Lumiere
最初に見えたのは暗闇だった。
一つの灯りも明かりもなかった。
星すら瞬かない。
月も煌いていない。
夜というわけではないのだから当たり前だ。
何故こんなにも暗いのかわからなかった。
世界は暗いものなのかと思った。
この暗闇が、永久に続くのだと思った。
――けど、違った。
「目が覚めたかい? シルヴィ」
いつものように目が覚めた私にそう声がかけられた。とても近く、そぐ傍から。
それは優しい声だった。大好きな声。どんな闇の中でも決して聞き間違えることのない声。私の唯一の光。
「おはよう、お兄様」
寝起きだけれど、上手く微笑えたかしら?
鼻腔を湿った土の匂いと汗の臭いが刺激する。お兄様は今日もこの時間までお仕事だったんだ。そうわかると、途端に申し訳ない気持ちになる。私が《こんな》だからお兄様にはいつも無理をさせてしまう。
けれど、そんなことをお兄様に言うと怒らせてしまう。優しいから、悲しませてしまう。たださえ疲れているのに。
だから、私はいつでも笑っていなきゃ。せめて、家の中ではお兄様に安心してもらいたい。家の中でくらい余計な心配はさせたくないから。
「今日はね、シルヴィ。素敵なプレゼントがあるんだ」
お兄様はどこかそわそわするようにそう言う。とても嬉しそうでもある。それは聞こえてくる子どもたちの声と同じような。そう、いたずらっ子のような。
「今日はシルヴィの11歳の誕生日だからね」
「そんな、悪いわ。今でもお兄様は大変なのに!」
こう言うことを言ってはダメだとわかってはいるけれど、それでも私はそう声を荒げてしまった。
お兄様は毎日、それこそ寝る間さえ惜しんで働いている。それは私たちがたった二人だけだから。お父様もお母様も私が産まれてしばらくしてから死んでしまった。お兄様は、その理由を教えてくれない。訊くととても悲しそうにするから、訊かない。
「シルヴィ。誕生日くらいは甘えてくれ。いつも辛い思いばかりさせているのだから……」
「そんなこと無いわ! それに、お兄様のほうがお辛いはずでしょう?」
「僕は大丈夫だよ。身体は、丈夫だからね」
「でも、」
「シルヴィ」
コツン、とお兄様がおでことおでこをくっつける。息が当たるほど近くにお兄様の顔がある。汗の臭いが、苦労の香りが鼻腔をくすぐる。
お兄様は真剣な声音で私の名前を口にし、おでこをくっつけたまま、何も言わない。お兄様は今、どんな顔をしているのだろう。その瞳に映る私はどんな表情をしているのだろう。
「わかりました」
沈黙に耐え切れず、ようやく私はそう口にした。
「……ごめんなさい。お兄様」
「違うだろ。何かをもらった時は、『ありがとう』だよ」
間違えるなよ。とお兄様は苦笑気味にそう言って私の頭に手を、ポン、と置く。温かく、大きな手。ボコボコした手。きっと、私が《こんな》でなければ、ううん。私が居なければ、こんな豆だらけになるほど働かなくてもいい。きっと、もっと裕福に暮らせるはずだ。たまらなく、申し訳ない。
「……はい。ありがとうございます。お兄様」
だから、私は精一杯の笑顔でお兄様に感謝の言葉を贈る。お兄様も謝罪より感謝を望んでいるようだから。上手く笑顔を作れたかどうか、自身は無いけど……。
けど、口では感謝の言葉を表しても、心は申し訳ない気持ちで一杯。そう、申し訳ない気持ちでもいても、私はどうすることも出来ない。私に、もう少し勇気があれば、あるいは違うのかもしれない。
「うん。じゃあ待ってて。すぐにプレゼントをつれてくるね」
お兄様はそう言うと私の頭をくしゃくしゃと撫でてから、部屋を出て行った。……つれてくる?
「ほら、こっちだ」
お兄様は本当にすぐに戻ってきた。ヒタヒタと言う足音をつれて。
「だれ? お兄様」
ハッハッ、と言う息使いも聞こえる。そんなことは無いとわかってはいても、怯える心は正直で、声にそれが出てしまう。
「はは。だから、プレゼントだよ。……さぁ」
ヒタヒタという足音は次第に私のベッドに近づいてくる。そして、すぐ側まで、私がそうとわかるほど近寄り、ベッドに体重をかけるような感覚がし、
「きゃっ」
ぺろり、と頬を舐めてきた。ざらついた、温かい感触。すこし、べたつくような……。
「……いぬ?」
半信半疑にそう呟くと、横からワン、と言う声が聞こえた。正解だ。と自己主張しているみたいだ。床に尻尾が当たっているのだろうか。パタパタという音が聞こえる。
「はは。驚いたかい? シルヴィ。この子が、11歳の誕生日を迎えたシルヴィへの、僕からのプレゼントだ」
また、ワン、と犬は吠えた。行儀がいいらしく動き回るような気配が無い。ただ犬特有の息使いと、尻尾が床に規則的に当たる音が聞こえる。
「お兄様、この子どうしたの?」
犬などの動物は、そう言う専門的なお店で買うととても高いと前に聞こえたことがある。もし、買ってきたのならそれは――。
「大丈夫だよ。シルヴィ。この子は山で見つけたんだ。……いや、違うな。僕が見つけられた……の方が正しいかもね」
苦笑しながらそう語るお兄様は、言うのが恥ずかしいらしく乾いた笑いをする。恥ずかしいときや、照れくさい時、それを誤魔化すためのお兄様のクセだ。
「ほら。前の雨の時、山が土砂崩れをおこしたことがあっただろう?」
覚えている。あの時は、お兄様がそれに巻き込まれているなんて知らなくて、夜も遅かったから寝てしまっていた私は、体中から血と土の匂いをさせて帰ってきたお兄様に泣いたことを覚えている。……泣きつかれて、お兄様より先に寝てしまったことも。私はいつもお兄様に苦労をかけてしまう。
