○○少女菅ありさ
菅ありさが怒った時、僕はどう返事をすれば良いかわからなかった。
「おまい、あたしを侮辱するつもりですぅか!」 このようなことはもう何回ある? 確かにありさが他の奴とけんかすることは珍しいことではない。だがありさは、特に僕に対してけんかをふっかけてくる。
菅ありさは厨二だ。
「別にそんなこと言ってねえだろ」と返すと、
「黙れ。てめえは俺を怒らせた」
「視ろ、あの二人、またけんか始めたぜ……」 低い笑い声が聞こえてくる。
菅ありさは確かに激怒したような面持ちであったが、どうにも、それは他人の目から見ると反応に困る代物なのである。彼女は他人と対比して、――特に童顔にあいまって――表情の作りが少し度が過ぎる。
彼女はばたっと立ち上がると、
「そこになおれ。成敗してくれるぅ」
と叫んで、僕を追いかけ始める。当然僕は逃げる。
だが、これは意図してか意図せずしてか、
「どたきゃふっ」
――途中でこける。周囲から静かに響く笑い声。
「おい、待てえ、不逞の輩ァ」 無論、そんな声に僕が反応するはずもない。
ありさは床にはいながら僕を追いかけてくる。
怖いというより、不気味だ。その表情も、説明に尽くしがたいところがある。一見怒っているが。同時に笑っているようにも見えた。また悲しいようにも映り、肉欲ゆえに求めている如くも。
断言する。僕は彼女のことが好きではなかった。
菅ありさははっきり言って、僕が一番相手にしたくない型の人物である。かつその特徴をかなりの程度備えていた。
僕が教室を出て、廊下を走り抜けると、そのまま下へと。
全く、あのような女には精神をむしばまれる。日ごろから僕は菅ありさと極力顔さえ合わせないようにしているが、彼女はそれを肯じない。
たとえどれほど嫌おうと、菅ありさはどうにも僕のことを追いかけているようなのだ。好意があるとかとは関係なく。
彼女がこの世界で浮いていることくらい、僕も知っていた。
ありさはクラスの中でも特に有名な女の子で、周りから少し違う視点で察られていた。
彼女はいつも一人で本を読んでいる。基本的、自分からは誰にも話そうとしない。常に口を閉じたままで、何を考えているのかさっぱり分からないのだ。
だが、一度しゃべり出すとこれが止まらない。彼女は、相手がそれ以上聴きたくなくても、ほかの人が全く関心を持たないようなことを、自分の満足のいくまでひっきりなしにしゃべり続けるのだ。その上、怒らせると――特に小学生的な容姿を嘲われると怒った――激しい動きでこちらを追いかけてくるのだ。胸倉をつかむとずんずんと頭突きをしかけてくる。その動きがまた年頃の少女的ではない。
自分の世界と客観の世界のはざまに、彼女は鎮座しているかのようだった。
菅ありさには友達と呼べるような人間がほとんどいない。彼女と心を通じ合っている奴をほとんど見たことがないからきっとそうだろう。ただ十島美架とかは――その人間関係は知らないが――彼女と色々なことを話し合っているようだった。
ありさという少女は奇妙だった――しかし同時に異様な博学で、以前彼女が僕に見せつけたノート――ありさBuchというタイトルだった――には宗教や、哲学、文化、兵器といったさまざまな分野に関する情報が大量に書きこまれていて、僕らがはっきりとその内容を理解していなくても、ただ「ほお」と息をついているだけでもなかなか自慢げな顔を見せたものだ。
といっても、このことはやはり僕に彼女に対する見方を修正させはしない。ありさはやはり、僕の中で不可解の存在だった。
僕が彼女から離れようとする反応を促進させていたにも拘わらず、なぜか彼女に対して僕は不思議な感情を抱いていた。
これは恋愛感情などというものでは決してない。あのような女狐に、僕が好意をいだくなどあろうはずがない。普通に変な奴として疎外していただけなら、こんな感情、生まれるわけは、ない。
僕は玄関の下で、一度立ち尽くした。なぜ彼女のことが気にかかる。
この確定しがたい感情は、僕に一種の恐怖を与える。
なぜ、僕はそう感じる?
