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あたしの幼馴染

作者: 在人

『僕の幼馴染』と合わせて読まれるとわかりやすいと思います。

●〇〇〇〇

 あたしには幼馴染がいる。


 幼稚園の入園式の日に、母親同士が意気投合したのが出逢いだった。その頃は恥ずかしがりで人見知りで臆病で、お兄ちゃんの友達とは似ても似つかないほど繊細な男の子だった。だけどあたしにとっては初めての『自分だけ』の友達だった。

 丁度相手の家は両親共働きだったから何度かうちで預かったり、そのお礼にと向こうの旅行に誘われた。

 そうして家族同然に育った幼馴染は、高校生になってから急に背が伸びた。


「だから、背が伸びただけじゃないって―の!」

「それ以外あんまり変わってないよ? ぼーっとしてるし、自主性はないし、影薄いし」

「ミステリアスで、物腰柔らかな平和主義で、静かに見守る、優しい男子じゃない」

「そんな男子が近年モテるのよ」

「…うーん、解釈ってすごいなぁ」

「とにかく! この頃高塚狙ってる女子、多いから気を付けなよって話!」

「へ、何に気を付けるの?」


 秋から冬に移ろうとしている時期の、昼休みだった。いつもどおり仲の良い友達と机をくっつけてお弁当を広げていたあたし達は、何故かあたしの幼馴染の話になる。

 首を傾げるあたしに、友達三人はどうしてか、ハーっと深い深いため息をつく。


「千里、あんたいいの?」

「ん?」

「高塚のこと、好きでしょ?」

「…んー」


 そう言われて、あたしは困ったように笑った。

 きーくんのことが、好きなのか。

 この問いかけは、幼稚園の頃からずーっと言われ続けているものだった。幼稚園、小学校、中学校、そして高校。家も近くずっと一緒にいるきーくんとあたしを、デキていると勘違いする人だってたくさんいる。もしくは、両片思いとか、デキる一歩手前だとか。

 でも、大きな誤解だった。


「好きだけど、likeであってloveじゃないんだけどなぁ」

「何言ってるのよ、あれだけ仲良くて男女関係に発展しない方が可笑しいでしょう」

「あんたが鈍いのか、高塚が奥手なのかわからないわねー」


 言われたい放題だったけど、あたしは黙って箸を進めた。こういう時に下手に弁明とかするとまた事態はこんがらがる。それは長年このネタを振られてきた経験から来るもので、間違いではないと思っている。

 そうして黙っていたあたしは、だけど一人だけ押し黙っている子が気になって声をかけた。


「どうしたの、亜里沙?」

「千里はそれでいいのかもしれないわ」

「へ?」

「あー、亜里沙、この間石田と揉めてたもんねぇ」

「石田って、三組の?」

「そうよー。幼稚園と小学校一緒で、中学だけ別れて、高校で再会した時に付き合い始めた幼馴染」


 石田君と亜里沙は傍から見ててもオシドリ夫婦というか、喧嘩ップルと言われていたけどとても相性は良いように見えた。強気で負けん気が強い石田君と、姉御肌で正々堂々として物怖じしない亜里沙は二人揃ってクラスのリーダー的存在だった。文化祭や体育祭の時、あの二人が同じクラスだった一年の時が一番盛り上がった気がする。

 どちらも譲らないから合わないんじゃないかって心配していた時期もあったけど、譲らない相手にそれぞれ尊敬の念を抱いていたらしい。

 そんな二人は確か高校一年の時から付き合ってるから、一年半くらい付き合っていることになる。でも友達としてなら、その何倍も一緒にいたはずだ。


「友達の頃と恋人じゃ、また勝手が違うのよ」

「ふーん?」

「だから千里達だってわかったもんじゃないわよ」

「こら亜里沙。自分が破局寸前だからって、千里までそうなるわけないでしょ」

「そもそもあたしは付き合ってないけどね」


 一応そう付け加えるけど、多分聞いちゃいないだろうなぁなんてあたしは苦笑する。

 それにしたって、付き合うってどういうことだろうか。好きだから一緒にいたいと皆口を揃えて言うけれど、四六時中一緒にいたい異性なんているんだろうか。

(ん? …それがきーくんってことになるのかな)

