取り出し口からパンダのぬいぐるみを取り出した松尾の腕に抱きつく。
「丁度取りやすい場所にあったからね。ラッキーだったよ」
――二人きりじゃ恥ずかしいっていうから付き合ってあげたけど……これじゃ私なんかいても居なくても同じじゃん
紗由は冷めた目で二人を見つめる。松尾は成績も運動神経も良い。社交的な性格で容姿も悪くないので女子にモテる。ほのかも松尾に好意を抱いている一人だ。紗由が松尾に対して特別な感情は持っていないことを知っているので、ほのかは紗由に声を掛けてきたのだ。
「ごめん、俺だけ楽しんじゃってるね。紗由ちゃんもやってみる?」
松尾はソツなく紗由にも気を配り、次を薦めてきた。
「え?あ、いいよ、私やったことないし」
「そうだよ、紗由ちゃんもやろうよ。ボタン押すだけじゃん、カンタンだよ」
ほのかに腕を引かれ、紗由はゲーム機の前に立たされた。
――うーん、私全然興味無いんだけどな、そうだ!センセイにやってもらおう。
紗由はトートバッグに忍び込ませていた位牌に触れ、センセイを呼び出した。紗由は時折(勝手に)位牌を持ち出してはセンセイの力を借りて遊んでいる。お互いヤンチャなところがあるので二人は気が合うのだ。
――面白そうな遊戯だな、紗由は機械を動かせ、とにかく獲物を掴みさえすればいい、あとは任せろ。
「紗由ちゃん、あのゴリラのぬいぐるみが狙い易いよ」
松尾がアドバイスを送る。センセイは紗由の身体を通してゲーム機に憑りついた。紗由は百円硬貨を機械に入れ、スタートさせた。右奥やや盛り上がった山の頂上を成すゴリラのぬいぐるみに照準を合わせ、クレーンが下りる。二本のアームが横に倒れているゴリラの胴体を掴み、力無く持ち上げる。ゴリラが完全に宙に浮いた時、バランスが悪いのかアームの脇から抜け落ちる。が、その瞬間、頭頂部のストラップが不自然な方向に曲がり、アームの先端に引っかかった。センセイがストラップを動かしたのだ。ゴリラはそのまま吊り下げられた状態で開口部まで運ばれ、落とされた。
「やったぁ、センセイありがと」
紗由は跳ね上がって喜ぶ。
――他愛の無い、やり過ぎて目立ってもいかんからな。紗由、今度は二人で来るぞ。
センセイは位牌に戻った。
「すごいね、まさか一回で取れるとは思わなかったよ。ストラップが引っかかるなんて。すごい運だね。ひょっとして計算通り?」
「全然全然、たまたまだよ。」
念に手伝ってもらったとは言える訳がない。
「こんな取り方、私初めて見た。松尾君のアドバイスが良かったんじゃない?松尾君はクレーンゲームの先生だよ」
ほのかは松尾を持ち上げる。紗由のセンセイを松尾に向けたものと思っている。
「そんな、大げさだなあ。先生だなんて」
松尾は謙遜する。紗由は迂闊にもセンセイと口走ってしまったことに内心焦りもしたが、ほのかの勘違いのおかげでやり過ごすことが出来、胸をなで下ろした。
小腹が空いたため立ち寄ったマクドナルドを出た後にその事件が起こった。人通りの少ない路地に入った時、いかにも素行が悪そうな少年三人組に絡まれたのだ。
「そのゴリラ、俺達が先に狙っていたんだよね。横取りしないで欲しいな。」
三人の中では痩せて小柄な格下風、鉄砲玉役の金髪で赤いポロシャツを着た少年が因縁をつけてきた。残り二人、体格のいい茶髪に右耳にピアスを嵌めた少年、悪知恵が回りそうなボス格のオールバックに髪をまとめた年長風の二人は後ろでニヤニヤ笑っている。
「とれなくて途中で諦めたお前らが悪いだけだろ。イチャモンつけるなよ。」
「俺ら、両替しに一旦、離れただけなんだよね。……お前ら勝手に割り込んでじゃねーぞ!コソ泥が!」
金髪赤シャツ男が急に声を荒げて凄んだ。
「……ちょっと、もう渡しちゃった方がいいんじゃない?」
おびえた表情で二人の後ろに隠れたほのかは紗由に小声でささやく。
「ふざけるな、これは僕らのものだ。欲しかったら自分達で取ってこいよ。ま、どうせできないんだろ?」
松尾も負けずに言い返す。
「お、今お前何つった?俺、ちょっとムカついちゃったかも。コイツぶっ殺しちゃってもいいかな」
金髪赤シャツ男は顔を強張らせ、松尾の胸倉をつかみ、上から睨みつけた。小学生と中学生では体格の差が大き過ぎる。仲間二人がヘラヘラと笑う。
「……ちょっと紗由ちゃん、止めようよ。勝てっこないよ。」
後ろに隠れたほのかは怯えた表情で紗由の腕を揺する。だが、紗由も臆することなく、金髪赤シャツ男を睨みつけて言い放つ。
「松尾君の言う通りだよ。こんな奴らに絶対渡しちゃだめだよ。」
三人は一瞬呆気に取られたが、嘲るように笑い出した。
「おい、こんな女にもいわれちまってるぞ、俺ら。終わってるんじゃね?」
金髪赤シャツ男は、胸倉をつかんだまま、後ろの茶髪ピアスにヘラヘラと話しかけた。
「新井、お前は舐められ過ぎだ」
茶髪ピアスは金髪赤シャツ男を横目に紗由に近づいた。
「何よ」
紗由はさらに厳しく茶髪ピアスを睨みつける。その刹那、茶髪ピアスが強烈な平手打ちを紗由に見舞った。
「キャッ!」
短い悲鳴を上げ、紗由は地面に倒れた。驚いた松尾が呼びかける。
「紗由ちゃん!ぐッ!」
平手打ちを合図に金髪赤シャツ男が松尾を殴り始めた。年上の男子三人が相手ではどうやっても勝ち目は無い。三人共完全に松尾の体格を上回っている。目の前で起こる暴力にほのかは完全に色を失っている。誰か助けを呼ぶことすら思い至らない位に頭が回らなくなっている。叩かれた頬に手を当ててうずくまっている紗由に身を寄せる。