「李駿、どうしたの?」 いつも僕は全体の名で呼ばれる。なにしろ、とても短い名前なのだから。ずっと慣れているので、違和感は感じない。
戸邊麻理香だった。昔からつきあいの深い少女で、彼女となら家族に話しにくいことだって相談できた。この麻理香も、ありさと絶妙なバランスで付き合っている人間の一人だった。
「……ありさは?」
「もう還っちゃった。あなたのことを、ずっと追いかけているみたいだったけど」
「ああ、そう」
ありさは実に奇妙な人間だ。
幼いころからずっと自分に違和感を抱き続けていた。自分の生い立ちが他の人とは少し違っていることも関係しているのだろう。
ある歳になるまで引っ越しを繰り返して、住む場所が定まらない生活をしていた。そのためか僕は自分が『今、ここにいるのだ』という実感が薄い。まるで一人だけ、幽霊のように空間をただよっている錯覚に襲われる。明らかにこれは僕一人の特性であって、他の奴は持っていないようだった。
確かに数人の話し相手がいるけれど、それ以上のものではない。相手がどれほど僕のことを友達だと意っていようが、僕は彼らのことを決して同格の者だとは察ない(別にあなどっているわけでもないが)。それに話す相手と言うのは限られている。ほかの奴らはまるで背景のように関わらない。関心を示したりもしない。だが、僕が言葉を交わしたりする奴は確かにそういうやつとうまく行っているようなのだ。
それがまた、うらやましい。
僕は彼らのようになりたかった。心の奥ではそう思っていたのだ。けれど、実際にそうなろうとすると理解できない抵抗感に襲われる。
その動きは常に心の内部にとどめているつもりだ。僕は外見上はほかの奴らと何ら変わらないような状態を保っている。それが普通じゃないこともよく知っている。
これが何の変哲もなくできるのだから、彼らは僕ではない。僕は彼らの真似しかできない。
やはり、僕はこいつらは結局仲良くなれないのだ。漠然とそんな感じがしてしまう。
だから僕はみんなと一緒になってありさから距離を取るのだ。あいつらに気づかれないようにあいつらの猿真似をして、一緒に彼女をうとむ。
やはり菅ありさはいつも通りだった。
彼女は怒らせると恐いが、意外と根に持たない性格、基本的に昨日起こったことにはほとんど関心を持たない様子で、いつも通りに一人机によりかかって本を読んでいる。そこは僕の席からあまり離れてはいない。
ほらそうやってあんたはずれてるじゃないか。
僕は自分が抱えこんでいる感情を隠しつけるために躍起になった。
すでに麻里香と竹内文子が、十島美架と一緒になってくだらない話をしていた。だが、美架は僕を見ると、こっちに寄ってきて言う。
「駿君、ありささんがあなたに頼み事がありますってよ」
美架は上品な感じのする、綺麗な女の子だ。彼女は基本的に僕を下の名前だけで呼んでいた。
「……なんのこと?」
奇妙だ。ありさが僕に何の用事があるのか。
「こんな近くにいるんだから、そのまま話しかけてくれればいいだろ」
美架から小さなメモを受け取ると、こちらには関心も向けない菅ありさに告げた。
だが彼女は振り向きもしない。
「なあ、聴いてるのか?」
「聴いておる。なぜ私の顔を視て言わぬ?」 古めかしい口調で、やはりこちらを向かず答えるありさ。
「そんな向きじゃ俺もあんたの顔を見れねえよ。要件ってのは何だ」
「それ見たら分かるじゃねーか」
「口で伝えろよ」
なおもむすっとする僕に、ありさも僕と同じ向きに顔を背ける。
「素直でない奴ですぅね。なんでこんな下らねえことに神経そそぐですぅか」
ありさのこういう所は実に不可解だ。
「だってお前、いつもそんな風にして……まるで人に関わらないように振る舞ってるじゃねえか」
「おいお前」 ドスの効いた声でありさは僕に呼びかけた。
「繰り返して言ってるんだぞ。僕をまた怒らせるつもりか」
僕は閉口。何も言わずに会話の成り行きを見守る美架。
ありさはそこまでして僕に言葉では話したくないというのか。気持ちがくすぶらずにはいられない。
おもしろくない気持ちで、メモを見る。
某、貴君と一件話合度御座候故、放課後、此教室爾我曹二人にて可集候
よく分からないが、どうやら話したいことがあるらしい。
僕は美架を視た。
美架は何も言わずに、微笑を浮かべている。彼女は誰かの秘密をけっして探ろうとしない性格だった。
文章のすぐ下に『菅ありさ』の名前があり、すぐあとの円の中に『キ』の文字が書かれている。これが意味するところを僕は了得した。
「くれぐれも教えるなよ」
ありさの体からは、何とも言えないはりつめた空気が奔出する。