 でも『一緒にいたい』とは思わない。きーくんが一人でいたいならそうすればいいし、あたしも暇な時に一緒に遊べる仲間がいればいい。それが昔から、家が近くて誘ったら断らないのがきーくんだというだけで、都合が合えば同級生の男女問わず、時々お兄ちゃんの友達だって構わない。

 まぁ、でも。きーくんはお兄ちゃんと同じくらい、気を遣わなくていいから楽だって思うから一緒にいる頻度も多いのは事実だ。

 でも、どうしても特別一緒にいたいと言う人は、まだいない。だからわからない。

(恋、かぁ)

 恋をすると人は変わると言う。相手を自分以上に大事に思ったり、愛おしい感情が溢れたり、何気ない言葉に一喜一憂したり…。全て小説や漫画やドラマからの情報で、イマイチぴんとこない。それを何のてらいもなく隣で同じ恋愛ドラマを見ていたお兄ちゃんに言ったらドンビキされた。この兄もどうやらきーくんをあたしの恋人だと思っていたらしい。あたしの方がドンビキだ。そんな的外れのことを言うなんて。


「何より辛いのがさ」

「うわ語り始めちゃったよ亜里沙」

「はいはい、吐けるものは吐いちゃいなさい」

「吐くってそれ、昼食時に言わないでって」


 幼馴染兼恋人だった人と別れた亜里沙の次の言葉は、あたしの胸に深く突き刺さることになる。


「もう幼馴染にも戻れないって、言われたことなの」


 涙目になっている亜里沙を、他の二人の友人は肩を叩いて慰めていたけれど、あたしはそれどこじゃなかった。

 一瞬、時が止まったかと思うくらい、全身が凍り付いた。

 亜里沙には幼馴染がいて、恋人になって、でも恋人じゃなくなったら、幼馴染でもなくなるって言われた。

 その流れがあたしの脳内を駆け巡る。何故って、それ、そのままそっくりあたし達にも当てはまるから。もしあたし達が恋人同士になってしまったら、そして別れてしまったら。

(あたしときーくんは、幼馴染でさえいられなくなる)

 それは嫌だと、心の底から思った。初めて、そう思った。幼馴染でいられなくなるなんて、一度も考えてたことが無かった。

 きーくんは大事な友達の一人だけど、特別な思いなんてないけれど、でも、いなくなるのは、嫌だ。

 友達じゃなくなるのは、嫌だ。

 幼馴染じゃなくなるのは、もっと嫌だ。

(恋人なんかにならなければ、ずっと友達で、ずっと幼馴染でいられる)

 それを回避するためにどうすればいいか、あたしは考えた。考えた結果、あたしは閃いた。名案だと思って疑わなかった。

 今までのようにお互い都合がいい時に会って、何気ない会話をしたり遊んだりして、でも互いに気を遣わなくていい、そんな日がずっと続くと信じられる関係。

 それでいい、とあたしは不安を追い払う。それだったらいいじゃないか、と。


「あたしは、絶対にきーくんのコイビトにはならない」


 小さく呟いたあたしの決意は、誰にも聞かれることはなかった。




 …だけど、あたしがそう固く誓ったって、どうしようもないことが起きた。


「知らないよ、いつか終わるかもね!」


 きーくんにはずっと幼馴染でいて欲しかったから、コイビトになれないって言ったのに。

 どうして、そんなこと言うの?




〇●〇〇〇

 あたしは幼馴染から逃げた。


 あれから気まずくなって、きーくんを避け続けた。告白を受けたのは高校三年の冬で、少しだけ頑張ればどうにか顔を合わせずに済んだ。相手も気まずかったのか、無理してまであたしに会おうとしなかった。


 そうして、あたしは大学の進学で都内に移った。

 初めて、生まれた家から出た。初めて、幼馴染…だった人と離れて暮らした。

 最初の内は生活と大学に慣れることで精いっぱいで、正直他のことは考えられなかった。少し落ち着くと今度はアルバイトを初めて、家と学校とバイト先の往復であたしは自分の誕生日さえも忘れて大学生活を謳歌していた。

