氷の城の春告げ鳥 ~家族に愛されなかった令嬢は、冷酷と噂の辺境伯に溺愛される~
『氷の城の春告げ鳥』
第一話 冷えた靴音と温もりのシチュー
母の足音が廊下の向こうから聞こえたとき、クララ・フォン・リーデンは、まだ扉が開かないうちに立ち上がった。
いつもより靴音が重い。きっと頭痛がするのだろう。クララは机の上の刺繍糸を片づけ、冷めた紅茶を盆に載せた。母は散らかった部屋を見ると、余計に気分が悪くなると言っていた。
床に落ちた糸くずを拾い終えたところで、扉が開いた。
「クララ、エミリアのドレスはまだなの?」
「申し訳ありません、お母様。裾の刺繍は、あと少しで仕上がります」
「明日には仕立て屋が来るのよ。お前は本当に手が遅いわね」
「はい。今夜中に必ず仕上げます」
クララは頭を下げたまま、母の次の言葉を待った。
母がため息をつく。
まだ何か足りないのだ。
「明日は客間のお掃除もあるのに、困った子ね」
「朝食の前に床を磨いておきます。暖炉の灰も片づけますので」
「……そうしてちょうだい」
母の声が少し和らいだ。
クララは胸を撫で下ろした。今度は、母に言われる前に気づくことができた。
「それから、明後日には出発でしょう。荷造りも済ませなさい」
「はい、お母様」
「エミリアの婚礼で忙しいのだから、余計な手間をかけさせないでね」
「承知いたしました」
母が部屋を出ると、クララは足音が階段を下りきるまで動かなかった。
扉の向こうが静かになって、ようやく息を吐く。
今日も母をひどく怒らせずに済んだ。
それだけで、少し安心できた。
机に戻ると、針で刺した指先に血が滲んでいた。クララは布切れで押さえ、白い絹に染みをつけないよう注意して針を動かした。
妹のエミリアが嫁ぐ相手は、ひと月前までクララの婚約者だった青年だった。
「君は一人でも何でもできるだろう。エミリアは僕が守ってやらなければならないんだ」
そう告げられたとき、クララは彼が言葉を探していることに気づき、先に微笑んだ。
「どうか、お気になさらないでください。エミリアを幸せにしてあげてくださいね」
青年はほっとした顔をした。
クララも安心した。最後にまで彼を困らせずに済んだのだから。
領地の帳簿を覚え、刺繍を縫い、礼儀作法を学んだ。それでも彼の心を安らがせることができなかったのは、自分が不器用だったからだろう。
もっと明るく笑えたなら。
もっと可愛らしく甘えられたなら。
母も、彼も、きっと困らずに済んだ。
ほどなくして、クララにも新しい縁談が決まった。
北方のヴォルク辺境伯、ゲオルグ・フォン・ヴォルク。十二歳年上の武人で、戦場では敵に容赦しないことから「氷の狼」と呼ばれているという。
「よかったわね、クララ。お前にも嫁ぎ先ができたのですから、ありがたく思いなさい」
「はい、お母様」
「辺境伯様は厳しい方だそうよ。お前の要領の悪さで、ご迷惑をおかけしてはいけませんよ」
「気をつけます」
「エミリアの婚礼で物入りだから、嫁入り支度は手持ちのもので済ませてちょうだい」
「承知いたしました」
クララはその日のうちに衣装箪笥を開けた。
何度も繕ったドレスが三着と、薄い夜着が二枚。冬用の外套はなかったが、古い肩掛けを重ねれば何とかなるだろう。靴は一足だけで、踵の革が薄くなっていた。
まず、ドレスのほつれを確かめた。嫁ぎ先で破れれば、辺境伯に恥をかかせてしまう。袖口を補強し、靴の裂け目には手持ちの革を当てた。
自分の荷造りが終わると、今度はエミリアの衣装箪笥を整えた。妹が朝になって髪飾りを探さずに済むよう、真珠の櫛を鏡台の上へ置き、婚礼用の手袋も揃えておいた。
出立の朝、母は仕立て屋と相談していた。
クララは部屋の前で立ち止まり、扉に手を伸ばした。
最後に一度だけ、母の手を握りたかった。
幼い頃、熱を出したエミリアの額を撫でていた、あの白く柔らかな手を。
けれど、扉の向こうから母の笑い声が聞こえると、指先を引っ込めた。
今は機嫌よく過ごしていらっしゃる。自分のために呼び出してはいけない。
「行ってまいります、お母様」
クララは小さく頭を下げ、旅行鞄を抱えて屋敷を出た。