「ちょっとヤダ、どうしよう。」
肉がぶつかり合う破裂音、それとほほ同時に絞り出される松尾の呻き声、非日常の光景に怯えたほのかは今にも泣きだしそうだった。誰かお願い、助けて――
「そこまで!」
力強く乾いた高い声がうずくまるほのかの頭上で響いた。ほのかが涙でぬれた顔で上を見上げると、そこに紗由が立っていた。
「全く、見てはおれんな。こんなかわいい子の顔を叩くわ、体格の劣る小学生を一方的に殴りつけるわ、 ロクな大人にならんな、このガキ共は。ひとつ懲らしめてやらねばならんな」
「え、……紗由、ちゃん?」
ほのかは自分の耳を疑った。金髪赤シャツ男は状況が呑み込めず、振り回していた腕を思わず止めた。予想だにしない紗由の動きにこの場に居合わせた誰も動けない。
「キミ、良く頑張った。後は任せておけ。」
紗由は口鼻から血を流して倒れている松尾に声を掛ける。松尾は唖然としていたが、直ぐに言葉の意味を理解し、紗由を静止する。
「……え、ちょっ、ダメだ紗由ちゃん。逃げろ!」
「じゃあ、遊んでもらおっかな♪」
オールバックと共に手を出さずに様子を眺めていた茶髪ピアス男が後ろから紗由を羽交い絞めにし、左胸を触ってきた。
「フン!」
紗由は即座に鼻柱に強烈な頭突きを食らわせる。鼻を潰された茶髪ピアスは悲鳴を上げ、思わず紗由を離して顔を押える。紗由は男の頭を掴むと同時に脚を払い、地面に後頭部を叩きつけた。
「一丁上がり、次。」
紗由は金髪赤シャツ男に視線を向ける。
「この野郎!」
逆上して殴りかかってきた拳を素早くかわすと、そのまま腕を掴み、一本背負いで壁に投げ飛ばした。前傾した紗由のワンピースが捲れあがり、パンツが露出した。
「あ、花柄……」
松尾は反射的にその画を脳裏に焼き付ける。気付くと仁王立ちする少女の脚元には苦痛で顔を歪めた少年が二人転がっている。
「ハン、他愛のない。しかし、このヒラヒラした格好、動きにくくて仕方ない。……後はお前だけだが?」
紗由は足元に転がる二人を悠然と見下ろし、ボス格のオールバックを睨みつけた。オールバックは連れ二人が一瞬の内に倒され呆気に取られていたが、直ぐに我に返る。
「っのガキ、なめんなよ!」
ポケットからバタフライナイフを取り出した。
「ちょっと、ヤバいよ」
ほのかは顔を引きつらせる。最悪の事態を連想する。しかし紗由は全く動じない。逆にオールバックに嘲笑を浴びせて言い放つ。
「そんなチンケなモンでワシがビビると思ったか?老いたとは言えこれでも坂東武者の端くれよ。十三の頃には長得物振り回してなまくら武者を一太刀の元に叩ッ斬っておったわ。合戦の度に屍山血河を踏破してきたこの古兵相手に匕首一本で挑もうとは笑わせてくれる」
「な、何を言ってやがる、このガキ……」
怯むどころか勇んでくる紗由に、オールバックは動揺する。可憐な少女の口からこんな口上を聞かされれば誰でもビビる。紗由は自らをセンセイに取り憑かせ、その力を借りているのだ。外見は紗由だが、中身はセンセイである。
「ちょっとヤダ、紗由ちゃんキャラ変わっちゃってるよ。何言ってんのか良く分からないし。でもすごいかも」
ほのかは紗由の激変振りに驚きつつも、一瞬の内に年上の男子二人を叩きのめした腕っぷしに興奮もしている。
「ん、どうした?ほれ、遠慮はいらんぞ。かかってこい」
紗由はブルース・リーのように手招きする。オールバックは完全に紗由の迫力に飲み込まれてしまっている。紗由は相手の度胸を試すようにジリジリと間合いを詰め始めた。
「……くッ、おがーちゃーん」
数秒睨み合っていたが、敵わないと悟り、オールバックは逃げ出した。残り二人も脚をもつれさせながら逃走したボスの後を追った。
三人の行方を見届けた後、紗由は位牌を手に取り、センセイは戻った。
「紗由ちゃん、すごーい。滅茶苦茶強いじゃん。超カッコいい」
興奮したほのかは紗由の手を取る。
「う、うん。まあ、それ程でもないよ」
センセイの力を借りただけなので紗由は返答に窮し、センセイを恨めしく思った。
――センセイやりすぎだよ。
「なんか、俺、カッコ悪いね」
松尾はバツが悪そうに血で汚れた顔を掻いた。出血は既に止まっている。
「全然そんなことないよ、アイツらに立ち向かってくれた松尾君もかっこよかったよ。」
紗由は慌ててフォローする。ほのかもそれに合わせる。
「でも紗由ちゃん、坂東武者がどうとかって、あれ、何?時代劇みたいな事言ってたよね?普段のイメージと違うような」
「……え?あ、その、私いま時代劇にハマってて。ちょっと真似しちゃったかも。遠山の金さんとか」
「金さん?うーん、時代が違うような……」
松尾は尚も不審な表情を浮かべる。
「金さんかー、だから花柄のパンツなんだね。あはは」
ほのかがパンチラのことをからかう。
「そ、そう。そうなの。わたし金さんが好きなの。そうか、見えちゃったかー恥ずかしいな、あはは」
紗由は笑ってごまかすのに必死だったが、心の中では恥ずかしさで泣きそうだった。松尾は思わず脳内保存された画像データにアクセスしてしまい、顔を少し赤らめ、それ以上追及する気勢をそがれた。
――でも紗由ちゃん、俺はそんな答えじゃ納得しないからね。
――やばい、松尾君は頭いいからバレちゃうかも。どうしよう……
――やばい、松尾君のこの反応、紗由に後れを取ったかも。でもこれは恋愛感情じゃないよね。うん、きっと大丈夫。