 だけど、それは年末にさしかかる時のことだった。久々に親から電話が来て、年末年始は帰ってこないのかと言われたのがきっかけだった。

 地元で働いている兄も実家に戻ってくるんだし、久々に水森家と高塚家で忘年会しましょうよ、と何気ない母の一言で、私はつい言ってしまった。


「ごめんね、お母さん。年末までバイト入れちゃって、帰ってくるのは大晦日なんだよ」

『あら、じゃあ忘年会は欠席かしら。残念ねぇ、千里がいないと寂しがるわ』

「…そんなことないって。じゃあ、叔母さん達によろしくね」

『わかったわ。寒くなってきてるから、身体に気を付けてね』

「うん、お母さん達もね」


 電話を切って、あたしはまだ弾力のあるベッドに身を投げた。

 これで、大晦日から田舎に行く高塚家とはすれ違いになるはずだ。

 けれど嘘をついてしまったことへの罪悪感はある。本当はバイト、クリスマス明けが最後だった。でもそうしてまで実家に帰りたくないのは、幼馴染だった人と会うのが気まずいから。それ以外理由はない。

 あたしが告白されたこと、お母さんも高塚の叔母さんも知らない。彼も誰にも言わなかったみたいで、あたし達は今も幼馴染だと思われている。

 だけど、あたし達はもう、戻れない。幼馴染にもなれない、ただの他人になってしまったから。


 仕方ないと、そう諦めようとした時だった。


 東京に来てから気づいたことだけど、大学の長期に大学生が都内にふらりと来ることが結構ある。高校の時とは違って時間に余裕もあるし、行動範囲が一気に広がるから。

 あたしがいつも買い出しに出る所も、クリスマス用にライトアップされていて中々おしゃれになっている。こんな明るい冬なら悪くないかな、なんてあたしは能天気に一人、デコられたツリーを遠くからちょっといい気分になりながら見て歩いていた。

 そのツリーの下、楽しそうに歩く男女の集団が、本当にたまたま、目に着くまでは。


「……きー…くん」


 あたしの声はかすれていて、忙しなく歩く人ごみの中に掻き消えた。だけどあたしの驚きは消えてくれない。

 故郷にいるはずのその人は、眉間に皺を寄せて不機嫌そうにマフラーの中に顔を埋めて、コートのポケットに手を突っ込んでその集団の中に混じっていた。ちょっと髪が伸びて、とうとう眼鏡をかけたんだ。高校の時から視力が悪くなっていて、時々不機嫌そうに目を細めるから早く眼鏡を買いなよと何度も諭した。でも何故か抵抗して、中々買おうとしなかったのに。ああ、それから背も伸びたかな、まだ男の子は伸びるんだ、ずるいなぁ。

 湧き上がる感情のどれもが、懐かしい思いと切ない思いで一杯で、自然と足がそちらに向こうとし、けれどそれを止めたのは、隣にはある存在だった。

(あ)