「その時にね、助けてくれたのがこの子なんだ」
ワンワン、と今度は二回吠えた。さっきから、まるで人の言葉がわかるみたいにちょうどいいところで吠える。とても、利口な犬みたいだ。
「とても賢くて行儀のいい犬だから迷子か何かかと思って飼い主を探してもらったんだけど、飼い主は誰も居ないらしくて、野良みたいだから僕がもらってきたんだ」
「そうなんですか」
「うん。……だから、実際は、僕からのプレゼントとなると首輪と革紐だけなんだよね」
ごめんね。とお兄様は言うけれど、そんなことは無かった。とても素適な、お兄様からのプレゼントだ。家族が増えるのは、とても嬉しい。
「さて、この子の名前はシルヴィが考えてやってくれ。僕は流石に疲れたから、汗を流してしばらく寝るから」
「待って、お兄様!」
部屋を出て行こうとするお兄様を呼び止める。まだ、ちゃんと言ってないことがある。
これは、ちゃんと言わなきゃ。
「お兄様、ありがとう」
今度は、心のそこから言えた。感謝の気持ちだけの言葉。ううん。感謝の気持ちで彩った。
お兄様はハッピーバースデー、と小さく言うと足早に部屋を出て行った。乾いた笑いが扉を閉めるときに聞こえたから、照れくさかったんだと思う。
「さて、あなたの名前は何にしようか」
くぅ〜ん。と鳴くその声が、どうしよう? と言ってるみたいで笑みが零れた。
おいで、と言って手を伸ばすとその手をペロリと舐めてきた。
「くすぐったいよ」
ざらついた舌の感触が手の平にはくすぐったい。私は自然と頭を撫でてやることが出来た。最初に感じたような感覚は、もうどこを探しても無かった。
「大きいんだね」
頭の位置が割と高いところにある。ふさふさとした毛の感触がきもちいい。それにすごく温かい。
「名前、どうしようか。……お兄様の命の恩人だもの。とてもいい名前にしなくちゃね」
ワン、とそう吠える。まるで、そうしてくれ、と言ってるみたいだ。本当に人の言葉がわかるのかもしれない。
私は頭を撫でてやりながら、一生懸命に頭をめぐらし考える。パタパタという音が、まだかなまだかな、と言うこの子の気持ちを表しているみたいに思える。気のせいかもしれない。けど、なぜだろう。この子の気持ちがわかる気がする。この子にも私の気持ちがわかる気がする。
この温もりを、ずっと前から知っているような気がする。
「そうだ! あなたの名前は“リュナ“にしましょう!」
ワンと“リュナ”は吠えた。そして、ベッドに足を掛けると私の頬をペロペロと舐めてきた。この名前を気にいってくれたらしい。気にいってくれたことが私も嬉しい。
「あはは。くすぐったいよ」
ベッドの上でじゃれる私とリュナ。
声に出して心から笑うのは久しぶりだった。
――不自由な少女。
――父も母も在ない、彼女の唯一の支えは最愛の兄。
――その兄からの、誕生日のプレゼント。
――それは、懐かしい温かさを感じさせる一匹の犬。
――申し訳なさばかりが募る彼女にとって、そのプレゼントは久しい笑みを浮かばせるに足るものだった。
――新しい家族。温かいそれは、幼い彼女にとって仄かな灯り。
――それは少女に変化をもたらす――――。
リュナが家族になって五日が過ぎた。
お兄様が仕事の間、いつも独りぼっちだった私は正直、とても寂しかった。≪真っ暗≫な中で周りには誰もいない。それは、たまらなく寒くて。凍えそうで。けれど、心配をかけたくないから。一生懸命に働いてくれているお兄様を困らせたくないから、大丈夫と笑って。……涙を見せないようにするのが大変だった。
泣きたくて泣いているわけじゃない。私に、寂しいと泣くことが赦されているとも思っていない。それでも、寂しいと思う心が、思ってしまう心が涙を流させる。
けれど、今は違う。お兄様が居ないのは寂しいし、遅くまで働かせてしまっていることを申し訳ないとも思う。
けど、今はリュナが居る。≪真っ暗≫な中に仄かな灯りが灯っている。凍えるほどの寒さは、今はない。
「さぁ、リュナ。今日も手伝ってね」
私がそう言うとリュナはワンと応える。
私が今、泣くことなく居れるのはお兄様のおかげだ。そして、リュナの。
お兄様が居なかったらリュナは家族にならなかったと思う。
リュナが居なかったら私は今日も一人泣いていただろう。ううん。もしかたら、考えたくないことだけど、お兄様まで居なくなっていたかもしれないのだ。
私は、二人に何か恩返しがしたかった。けれど、私が出来ることなんて高が知れてる。
料理はいつもお兄様が作って行ってくれるし。私がやろうにも《こんな》私じゃちょっと無理。それに下手をするとお兄様を悲しませてしまうかもしれない。
掃除は、がんばっていつもしてる。きれいに出来てるかどうかはわからないけど、埃っぽくはないのだからきっと大丈夫だと思う。
色々考えたすえ、私はお守りを作る事にした。当然、私一人では無理だから、リュナに手伝ってもらってる。
売れなかった古着をはさみで慎重に、気をつけて切り、手で形を確認しながら慎重に針で縫う。最初はよく自分の指に針を刺しちゃってたけど、今ではほとんどない。指に刺しそうになったらリュナが吠えて教えてくれる。血の滲んだお守りなんて、お守りじゃないもの。気をつけなくちゃ。
作業は遅々としているけど、ちゃんと形になっている。……失敗はたくさんしたけど。
でも、大丈夫。
「リュナにもちゃんと恩返しするからね」
ワンとほえるリュナ。けど、リュナには何がいいのだろう?