北へ向かうにつれ、馬車の窓を流れる景色は白く変わっていった。
十一月の終わりだというのに、山道には深い雪が積もっていた。枯れた木々の枝には氷が張りつき、車輪が凍った轍を越えるたび、馬車が大きく揺れた。
クララは古い肩掛けを胸元でかき合わせた。
薄い革靴の中では足の指がかじかみ、膝に置いた両手も冷たかった。あかぎれのある指先を擦ると痛んだが、膝の下に隠してしまえば御者にも見えない。
「お嬢様、少し休憩なさいますか」
御者が窓越しに声をかけた。
クララは彼の赤くなった鼻先を見た。
きっと寒いのだろう。自分が休憩を頼めば、その間も御者は馬の世話をしなければならない。
「いいえ、大丈夫です。どうぞ先を急いでください」
「ですが、お顔の色が……」
「寒いのには慣れておりますから」
クララは微笑んだ。
「それより、あなたこそ温かいものを召し上がってください。私のことは気になさらずに」
御者は何か言いたそうだったが、やがて帽子を押さえて前を向いた。
夕暮れ前、馬車はようやくヴォルク城に到着した。
灰色の城壁が雪の中にそびえ、尖塔の上では黒い旗が風に翻っている。城門が開くと、冷たい風が馬車の中まで吹き込んだ。
クララは肩掛けを押さえ、雪の積もった石畳に足を下ろした。
靴底から冷たさが突き上げてきた。革の裂け目から雪水が染み込み、足の指先に鋭い痛みが走る。
思わず顔をしかめたが、すぐに表情を整えた。
迎えの人を心配させてはいけない。
「お荷物をお持ちします、奥様」
使用人が手を伸ばした。
「ありがとうございます。でも、これくらいなら自分で持てますから」
「いえ、私どもの仕事でございます」
クララは使用人の手袋を見た。指先に雪がつき、少し濡れている。
自分の鞄など運ばせたら、ますます冷えてしまうだろう。
「お気遣いなく。お手を煩わせては申し訳ありません」
使用人が困ったように眉を下げたとき、城の大扉が開いた。
石段の上に、大柄な男が立っていた。
濃紺の軍服に黒い毛皮の外套。広い肩、頬を斜めに走る古い刀傷、雪明かりを映した金色の瞳。
ゲオルグ・フォン・ヴォルク辺境伯だった。
クララは慌てて鞄を足元に置き、膝を折った。
「クララ・フォン・リーデンと申します。このたびはお迎えいただき、ありがとうございます。到着が遅くなりまして、申し訳ございません」
「道が凍っていたと聞いた。無事で何よりだ」
思っていたよりも穏やかな声だった。
ゲオルグは石段を下り、クララの前で足を止めた。その視線が濡れた靴に落ち、薄いドレスへ移った。
「……その格好で山を越えてきたのか」
クララの背中が強張った。
叱られる。
そう思った瞬間、身体が先に動いていた。肩をすぼめ、両手を重ね、視線を足元へ落とす。
「申し訳ございません。北方の寒さを考えて、もっとふさわしい衣装を用意すべきでした」
「いや、そういう意味では……」
「すぐに身なりを整えます。どうかお許しください」
言い終える前に、ふわりと肩が重くなった。
ゲオルグが自分の外套を脱ぎ、クララに掛けていた。
厚い毛皮が背中を包み、革と針葉樹の匂いが鼻先に届く。内側に残っていた体温が、凍えた首筋へゆっくりと染み込んだ。
「だ、旦那様。いけません。こんな高価なものを……」
「妻が寒がっているのに、外套を着たまま見ているわけにはいかんだろう」
「ですが、雪で汚してしまいます」
「毛皮は雪を防ぐためのものだ。役目を果たしているだけだよ」
ゲオルグはそう言って、手を差し出した。
クララも手を伸ばしかけたが、途中で止めた。
洗濯や床磨きで荒れた指には、いくつものあかぎれがある。手のひらには硬いまめもできていた。こんな手で辺境伯の上等な手袋に触れたら、嫌な思いをさせてしまう。
「どうした?」
「……手が、汚れておりますので」
ゲオルグは彼女の指先を見た。
金色の瞳がわずかに細められた。
クララは息を止めた。
何か言われる。
ところが、ゲオルグは手を下ろし、石段の脇へ退いた。
「わかった。石段が滑るから、ゆっくり歩いてくれ」
「……はい」
クララは一歩踏み出した。