 大人しそうで可愛い、守ってあげたくなるような女の子がいた。時々人にぶつかりそうになると隣を歩くその人が肩を引き寄せて守ってあげている。

 どこからどう見ても、二人は付き合っているようにしか見えなかった。

 その集団に見覚えがないから、多分大学の友人だと思う。だって、高校までなら同じ交友関係のはずだったから。

 そう、高校までは。

 突然、ドンッと右肩に衝撃が走る。驚いてそちらを振り向けば、赤ら顔のサラリーマンがあたしを睨みつけていた。


「おい、ぼさっとするな!」

「…あ、っと、すみま、せん」

「ったく、これだから学生は。クリスマスだからって浮かれるんじゃないぞ!」


 そんな言葉を言い残して彼は駅の方へ歩いて行く。その背をぼんやりと見ていて、あたしはハッとあのライトアップされた綺麗なツリーに視線を戻す。

 もう、あの集団はいなかった。

 見間違いかもしれない。もしかしたらそっくりさんかもしれない。

 だけど、あたしが彼を見間違えるはずなんてないという確信もあった。つまり、あれは、本物だと。


「……なん、で」


 胸が苦しくなった。

 涙で視界が滲んできた。

 呼吸が上手くできなくなった。


 理由は、まだわからない。




〇〇●〇〇

 あたしには幼馴染がいた。


 大学二年の年明けの今、あたしは結局一度も実家に帰ることなく都内にしがみついていた。

 一年の年末はバイトのシフトが急に変わって実家に帰る時間がないと更に嘘を重ねて、それからは大学の長期休みには旅行を計画した。

 元々あたしの家族は放任主義だったから、「東京楽しんでるのねぇ」とか「大学生の内に遊んでおきなさい」と寛容だった。

 そうして都内で二度目の冬を迎えたその日、あたしは大学帰りにふらりと重い扉を押し開いた。


「いらっしゃい、こんばんは」

「マスター、こんばんは」


 薄暗いオレンジの照明は、優しい光となって全てを包み込んでくれる。

 あたしは初めて来た時と同じ席、つまり一番扉から離れた、一番隅っこに座る。まだ、この高い椅子に慣れない。


「マスター、モスコミュールお願い」

「かしこまりました」


 早速準備に取り掛かるマスターの姿をぼんやりと眺めながら、ここに少しだけ慣れてきたかなぁと思う。

 ここに来たのはまだ三回目だけど、あたしの二十歳の誕生日が半年ほど前のことを考えると、結構な頻度だと思う。

 本当はあたしのような学生が一人でふらりと入る場所じゃないんだろうけど、あたしの先輩の紹介があって、マスターも雰囲気もお酒も気に入っているからちょっと背伸びしている。


