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便所の落書き  作者: JJJ
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幻影を追駆する者

「なんだよ、いつにも増して付き合い悪いな……。」


帰りの会が終わるやいなや飛び出して行ってしまった努の後ろ姿を見送り、声をかけようと上げかけた手で所在なく頬をかく。

いつも一緒に帰っているっていうのに冷たいやつだ。

おそらく、何かやりたいことが見つかったんだろう。

努は夢中になるとあまり周りが見えなくなる。

クラブに入れるようになってからずっと一緒に野球を続けているが、授業中と違って練習は本当に一生懸命だ。

特にそんなふうになったのはお母さんが事故にあってからだったろうか。

少し寂しい気もするが、あいつが打ち込めるものが増えるのは嬉しいことだと思う。


「和義くん。一緒に帰る人がいないなら私と帰りましょう。」


クラスメイトの女に声をかけられた。


「お前はいつものやつらと帰ればいいだろ。」


「私、前々からあなたと一緒に帰りたいって思っていたんですよ。」


恥ずかしげもなく言ってやがる。

仕方がない、今日はコイツと帰るか……。



―――ー――――――


俺が帰り道に見る景色は何時も同じだ。

俺の隣には和義がいて、彼はいつも車道側を歩く。

そして校舎が見えなくなる頃、薄暗いトンネルに入る。

トンネルは不気味で、後から来たというのに俺達より先に遠くに見える光に消えていく車を見ては、

なんの意味もないのにその車が残した排気ガスを恨んでいた。

すっかり西に傾いた太陽が俺達を照らす。

そして、その先にある歩道橋で和義と別れる。

それがいつもの帰り道だった。でも今日は違った。

隣に和義は居なかったし。トンネルも。歩道橋も俺の目には入らなかった。

今俺の目に映っていたものは、そこあるはずもない物だった。

そして、それはあまりにも見慣れて、あまりにも遠い物だった。


家の玄関の鍵は閉まっていた、鍵は確かに持っていた、

なのに俺はポケットを探るまでもなく、

足元に置いてある、パンジーの植えられた小さな植木鉢を少し乱暴に傾けた。

零れた土が、不用心にも植木鉢で隠していた鍵を覆う、

俺はその鍵をひょいと持ち上げ、鍵穴に挿し、回した。

カチャ、と音がした、きっと解錠したのだろう。

それなのに扉はしばらく開かなかった、どうしてだろうか。

まるでいけないことをしているようで、

触れてはいけないものに触れているようで、

ドアノブがとても重く感じたからだ。


俺はまるで錆びたネジを回すように、

ゆっくりとドアノブを回し、扉を開けた。


かかとで靴をぬぐと靴を蹴り捨てる、何かがぶつかる音がしたが、

気にならなかった。


何故ならこの時はもう、自分の家だというのに、もう何年も開けることの無かった扉。

その扉を開けた先にあるはずの、Steinway & Sonsと刻印されたピアノのことしか、頭に無かったから。


そして、気が付くと俺はピアノの前に座っていた。

ホコリ一つ無い部屋の隅にはランドセルが雑に投げ捨ててある。


ピアノは艷やかに黒く光っていた。俺は少し慌ただしく鍵盤の蓋を開けて、

鍵盤に被さる布を床に落とした。


しかし俺は美しく並んだ象牙と黒檀の前で、今すぐにでも触りたいという気持ちを抑えて、踵を返した。

手を洗うのだ。母がいつもそうしていたように。


再び鍵盤の前にやってきた俺は、

まるでイタズラをする子供の様な罪悪感を感じながら、

鍵盤をゆっくりと押した。


ε=======♪


音楽室に置いてあるピアノとは違い、金属的な音が鳴り響く。

俺はこの音が好きだった。

もっとも、掃除は行き届いていても調律はさなれていないようで、少し音がずれていたが。

しかし、その音の華やかさはあの頃と少しも変わってはいない。

衝動的に、母から教わった曲を弾き出していた。

この曲を弾いていた母の姿が脳裏に蘇る。

俺は母の面影を求めて取り憑かれたように鍵盤を叩き続けた。


―――もう何時間弾いただろうか。

そろそろやめようかと思ったときだった。


ガチャ!


ドアが乱暴に開かれた。驚いた俺の指は不協和音を弾きだし、一人きりの演奏会の幕はいきなり閉じられた。時間を忘れていた奏者ははっと我に返り、視点を虚空に泳がせる。まばたきを数度、ようやく落ち着きを取り戻した俺は、ゆっくりとドアのある方向に目を向けた。


「お前だったのか……。」


父だった。

いつもしゃんと整えているネクタイを乱し、息を切らせてその場にへたりこんだ父は、どこか悲しいような安心したような、落胆と安堵とが綯交ぜになったような表情を見せる。落ちかけの西日が父を暗く照らしていた。

それは今まで見たことがないような、複雑で不安定な表情だった。なんだか父と視線を合わせたほうが良いような気がしてなんとか目を見つめようとしたが、どうにも辛く見ていられない。ゆるやかに視線は落ちて行った。そうして、落ち切った視界が自分の足を捉え始めたところで、ふいに父が立ち上がった。


「そのピアノ……調律しなくっちゃあな。」


父はいっそう、悲しそうに笑っていた。

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