三者三様の想いを残し、その日のデート?は幕を閉じた。
松尾は帰宅後、自室の机に座り、殴られた顔を鏡で眺めていた。
うーん、イテテ……血は割とすぐに止まったけど、このアザと腫れはどうしようもないな。口の中も切れちゃってるし、食べると沁みるだろうな。お母さんもそりゃビックリするよな。何処の子がやったの!なんて怒り出しちゃうし。明日は今度先生が騒ぐよな、きっと。メンドクサイなぁ。女の子に助けられちゃうし、良いトコなかったなぁ、今日は。
だけど紗由ちゃん、強かったなあ。アイツら多分、中学生だよな。二人を一瞬で叩きのめしちゃうし。あれは背負い投げかな?柔道でもならっているのか?今まで全然そんな感じはしなかったんだけどな。そんな運動神経もいいわけじゃなかったし、気が強い性格ってわけでもないし。あまり目立たない方だよな。
まぁ可愛いけどね。あのツインテール、似合ってるよな。今日はほのかに誘われたのはいいけど、オレ、どっちかっていうと紗由ちゃんの方が好きなんだよな。紗由ちゃんが来るから乗ったようなものだし。紗由ちゃん意外と人気あるからな。ほのかも結構かわいいけど、紗由ちゃん程じゃないよな。ちょっと調子がいいところがあるし。アイツ俺のこと、多分気があるんだろうけど、正直好みじゃないんだよな。悪いけど。まぁ、それはいいとして。
紗由ちゃんのあのしゃべり方、イマイチ何を言ってたのか良く分からなかったけど、坂東武者がどうとか、どう考えても、紗由ちゃんじゃないよな?あれ。雰囲気がまるで別人だった。ん?別人?二重人格ってやつか?そんなの現実にあるのかな?小学生に武士の人格が入るってすごいな。しかもあれ、虐待が引き金になるとかじゃなかったっけ?紗由ちゃんが虐待されている?まさかね……ノースリーブのワンピースだったけど、変な傷痕なんか無かったよな?
俺が聞いた時、明らかに紗由ちゃんは動揺していた。ほのかがパンチラのことなんかで冷かすから聞きそびれちゃったけど、絶対何か隠している。でもパンチラはラッキーだったな……よし、あのデータはしっかり脳内保存されている。いつでもアクセスできるぞ。って、だめだ!そんなことを考えちゃ。
とにかく、紗由ちゃんが本当に二重人格なのか気になるな。もし虐待されているなら助けてあげなくちゃいけない。すこし観察してみよう。
夜、ほのかはビッグサイズのテディベアを抱きかかえてベッドに座り、昼間の出来事を思い返していた。
今日は怖かったぁ、一時はホントにどうなるかと思った。まさか紗由があんなに強かったなんて。あの子格闘技やっているなんて一言も言ってなかったよね?確かにちょっと危なっかしい所はあるけど、あんな特技を持っていたとは。コワいコワい。スイッチが入ると完全に別人じゃない?私も気を付けないと。
最後、マッツーの表情、やっぱちょっと気になるな。紗由は多分その気は無いんだろうけど、あれ、絶対何か興味を持っちゃったよね。でも、ケンカが強い女にマッツーが惹かれることってあるのかな。紗由は完全に圏外だと思っていたから、連れて来たけど、裏目にでたかも。ひょっとしてあのパンチラ、マッツーをさりげなく誘惑したとか?いや、ないない。そんなタイプじゃないよね。
今日のデートでマッツーとの距離を縮めようと思ったのに、ちょっと失敗だったな。意外な敵も現れちゃったし。紗由のこと、ちょっと気を付けないと……獲られちゃうかも。
克樹は鈴木の家を訪ねていた。と言っても外から様子を伺うだけである。半月ほど前、交通事故で死亡し、現場に取り憑き残念になりかけていたところを、克樹が自宅まで送り届けた新念である。今まで送り届けた新念のその後に関心を払うことは無かった。新井の、常呂河地区の話を聞いて触発されためである。だが、当の新井とはあの後顔を合わせていない。流石にこちらまで自分が請け負った念の面倒を看には来ていないようである。
直接家の中を覗く必要は無い。近づくだけで念の様子は分かる。
「……って、何で外にいるんですか?鈴木さん」
気付くと鈴木が克樹の隣に立っていた。
『よっ、久しぶり』
新念・鈴木は片手を上げて克樹に挨拶する。最初会った時は、肉体から離脱して間もない頃であったため、混濁した状態でまともにSCと会話など出来なかったが、時間が経ち、状態が安定し、生前の記憶をほぼ取り戻したようである。
「僕がここに居ることが分かったんですか?」
『いや、まぁ、毎日暇だからさ、散歩するのが日課になっているんだよ。通りかかったらたまたま君が居たという訳。どこかで見た顔だと思ってね。聞きたいことがあったし、丁度よかったよ』
――自分がどうなったか自覚しているのか?このヒト。能天気だな。というかここまでハッキリ自分の意思を持っているということは……
「で、聞きたいことって何ですか?」
克樹は一つの考えを頭の片隅に置きながらも先を促す。
『まぁ、急かすなよ。こっちは久しぶりに話ができる人間に会ったんだ。いや、ホント今まで誰とも会話できなくて寂しかったんだからさ。妻も娘も俺に気付いてくれないからね。少し付き合えよ』
鈴木は何処かの方向を指差し、歩き始めた。鈴木の姿は一般の人間には見えない。この場所で会話していても、傍目には克樹が独りで喋っているだけのアヤシイ人間にしか映らない。近くの公園にでも移動するのだろう。
――これはもう間違いないな。鈴木さんには自我が芽生えている。ちょっとメンドクサくなってきたかも。ひょっとして新井達はいつもこんな調子なのか?