今考えると、不思議なことだ。もしありさでなかったら、他の奴らはまっさきに騒ぎ立てただろう。そうでなくても、ちょっとしたからかいの言葉を受けそうな雰囲気だったのに、この時教室の中に流れた空気は、そんな言葉の数々を、決して彼らの口から走らせなかったのである。
昼休みになると、僕は友人たちとはともに食べず、一人で食べていた。ありさのことがどうにも気にかかっていたからだ。
「メモの中身って、なんだったの?」
いきなり、横から麻里香が訊いてきた。
「まさかそれって――」
明らかににやついた顔。
「やめろよ、ふざけるのは」 僕は嫌がる。
「まあ、ありさが李駿に気があるってわけないんだけどさ」
他の奴らならきっと平然と受け答えるのだろうが、僕はこの手の話がとみに嫌だ。
「李駿って、ありさのこと気にしてるよね」
「ん、んなわけない!」
麻里香のいじらしい顔で僕は困惑する。全く女はこの手の話が好きだ。
当のありさはじっと前方を向いて、彼女の姉がつくった弁当を手荒く食っている。僕らの会話を警戒していたんだろう。
「で、どうなのありさ? ……」
麻里香はありさをそのまま視た。すると、ありさと目が合ってしまったのか、笑顔を固めて静かに立ち去ってしまった。きっと「こんなことを話題にするんじゃねーぞ」と表情で言われたに違いない。
やはり、麻里香以外の人間はたいしてこのことを話題する風ではなかった。まあ、あんな不気味な奴から手紙を渡されたのだ、想像したくない気持ちがあるに違いない――この時は考えた。いやそれにしても。
あいつ、一体何を話し合おうってんだ。
なぜか、ありさがメモを渡してきたことに不自然な感じはしなかった。
ありさは確かに嫌いな人間だが、といってももとから嫌悪感をむきだしにして付き合っているわけではない。うまく行ってる場合には、ちょっとしたことで雑談したり、物を貸してもらうってこともする。といってもそれはあくまでしなければならないと意ってやっていることで、『したい』という強い願望があるわけではなかった。
個人的には、やはり僕はありさを疎外しているのだ。彼女は世界からずれているし、不可解で、不気味だ。彼女の意思と言うものは巨大な迷宮の中に封印されているかのよう。
ありさはその間、僕とは一切口を利かなかった。
授業がある間、「秘密にしろよ」と何度も僕の顔を視て、心の中で言っていたにちがいない。
放課後になり、約束の時間が近づいてきた。
僕は部活の時間を早めに切り上げると学舎の中に入り、駆け足でそこに向かい始める。
この時間には、もはや誰もいなくなったようだ。僕はまず階段を駆けあがった先で、軽そうなかばんを肩にかける美架が立っているのをすぐに見つけた。
「駿君、なぜここに戻ってきたのですか?」 彼女は僕の姿を見ると、すぐにそう問うた。
十島美架はいつも優しげで、おとなしそうに見える。その肌は流れる河のようで、奥が深いと察せられる瞳は、神秘的な感じ。
だが実は、腕っぷしが強い。きゃしゃに見えて、実は大男二人を一瞬でのしてしまうほどの力持ちなのだ。
そうでなくても、彼女はいつもの挙動からして、近づきがたい雰囲気がある。無防備に歩いている時でさえ、決して容易には襲えないことが、彼女の気配から分かる。
「え? ああ……」
ありさがメモを察ていないに決まっておろう――
「私は今から帰ります。駿君は?」
「……忘れ物があっちゃってさ」
一瞬、息をのんでしまう。
そう、形容のしがたい威厳だ。僕が今言ったあの気配とは、さだめて崩すことがならない貫録。
本当よりもずっと大きな人間に見える錯覚で、どのような言葉を使えばいいかわずかに迷ったのだ。
「あら、そうなの」
美架から顔を背けて僕はそのまま通り過ぎる、
その時。
「忘れ物のことを思い出せて、よかったですね」
僕はぎょっとした。その表情は、まるで自分の心を見透かしている気がしたから。あたかも、ありさと話すという試練に対し、励ましているごとく見えた。
それは、どういう意味だ。
僕が美架と顔を合わせると、すばやく彼女は答える、
「駿君がこんな時間までいるだなんて、珍しいですね」
僕はいや緊張した。
ほかの人間なら、特になんでもない言葉だとみるだろう。だが、十島美架の立ち居振る舞いというのには怖ろしいほどの貫録がある。そこら中にいる高校生のそれを越えているほどの。
「あ……ありがとう」 なぜこの返事になったのか、自分でもよくわからない。
「また明日、会いましょうね」
だが、僕はもう美架のことに気を向けてはいない。
ありさはこの先にいるのだろうか? という疑念がちょうど、それに勝った。わずかに振り向くと、美架が十字を切っていたようだ。