叱られなかった。
けれど、安心するより先に、どうしてだろうという戸惑いが胸に広がった。
城の大広間には、見上げるほど大きな暖炉があった。
太い薪が赤々と燃え、ぱちぱちと乾いた音を立てている。石床には厚い羊毛の絨毯が敷かれ、燭台の蜜蝋が甘く香っていた。
クララは入口で立ち止まった。
暖炉の前には、背もたれの高い椅子が二脚並んでいる。実家では母とエミリアの席だった場所だ。自分はいつも、廊下で呼ばれるのを待っていた。
「クララ、こちらへ」
ゲオルグが暖炉の前の椅子を引いた。
「私が、そこに座ってもよろしいのでしょうか」
「もちろんだ。お前の席だからな」
クララは恐る恐る腰を下ろした。
柔らかなクッションが背中を受け止め、暖炉の熱が濡れた靴を温めていく。
あまりの心地よさに、思わず目を閉じかけた。
そのとき、背後で薪が大きくはぜた。
ぱん、と乾いた音が響いた瞬間、クララは椅子から腰を浮かせた。
「申し訳ありません!」
自分でも、何を謝ったのかわからなかった。
ゲオルグが驚いた顔をする。
「どうした?」
「い、いいえ……」
クララは慌てて座り直し、膝の上で手を重ねた。
ただ薪がはぜただけだ。こんなことで騒いではいけない。
「大きな音がしたな」
ゲオルグは暖炉へ目を向けた。
「この城の薪はよく乾いている。ときどき派手な音を立てるんだ」
「……そうなのですね」
「驚かせたか?」
「いいえ。私が落ち着きなくしてしまって……」
ゲオルグは何か言いかけたが、やめた。
「夕食を用意させている。まずは身体を温めてくれ」
「ありがとうございます。あの、何かお手伝いすることはございませんか」
「手伝い?」
「食器を運ぶことも、お掃除もできます。お裁縫も少しは……」
「長旅のあとだ。今夜は何もしなくていい」
クララは膝の上で指を握った。
何もしなくていい。
母も、時折そう言ってくれることがあった。けれど、言葉どおりに休んでいると、後から困った顔をされた。
「お前は本当に気が利かないのね。私が休んでいいと言ったからといって、何もしなくていいわけではないでしょう」
あのときは、母の気持ちを察せなかった自分が悪かった。
だから、今度は間違えないようにしなければ。
「……では、食後に何かございましたら、何でもお申しつけください」
ゲオルグは彼女を見つめた。
「わかった。必要なことがあれば、きちんと頼むよ」
クララはようやく頷いた。
しばらくして、ゲオルグは書類に目を通し始めた。
マルタは夕食の支度を整え、使用人たちは静かに働いている。誰も怒っていなかった。誰も困っていなかった。暖炉の薪がはぜる音だけが、穏やかな広間に響いていた。
それなのに、クララは少しも落ち着かなかった。
何かしなければ。
このまま座っていては、何の役にも立たない娘だと思われてしまう。
「旦那様、あの……暖炉のお掃除をいたしましょうか」
「いや、今は火が入っている。危ないから座っていてくれ」
「では、書類の整理を……」
「それも大丈夫だ」
「お茶をお淹れいたします」
「クララ、先ほど飲んだばかりだよ」
ゲオルグは穏やかに笑った。
クララも笑おうとしたが、うまくいかなかった。
何も頼んでもらえない。
何もさせてもらえない。
この方は、自分に何も期待していらっしゃらないのだろうか。
クララは膝の上で指を握りしめた。爪があかぎれに食い込み、ちくりと痛んだ。その痛みで、少しだけ気持ちが落ち着いた。
「……私、何かお役に立ちたいのです」
ゲオルグが書類から顔を上げた。
「そうか。ありがとう」
クララは期待して彼を見つめた。
「では、何をすれば……」
「今夜は、温かいシチューを食べてくれ。それだけで十分だ」
クララは言葉を失った。
食事をするだけでは、誰の役にも立たない。
それなのに、旦那様は優しく微笑んでいる。
その笑顔が、どうしようもなく怖かった。
ほどなくして、白い陶器の深皿が運ばれてきた。
鹿肉と根菜のクリームシチューだった。
乳白色の汁の中には、柔らかく煮込まれた蕪と人参、飴色の玉葱、肉厚の茸がたっぷり入っている。刻んだ香草の緑が鮮やかで、湯気とともにバターと胡椒の香りが立ちのぼった。