現状、克樹は新井に対して嫌な奴という印象しか抱いていない。しかし、新井達は異常に少ない人数で支部を運営しているにも関わらず、こうして送り届けた新念のフォローを欠かさず行っている。克樹は尊敬の念を抱いた。直ぐに打ち消したけれど。
『ここならいいだろう。』
二人は公園のベンチに腰を下ろした。梅雨空の下、湿った土の臭いが鼻をつく。広くは無い園内には他に小学生が数人いるだけだ。サッカーボールを追いかけている。こちらに気を配る様子は全く見られない。
『今の時代でも公園は子供達の遊び場になっているんだな。こんな時間に公園に来ることなんて久しくなかったな。いやあ子供の頃を思い出すなぁ。思えば今の俺の原点は草サッカーにあったんだよな……』
鈴木は妙に黄昏た眼差しで園内を見回す。
『俺はこれでもサッカーやっていてさ、高校の頃は国立まで行ったんだぜ。すごくない?俺らが入学した年に監督が変わってさ。ウチの高校、もともと強かったんだけど、さらに上の世界に連れて行ったのが、俺ら世代な訳よ。黄金時代の始まり。まぁ、勿論それなりに大変だったけどさ。どうやって俺らが上の世界に到達できたのか知りたくない?』
「いえ、全然。で、話って何ですか?」
克樹は鈴木のノスタルジックな自慢話に付き合う気は皆無で、大して興味の無い中高年男性に対する十代の若者らしい冷淡さを以て性急に話を進めようとする。
『おお、スマンスマン。冷たいな、キミ。まぁいい。知りたかったのは、俺はこの後どうなるんだってこと』
克樹がある程度予想していた質問が飛んできた。
「四十九日過ぎたら往生します。現世を離れて仏になるってことです。亡くなった直後は葬儀などでバタバタしますから、ある程度の期間を設けて、現世に遺した人達との精神的な意味で別れてもらうんです。お互いに」
『クールダウンの時間ってことか。極楽浄土に行けるかの裁定が下るまでに四十九日かかるという考えも聞くけどな』
「そうとも言われていますね。実際のところ、僕らもその先の世界は分かりません。普通は四十九日位で往生してもらいます。そうでないと残念化する危険があります」
『残念?』
「現世に憑りついて残ってしまった念だから、残念です。人間に憑りついて現世に残した未練を果たそうとする念です。残念の未練は肥大化されるので、多くの場合は現世でトラブルになりますね。戦争を引き起こした残念もいます。残念化を防ぐのも僕らの仕事の一つです」
『ひょっとして俺、残念になったのかな?』
「いえ、大丈夫だと思います。残念化すると、憎しみや怒り、焦燥といった負の感情に支配されますから、普通な感じで僕らと会話することはないです。残念が発する攻撃的な雰囲気を鈴木さんから感じませんし」
克樹はサッカーボールを追いかける小学生に視線を移した。鈴木との会話に意識を傾け過ぎても独り言を続ける怪しい人間と見られかねない。外で念と会話する時の注意点だ。克樹は周囲に気を配り、視線を移しながら会話することが習慣になってしまっている。SCの職業病みたいなものかもしれない。今のところ、小学生達に克樹に意識を向けている様子は見られない。
『それにしても四十九日か、長いな。あと一か月近く残っているのか』
「鈴木さんはかなり早いです。意識を取り戻すのが」
『オレ、これでも霊感あったからね。妻と初めて会った時、何故かピンと来たんだよね。その直感にしたがって話しかけてみたんだけどさ。それが大正解だった訳。やっぱり直感ってバカにできないよ』
――それは霊感じゃないだろうが。そもそも自分で直感って言っちゃってるし
いい年をしたオッサンには恥ずかしい間違いだが、克樹は年長者への礼儀を忘れることなく、愛想笑いで応じた。少し顔が引きつっていたけれど。
『キミ、今のツッコんでいいところだからね。放置しないでくれる?』
「ああ、ゴメンナサイ、気が利かなくて」
手間のかかるオッサンだと思いつつ、克樹は答える。四十九日の期間を設けるということは多くの場合、それだけの時間が必要だということだ。肉体を失った念自身が状態変化を受け入れるだけでなく、遺された家族・友人達も直面する環境変化に対処する心構えを醸成するためにも。例え直接言葉を交わすことはできなくとも、新念が近くにいるだけで効果はあるのだ。
『でも、もうウチの家族にはそんな時間は必要ないな。俺の死もアッサリ受け入れられちゃったからね。妻は俺と結婚して退職したけど、当時の会社の仲が良かった同僚との付き合いを続けていたから、直ぐに連絡とって働き始めることにしたみたいだ。娘も小学生だけど結構しっかりしているからな、子供の事はあまり気にせず働けるだろう。俺が居なくなっても回るんだ、ウチは。安心といえば安心だけど、ちょっとさびしいよね』
これも良くあるパターンである。残された遺族の方が気丈に、柔軟に状況変化を受け入れる。意識を取り戻した念の方が困惑してしまうのた。生前、自尊心が高く、自信家だった者ほど陥りやすい。自分がいなくては世の中回らないと考えるタイプだ。自分の考えを押し通そうとするスタンスに実は家族が辟易していたということも多い。
「そういう話は割と聞きますよ。鈴木さんだけじゃないです。でもみなさん、その現実を受け入れて往生していくみたいですね、結局は」
『……あと一か月近くはこの状態で過ごさなきゃいけないのか。退屈で仕方ないな』
鈴木はウンザリしたように言う。
「まぁ、今はまだ気持ちが張り詰めているだけで、少し落ち着いてきたらみなさん悲しさが急にこみ上げてくるパターンかも。まだ分からないと思います。この後、相続で修羅場になるってことも……」
『そんな財産なんてないよ。若いのに随分生々しいことを言うね』
鈴木は苦笑する。SCという仕事柄、頻繁に耳にする話である。ただし、管轄外。
『妻はサッパリした性格だからなぁ、結婚した時もワリと簡単に仕事を辞めたんだ。私が働いて稼いでもいいけど、それだと貴方の立場が無くなってしまうから私が家のこと看てあげる、って言われてさ。社内結婚だったんだけど、実は妻の方が仕事デキたし。いや、まぁ俺の出来が悪いってことじゃないぜ、勿論』
「男を立ててくれる、いい奥さんって感じがしますが」
克樹は思ったことを素直に口にした。
『その通り。だから妻には勿論娘もだが幸せになって欲しいと思っているんだ。因みに娘も結構かわいくてね、キミも一目見たら好きになってしまうだろう。写真あったかな?見たい?でも、キミに娘をあげる気はないけどね。悪いけど』
「……大丈夫です」
実は知っている。娘の理沙、妻共に写真が資料として事前に送付されていた。実際、かわいい。鈴木の妻は明朗な雰囲気の美人で理沙は妻似である。克樹は絶対に娘を溺愛していると考えたから、鈴木を家まで連れて行く際に娘の名を使った訳で、効果は有った。独りよがりの自慢好きなオッサンには過ぎた家族と克樹は世の中というものを恨めしく思った。これもサッカー効果か?