そもそもありさがこの教室にいることさえ半信半疑だった。この時になって思うと、なぜありさのメモをありありと信じたのか。
けれども、確かに彼女は底に立っていた。
陰る色を見せそうな空を背後にして、立っていた。
「よう、来たか李駿……」
ありさに対して僕は言う言葉を知らなかった。
「ああ、来たぞ」
もう、窓は閉まりきりになっていて風は感じない。カーテンはみな、広がった状態で中の空間はいささか薄暗い。
妙な気持ちに僕は襲われた。こういう環境に男と女が二人きりになったらどうなるのか……。
不快な感情がわずかにさした直後、
「まさか、アダルト動画みてぇな展開を期待してんじゃねえだろうな!?」
ありさは急に荒い口調になって僕をにらみつける。手で触れてもいないのに、背後のカーテンが巻き上がり、まわりの、いくつかの机が上下に小刻みに揺れる。
それほど大きな叫び声でもなかったのに、その動きはありさがまるで命令して行われたようだった。
「い、今のは何……」
僕の、静かで大きな動揺を無視し、ありさは僕の方に向かって歩いてきた。
「今から話したいことを言うぞ。(少しの沈黙を置いてから)
私はずっとあんたが何か隠してるって意ってた」
リビドー的なものとは無縁に僕の心臓は、強く脈打った。
「何のことなんだ?」
「自分をだましてるな」
理解に苦しんだ。
「何も言われなくても、あたしには分かってる。あんたがあいつらの中で苦しんでるってことくらい。
ちょうどそのことで話がしたいの」
「……何のことか」 僕は頭をかしげる。
「昔からなんとなく人の『気配』ってのに敏感でさ。てめえが自分に抑圧された感情を持ってるってのはもう知ってた」
「なんでそう言える?」
「いや、あんたの振りを分析すればすぐ分かることですぅ。その話がしたいんですぅよ」
「精神分析の話か」
だが僕は不意に息をのんだ。
ありさの何かが、僕には理解しそうになったから。
「いや、もっと身近な話さ。私『たち』の、生き方の話」
――『たち』だって?
「あんたは、自分の生き方に疑問を持っているはずだ。それを変えなくちゃいけないはずだって考えてんだろ」
なんで、知っているんだ。
それこそ、まさに僕が常々考えていることではないか。
この様子は
「利口ぶるのはやめろ」
あきらかに、見すかされている。僕は動揺を隠そうとして、ますますその動揺を顕らかにする。
「だったらあんた、俺が君をこんな所へ呼び寄せるわけないよ。それが分からないの? 人間と話さなきゃならないなんてことは私にとってすごく嫌なこと。分かってるはずですぅね?」
ありさは今までになかったほど、顔を近づけた――凄味を帯びた表情で。その時、分かったことがある。
菅ありさはかわいくなどなかった。むしろ不細工であった。
よく見ると彼女の顔は猿似で、しかも矯正していたのだ。これで背が低いのだから、むしろ彼女は普通の人よりも劣った顔つきの人間ということになる。
「それを押し切ってやってるのがあんたらからは不自然なはず。 そんなことを理解できないあんたの方がおかしい、異常だ」
「俺は普通だ」 むなしい抗弁。
「そもそも、普通って何なんだよ」 ありさは僕の目をのぞきこんでたずねた。その気持ち悪さ。
「自分が本当に普通って思ってるのなら、なんで急に態度を変えたりする? なんで僕ちんをそこまで嫌う? てめえは特に僕と言い争ってるだろ。まるであたしがことに有害な奴であるかのように私を馬鹿にして、こけにする。
なんでなんだ?」
僕はあくまでもありさを排斥した。
「そんなことをやるのはお前の方じゃないか。お前がわけのわからないことをやるから、僕らもあんたを邪見に扱いたくなるんだよ」
ため息をありさ。
「あんた、やっぱり何もわかってないな。麻里香も美架も私を『少し変わっているだけ』で、他は『普通』な人間として扱ってくれる。でも、それはあんたにとっては『普通』じゃない。間違っているとさえ思う。奴らは全く気付いてないけどな」
ありさは僕をにらみつけた。
「『普通』じゃないと分かっているから俺をさげすむてめえは――」
「違う、あんたは――」 僕は絶句する。
ありさは普通じゃない。それは麻里香たちも知っているはずなのだ。
ただ、少し変わっているだけだと彼らは思う。
そうじゃない。ありさは僕らとは根本的に違う。
『僕はありさのような人間ではない。だからありさを攻撃すべきだ』
そのような感情、奴らは抱かない。
それを僕は抱いている、つまり僕は――
「なんで自分が異常だってことを認めない、なんであいつらとは違うとは認めない?」
強い口調で僕を圧倒する少女。
