メダカ
なんの予定もないお盆休み、俺は昼過ぎに起きて、居間で寝転んでいた。
すると、口うるさいお袋が、
「いい大人が昼間っからゴロゴロしてんじゃないよ、まったく。ちっとは外に出て、なんかしようって気にはならないのかね、この子は。そんなことだから、いつまでたっても嫁さんのひとりもみつけられないんだよ。大体、お盆なんて普通は孫に囲まれてにぎやかに過ごすもんなのに。かーちゃんには、そういう当たり前の幸せは来ないのかねえ。とーちゃんが生きていれば……」
と、いつもの文句と愚痴を言い出した。
もう慣れているとはいえ、人の一番痛いところを平気で突いてくるお袋にやっぱり俺はぶちギレた。
「うるせーな。だれがこんな口うるせーババアのいる家になんか嫁に来るかよ。大体、かーちゃんが俺の連れてくる女、片っ端からケチつけて、『あら、いまどきのお嬢さんは挨拶もロクにできないのねえ』なんて嫌味言うから、みんなぶっ壊れちゃったんじゃねーか!」
「かー、そんな20年も前に1回、連れてきた女のことをまだ根に持って。情けないったら、ありゃしない。じゃ、なにかい、お前が結婚できないのはかーちゃんのせいだとでも言うのか。なんでも人のせいにして、みっともない。だれに似たんだろうねえ。死んだとーちゃんは男らしかったのに」
「あーうるせーうるせー」
あったまにきた俺は、外に出るために着替えをはじめた。
そこに追い討ちをかけるように、
「どーせ、また何万も負けて帰ってくるんだろ? あーもったいない。お盆くらい、その金でかーちゃんにうまいもんでもごちそうしようって気にはならないもんかねえ。まったく、どーしょうもない子だよ、この子は。とーちゃんが生きていれば……」
と、襖越しにお袋の声。
ったく、腹が立つ。
なにが腹が立つって、パチンコに行くなんて一言も言ってないのに、俺が出かけるところはパチンコしかないと思っているところが腹が立つ。当たっているだけに腹が立つ。
息子が年老いた母親を殺害するなんて事件があるけど、分かるような気がするよ。俺だっていま、エアコンが効いてなかったら、殺してるかもしれねえな。よかった、エアコン買っといて。
けっ、案の定、パチンコも出やしねえ。
出掛けにあんな嫌味を言われちゃ、出るもんも出ねえよな。あっという間に、3万がパーだ。
俺は足早にパチンコ店の外に出て、うだるような暑さの中、天を仰いで1回深呼吸をした。
落ち着け、落ち着け。
お袋に対する怒り、パチンコに負けたことに対する怒り、家族で楽しそうに遊んでいる世間のやつらに対するひがみ、孤独な自分。
いまいろんなことで俺の心は崩壊寸前だ。
落ち着け、落ち着け。
お袋だって、ああいう性格だけど、いいところもいっぱいある。
なあに、パチンコで3万負けたなんて、それこそいつものことだ。負けることもあれば勝つことだってあるんだし。
だから落ち着け、落ち着け。
幸せそうな世間のやつら、孤独な自分……う〜ん、俺は仕事もあるし、健康だし、そうそう、まだまだ恵まれている方だよなあ。
ドンドンドン、チャカチャチャ、ドドンドドン。
いつもの復活法でちょっとは落ち着いた俺の耳に、やっと太鼓の音が入ってきた。
お盆の今日、パチンコ店の駐車場ではこの近所の自治会主催の盆踊り大会が催されていたのだった。
そんなところにひとりで足を運ぶ俺じゃないけど、このときはまっすぐに家に帰る気にもなれず、ちょっとだけ覗いて見ることにした。
そういえば、お袋、綿アメが好きだったし。
自治会の盆踊りだから、小さなやぐらのまわりに、浴衣を来た婦人会のおばさんたちが10人くらい義務で踊っていて、あとは7、8軒ある露店の前にちょこちょこ人がいるくらいだ。
俺は紙コップの生ビールを買うと、駐車場の端っこに座り、昔ながらの浴衣姿のおばさんといま風の浴衣姿の女子高生を見比べては、ゴクッとノドを鳴らしてビールを飲んだ。
あーうまい!