『……そうか、まぁいい。おそらく妻はいずれ別のいい相手を見つけることだろう。すこし忍びない気もするけど、それでいいと思っている。俺はそれを見届けたいんだ。昔の映画みたいにね。それだと残念になってしまうのかい?』
早い時期に意識を明確に取り戻した念は現世に残した人間への未練を口にすることが少なく無い。鈴木は意味深な眼差しで克樹を見据える。
「いえ、既に鈴木さんは自宅に戻られていますし、意識も取り戻していますので、残念になることは無いと思います。でも四十九日を過ぎたら徐々に薄れて、自然に往生することになりますけど……じゃ、僕はこれで……」
と言って立ち去ろうとする克樹の肩を鈴木はシッカリと摑む。
『逃げるなコラ。キミにくっついて行きたいんですけど。四十九日じゃ足りないんですけど。わかるよね?露骨に態度で示したつもりなんですけど。よろしいか?いいよな、な、な?』
鈴木は克樹の肩を揺らし、強引かつ強気に克樹に押し迫る。だが克樹は正直、気乗りがしない。初めてのことであるため、どうしたらいいのか良く分からないのだ。見届けると言ってもまさか四六時中、自分に取り憑いて回るのだろうか?定期的に仏壇か金庫から連れ出すくらいでいいのだろうか?加えて鈴木の性格が克樹には大分メンドクサイ。それが最大の問題なのだけれど。色々と思案する克樹に焦らされた鈴木は猶も言葉を重ねる。
『何をビビってんの、君は?何てことはないんだよ、何事も。やるしかないんだよ、人生は。俺一人の面倒を看る力もないのか、キミは?それが君の仕事なんだろ?』
「……」
ビビる、仕事、若い男のプライドを刺激する言葉をぶつけることで、克樹の態度の変化を見抜いた鈴木は、もうひと押しでいけるとばかりに責め立てる。
『人を救うのは常に人だ。キミが俺を助け、俺はキミを助ける。これでも君の年齢の倍は生きていたんだぜ。唯のリーマンだった俺だが、念になった今だからこぞ、キミにとっても何かの役に立てるはずだ。困っている人間を見捨てるのか?君は?よろしくお願いします。何でもしますから。どうかわたしを見捨てないでくださいぃぃ』
鈴木は遂に情けを乞い懇願するように克樹にすがりついた。
――いい大人がここまでするか?フツー
流石に克樹も折れた。高圧的な態度を取られると作用反作用の法則が働き、依怙地に拒否できるのだが、逆に下手に頼み込まれると(特に相手が弱い立場の場合は尚更に)断れない性格なのだ。そしてこの鈴木。目的を遂げるためならばプライドなど簡単に捨てる男なのだ。むしろ結果を出せないことに恐怖する。短くない過酷な社会人生活で身に着けた、歪んだ?行動スタイルである。状況に応じて態度を千変万化させる彼を、人はカメレオン鈴木と呼んだ。
「……分かりました。僕もSCとしての実力を上げたいですから、鈴木さんの存在もきっとその助けになってくれると思います」
SCと言う仕事柄、克樹には断る理由が勿論無いのである。何より伝説的な存在である曽祖父が連れて来たという膨大な数の位牌を目にしてしまってもいる。自分がどこまで出来るか挑戦したい気持ちも大きい。
『ありがとう。まだ若いのにシッカリした奴だな、キミ(フッ、所詮は高校生、ちょいと泣き落とすだけで……チョロいわ)』
「何か言いましたか?」
『いや、別に』
図らずして克樹は初めて念を連れ帰ることになった。
「お兄ちゃん、ちょっとヤバいんだけど。どうしよう」
帰宅途中の克樹の携帯に紗由から着信が入った。
「今からウチに友達が来るの」
「別に初めてのことじゃないだろ?」
「そうじゃないの、SCのことがバレそうなの。疑われちゃっているの」
紗由は先日の事件を克樹に話した。学校の友達と遊びに出掛けたこと、三人組の中学生に絡まれたこと、センセイの力を借りて撃退したのはいいが、やり過ぎてしまったため、何か隠していると変に疑いを持たれてしまっていること。
「……都合が悪くなったと言って断れば」
「もう何回か断ってるの、もうできないよ」
「あれだけセンセイを連れ出していたらいずれこんなことになるだろうとは思っていたけど、メンドクサイな」
「それと、このことは麻由には内緒だからね。絶対お説教されるから」
「ああ、言わないよ(こういう時に限って麻由は帰りが早かったりするんだよな)」
克樹は尋常ではない麻由の勘の良さを身を以て知っているだけに、妙な胸騒ぎを覚えた。
――ん、麻由?そうだ、渡辺を呼ぶか、自分達意外の客が居るなら、向こうも多少気にするだろうから探るのもやりにくくなるだろう。渡辺を見たら、SCを結び付けて考えるなんてまずできないはずだ。
「まあ、何とかしよう、また電話するよ」
「流石お兄ちゃん、お願いね」
克樹は渡辺に電話を掛けた。
「渡辺、悪いけど今からウチに来れないか」
「これから予備校に行かねばならん。無理だ」
「姉貴がお前に用があるんだってよ」
「今日は休みだった。大丈夫だ。行こう」
――これで準備は整った。本当に麻由が早く帰って来るのか保証はないが、そうなる確信がある。来なければそれまでの話だ。渡辺は怒るかもしれないが、最悪、麻由のパンツを渡して宥めることにしよう。
一方で克樹は次第に姉の下着で友人を買収することに抵抗感が無くなっていく自分に恐怖を覚えた。