「今日はどうかされましたか?」

「んー…」


 壮年のマスターは聞き上手だった。それでいて、口も堅い。だから俺はよくここに来るんだと、紹介してくれた先輩が言っていた。

 そのせいか、あたしの口はここに来るといつも以上に軽くなる。本当は黙っておこうとか、隠さなきゃと思う感情も、全部出てきてしまう。


「何かね、お酒飲みたいなぁって気分なんだ」

「なるほど」


 相槌は、先を促すものはない。あたしが話したいなら聞くけれど、話したくないなら聞かない、そのスタンスに助けられている。

 少し店の中を見渡せば、カップルと思しき男女一組と、あたしの席から遠く離れた場所で一人静かに飲む男性しかいなかった。


「どうぞ」


 出てきた黄金色のモスコミュールを一口飲めば、ジンジャーの爽やかな味わいとウォッカの風味が喉を通る。

 そんな甘くも少しだけ苦いその味が、あたしの心に染み込んだ。


「あの、ね」

「はい」

「今日は、ずっと、ずっと…楽しみにしていた日なの」


 あたしは情けなくて、俯いたまま話を続ける。

 年によっては都内でも雪が見られるそんな寒い時期、二十年前の丁度この日に彼は生まれた。

 忘れるわけが、忘れられるわけがない。

 去年、あたしは無意識に電話してしまいそうになった。出逢ってからずっと、習慣のようになっていた、誕生日の零時零分に電話する癖。

 そして今年は、あたしにとって小さい頃から待ち望んだ、生涯でたった一日しかない特別な日だった。


「あのね、マスター。あたし、幼馴染がいたの」

「はい」

「でも、色々あって、今は顔を合わせるどころか、連絡もとりにくくなっちゃって。あたしも、相手も、気まずい関係のままなんだ」

「そうですか」

「あたしね、幼馴染って、ずっと一緒にいられるものだと思ってた。でも、違うんだね。簡単に、あんなに簡単に、断ち切れちゃうんだね」


 ちょっとショックだったなぁ、なんてあたしは不格好な笑みを浮かべてモスコミュールを喉に流し込む。さっきは甘く感じたのに、今度は苦みの方が強いのはどうしてだろう。


「人と人との縁は不思議なものですから」

「そうだね。当たり前…って思っていられるのは、当たり前じゃなくなるまでだもんね」

「千里さんは」


 名を呼ばれて、ちょっとびっくりした。あたしからすればここは行きつけのバーだけど、マスターからすればまだたった三回目の新参者のはずなのに。

 驚いた顔をしたあたしに、すみませんと柔らかい謝罪を述べてからマスターは言った。


「その幼馴染と、どうなりたいのでしょうか」

「…そうだね、前みたいに、」


 そこまで言いかけて、思い出すのは煌びやかな木の下にいた、幼馴染と女の子。


「………前みたいに、友達として、いたいかな」

「そうですか?」

「え」

「千里さん、他人を偽ること以上に、己に嘘をついてはいけませんよ」


 胸に刺さる言葉だった。


「……あたし、嘘、ついてるかな」

「そのように見受けられます。千里さんは、真っ直ぐな方ですから」

「そんなに真っ直ぐでもないよ…」


 もし本当に真っ直ぐだったら、あの日、クリスマスツリーの下を歩いていたはずの彼に、声をかけられるだろうから。

 それができなかったのは、きっと。

 きっと、あたしが――――――


「マスター」

「はい」

「あたし、気づいちゃいけないことに気づいたかもしれない」


 あたしはヤケになって、こんな飲み方しちゃいけないってわかっているのに、作ってくれたマスターに失礼だって頭じゃ理解しているのに、残り半分グラスに残った黄金の液体を、身体に流し込んだ。


 最低だ。

 あたしは、最低だ。


「千里さん」


 飲み干してすぐ突っ伏して情けない顔を隠すあたしに、マスターは空になったグラスを回収しながら優しく声をかけてくれる。


「あなたはまだ若い。これから色々な出逢いも経験もあるでしょう。その中で関係が希薄になる人もいれば、逆に濃密になる人だって必ずいます。過去に囚われず、けれど今傍にいる人を大事にしてあげてください」


 マスターがこんなに喋る人だとは思わなかったけど、予想に違わず心に染み入るような喋り方や声音だった。

 今のあたしには耳が痛くて、そして必要な言葉だってわかる。

 でも、それでもあたしは手放したくないと思ってしまった。


「マスター、でも、でもね、あたし」

「はい」

「きーくんの、傍に…いたかったよ」


 涙が溢れるのを必死に堪えて、でも涙声になっているのは隠せなかった。

 こんな客、迷惑なだけだってわかっているのに感情は止まらない。涙は際限なく溢れて、身体中の水分がなくなっちゃうんじゃないかってくらい流した。


 あたしは、ようやく恋を知った。

 けどそれは、あたし自身の手で振り払ってしまったんだ。


 ずっと傍にいた、あたしの大切な幼馴染。

 勇気を振り絞って想いを告げてくれたのに、未熟で幼いあたしは関係が壊れるのを恐れて、突き放した。


「ふぇっ、く、…」

「千里さん」

「な、に…?」


 一頻り泣いて、ようやく涙が止まりかけるまで随分時間が経っていた。

 それまでマスターは何も言わずに、じっとあたしが泣き止むまで待っていてくれていた。申し訳ないな、と思うあたしに、更にマスターはどうぞとハンカチまで渡してくれる。

 それに礼を言って涙を拭いていると、駄目押しとばかりに一つの可愛らしいグラスを私の傍に置く。


「これ?」

「どうぞ飲んでみてください」


 桃色のそれは、見るからに甘そうだった。

 口に入れると予想通り、ふわりと甘いストロベリーの香りと生クリームの柔らかさが舌を滑り、多分香りからして使っているのはラム、かな。

 モスコミュールとは違って、ほとんど苦みのないそれは中々飲まないタイプのお酒だけど、どうしてかすごくしっくりきた。


「これ、何て名前のカクテルなの?」

「今即興で作ったものなので、名はありません」

「そうなの?」

「ええ。ですからこれは、千里さんにだけお出しするカクテルです」

「へぇ」


 なんかこそばゆくなる。マスターが、まだ小娘のあたしにだけ作ってくれたなんて。

 思わず顔がにやけて、それを見たマスターが優しい瞳で言う。


「悲しい時は思いっきり涙を流して悲しむのも大事なことです。心を縛り付けず、己に嘘をつくことなく…そうしないと、苦しくなってしまいますから」


 柔らかく微笑むマスターに、再びあたしの涙腺は緩んでくる。駄目だ、これ以上泣いて迷惑かけたくないと思うのに、マスターは無言で頷く。

 あたしに、泣いても良いんだよって、言ってくれるように。




 二十回目の幼馴染だった人の誕生日、あたしはようやく初めての恋を自覚した。

 可能性をこの手で潰して無残に砕け散っていたことさえ気づかなかった、淡い初恋を。




 その日を境に、昼は元気に振る舞うけれど、夜は叶わぬ恋に涙を流し眠れぬ日を過ごすこととなる。


 どうしてもっと早く気がつかなかったんだろう。

 何であの時上手く乗り切って幼馴染として続けられなかったの。

 でもきーくんだって、あんないい方しなくても良かったのに。

 ああそれでもあたしは無神経過ぎたんだ。

 もう愛想尽かされちゃったかな、もう忘れられたかな。

 …可愛いあの子と、上手く行ったかな。


 苦しくなるたびにあのバーに行った。

 捨てきれない想いを口にする度、マスターは何も言わなくてもあたしだけのカクテルを作ってくれた。甘い、蕩ける程甘いはずなのに、しょっぱくなる時だってあった。でもマスターはただ黙っていつもそれをあたしの前に置いてくれた。