ワン、とリュナがまた吠えた。今度は一際強く。
「え?――っ」
ぷつり、とした感触と共にちくり、とした痛みが指先に走る。考え事をしながら裁縫なんてしちゃいけない。
血がつかなかったかどうか、鼻先に持ってきて臭いを嗅ぐが血の臭いはしなかった。とっさに指を離したのがよかったようだ。
ちくちくと、遅々とした早さで縫いつづける。
(お兄様が危ない目にあいませんように)
(お兄様がずぅっと元気でいれますように)
そうやって、願いのような想いを込めて。
それから、三日。リュナが家族になって八日が過ぎた日のこと。なんだか、リュナにどこか元気がない。
「お兄様。リュナ、病気なのかな?」
いつもなら全部食べるご飯も、今日は少し残している。元気のいい呼気も聞こえない。
「う〜ん……。どうしたんだろう?」
お兄様もわからないらしく心配している。
病気だったらお医者様のところに行かなきゃいけないけど、お医者様の所までは離れているし、診てもらうお金も……。
どうしよう……。
「ねぇリュナぁ、いったいどうしたの?」
くぅ〜ん、と鳴く声にも元気が感じられない。
「ああ! そうか!!」
突然、お兄様がそう大きな声で言った。
「どうしたの? お兄様」
「散歩だよ!」
さんぽ?……あっ。
「リュナは今日までに散歩に行ったかい?」
私は首を振って応える。犬は毎日散歩に行かなきゃいけない。これは私でも知っていることだった。
「ああけど、どうしよう。僕は今日は早く出ないとだし……。まさかすっぽかすなんてことは出来ないし」
リュナに元気が無いのはずうっと家の中に居たから。散歩に行けば元気になるかもしれない。けど、お兄様はこれから大切な御用が。……私は、わた、し、は――。
「シルヴィ」
私の肩にお兄様が手を置く。大きく暖かな手が、強く肩を掴む。
「シルヴィ。無理をしなくていい」
いたわるような声。優しい声。けれど。
「大丈夫よ、お兄様。私は、大丈夫だから……」
元気の無いリュナ。家族が辛そうにしているのに。その原因も解決策もわかっているのに、何もしないなんて。私はもう嫌だ。
「私が、散歩に行くから」
「シルヴィ……」
「大丈夫よ。リュナが一緒だもの。だから、大丈夫」
少しだけ、声が震えた。けれど、大丈夫。私が気をつけてさえいれば二度とあんなことにはならない。それにリュナも居るもの。いつまでも家の中にいていいことはない。お兄様を、もう大丈夫だよ。と安心させてあげるためにも。
「……わかった。じゃあ、途中まで僕も付き合う」
しかたない。と言う風にお兄様はそう言った。口ではそう言うけれど本当は心配で仕方がないというのが手に取るようにわかる。
「ありがとうお兄様。――さぁ、リュナ。散歩に行きましょう」
外に行こうとする気配が伝わったのか、リュナは一転して元気そうにワンと吠えた。元気の無い原因はやっぱりずっと家に居たことだったんだ。……気付いてあげられなくてごめんね。
「……これで、よし。シルヴィ。この革紐を離しちゃいけないよ」
かちゃかちゃと言う音の後、お兄様はそう言って私に革紐を握らせる。
握った途端にぐいっと引っ張られたので私はあやうく転んでしまうところだった。
「リュナ。嬉しいのはわかるけど、もう少し落着いて……」
ぎぎ、と音を立てながら扉が開く。
それと同時に入ってくる。音。無数の。幾つもの。
ザワザワ。ガヤガヤ。町の喧騒。
息を飲む。
何かが走る音。馬車の音。思い出される。
足が、震える。
「シルヴィ。やっぱりやめよう。リュナの散歩は僕が帰ってきてから夜や朝にすればいい」
「だ、大丈夫。それに、お兄様の休む時間がなくなっちゃう」
心配する、お兄様とリュナ。その気配が痛いほど伝わってくる。
きっと、いつまでもこの庇護の中に居ればとても楽だろう。けど、それじゃダメだ。いつまでも子供のままでいちゃいけない。お兄様にこれ以上負担をかけちゃいけない。
震える足で、一歩を踏み出す。じゃり、という砂の音がする。懐かしい音だ。もう一歩。じゃり、という音のほかに、気付けなかった、けど、知っている音が耳に入ってきた。
鳥の声。風の音。
ワンと吠えたリュナに私は「行こう」と歩き出し応える。
きっと、ちゃんと笑えた。もう、怖くは無い。
「それじゃあ、僕はここで別れるけど。あまり遠くまで行くなよ」
「うん。わかったわお兄様」
「あ、あと、遅くならないようにな」
「それも、わかってるわ」
「知らない人に声をかけられても簡単に気を赦しちゃいけないよ」
「大丈夫よ。お兄様」
「あまり走っちゃいけないよ」
「それはさっきも聞いたわ。お兄様」
「そうだっけ? あ、後、馬車には気をつけるんだよ」
「それも聞いたわ、お兄様」
お兄様はさっきから細かく「気をつけるんだよ」と言っている。同じ事も何度か聞いた。私のことを心配してくれるのは嬉しいけど、ちょっと、心配しすぎだと思う。
「ああ、あと――」
「お兄様」
まだ何か言おうとするお兄様を苦笑しながら止める。
「急がないと、おくれちゃいませんか?」
「ああ! そうだった! ああ、けど心配だ。――リュナ。シルヴィのこと、頼んだよ」
慌てふためきながらそれでもなお私の心配をするお兄様の言葉に、リュナは、まかせて、と吠えて応える。
お兄様は私の頭を一度くしゃくしゃと撫でると、走ってお仕事に行った。
「心配性だよね」
笑いながらの私の言葉。外で再びこんな風に笑えるなんて思っていなかった。これも、お兄様とリュナのおかげだ。
リュナは早く行こう、と私を引っ張る。私はリュナが引っ張るのに任せて歩き出す。
今日の天気はいい。ぽかぽかとした陽射しに、時折吹く優しい風。散歩日より、とはこのことを言うのだろうか。そんな感じがする。