「……ッツクシュッっ!」
「麻由、大丈夫?」
麻由の噛み殺したようなクシャミを見て、一緒に歩いている女子学生は半分笑いながら声を掛けた。
「うん、大丈夫。光紀、ゴメン」
「ひょっとして、この時期で花粉症?」
「私、花粉持ちじゃないよ」
「じゃあ、誰かが麻由の噂をしているんだよ。誰が難攻不落の名和田麻由城を攻略するのかって」
「ちょっと、やめてよ」
「この間は三条君の誘いを断ったんだって?勿体ないことするよね。カッコいいし、面白いし。中々いないよ、あんなヒト。美男美女同士でお似合いじゃん。麻由がホント羨ましいわー」
「いい人だし、嫌いじゃないんだけど、ちょっとそんな気になれなくて」
「うわー典型的かつ遠回しなダメ出し。余裕ですな」
「……」
麻由は無言で光紀を見つめる。
「ゴメン、怒った?」
「ううん、別に」
麻由も自身の容姿については自覚している。中学の頃には男子生徒達からの視線に気づいていたし、高校入学後は幾度となく告白を受けた。しかし、受け入れたことは無い。断られた男子生徒からの逆恨みや女子生徒からの嫉妬による嫌がらせを受け、不快な思いをしたこともある。
「ホント不思議だよね、麻由って。ひょっとして彼がもういたりするの?実は片思い中とか?教えてよ。隠し事はよくないよ」
「……うーん、わかんない、テヘッ」
麻由は首を傾げて笑う。
「……私のことナメてんの?」
光紀は軽くキレる。
「違う違う、そんなつもりはないって」
慌てた麻由は手を振って否定する。
「でも、バカっぽく笑う顔もイチイチ可愛いのが余計にムカつくわー麻由もそんなリアクションするのね。ちょっと意外」
光紀に対しては初めてだったが、今まで幾度となく訊かれてきた鬱陶しい質問を煙に巻くために使い古した手ではある。そして、半ギレされたのは光紀が初めてだった。
「そうかな?私としては割と普通なんだけど」
勿論嘘である。惚けているだけだ。
「ふーん、でも三条君もまだ諦めてないと思うよ?」
能力を持って生まれた子供は大抵、病弱に育つ。SCは強すぎる感性故に念の干渉を受けやすい。子供の内はどうしても体力が無いので、その負荷に身体が耐えられないのだ。頻繁に臥せって学校を休んでいた克樹を間近に見続ける内に、麻由は自分が能力を持たないことに、自分が何の力になれないことに負い目を感じていた。弟妹を差し置いて、自分だけが普通の人生を楽しむ気持ちになれなかった。持って生まれたこの容姿ですら利己のために、自らの幸せのために利用するという当たり前すぎる考えを麻由が抱くことはなかった。
突然、麻由の背筋に悪寒が走った。この感じはまた紗由が悪さをしているのか?麻由は時折、啓示とは言えないまでも、体感的な兆しを感じることがある。この感覚からの予感は大体当たる。麻由は能力が無いことを自覚しているが、何故兆しが当たるのか自分でも良く分かっていない。他人の仕草や服装、僅かな変化を手掛かりに隠し事を一瞬で見抜く直観とは異なる。今、麻由が分かっているのは、この兆しから得られた予感は当たる、だから自分が動いて紗由や克樹を止めなければならないということだ。
「光紀、ゴメン、やっぱり私帰る。なんか急に体調悪くなってきちゃって」
「え、ちょっと?麻由?大丈夫?もう、いつもいつも一体何なのよ、あの子わ」
突然一人取り残された光紀は呆れ顔で走り去った麻由の背中を見つめた。
克樹が自宅に戻ると、渡辺は既に到着しており、門扉の前で仁王立ちしていた。二階を見上げている。麻由の部屋がある方向だ。事情を知らない人間にはストーカーにしか見えないだろう。
「渡辺、早すぎだ。そんなところにずっと突っ立っていたのかよ。傍目には不審者にしかみえないぞ」
渡辺は克樹の声に振り向き、メガネを右手で持ち上げる。
「何、今来たばかりだ。女性をお待たせするのは俺のポリシーに反するのでな」
「姉貴はまだ帰ってきてないぞ」
渡辺は僅かに気落ちした表情をみせた。
「……フン、まぁいい。克樹の部屋で待たせてもらうよ」
――渡辺の奴、こりゃ本気だな。パンツ盗んだのがバレて怒られて気落ちしたのかと思っていたけど全く逆じゃないか。まぁ、実際盗んだのは俺だけど。あの時一体何があったんだ?実は麻由も渡辺に気があったのか?ひょっとして既にもう一線を越えてしまった……とか?駄目だ、変な妄想をしてしまった。姉と悪友のカラみなんて想像したくも無い!
「克樹、大丈夫か?熱でもあるのか?」
克樹が頭を抱えて悶々としている姿に渡辺が心配そうに声を掛けた。
「……いや、なんでもない。まぁ、中に入ってよ」
紗由は克樹の帰りを待ちわびている。松尾とほのかの厳しい視線を一人、その小さい身体で受け止めている。念の力を他愛のない遊びとは言え、私用したことがキッカケであり、自業自得の感は否めない。しかし、男子中学生三人を相手に大立ち回りした後から始まった、二人の執拗なチェックを日々受け続けたことは十分にその報いを受けたとも言える。
――紗由ちゃんが虐待を受けていないか、僕自身の眼で確認しなくちゃいけない
――紗由にマッツーを渡さないんだから!
――ひぃい、二人の視線がコワい。何で二人を助けた私がこんな目にあわなくちゃいけないの?お兄ちゃん、早く帰ってきて!
