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霧を想う

作者: 山中 綾

君は酷い人だ


僕をすっかり夢中にさせて

さんざん弄んだ挙げ句


僕じゃない誰かの手を取り

何処かへ消えてしまったくせに


僕が振り返るのをやめた途端

色鮮やかに着飾って

また気を引こうとするのだから


僕は精一杯

冷たく君を一瞥し

出来うる限り

素っ気ない声で言う


はやく行ってくれよ

(何故?)

もう君のこと好きじゃない

(嘘吐き)

嘘じゃないさ

(じゃあ、どうして)


「どうして私が見えるのよ?」


 そう訊ねる彼女の瞳は憎たらしいほど挑発的だ。僕は彼女を振り切るようにベランダに出る。

「どーうして私が見えーるのよーぅ」 

 先の質問を歌うように繰り返しながら、彼女は僕の後にピッタリと付いてくる。ワンルームマンションの小さなベランダは大人が二人も立つにはやや窮屈なのだが、彼女はお構い無しだ。

 少しだって身体が触れ合うことの無いよう細心の注意を払う僕のことなど、気にするつもりも無いらしい。挑発に乗る度胸も無く、言い返す言葉も持たぬ情けない僕を、あからさまにバカにしている。

「ねーぇ」

 甘えたような声がわざとらしい。するりと腕を絡ませようとしてくる彼女を、僕は身をよじって避ける。すると彼女は満面の笑みをたたえて言った。

「ほらぁ、やっぱり私のことが好きなんじゃない」

「違う。タバコ吸いたいのに邪魔だったから」

 言い訳しながらタバコに火を着け、深く吸い込む。そんな僕を映す彼女の瞳は、怖いくらいに澄んでいて、何もかも見透かしているかのようだ。

 それが気に入らなくて、顔面に思い切り煙を吐きつけてやったが、彼女はケラケラと笑うだけだった。

「時代は禁煙に向かってるのに、いつまでそんなもの吸ってるつもり?」

 そんなことを言いながらも、人差し指で漂う煙をかき回す彼女はなんだか楽しそうだ。くるくる回るその指を、つい目が追ってしまう。空をさ迷う彼女の指は、暗闇に浮かぶ白い蝋燭のようだった。

 いっそ本当に火を着けてやったら、彼女は指先から燃えて無くなってしまうだろうか。

 ぼんやりとそんな画を想像していると、彼女が滑るように僕との距離を詰める。

「私、あなたがタバコを吸っている姿、好きだわ」

 囁くように言いながら、頬に触れようとしてくるので顔を背けて避けた。まったく油断ならない。 隙あらば僕に触れようとする彼女をかわしながらタバコを吸っていると、隣室がなんだか騒がしいことに気付いた。ボソボソと短く話す男の声と、切れ切れに聞こえる甲高い女の声。痴話喧嘩でもしているのかと思ったが、なにか違う。なんだろう。

 考えるうち、音の正体にピンとくる。それと同時にギョッとする。

 そんな僕の表情で、彼女もピンときたらしい。

「お隣、変な声がしてるね。大丈夫かな?」 

 可愛い子ぶって小首を傾げ、白々しくそんなことを言う。

「なにしてるんだろうね?」

「さぁ……」

「さぁ、ってことないでしょ?」

 僕を見据える彼女の瞳は、変わらず挑発的に光っている。それでいて妙に扇情的だ。そのまま見ていたら、彼女に触れずにはいられなくなる気がして、僕は慌てて視線を逸らす。

「そういうこと訊くなよ」

「そういうことって?」

 こんなやり取りの間にも、隣室の声は大きくなる。次第に熱と艶を帯びて、激しい息遣いの隙に、爆ぜては消えていくようだ。意地悪く動く彼女の唇と、隣室の声が不思議と重なるように思われて、不覚にも心臓が跳ねる。

 そんな一瞬を彼女が見逃すはずがない。妖艶な笑みをたたえた、彼女の指が伸びてくる。

「やめろよ」

 絞り出した声はみっともなく掠れて、我ながらまったく嫌になった。

「どうして?」

「君のこと、好きじゃないから」

「嘘吐き」

「嘘じゃない」 

 頑なに否定する僕に向かって、彼女は両手を広げてみせた。

「それなら私に触ってよ」

 僕は頭を振ってそれを拒否する。拒否するよう自分に言い聞かせる。

 触ってしまったが最後、僕はもう二度と彼女を忘れられなくなるだろう。きっと一生、このまま死ぬまで彼女に囚われることになる。そんなこと、考えるだけでうんざりだ。

 彼女に触れてはいけない。自力で彼女を視界から消さねばならない。それなのに、目の前の彼女が僕の決意を大きく揺るがす。

「僕は、どうして君が見えるんだ?」

 溜め息交じりに呟いた疑問を、彼女がクスクスと笑う。

「あなたは、まだ私を見ていたいの?」

 そう言って、今度は彼女が溜め息を吐いた。

「私に消えて欲しいなら、あなたが私を忘れるか、私に触れるか、どちらか選んでくれなくちゃ」

 隣室の声は止まない。彼女は両手を広げたままだ。

 本物の彼女も今頃どこかで、別の誰かにこうしているのか。そう思うとたまらなくなる。きっと今この間にも、彼女は僕の知らないところで、どんどん僕の知らない女性になっていく。それなのに、僕は彼女を忘れてしまうことも、ひとり彼女を想い続ける決意も出来ずに、彼女の幻影に誘惑されて居るのだ。

「意気地なし」

 静かな声で、不意に幻影がそう言った。僕は驚いて彼女の目を見る。いつも強気な態度で、挑発的なことしか言わない幻影の、そんな声を聞くのは初めてのことだった。

「そういうところが嫌だったのよ。だから、あの人を選んだの」

 潤んだ彼女の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。僕は咄嗟に、その雫を指で拭う。その瞬間、彼女は霧となって、闇に溶けるかの如く消えた。

 突然の出来事に、茫然と立ち尽くす。しかしすぐに思い立って、僕は部屋を出た。


 幻影は言った。

『私に消えて欲しいなら、あなたが私を忘れるか、私に触れるか、どちらか選んでくれなくちゃ』

 僕はまだ選んでいない。彼女が溶けた夜のなかを、僕は駆けた。 

 本物の彼女に、僕の答えを伝えるために。

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