「あんたはそれを隠そうとするあまり、かえって自分が異常であることをさらけ出している。これほど愚かなことがありますぅか」
「ただの思いこみだ! あんたはまたここで言いがかりをつけて俺をこけにするんだ」
声を荒げる僕。ありさは腕を組む。
「なるほど奴らは、あんたのことも『ちょっと違う』程度に観ていないかもしれない。麻里香が昼言ったみたいにな。それが奴らの一番罪深いところなのだよ。
奴らは我々のことを何も理解していない。理解しようとしないで馬鹿にするならともかく、理解しているふりをしているんだから憎らしい」
僕は焦りを感じた。
ありさの言葉に、共感するところがあったからだ。
僕は後ずさりした。この小娘は俺を引き入れて何をするつもりなんだ。
自分の心の隠された部分が、いつもの僕に呼びかける。
ありさの言う通りだ。あんたの言いたいことを無視して、あんたは心を勝手にかたくなにしているんだ。
「あんた、私が言ってることの意味が分かるか」
ありさはまたもや僕に顔を近づいていう。
「僕ちんは君のことが結構嫌いなんだ。本当に。自分の感情を知りながら、それをひた隠して、偽りの自分を本当だと意ってる! あたしにとってそれ以上苦しいものはない。なにしろ、あんたこそが私を理解してくれているはずの人間なのに、なぜか私を一番嫌ってるんだから」
もう、聴くにたえない。
「……何言ってんだあんた」 僕もいよいよ怒りを出した。
「ほらね! 私はやっぱり理解されない。自分からこれを打ち明けて、友達を得ようなんて、やっぱり無理な話か」
その時、ありさを覆う嫌な気配。
はっとすると、少女の目つきが急に変化する。
「ひゃひゃひゃ! でもそれでいいんですぅよ!」 ありさは一気に胸を張った。
なぜか知らないが、急に視界が赤みを帯びてきたようにかんじる。
「私はそれが快感なんだよ。私は自分が苦しいと深く感じている。それさえも私には気持ちいい! この苦しみをずっと受けていたいとさえ思うさ。もしこの苦しみがなくなったら、私は私じゃなくなっちゃう」
ありさの目つきが変わっている。官能的なまでの笑顔。
その表情にどす黒いものを感じて、思わず顔を背けた。このまま見つめていると、飲みこまれそうな気がしたから。
「おまいもそれを感じるだろ!? あんたもその悦に堕ちればいいんだよ!」
いや、明らかにこれは――いつものありさじゃない。
僕は恐怖に顔をゆがませた。ありさはこのまま僕の体を押し倒してくるのじゃないのかと。
だがそれは杞憂だった。
「とにかくですぅ」 その時、ありさがたった今見せた妖艶な気配が霧消した。
僕の戸惑いをよそにして、ありさは感傷的な表情でしゃべり続ける。
「あんた……私の言うことが理解できるか?」
「できるか」 直前に遭遇した別のありさに恐怖を感じて、不意に腕を組む。
「そっか。だろうね。……何怖そうな目で察てるんだよ」 今度は、軽蔑交じりの失望。けれど、今出現したような不気味さはない。
「お前といるとだな、怖いんだよ。何考えてるのか、さっぱり分からねえし」
ありさは僕の言葉を聴いて、しばし沈黙していた。
彼女は、沈んだ顔で、僕を見つめていた。
僕は、もしかしたら彼女の心を傷付けてしまったのではないかと危ぶんだ。いかに? 僕は彼女をあざけることに何のためらいもなきに。
「分かった。あんたは俺とは別物。同じであって同じ。けど同じじゃない。やっぱり、意思を伝えあう仲じゃなかったんだね」
ようやくありさは口を開いた。
「でも安心した。貴様がそういうことを理解できないくらい、馬鹿だって分かって」
あきれているのか、失望しているのか。
これ以上、こんな雌犬に構ってはいられない。
「もういい。また明日な」
あまりにもムナクソが悪くなってきたので、僕は会話を打ち切った。
「ああ、また明日会おうぜ。俺の言いたいことを理解したくないままな!」
ありさもかなり気に障る口調で応える。
そのまま、くるりと頭を向けて帰ろうとした時、
「安心しろ。お前も私の言葉が理解できる日が必ず来る」
という意味の言葉を、頭の中に投げかけられていたような気がした。
気になって振り向くと、ありさはいつの間にか消えている。物音も聴いていないのに。
多分、外側のベランダに回って、気づかれないように走り出したのかも。
もうそこからは、深く考えないようにした。頭を後ろに向ける途中で、時計の針がなぜか、暗さの中にあって真昼の時刻を指しているのにも気づく。もう空は藍色に変わりつつある。すぐ帰らないとやばい。
それにしてもだ――あのありさの、一瞬だけの態度は何だったのだろう。もしかしたら、僕が自分のことを理解してくれないので、鬱積した裏の感情が顕在化でもしたのか?