何とか名和田家に入ることまで漕ぎ着けた松尾ではあったが、ここに来て手を拱いている。今まで松尾から再三に渡って名和田家訪問を要望したため、紗由に警戒感を抱かせてしまう結果となった。向かい合って座っている紗由の表情はとにかくカタい。
そして隣に座っているほのか。松尾と紗由の関係についてはクラスメート達の噂を呼び、誤解を招くところにまで至っている。ほのかの親しい女友達からは、ほのかを泣かせたら許さないからね、などと脅し(?)を掛けられ、当のほのかからも直接、紗由ちゃんことが好きなの、と気持ちの確認までされている始末。流石にほのかの前ではイエスともいえず、実際、本当に紗由の事が好きなのか、単に虐待を見過ごすことはできない良心と都市伝説のような二重人格者の実在をこの目で確かめたい、という知的好奇心によるものなのか、自分自身でも良く分かっていない状態だったので一応の否定はした。だがしかし……
――僕が誰を好きになったっていいじゃないか。何で関係ない奴らにまで口出しされなきゃいけないんだ。メンドクサイな!
松尾は一人勝手にイライラしている自分に気づき、内心苦笑する。とにかく誰もマトモに喋らない重苦しい雰囲気を何とかしなくてはいけない。
部屋を見渡していると、壁に立てかけられている白い段ボール箱が眼に入った。
――ツイスターゲーム!これは使えるぞ。普段することのない姿勢を取らなきゃいけなくなる。紗由ちゃんの身体をジックリ観察するチャンスだ。いつもなら気が付かない場所も見える!幸い今日は二人共スカートじゃない。一緒にやれば、紗由ちゃんと肌の触れ合いも……って駄目だ、これじゃタダのむっつりスケベじゃないか。あくまで紗由ちゃんが虐待を受けていていないか調べるためだ。でも僕からツイスターゲームやろうっていうのもヘンかな?
「それ、ツイスターゲームだよ」
紗由が松尾の視線に反応する。チラチラと視線を送り続けた甲斐があった。
「え、あぁそうなんだ。何だったかと思って」
松尾はまず惚ける。
「じゃあ、みんなでやろうよ!松尾君、やり方知ってる?」
ほのかがノッてきた。思惑通りに事が進み、松尾はホッと胸をなで下ろす。邪な考えを疑うことなく、ゲームにノってくれたほのかに感謝した。
「勿論!とりあえず僕が審判やるから、まずはほのかちゃんと紗由ちゃんで」
自分から紗由とプレイヤーとなれば近くで調べられるというメリットがあるが、ガン視し過ぎて不自然な視線がすぐに気づかれるだろう。ここはやはり審判の方が確実と松尾は判断した。
紗由は漸く場が和み、針の蓆から解放されたかのような安堵感を覚えた。
「私の部屋じゃ狭いから、一階でやろう」
そろそろ克樹が帰って来てもいい頃だ。自室に引きこもっていては克樹の力を借りにくい。
「うおぁ!……エ、エクソシスト?」
渡辺を連れて帰宅した克樹の眼に入ったのはブリッジ歩きのポーズを取る紗由とほのかだった。紗由の上にほのかが交差するようにブリッジしており、上から見ると十字形になる。
「あ、お、お兄ちゃん……おか、お帰り……なさい」
顔を真っ赤にした紗由が苦しそうに声を絞り出す。
「おじゃ、お邪魔して……してます」
表情は見えないがほのかも呻き声であいさつする。
「……キミら何やってんの?」
「いや、その……ツイスターゲームですけど?」
顔を引きつらせた松尾が応える。
「何をどうやったらそうなるんだ?」
「まぁ、二人共身体が柔らかいから……。まだこれ一ゲーム目ですよ。僕も何回スピンをまわしたか覚えて無いです。全力ツイスターゲームです」
「ま、松尾君、早く次……次……ううぅ、も、もうダメ」
紗由を跨ぐように逆ブリッジしているほのかに限界が訪れようとしていた。紗由より大きく身体を屈曲させているだけに負担が大きいのは容易に見て取れる。
「え、ちょっと……ダメ。ほのかちゃ……」
「ぐはぁ」
マヌケな声を発してほのかが力尽き、紗由の上にのしかかる。
「うぎゃあ、重い、潰れるぅ」
ほのかの体重を支えることができず、ブリッジを潰され、紗由は背中を付ける。
「……ほのかちゃんの勝ち、でいいのか?なんか理不尽な感じもするけど」
審判の松尾が勝敗を告げる。
「うぅ、眼がチカチカする」
上半身を起こしたほのかは頭を抱える。その下では文字通りほのかの尻に敷かれている紗由が、苦しそうに呻いている。
「ほ、ほのかちゃん、は、早くどいてー、死ぬぅー」
「あ、紗由ちゃんゴメン!大丈夫?」
ほのかは紗由を急いで抱き起す。ほのかに抱きかかえられた紗由は胸に手を当て、肩で息をしている。
「……ツイスターゲームでここまで消耗した奴らは初めて見るな」
克樹が呆れたようにつぶやく。
「いや、僕も二人がここまでガチになるとは思ってなくて。特に……」
松尾は言葉を濁し、ほのかを一瞥した。
――でも、そのおかげで十分に観察できたけど、紗由ちゃんにそれらしい傷痕は無かった。やはり僕の勘違いか?いや、分かりやすい所に傷をつくらないってことも考えられる。とすると、敵はかなり陰湿で用心深いってことか?なんてことだ!
松尾は想像以上に事態が深刻で困難なことに愕然とし(無論、勝手な誤解である)、克樹の表情を伺い見る。
「あ、ナベちゃんだ」
呼吸が落ち着いた紗由が渡辺の存在に気付く。
「紗由ちゃん久しぶり。元気そうだね」
渡辺はメガネのブリッジを中指で押し上げ、クールな眼差しを紗由に送る。ほのかは一瞬、胸を締め付けられるような感覚に襲われた。
「うん、元気ゲンキ。元気迸りだよ。ナベちゃんもウチに遊びに来たの?ツイスターゲーム一緒にやろうよ」
紗由は渡辺に近づき、上目使いで手を握る。
「ツイスターゲーム?オレ得意だよ。本気出しちゃってもいいかな」
「うん、いいよ。バンバン出しちゃって!」
渡辺はクールな眼差しを変えることなく紗由を見つめている。
――紗由ちゃん……陰湿ないじめを受けているのに何て健気なんだ。いや、ひょっとしたら、これは渡辺って人へSOSのサインを送っているのかもしれない。そうだ、そうに決まっている!付き合い長いんだったら気付けよ!何て鈍感なんだ!これだからオッサンは!