「あん。もう、リュナ。ちょっとゆっくり歩こう」
一歩一歩を気をつけながら歩く私とリュナ。歩幅もペースも違うから、私は段々リュナに引っ張られるようになってきた。時折、足がもつれそうになる。このままではいずれ――
「きゃっ」
思っていたことはすぐに現実のこととなり、私は足をもつれさせこけてしまった。陽を一杯に浴びた砂の臭いがすごく近くからする。
起き上がると、足に痛みが走った。すりむいてしまったらしい。血が少し出ているようだ。
「もう、リュナ!」
私が怒るとリュナは申し訳なさそうに、くぅ〜んと鳴いた。そんな声を出されると私もこれ以上は怒れない。
いつまでも座り込んでいるわけにもいかないので今度こそ、立ち上がろうとして、私は気付いた。革紐がない。
きっと、こけたときに手放してしまったのだろう。座り込んだまま手を這わせて革紐を探すけど見つからない。
アレがないと私は――。
「どうかしたのかな、お嬢さん?」
ふいに、上から男の人の声がした。リュナが威嚇するように唸っている。
お兄様から注意を受けていたけど、私は頼ることにした。
「あの、革紐を探してくれませんか?」
「革紐……ああ、これかな?」
そう言って男の人は私の手に革紐を握らせてくれた。触れた男の人の手はとても大きかった。そしてとても硬かった。
「あ、ありがとうございます」
私は立ち上がると頭を下げてお礼を言う。そしてこけたときについただろう砂を叩いて払う。
私が行こう、とリュナと共に足早にさろうとすると、男の人に止められた。
「おや? お嬢さん。膝をすりむいているではないか。そのままではいけない。私ときなさい」
そう言うと男の人は私の手を握り、どこかへと歩きだそうとした。突然のことに私はたたらを踏む。けれど、男の人はすぐに立ち止まった。革紐が一杯に伸びている。
ワンワン、と威嚇のような唸りを上げながら吠える。多分、男の人の前に周っているのだろう。
「お嬢さんのメールかね? 安心なさい。別にとって食べるわけではない」
その男の人の言葉を信じたのか、リュナはしばらくすると威嚇を止めた。伸びていた革紐が緩む。足元にリュナのふさふさした毛の感触がくすぐったい。
「頭のいい犬だ」
そう言う男の人に私は誇らしげに微笑んでみせた。
家族が誉められるのは、うれしい。
「少ししみるだろうが、我慢してくれ」
ひんやりとした後に僅かに痛みが走る。
男の人につれて来られたのは噴水広場だった。私はそこで傷の消毒をしてもらってる。
いいです。と断ったけれど、ばい菌が入るといけない。と断りを断られてしまった。
「とりあえずは、これでいいだろう」
「ありがとうございました」
私は頭を下げると今度こそ散歩を再開した。男の人は今度は気をつけるんだよ、と私とリュナに言った。男の人は私が何故こけたのかわかっていたのだろうか……?
リュナは今度は私の歩きに合わせてくれた。のんびりと歩く。
町の喧騒。あまり大きくない町だけど人々は活気付いてる。あちこちから人を呼び込むためのお店の人の声や幼い子供たちのはしゃぐ、元気な笑い声がきこえる。楽しそうに走り回っている足音も聞こえる。
町はいろんな音に溢れている。
その音の道を私たちはのんびろと歩く。
「リュナ。もう少ししたら走らせてあげるから、ちょっとだけ我慢してね」
走りたそうにふらふら、ぐるぐるしているリュナにそう声をかける。わんわん、と嬉しそうに鳴くが、それでもふらふらとリュナは落着きなく歩く。
そんなリュナに自然と笑みが零れる。
散歩は楽しい。
今度はお兄様と三人で散歩をしたい。こんな風にのんびりと。それには私もがんばらなくちゃ。何をがんばれば良いかわからないけど、それでも。そう決意を固めるのがまず一歩だと思う。
「この広場の中なら、走り回ってもいいよ」
私がそう言うとリュナは元気に吠え、走っていった。すごい速さで足音が遠ざかっていく。
ここは町のはずれにある広場。前に一度来たことがあるだけだけどちゃんと道順を覚えていて良かった。迷わずに来れた。
私はホッと一息つくと、芝生の上に座る。風が心地良い。木々や鳥のざわめきが耳に心地良い。
リュナがずっと家にいて元気を無くした気がなんとなくわかる。外がこんなに心地よいものだと知っていたら、家の中では物足りない。
明日からは毎日散歩に出よう。そうすればリュナが今日みたいに元気を無くすこともないし、私もそうやって徐々に変われる。ううん。変わっていくんだ。
今までの私は暗闇を恐れて外に出なかった。けど、それじゃダメなんだ。
お兄様は大人の人達に混ざって遅くまで仕事をしてる。《こんな》私の面倒を見てくれる。何一つ不満も何も言わず。
けど、それに、そんな安穏を良しとしちゃいけない。たった二人の、ううん。三人の家族。お兄様ばかりが辛い役回りで、私だけが怠惰に安穏としていちゃいけない。
家の中に居ても何も変わらないけど。そとにでれば、私が変われば何かが絶対に変わる。きっと。
確信にも似たそんな思いが私の中で大きくなる。
それからしばらくすると、リュナが戻ってきた。
私とリュナは家に帰る。
帰り道。来た時とは違い私はしっかりとした足取りで軽やかに歩くことが出来た。通ったばかりの道、と言うこともあるだろうけど。リュナがそばにいる。私は変わる。という思いがきっと私から、怯え震えさせる『過去』を徐々に薄れさせていってるんだと思う。
――暗闇。それは不安と恐怖の象徴。
――その抗えぬ檻から出ることの出来たかった少女は、
――仄かな、けれど確かにそこにある灯りを得ることで、
――手探りに、しかし確実に歩き出し、出口へと向かいだした。
――最初はおぼつかない足取りで、足元を気にするだろう。
