追いかけて捕まえたのは
腕を掴む力は優しいのに振りほどけない。逃げなければ、そう思うのに逃げられない。
「エヴァン、様」
恋しい男を呼ぶ声はかすれていた。喉が張り付いたようで上手く声が出せない。口の中はカラカラに乾いていて、咳き込みたいほどに、痛い。
「……すぐに、終わる」
低く聞こえた声。顔を向けるより先に響いた、絶叫。
気付けば傍らにいたはずの男の姿がない。視線を巡らせたロロナは視界に飛び込んできた光景に目を瞠った。
「はいはーい、大人しくしてようね?」
にこやかな笑顔の男の足元に、呻き折り重なるように倒れる人々。それは結婚相手の親族だと一目でわかって。
「……やり過ぎだ、アロン」
「そうですか?」
現状について行けず固まるロロナの目の前で、倒れた男の一人がゆっくりと体を起こす。
呻きつつも射抜くような目でこちらを睨むのが結婚相手だと気付いたロロナは顔を強張らせ、同時にすっとエヴァンが背に庇うような位置へと移動した。
その手は未だにしっかりと、ロロナを捕らえたままで。
「……人の嫁にさわんじゃねーよ」
男の低く唸るような声にビクリと体が跳ねる。望まない婚姻、けれど一度は夫と呼ぶ覚悟があった人の声に、僅かなりとも反応しない訳がない。
だが腕を掴むエヴァンの手が、咎めるように力を強くするのだ。まるで自分以外を見るなと言うように。
止めて欲しい、とロロナは泣き出しそうな気持で思う。
もうとうに覚悟はしたのだ、これ以上心を揺さぶらないで欲しい。望みがあるのだと、欠片でも希望を見出してしまいそうになる。
はじめから諦めてしまえば絶望は軽いのに、希望を持ってしまったら耐えられなくなる。それが何より怖いのに。
「ロロナはお前の妻ではないだろう」
「結婚する直前の花嫁を横から掻っ攫って図々しいな」
「お前ほどではない」
さらりと交わされる言葉。けれど、エヴァンが本気で怒っているのだけは背中を見ているだけでもわかる。何故、そう思うのとエヴァンが吐き捨てるように言い放つのは同時で。
「お前に逮捕状だ、ジョイス・アストロ。罪状はわかっているだろう?」
「は、何の事だか」
「残念だが証拠は揃っている。詐欺と窃盗、盗品売買についてきっちり話して貰うからな……アロン」
「お任せを。それより、やらねばならない事があるでしょう?」
「ああ、悪いな」
そう言って振り向いたエヴァンの顔が、瞳が、酷く真っ直ぐなもので。思わずどくんと心臓が跳ねあがった。
「ロロナ」
どうしてそんなに甘い声で名前を呼ぶの。恋しくて切なくて、泣きそうになる。
逃げ出したいのに腕をしっかりと捕まれてまだ逃げられないでいる。
「エヴァン様、離して」
「嫌だ」
精一杯の言葉も一蹴されて、思わず恨みがましい目で見上げれば返って来たのは熱がこもったまなざし。
またひとつ、心臓が音を立てる。
「離せば、君は行ってしまうだろう? だから、嫌だ」
「どうして……」
だってそれはなんだかおかしい。
まるで――まるでロロナがいなくなっては困るような、そんな訳ないはずなのに。
混乱とほのかに甘やかな期待がロロナを苛んで言葉を奪う。
半ば呆然としていると、エヴァンはおもむろに片膝をついた。
「ロロナ、どうか私の花嫁になってくれないだろうか」
「……え?」
何を言われたのか理解する事を拒絶する。あまりにも都合がよすぎる状況を夢だと切り捨ててしまいたい。
なのにエヴァンは膝をついたまま、ロロナの手を取って見上げてくるのだ。先程と変わらぬ、熱の宿ったまなざしで。
「どうして……」
真っ白になった頭には何も浮かばなくて、唇から零れたのは単純な疑問。
それを聞いたエヴァンはわずかに目を細めた。
「油断していた、と言うのが一番正しいかもしれない。変わらないと思い込んでいた」
「変わらない?」
「そう。ロロナがずっと俺だけを見ていると」
信じられない思いで目を見開けば、返って来るのは甘やかな苦笑。
とくんと期待に胸が弾む。だって、それは、その言葉は。
「ロロナがもっと大人になったら逃がさぬように捕まえればいいと思っていた。今はまだ、子供のように慕ってくれているだけで、すげなく断る俺を忘れられないようにしてしまえばいいと」
「……それ、色々酷くないですか」
どれだけ自分に自信があるんだ、とか。それで傷つくこっちの気持ちはどうなる、とか。
思わず半目になったロロナにエヴァンは甘やかな笑みを見せる。
「最初は違ったさ。でも、何度も諦めないで俺を本気にさせたのはロロナの方だ。好きだと言い続けられて、気にしない方がおかしいだろう」
「子供だって、言った癖に」
「ああ。子供だろう? だから、俺は手を出さないように自制していたんだ――これまではな」
そう言い切ったエヴァンは立ち上がる。え、と思う間もなく腕を引かれ、気が付けばエヴァンの腕の中。
「だが、少し目を離したら他の男と結婚しようとしてるし、挙句に修道院行くとか言いだすし。どこにそんな積極的な部分があったんだ」
「だ、だって……」
「ああ、わかってる。きちんと言わないでいた俺の怠慢だって事もな」
顎を持ち上げられて見つめあう。エヴァンの顔に浮かんだ微笑みにロロナの心臓がまたひとつ跳ねた。
優しいのに、どこか意地悪な、目が離せない男の表情。壮絶な色香を感じて頬が熱くなる。
「俺はロロナを愛してる。もう子ども扱いしてやれないが、構わないよな?」
どういう意味だと訊ねるより早く重ねられた唇。はじめてなのに深く深く貪られて、おぼろげにどういう意味なのかを強制的に思い知らされた。
しっかりと抱きすくめられて逃げられない――逃げるつもりもない。
「エヴァン様、愛してます」
「俺もだ。一生、離さない」
ここがどこだとか、誰がいるとか、そんな事はもう遠くに投げ捨てて。
今はただずっと追いかけ続けた恋しい男から与えられる喜びに酔いしれる。
キスの合間、切れ切れに告げあう愛の言葉が、とても幸せだった。
そんな二人がロロナの両親に見つかるまで、あと少し。
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