いや、あまり気持ちのいいことじゃない。これは深く検討するに及ばない、と決めつけると、僕の話題はもう別の方向にある。
ありさは僕に何をしてほしかったのだ……。僕に向けての、少女の言葉が心の中で繰り返される。彼女の言葉に突き動かされて、僕は目の前のことも気にせずに自分の心のありようを深く考え始めてもいた。
不思議だ。あの時言われて初めて感じた。
この孤独が憎むべきものではないかと――しかるに愛すべきものではないのかと。悦んだっていいものじゃないかと。とても苦しい物ゆえに、なくそうとしているにも関わらず。
しかもだ。この孤独からもし卒業したなら、僕はそれまでの僕でなくなるような気が、俄然としてきた。わけは知らないが、もしこの孤独がなければ、僕は生きる意味さえ失ってしまうのではないかと。
そんなことは、僕には耐え切れない。
僕はあいつらになりきれないのではなく、なりきらないのだ。
それが僕の本性ではないと知っているから。
このような状態にいるのも苦しいのに、そこから抜け出すのも苦しい。
そうだ、僕にとってこれは個性なのだ。この問題の苦しみ自体が、僕を僕自身たらしめている個性かもしれぬ。
――なら、どうすればいい? 個性を殺さずに、僕が僕であるためには、何をすればいい?
そもそも、『僕』とは何だ?
いつの間にか、目の前に注意が散漫になっていた。僕は急に、道路の溝におちいりそうになった。
わずかに恐怖がさすが、だがやはり先ほどの思惟が頭をおおう。
なんということよ。僕はこのようなことに気を奪われるほど、なやましき豎子であったのか。
ありさは確かに悩んでいるようだった。自分がはみだし者であり、決して僕らの中にとけこむことができない性格であるのを。
もしかしたら、僕も同じなのかもしれない。あいつらと同じ側につきながら、とうとうあいつらとは完全には同じにはなれない。
同じ? 僕がありさと同じだというのか。僕が彼女に感じていたのは、自分とよく似ていて、しかも一部ばかり違う者に対していだく、同族嫌悪だったというわけか?
すると僕はありさと同じ人間なのに、そうであることから離れようとする時点で、『あいつら』に近い存在であるわけだ。そうだ……『あいつら』こそが正しいんだよ。『あいつら』に向かわなくちゃ……。
しかし僕はそれにさえ嫌悪感をいだく。この際中庸などという言葉は意味をなさない。ありさ的な人間になろうとすれば断じて彼にならねばならず、『あいつら』になろうとすれば完全に『あいつら』でなければならない!
だが本当は、どっちも嫌だ。
なら、どうすればいい。この板挟みに苦しまない方法はどこにある?
ふと見上げると、月が空に登っていた。月は白い顔を見せつけながら、冷たい表情で僕……らを見降ろしていた。
なあ、答えてくれよ。俺にとって一番いいこととは、なんなんだ。
月は、何も答えてくれない。
月は、僕にその問題を、自力で解けと強いているようだ。
なにざまだ、僕は。
何もかも分からない……。結局、僕は浮いている。
釈然思いを抱いたまま、僕は帰路に就いたのだった。