 あたし、きーくんのことずっと好きだったんだ。

 でもわかんなくて、それが恋だって知らなくて。

 傍にいたいとか思わなかったから違うと思った。

 でも。

 きーくんは、傍にいたいとかじゃなくて。

 傍にいることが、当たり前だったんだ。

 ごめん、ごめんね、きーくん。

 あたし、全然、そういうの駄目で。

 自分の気持ちにさえ、気づかなくて。

 傷つけたよね、ごめんね、ごめんなさい。


 でも、叶うなら、幼馴染に戻りたいって思うのは…。

 ううん、きーくんの隣に、一番特別なひとでいたいと思うのは、

 ―――――――我儘ですか?




 恥ずかしいけど、二年と少しくらい、そうやって過ごした。

 でも時間が経って少しずつ、自然と気持ちが落ち着いてくる。

 そうしてようやくあたしは離別を受け止められるようになった。




〇〇〇●〇

 あたしは幼馴染と再会する。


 それは偶然だった。きっと神様がくれた、最後のチャンス。

 あたし達が再び、幼馴染に戻る、最後の切っ掛け。


 あたしは迷わず彼を行きつけのバーに連れてきた。他の場所なんて考えられなかった。

 散々迷惑をかけて全部知っているマスターには、ちょっと格好悪くて友人と紹介してしまったけど。


(あ…あのカクテル)


 最近は甘めのカクテルも飲むようになったんだけど、可愛いグラスのそれは最近お世話になることがめっきり減った、あたしだけのカクテルだった。

 これは…と思ってちらりとマスターを見れば、いつもの柔らかな笑みを浮かべられる。降参だった。ばっちりバレてる。

 マスターからの声なき応援を受けつつ、あたしたちは静かに言葉を交わす。

 静かに話していたはずなのに、ひょんなことからあたしの口はあらぬ言葉を紡ぎ出す。


「きーくん、あたしの恋人になれる?」


 自分でも図々しいと思う。だけど、もしも。

 もしも、あたし達が、かつて望んだ場所に立てるのは、もうこれが最後のチャンスだと思ったから。

(ごめん、きーくん。あたしね)

 一瞬泣きそうになったけど、どうにかして堪えて、笑う。きっと、情けない笑顔だっただろうけど。

(あたし、幼馴染だけじゃなくて、きーくんの恋人に、なりたいんだ)

 酷い我儘だって、わかってる。

 こんな無茶苦茶なあたしを、ばっさり切り落としても、恨まないから。

 無神経だって怒ったって当然だよね、こんなの。

 それでも…それでもきーくんを諦めきれない。


「…やっぱりちーちゃんは、僕のことなんて全然見えてない」


 きーくんが言うなら、そうなんだろうね。あたし、そういうの疎くて駄目だからなぁってごまかして笑う。

(あ、はは。…振られちゃった…かなぁ)

 泣きたいのを必死に堪えていたあの頃と同じ、人生において一番情けない頃に張り付けていたお面を被る。

 泣くな、泣くな、って今は必死に心で唱える。こんなところで泣いたって、どうにもならない。ただでさえ無理押し通して、恥を忍んでこんなこと言ってるんだから、これ以上醜態を晒したくない。

 この期に及んで、まだあたしはきーくんに、嫌われたくない。

 そんなどうしようもないあたしの手を、返事をするためにきーくんはとって、言った。


「水森千里さん、僕と結婚を前提に付き合ってください」


 あたしは、呆然とその人を見た。

 その眼には真摯な光だけが宿っていて嘘や偽りなんて一つも無かった。

 綺麗で、真っ直ぐな、瞳があたしを射貫く。


「高塚幸弘と、結婚を考えた上で、恋人になってください」


 信じられなくて。

 あたしは、何度も何度も瞬きした。でも、それは夢なんかじゃなくて、あたしの都合のいい妄想なんかじゃなくて。

 これは、現実なんだ。

(夢みたい、でも、夢じゃなくて…)