――けれど、いづれ、俯かず、前を見て、歩く事が出来るだろう。
温かさが僅かばかり残っていた秋が、そろそろ終わろうとしている。
木々からは次第に葉が枯れ落ちていき、騒がしかった虫達も、賑やかな小動物たちも徐々に眠りについていく。
けど、私たちは違う。動き出すのが遅かった私は、今、やっと、ちゃんと動き出してきたんだ。
「お兄様。行ってきます」
「最近早いね。それに、嬉しそうだ。シルヴィ。そろそろ教えてくれないかな?」
私は、今お兄様に内緒にしていることがある。今まで一度も隠し事や内緒ことなんてしなかった。だから、初めてのことだ。すぐにばれちゃうかもしれないと思ったけど、今のところ上手く隠してる。
「うふふ。ダメです。その時になったら、わかりますよ。それまでは、内緒です」
私はそう悪戯っぽく言うと、早く行こう、とせかすリュナに「ね」と同意を求める。リュナはわんと元気に吠えた。ふさふさの毛皮を着ているリュナは多少寒くなっても元気一杯だ。
「それじゃ、しかたないね。けど、最近は暗くなるのも早いし、寒いんだから、早く帰っておいでね」
「はい。わかりました」
苦笑しながら言うお兄様に、私はいってきますと言うと、リュナと一緒に外に出た。
冬に近づいてる近頃の風は、冷たく、乾燥している。それでも着込んでいれば苦ではない。
多少寒くはなったけれど、その程度では町の活気はかわらない。露天商の人の声や、子供たちの声。変わらず活気付いて、元気そうだ。
私は、何度も散歩に出ているうちに段々と、リュナの苦にならない速さで歩けるようになってきた。リュナが居ないと満足に歩けないところは相変わらずだけど、革紐を離したくらいで不安になるようなこともなくなった。
私は、変わってきた。
「おう、シルヴィちゃん。今日も特訓かい?」
「はい」
果物屋のおじさんの言葉に私はそう答える。私の隠し事は、実は町の人にはちょっと知れてたりする。
最近では町の人ともよく声を交わすようになった。
お店のおじさんやおばさん。郵便配達員のお兄さん。買い物中のおばさんたち。幼い子供たちともたまに遊ぶことがある。
「寒いのに元気だねぇ。がんばりなよ」
「はい。あ、お兄様には」
「わぁってるよ。内緒に、だろ?」
「はい」
「あははは。あの兄ちゃんのことだ。きっと、泣いて喜ぶぜ」
そう、かな。そうだといいな。そうなるためにも、今日もがんばって練習しよう。
おじさんとの会話を終えると、私は広場まで行く。私とリュナのいつもの散歩コース。そして、練習場。
「おや、お嬢さん。今日は早かったね」
「はい。早く上手になりたいから」
「それはいい心がけだ」
広場に居たのは私とリュナが最初に散歩にいった日、転んだ私の傷の手当てをしてくれた男の人だった。
この男の人は旅の楽師さんで、冬が過ぎるまではこの町に居るらしい。夜は酒場でリュートを弾いてると言っていた。
あの日以来よく会うこの人と話しているうちに私は、この人から音楽を教えてもらうことになった。
《こんな》私だから最初は無理かと思ったけど、“これ”ならできるはずだ、と楽器を一つもらった。悪いと思ったし、お金もないから断ったのだけれど、自分はもう使わないからと、くれたのだ。お兄様に「人の好意を断るのは逆に失礼なことだ」と以前言われたので、私はその好意を素直にいただいた。
「それでは、さっそく練習にはいるかね?」
「はいっ」
私はポケットからもらった楽器を取り出す。この寒さで金属の表面は冷え切ってしまい、ひんやりとしている。
私のもらった楽器とは、ハーモニカだ。小さくてポケットに入って、ちょっと苦労するけど《こんな》私でもメロディを奏でられる。とても素晴らしい楽器。
「練習の前に、ちょっと貸しなさい」
男の人――ブリュイさん(と言うらしい)は私がハーモニカに口をつけようとしたところでそう言った。なんだろうか? と思いながらも私は言われた通り渡す。
「いいかね? 楽器は繊細だ。使う者も繊細でなければならない。こんなに冷たくなっていてはよい旋律は奏でられないよ。……さぁ、これでいい」
「あっ……」
そう言って渡されたハーモニカはもう全く冷たくなくなっていた。ううん。むしろ温かい。
「温めたタオルで拭いただけだが、大分違うだろう?」
「はい。ありがとうございます」
温かくなったハーモニカを口につけ、私は昨日までに教えてもらったことを復習する。
まずは、音を端から順に間違えずに鳴らしていく。
私のハーモニカは“複音ハーモニカ”というらしく、20個の穴が上下に開いており、吹音と吸音が交互に並んでいる。
ブリュイさんが言うにはこのハーモニカは演奏方法が簡単らしい。それでも、最初の内は上手くいかずに何度も失敗した。そのたびにリュナは励ましてくれ、ブリュイさんは丁寧に教えてくれた。その甲斐もあって、今ではある程度なら上手くできる。
ちゃんとした曲を演奏するには少し、大変だけど。でも私自身上達したと思える。
「……それでは、次は昨日教えた曲を演奏してみてくれ」
「はい」
ブリュイさんはあまり誉めるということはしない。最初は全然誉めてくれないから、まだダメなのかな、と不安になったりしたけど、今はわかる。ブリュイさんが何も言わない時は「よくできました」って意味なんだ。お兄様と同じで、ブリュイさんも照れ屋さんなのかもしれない。
そう思いながら私は昨日教えてもらった曲の演奏を開始する。
寒く静まり返った広場に、ハーモニカから流れる時折たどたどしくなるメロディが響き渡る。
そのメロディにあわせてリュナが踊っているのがわかる。
まだ拙いけど、ちゃんとした演奏が出来るようになるのが待ち遠しい。
――私の演奏と、それにあわせて踊るリュナ。お兄様は喜んでくれるかな?