松尾は察しの悪い?渡辺を睨みつける。
――渡辺のこの表情、まさか紗由にまで手を出そうとしている?
克樹の脳裏に毒グモ渡辺の糸に絡め取られる蝶(紗由)のイメージが過る。
――それは断じて看過できない!将来の禍根はここで断つ!
「「ちょっと」」
克樹と松尾の声が重なった。一瞬、場の時間が止まる。直ぐに克樹が針を動かす。
「渡辺、ちょっとコッチ来い」
克樹は渡辺を連れ出し、出て行った。再び小学生三人だけとなる。
「紗由ちゃん、今の人誰?」
「お兄ちゃんのお友達のナベちゃん。小学校から友達で今は同じ高校に通っているの。背が高くてカッコいいよね!でもお兄ちゃんはアイツはヘンタイだって……」
ほのかに渡辺の説明をしている紗由を横目に松尾は葛藤する。相手は高校生。この間の中学生よりさらに身体が大きい。もし相手が怒り出したら、自分では太刀打ちできない。恐怖に身がすくむ。
――でも、逃げちゃダメだ!
松尾は部屋を出て、克樹の所へ向かう。
「紗由ちゃんのこと、いじめてないですよね」
松尾は勇気を出し、問いかける。あまりに直接的すぎる聞き方だが、もし自分の想像が当たっているなら、この言葉に何等かの反応を示すはずだ。それに、渡辺を始め、これだけ身内以外の人間がいる場で直ぐに激高することはまず無いという松尾なりの計算もある。
「へ?」
克樹は全く思いがけない言葉を妹の友人から投げかけられ、思考が停止する。
「誰も紗由ちゃんをいじめてないですよね?」
間の抜けた克樹の反応に松尾もたじろぐが、怯むことなくもう一度同じ言葉を繰り返す。
「いやいや、苛めてない苛めてない。誰もそんなことしてないよ。何言ってんのキミ?」
顔の前で手を振りつつ苦笑いしながら克樹は答える。
――この反応、やっぱり僕の勘違いか?確かに虐待するような人には見えないけど……だが、敵は用心深い、簡単に信じちゃダメだ。
「松尾君、だっけ?紗由から聞いてるよ。最近、色々仲良くしてくれているみたいだけど。変な誤解をされちゃってるのかな、俺?紗由には別に何もしてないよ。紗由がそんなこと言ってるの?」
松尾はこの答えでは納得できないという表情をみせている。この食い下がり方は特別な感情があると克樹は考えた。そこで聞いてみる。
「ひょっとして、キミ、紗由の事が好きなの?」
本心に近い所を突かれ、松尾は一瞬、身体を強張らせる。克樹から視線を逸らし、俯きながら首肯する。
――紗由の奴、SCのことを気付かれそうなんて言ってたけど、実際は松尾が紗由を好きになったということか。単なる勘違いじゃないか。普通、それだけ絡まれれば好意に気付きそうなものだが、紗由らしいな。
克樹は漸く理解した。ただし、半分だけ。
「そうなんだ、でも俺は君なら邪魔するつもりはないよ。頑張れよ」
克樹は松尾を励ます。しかし、松尾に余裕を見せるだけの経験が克樹に備わっているわけでは無く、年長者としてのプライドと紗由の兄であるという見栄から来るものに過ぎない。
その時、玄関から戸を開ける音が聞こえ、誰かが走り去った。
「ほのかちゃん!」
松尾が走り去ったほのかを追いかける。どうやら克樹との会話を聞かれていたらしい。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
紗由が顔を出す。
「いや、友達二人共出て行った」
「え、こんな突然?……お兄ちゃん、二人に何か変なこと言ったんじゃないでしょうね?」
克樹はなんて呑気な奴なんだ、と思いながらも紗由の問いかけを否定する。
「今出て行った女の子、ひょっとして松尾君のことが好きだとか?」
「そうだけど、流石お兄ちゃん良く分かったね。まぁ、ほのかちゃんはいつも松尾君にくっついているから、分かりやすいか」
――こいつは二人の事を何も分かってない。どうする?教えておいた方がいいか?
「あの松尾君は紗由の事が好きなんだってよ」
情報として伝えておくことにした。知っていれば、必要に応じて知らない振りもできる。逆は無い。後は紗由が適切な身の処し方を自分なりに考えるだろう。
「え、ウソ……松尾君が?……信じられない。うーん、でも照れるなぁ。松尾君が私の事が好きだなんて。困っちゃうなぁ。うふふ」
紗由は満更でもないようで顔を火照らせ、身を捩る。克樹は松尾が実はモテる奴だということを知る。そして若干の寂しさを感じた。
「でも大丈夫だよ。紗由が好きなのはお兄ちゃんだけだから。」
紗由は克樹に抱きつき、顔を見上げる。克樹は安心感を覚えると共に妙な気持になる。ただ、この妹はまだ状況を把握していない。
「まあ、それは置いておいて、あの女の子、それを知って飛び出て行っちゃったんじゃないか?」
「え、ウソ、ヤバい!早く言ってよ、お兄ちゃんのバカ!」
漸く状況を理解した紗由は慌てて二人の後を追う。
――SC疑惑が解決したのはいいけど別の問題が……これも後に引きずるよな、多分。で、また巻き込まれるよな。こんなことに手間とらされてばかりだから評価表が変わらないんだろうな。
克樹は肩を落とした。
「ただいま」
麻由が帰ってきた。
――やはり、想定通り!あれ?でも、なんで想定通りなんだっけ?
「克っちゃん、紗由がすごい勢いで走って行ったけど、何かあったの?」
外を指さして麻由が尋ねる。
「いや、ちょっとね」
「麻由さん!お待ちしてましたよ」
漸くお目当てにありつけ、渡辺の声のトーンが上がる。
――そうだ、コイツのことすっかり忘れてた。
克樹はこの場をどう取繕おうか、頭を回転させる。
「渡辺君、来てたの?いらっしゃい」
「え?俺に用があったんじゃ?」
渡辺は克樹を見つめる。克樹は渡辺の肩に腕を回す。
「渡辺、実はな……」