籠に盛られた黒パンは焼きたてらしく、皮がつやつやと光っていた。
クララのお腹が、小さく鳴った。
頬が熱くなる。
「申し訳ございません。お行儀が悪くて……」
「腹が減っているんだろう。冷めないうちに食べよう」
ゲオルグは気にした様子もなくパンをちぎった。
クララは銀の匙を持ち上げたが、すぐには口へ運べなかった。
まだ何も働いていない。
こんな立派な食事をいただいて、あとで叱られないだろうか。
「口に合わないか?」
「いいえ、とんでもございません。ただ……」
「ただ?」
「私、まだ何のお仕事もしておりませんのに、こんなご馳走をいただいてもよろしいのでしょうか」
ゲオルグの手が止まった。
クララはその動きを見逃さなかった。
匙を置き、背筋を伸ばす。
「申し訳ありません。食後には食器を洗わせてください。床のお掃除もできますので」
「クララ」
低い声がした。
クララは反射的に頭を下げた。
「はい」
「顔を上げてくれ」
クララはゆっくり顔を上げた。
ゲオルグは怒っていなかった。
「今夜は食事を楽しんでほしい。片づけは城の者に任せよう」
「……はい」
「腹を空かせたままでは、明日のことも考えられんからな」
ゲオルグが少し笑ったので、クララもようやく匙を口へ運んだ。
熱いシチューが舌の上に広がった。
蕪はほろりと崩れ、鹿肉は驚くほど柔らかい。根菜の甘みが濃厚なクリームに溶け込み、香草の爽やかな香りが鼻へ抜けた。
美味しい。
もう一匙、食べたい。
そう思った瞬間、クララは匙を止めた。
こんなに美味しいものを好きになってしまって、もし明日から食べられなくなったら、きっと悲しい。
実家でも、母が珍しく焼き菓子を分けてくれたことがあった。嬉しくて何度もお礼を言った翌日、エミリアの刺繍を夜通し仕上げるよう頼まれた。眠くて針を落とすと、母は悲しそうに言った。
「昨日あんなによくしてあげたのに、お前は本当に気が利かないのね」
母をがっかりさせた自分が悪かった。
けれど、それからは何かをいただくたびに、次は何をすればいいのかと考えるようになった。
クララは皿の中を見つめた。
シチューはまだたっぷり残っている。
残してはいけない。せっかく用意してくださったのだから、綺麗に食べなければ。
クララは急いで匙を動かした。
熱い汁が舌に触れ、思わず顔をしかめる。それでも手を止めなかった。
「クララ、そんなに急がなくていい」
ゲオルグの声に、クララの手が止まった。
「申し訳ありません。食べ方が汚かったでしょうか」
「いや、熱そうだったからな」
「大丈夫です。すぐにいただきます」
「急ぐ必要はない。ゆっくり食べてくれ」
クララは匙を置いた。
ゆっくり食べていい。
けれど、どのくらいゆっくりなら許されるのだろう。
ゲオルグがパンをちぎる音を聞きながら、クララはその速さに合わせて匙を動かした。
相手より先に食べ終わってはいけない。相手を待たせてもいけない。
何が正しいのか考えるうちに、胸が苦しくなってきた。
ゲオルグが水杯へ手を伸ばした。
クララはすぐに水差しを持ち上げた。
「お注ぎいたします」
「ありがとう。だが、自分でできるぞ」
「申し訳ありません」
クララは水差しを戻した。
今度は給仕の青年が皿を運んできた。クララは青年の両手が塞がっているのを見ると、椅子から立ち上がりかけた。
「私が扉を……」
「奥様、どうぞお座りください」
青年が慌てて言った。
クララは椅子へ戻った。
何もしないほうがいいのだろうか。
けれど、何もせずにいると、あとで気が利かないと思われるかもしれない。
クララは膝の上で指を握り、ゲオルグの表情をうかがった。
「クララ?」
声をかけられ、慌てて微笑む。
「とても美味しゅうございます」
「そうか。それはよかった」
ゲオルグは嬉しそうに頷いた。
その顔を見た途端、クララの目に涙が浮かんだ。
どうしてだろう。
何かを差し出さなくても、喜んでもらえた。
それが嬉しいのに、同じくらい怖かった。