「そろそろ暗くなる。今日はこのくらいにしよう」
「はい。ありがとうございました」
しばらくの練習の後、ブリュイさんのその言葉に今日の練習は終わる。
私はポケットからハンカチを取り出して、ハーモニカを拭き、中に入ってしまっただろう唾液を落とす。楽器のお手入れ。これも重要なことだ。
「私もそろそろ酒場に行かなくては。お嬢さん、途中までご一緒しよう」
「はい。リュナ、帰ろ」
私はリュナの革紐を握り、そう声をかける。すぐにワンと応えてリュナは足元にじゃれついてくる。ふさふさした毛がくすぐったいが、寒いので温かくもある。
「お嬢さんたちは本当に仲がいいな」
ブリュイさんのどこか笑みを含んだ声。
もう一つ、ブリュイさんのことでわかったことがある。
ブリュイさんは感情を余り表に出さない人だ。いつも、言葉に感情が乏しい。けど、よく聞けばそこにいろいろな感情が込められているのがわかる。いつもは透明な言葉だけど、何かの拍子にふと感情が入って色がつく。
この町の人にはない、どこか不思議な感じ。旅をしている人は皆こうなのだろうか。楽師さんはこんな人が多いのだろうか。ブリュイさんだけが特別なのか。そんなことはわからないけど、嫌いじゃない。
お父様は、どんな人だったのだろう。
訊いても答えてはくれないお兄様。訊くと悲しそうにするお兄様。けど、
――お兄様、私はお父様のことを知りたいです。
「ではお嬢さん、おやすみ」
「はい。お仕事がんばってください」
「ああ。リュナ。お嬢さんを無事家までつれて帰っておやりよ」
ブリュイさんはそう言うと私たちと別れて酒場へと向かった。ブリュイさんの後姿にリュナはワンと大きく吠えた。まかせて、ということだろう。頼もしいなと思う。だって、一人だと暗くて怖いけど、二人なら怖くない。
こんな暗闇でも歩いていける。
帰り道。家々からは家族の団欒の声が聞こえる。お父様やお母様がいて、子供がいて。楽しそうな声だ。うらやましい気持ちがないといえば嘘になるけど、でも、不幸だなんて思っていない。私にはお兄様がいて、リュナがいる。二人とも大切な家族。
びゅぅ、と強い風が吹く。冷たく、乾いた風だ。
リュナが早く帰ろう、と吠える。私は、そうだね、と笑みを返すと若干早歩きになり、帰路を急いだ。
こんな寒い中でも働いてくれているお兄様に、何かできることは無いだろうか。
寒くなるこれからのことを考え、そう思う。
ある日のことだ。私はお兄様の帰りが遅くなっていることに気付いた。
お兄様は町外れの鉱山で大人の人達に混ざって働いている。鉱山でのお仕事はいつも遅くまで続くけど、時間は決まっていてそれ以上に遅くなることは、今までにはなかった。
最初はあまり気にしなかったけど、一日二日と帰りが遅くなっている日が続くと、私は不安になってきた。お兄様が遅くなっていることに対して何も言わないことが余計に私を不安にさせた。
「ねぇ、お兄様。なんだか、最近お帰りが遅くなっていませんか?」
「うー……ん。そう、だねぇ」
お兄様はそう複雑な返事をする。
今の時間はだいたい9時ごろ。今までお兄様は7時までには帰ってきていた。けれど、今日は、今日に限らず数日前から、お兄様10時頃にならないと帰ってこない。
お兄様がお仕事に行く時間は17時。それから、朝の9時までだと実に17時間も働いていることになる。休憩があったとしても僅かだろうし、帰ってきてもゆっくりする時間は6時間くらいしかない。こんなことを続けていたら、お兄様はそのうち過労で倒れてしまう。今までも15時間という過酷さだったのだ。今まで何事もなかったのが不思議なくらいなのだ。
「ちょっと、色々あってね。ああ、でも。大丈夫だから。すぐにいつも通りに戻るから」
だと言うのに、だから心配しないでくれ。などとお兄様は言う。
「お兄様。私は、お兄様だけに苦労をかけるのは、もう、嫌です」
だから、私はお兄様の手をぎゅっと握る。私の想いがちゃんと伝わるように。
「これ以上の無理をされて、お兄様まで居なくなったら……私は……」
最後の方の言葉はかすれて、まともに出なかった。
お兄様が何故こんなにも苦労をしなければならないかはわかっている。それでも、私はお兄様に無理をして欲しくない。お兄様まで居なくなったら、私は本当に一人ぼっちになってしまう。きっと、生きていけない。
わがままかもしれない。自分勝手なのかもしれない。それでもお兄様には無理をして欲しくない。
貧しくたって構わない。不幸でも構わない。お兄様が居てくれたら、それでいい。
握ったお兄様の手は、皮が厚くなっていて、豆がたくさんできてはつぶれて、少し、歪になっている。お兄様がどれだけ無理をしてきたかが痛いほどわかる。それでも、こんなになってもお兄様は一言も、不満も愚痴も弱音も吐かない。唯、なんでもないかのように、安心させるかのように笑っている。
「大丈夫だから。僕は、居なくならないから。ずっと一緒に居るから、もう、泣くのはお止め」
そう言って、お兄様は私を抱きしめた。
その温かさと心地よさは永遠に失いたくない。叶わないとわかっていても、ずっと一緒にいたいと願ってしまう。
知らぬ間に流れていた涙が、お兄様のシャツを濡らしていく。