それにしても、やっぱ若い方がいいなあ。
なんて思っていると、「自分の歳を考えなよ。いつまでも若いと思って。そんなこと言ってるから結婚できないんだよ」とお袋のいつもの小言が浮かんでくる。
確かに、俺はおばさんグループの年代だ。ミニの浴衣を着ている若い女のコたちは、俺の子供でもおかしくない。
歳ばっかり食っちゃって、なんだかなあ……。
ビールのせいか、それとも、いつまでも子供ならそれもいいさとちょっと開き直ったのか、俺はポケモンの綿アメを買い、パチンコ店で金魚すくいの無料券をもらっていたので、金魚すくいもやってみた。
子供の頃と同じで、呆気なく紙は破れ、一匹の金魚もすくえなかった。
が、近所のペットショップが出しているこの金魚すくいの露店では、一匹もすくえない場合は、メダカを2匹くれた。
綿アメとメダカ2匹を持って、俺は家に帰った。
「あはは、いい歳してひとりで金魚すくいをしたのかい、この子は。まったく、飽きれちゃうよ。で、このメダカ一匹いくらなの?」
綿アメをちぎっては口に頬張りながら、お袋は俺にパチンコでいくら負けたのかを聞いてきた。
「うるせーな、一匹5000円だよ。それより、うまいだろ、綿アメ。いい歳した男が綿アメ買うのも恥ずかしいんだからな」
一匹1万5000円とは言えず、俺はいつものように過少申告した。
「あーもったいない。高いメダカ〜」
まったく、綿アメありがとうぐらい言えよ、ババア。
翌朝、メダカ2匹は元気に洗面器の中で泳いでいた。
「エサあげないと、このままじゃ死んじゃうだろ」
と、お袋に言われるまでもなく、このメダカ2匹をちゃんと飼おうと思っていた俺は、会社帰りにペットショップに寄り、安いプラスチックの水槽と水草、それとエサを買って帰った。
幾分広くなった世界で、メダカは水草の間を泳ぎ、エサを突っついた。
「いい歳して、メダカなんか飼っちゃって、おかしいねえ。笑っちゃうよ。ペットに夢中になると、ますます結婚が遠ざかるってよ」
なんて言いながらも、お袋もまんざらでもないようで、俺が帰ってくると真っ先にメダカを話題にするようになった。
たかがメダカ2匹だけど、それだけで確かに我が家は変わったようだ。
それから一週間ほどして、朝見るとメダカが2匹とも浮いていた。
「やっぱり死んじゃったね。だから生き物を飼うのはイヤなんだ」
朝食を食べながら、お袋は悲しそうだった。
俺も何食わぬ風を装ったが、自分でも驚くほどにヘコんだ。
「早く水槽、片付けちゃいなよ」
お袋に何度か言われ、何日かして水槽を片付けようとすると……ん、なにかが動いている。なんだろ?
目を凝らすと、水面近くに黒い点のような物が動いていた。
メダカの赤ちゃんだ。
黒い点は目玉で、1ミリ、2ミリほどの体はまだ透明。
よーく見ると、5匹、6匹、7匹……いや、もっといる。
メダカが卵を水草に産み付けて、死んでいったのだ。ちゃんと自分の子孫を残して。
65歳のお袋と40歳の俺は、飽きもせずにずっと水槽を眺め続けた。
結婚相談所でも見合いでも、とにかく努力するかな。俺も子孫を残さなくちゃ。このままじゃなあ……。
「お袋、長生きしろよ。孫の顔、見せてやるからな」
「メダカ見てなに言ってるんだよ、この子は。ばっかじゃないの」
久しぶりにお袋のうれしそうな顔を見た。