 あたしはパンクしそうになる思考と意識をどうにか繋ぎ止めて、でもまたふらつきそうになる身体をどうにかして律する。

 きーくんはそれでいいの、とか。

 あたしなんかを貰ったら苦労するよ、とか。

 結婚はちょっと行き過ぎじゃないかなぁ、とか。

 きーくんひょっとして熱でもあるの、飲み過ぎた? とか。

 本当にあたしは混乱して、混乱しつくして、何も言えなかった。

 だから、あたしの両手のとったきーくんが、そわそわしだしたのも気づかなくて。


「……あの、ちーちゃん」

「え?」

「それで、その…ちーちゃんは、どう?」

「えっ?!」


 ようやく我に返ったあたしは、あたふたとすればきーくんの不安そうな顔とマスターの優しい眼差しが目に入った。

 眉を下げるきーくんにあたしは胸がトクンと高鳴って、握られていたその手を、ぎゅっと握り返す。

ずっと一緒だったのに成長に追いつけなくて、小さいままのあたしの手で、精一杯、きーくんの細く上品で、でも男らしい角ばった大きな手を大事に大事に包み込む。


「水森千里を、きーくん…高塚幸弘さんの、お嫁さんにしてください」


 あ、ちょっと先走っちゃったかも。

 そんなことを考えた瞬間、あたしは嗅ぎ慣れた、けれど五年前よりずっと男らしくなったその胸に強く抱き寄せられた。




 あたし達は在るべき場所に戻り、そして新しいスタートラインに立った。




〇〇〇〇●

 あたし達は幼馴染に戻って…。


「ふぁああ、ふぁあああ」

「ちーちゃんちーちゃん、弘昌が、ひろまさが!」

「んー? あー、ひろくん、おしめかなぁ、きーくん、おむつ代えられるっけ?」

「み、見たこと、見たことしかないよちーちゃん!」

「じゃあ今日がデビューかぁ、うん、大丈夫、できるって」

「そんな薄情な…!」

「ふぎゃあああああ!!!!!!」

「うわああああああ!!」


 そんな騒がしくも愛しい二人を温かく見守りつつ、鍋の底をお玉でかき混ぜる。

 産休を取れていたのは先週までで、それからはあたしも働きだした。と言っても、残業無しできちんと定時に返してくれているからかなり助かっている。

 あたし達はあれから付き合いを始め、あたしは地元に就職した。その頃まだ都内勤めだったきーくんは、どうにか地元近くに転勤したのをきっかけにプロポーズしてくれた。勿論私の答えは再会したあの日…ううん、あの甘い甘いカクテルに出逢った、寒い寒い幼馴染の誕生日に出ている。

 そうして付き合い始めてから二回目の春、私の苗字は変わった。家は実家の近くのアパートで二人暮らしを始めて、今年から新たな小さな家族を迎えて三人になった。実家が近いおかげであたし達の仕事中、ひろくんは叔母さんや母に預かってもらえるので大分楽をしている。


「ちちちちーちゃん、最初から大は辛いよ、大は!!」

「ひろくんのうんち、まだ柔らかいからおしっこと変わらないって」

「変わるよ! 僕の中ではすごく変わるって!!」

「そうかなぁ?」

「そ、」

「ぶぎゃああああ!!」

「泣かないでー!!」


 ひろくんにつられたのか半泣きのきーくんを見てると、お父さんとして頑張ろうとしているんだなぁとほっこりする。


「ちょっとちーちゃん、何幸せそうに笑ってるの、手伝ってー!!」

「慣れればちょちょいのちょいだから。最初は誰だって失敗だらけだよ」

「失敗っていうか、うああああ! つ、ついた、手に弘昌の大が、ついた…!」


 あたしこと水森千里あらため高塚千里。

 幼馴染兼夫のきーくんと、生まれたばかりの息子ひろくんと、のどかにのんびり、幸せを噛みしめて暮らしている。

お読みいただき、ありがとうございました。

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