私は今日もブリュイさんのところへと向かっていた。
お兄様はあのあと、無理をしないと約束してくれた。そうは言っても時間が今までと同じに戻るだけ。それでも安心した。
私はあのあと一つの決心をした。
今まで私は『《こんな》私だから』と何かをする前に諦めていることが多かった。出来ないと決め付けていることが多かった。だから、それをもう、やめようと誓った。まずはやってみようと思うことにした。どんなに無理そうなことでも。
「こんにちは。お嬢さん。どうしたね?」
ブリュイさんは私を見るなりそう言った。まだ私は何も言ってない。
「こんにちは、ブリュイさん。あの、わかりますか?」
「お嬢さん。キミは顔に出やすいようだ。言ってみなさい」
私って顔に出やすいんだ……。お兄様にも言われたことのないその事実は、少しショックだった。
私は話した。お兄様が無理をしていること。そんなお兄様の役に立ちたいこと。お兄様だけに苦労を押し付けたくないと。お兄様に少しでも楽をさせてあげたいと。
「ふむ。しかし、キミの兄上はキミが――少なくとも今のキミが、働くことを良しとしないのではないのかな?」
「それは――」
やさしいお兄様のことだ。きっとそうだろう。それでも、私はお兄様だけに苦労をかけさせたくない。何か、役に立ちたい。
「それでも、お嬢さんは何かをしたいのかな?」
「はい」
私は力強くそう頷く。お兄様には反対されるだろう。それでも――。
「……よろしい。ならば、私の仕事を――楽師を手伝ってみるかね?」
「――え?」
「お嬢さん。キミはセンスがある。ソロではまだ無理かもしれないが、私とのセッションならば十分に出来るだろう」
「セッション?」
「一緒に演奏することだよ」
私に、そんなことできるのだろうか。ブリュイさんの買い被りではないだろうか。
不意にわん、とリュナが大きく吠えた。
――ううん。いけない。そんな考えは。やる前から諦めないと誓ったばっかりじゃないか。
私は不安に暮れる心を叱咤し、そう思い直す。リュナ、ありがとう。
「わかりました。やってみます!」
ブリュイさんは良い返事だ、と言うと何事か準備を始めたようだった。
「それではお嬢さん。今日からはセッションの練習だ。楽師は常に聞き手に最高の旋律を提供しなければならない」
「はい」
「ああ、当然。あの練習もちゃんとするから安心しなさい」
ブリュイさんのリュートから奏でられるメロディに私は、ハーモニカでの演奏をあわせる。
肌寒い広場にリュートとハーモニカの奏でる音楽が広がる。
私のハーモニカから流れるメロディは、ブリュイさんのそれに比べるとまだまだだけど、けれど確かに、それは美しいものだった。
リュナがやっぱり演奏にあわせて躍る。その気配が伝わってくる。
楽しい。
――少女は変わっていく。
――暗闇を乗り越え、
――俯くことをやめ、
――前を見て、歩き出した。
あの後、お兄様はあまり無理をしないと約束してくれた。そして、その次の日から、お兄様のお仕事の時間帯は今まで通りに戻った。
よかった。と、そう思う。
今まで通りに戻ったと言っても労働時間は約15時間。一日の半分以上を仕事に費やしている。
出来ることなら、もう少し楽をしてもらいたい。けれど、私のせいで――……。
くぅん、とリュナが足元に擦り寄ってくる。スカート越しに感じらるリュナの毛皮は、なんだか変な感じだけど温かさは変わらず感じられる。
「うん。ありがとう」
励まし、慰めてくれるリュナにそうお礼を言う。
私は、変わらなくちゃいけない。今日は、そのためのとても大きな一歩だ。ううん。そうするんだ。そのためにも俯くのはもう、やめなきゃ。
私は今、いつもの広場に居る。
今日はここでお兄様に練習の成果を――日ごろの感謝の、「ありがとう」の想いを込めた音楽を贈る。
今日、お兄様は滅多にないお仕事がお休みの日。滅多にない休日を使わせてしまうのはとても申し訳ないけど、こんな日でもないと、まず無理なのだ。
家を出る前に、お兄様には「後で広場に来てくださいね」とだけ言った。「なんで?」と不思議そうに訊いてきたけど、私は「ナイショです」とはぐらかした。
喜んでくれたら良いなと思う。
今日はいつもより少し温かい。ブリュイさんの言う、繊細さを欠くこともないだろう。きっと、最高の旋律を奏でられるはずだ。
しばらくすると、お兄様がやってきた。
なぜか町の人達を引き連れて。
かなりの人数が居るらしい。
「お兄様!?」
私は堪らず悲鳴に近い声で叫んだ。頭の中も胸中も、ぐるぐるまわっている。
「あ、シルヴィ……。ごめん。なぜか町の人達がついてきちゃった……」
お兄様は申し訳なさそうにそう言う。そんな風に言われると、私としてもないも言えない。お兄様が悪いわけじゃないんだし。
「よぉ、シルヴィちゃん。俺たちも聴かさせて貰っていいかい?」
果物屋のおじさんだ。
まさかダメとも言えず、変わりに私は訊ねた。
「……あの、なんで」
「ああ。今日やることは知ってたし、兄ちゃんがここに向かうのが見えたからな」
知っていた?
「な、なんで知ってたんです?」
私は今日やることを誰にも言っていない。なのに――。
「ん?ああ、昨日な。あの楽師さんが言ってたらしいぞ」
ブリュイさんが!?
確かに、唯一ブリュイさんだけは今日やることを知っていた。けど、言いふらすなんて事しないと思ってたのに……。
「おおっと。あの楽師さんを責めないでやってくれよ。なんでも無理矢理聞きだしたバカ野郎がいるらしいからな。しつこく訊かれて思わず言っちまったんだろう」
私が黙ってしまったのを見て、察したんだろう。おじさんはそう言った。
そのブリュイさんは今日は用事があるらしくて町に居ない。聴いてもらえないのは少し寂しい気がするけど、もともとお兄様にだけ聴いてもらうつもりだったのだから、それはいい。
「もしかして、僕以外の町の人達は、みんな知ってたんですか?」
「おう。大抵の奴らは知ってたんじゃないか? 楽師さんがセンスのいい娘が居るとかなんとか言ってたからな」
ブリュイさん。密かに酒場そんなこと言ってたんだ……。
「そうなんですか。僕は酒場に行かないからなぁ。その楽師さんって?」
「お兄様はあったことないのですか?」
「うん」
「なんでも旅をしながら楽師をしているらしいぞ。冬が過ぎるまでは町に居るらしいから、いつか会えるだろ」
「旅の……楽師」
そう呟くお兄様は、なんだか様子が変だった。
「お兄様?」
私はなぜかすごい不安に駆られて、お兄様の服の袖をつかんだ。
お兄様はなんでもないよ、と呟くと頭を撫でてくれた。それはいつものお兄様で、さっきの変な感じは私の気のせいのように思えた。
ワンワン、と不意にリュナが吠えた。私はその声で、肝心なことを思い出した。
「それじゃあお兄様。そろそろ始めますから、座って聴いててくださいね」
私はそれだけ言うと、リュナと一緒にお兄様から離れた。
町の喧騒が移動してきたかのように賑やかだった町の人達も、次第に静かになっていく。
完全に静かになったところで、私はハーモニカを口に当て、演奏を開始した。
仄かな温かさの広場に、ハーモニカから流れるメロディが響き渡る。
私の、ありがとうの気持ちを込めて。
…………
「お兄様。そろそろ泣き止んでください」
「だ、だって……シウヴィが、シウヴィがぁ」
お兄様はいつからなのか、ずっと泣いていた。お兄様がここまで泣いているのは初めてだ。だから、私はどうすれば良いのかわからず、おろおろしていた。
リュナがわんわん、吠えたりしたけど意味はなかった。
「たく、シルヴィちゃんが困ってるぞ。兄ちゃん」
おじさんが苦笑気味にそう言うが、お兄様は泣き止む気配がない。
「シルヴィちゃん。兄ちゃんは感動してんだ。……わかるだろ?」
私は、頷いた。
なんとなく、お兄様が何故泣いているのかわかったから。
だからだろうか。
いつの間にか、私も泣いていた。
涙が、止まらない。
――暗闇はいまだ少女についてまわる。
――けれど、それは今までとは違う。
――光に溢れた暗闇は、もはや恐怖の対象ではなく。
――少女を強く変えていく。
――妹の変化に、兄も変わっていく。
――護らなければ。
――そう長い間思い、一人無理をしていた兄は、
――兄妹として、家族として、互いの幸せを願うようになった。
「それじゃあ、お兄様。行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい。気をつけてね」
「お兄様も」
「うん。わかった」
15歳になった私は、あの演奏会とブリュイさんのおかげで酒場で、専属の楽師として働けるようになった。
最初、お兄様は反対したけど、話し合いの結果。お兄様はすぐに折れてくれた。
お兄様は今も鉱山で働いているけど、今は以前のように15時間も働いていない。22時に家を出て6時には帰ってくる。夜働いていると言うこと以外は他の人達と変わらない時間帯になっている。
酒場で働く私も、お兄様と同じで夜のお仕事だ。たまに酔っ払いすぎてケンカしたりそのまま寝ちゃう人とかいるけど、皆良い人で、とても楽しい。
酒場のご主人はとてもいい人で、リュナもいっしょに働いていいと言ってくれた。私の音楽に合わせて躍るリュナは、酒場ではちょっととした人気者だ。たまに親子で訪れたりする人も居るくらい。
私とリュナは今も何をするにも一緒だ。
あの日以来、ブリュイさんとは一度も会っていない。町の人達も忽然と姿を消したブリュイさんに首を捻っていたが、旅の楽師なのだからまた旅に出たのだろうと納得してる。
けれど、私はたまに思うことが在る。
――もしかしたら、ブリュイさんは私のお父様なのかもしれない。
と。
なぜかはわからないけど、ブリュイさんとの思い出や、酒場での話を聞いているうちに、段々とそう思えるようになった。
もし、本当にそうなのだとしたら、いづれまた、会いたいと思う。
それと同時に二度と会えないとも思う。
やっぱり、なぜかはわからないけど……。
そう言えば、私のポケットにはリュナと一緒に作ったお守りが入っている。袋型にしたのは良いけど、中に入れるものがなかったから渡せなかったのだ。
お兄様の誕生日がもう少しでやってくる。
その時になったらこのお守りを渡そうと思う。
私は、気付いたことが在る。
大切なのは、いつだって【想い】なんだ。
このお守りに込めた【想い】に嘘はない。
リュナと、私の想いのこもったお守り。
安っぽいと笑われちゃうかな?
朝が来れば、夜が来る。
夜の暗さは不安に駆られるものだけど、けれど、朝だって夜だって空にはいつも明りが在る。
私の瞳は今も暗闇しかうつさないけど、けれど、いつも傍には月が煌いている。
もう、何も恐れることはない。
いずれ沈んだとしても、私はもう、ちゃんと前を向いて歩いていける。
さぁ、今日もこの美しい旋律を奏でよう。
前を向いて歩けるように。
――月と共に。