今は優しくしてくださっている。でも、いつか自分の欠点に気づかれたら、この方もがっかりなさるだろう。そうなったとき、今日の温かさを思い出したら、どんなに悲しいだろう。
涙が一粒、皿の縁に落ちた。
「あっ……申し訳ございません」
クララは慌てて袖で頬を拭った。
「せっかくのお食事なのに、私……」
ゲオルグが椅子を引いた。
その音に、クララは反射的に肩をすくめた。
叱られる。
身体が固まり、息が止まった。
ところが、怒声は降ってこなかった。
「クララ」
恐る恐る顔を上げると、ゲオルグは椅子の脇で片膝をついていた。
大柄な男が、彼女と目線を合わせるために身を低くしている。
「泣いたことを謝る必要はない」
「ですが……」
「悲しくて泣くこともあるし、嬉しくて泣くこともある。理由がわからないときだってあるだろう」
クララの唇が震えた。
「私……どうして涙が出るのか、わからないのです」
「そうか」
ゲオルグはそれ以上、尋ねなかった。
「無理に話さなくていい。シチューはまだ温かいぞ」
クララは小さく頷いた。
「……もう少し、いただいてもよろしいでしょうか」
「もちろんだ。鍋にはまだたっぷりある」
クララは黒パンをちぎり、シチューに浸した。
温かな汁を吸ったパンは柔らかく、噛むたびに麦の甘みが広がった。
涙はなかなか止まらなかったが、ゲオルグは何も言わず、向かいの席で一緒に食事を続けてくれた。
食事が終わる頃、クララは思い切って尋ねた。
「あの……明日も、こちらでお食事をいただいてよろしいのでしょうか」
ゲオルグは少し驚いた顔をした。
「もちろんだ。ここはお前の家になるのだから」
「……そう、なのですね」
クララは胸の奥が温かくなるのを感じた。
けれど同時に、明日になれば気が変わってしまうかもしれない、とも思った。
今日が特別な日だっただけかもしれない。
期待しすぎてはいけない。
そう自分に言い聞かせながら、クララは最後の一匙を口へ運んだ。
食後、侍女長のマルタが寝室へ案内してくれた。
部屋には大きな寝台があり、厚い羽毛布団がふっくらと盛り上がっていた。暖炉のそばには柔らかな室内履きが置かれ、窓辺には小さな黄色い花が飾られている。
洗面台には湯気の立つお湯が用意され、石鹸からはラベンダーの香りが漂っていた。
「奥様、お着替えをお手伝いいたします」
マルタが微笑むと、クララは慌てて首を振った。
「いいえ、自分でできます。どうぞ、ほかのお仕事をなさってください」
「ですが、奥様のお世話が私の仕事でございますから」
「……申し訳ありません」
クララが困ったように俯くと、マルタは少し考え、まず濡れた靴を脱ぐ手伝いを申し出た。
靴下は薄く、かかとには何度も繕った跡があった。足の指先は赤く腫れ、革靴の内側まで雪水が染み込んでいた。
「まあ、奥様。お足がこんなに冷えて……」
「大丈夫です。昔から寒いのには慣れておりますから」
クララは笑おうとした。
けれど、マルタは笑わなかった。
続いてドレスの留め具を外そうとしたとき、クララの手が燭台の明かりに照らされた。
指の節には深いあかぎれがあり、爪の周りの皮膚は赤く裂けている。手のひらには硬いまめがいくつもできていた。
「奥様……お手が痛むのではございませんか」
クララは慌てて両手を引っ込めた。
「見苦しい手で申し訳ありません。私、あまり器用ではなくて……。お洗濯をすると、いつもこうなってしまうのです」
「お洗濯を、奥様が?」
「はい。母は身体が弱く、妹も家事には向いておりませんでしたから。私が少しでもお役に立てればと思って……」
クララは不安になって、マルタの顔を見た。
「こちらでは、お洗濯の仕方が違うのでしょうか。教えていただければ、すぐに覚えます」
「いいえ、奥様。そういうことではございません」
マルタは優しく首を振った。
「今夜は、まずお手を温めましょう」
マルタが洗面台の湯を運んでくると、クララは慌てて立ち上がった。
「私が持ちます」
「奥様、どうぞお座りください」
「ですが、重いでしょうから……」
「大丈夫でございますよ」
マルタが微笑んだ。
クララは椅子に座り直したが、両手を膝の上で握ったまま、じっと湯の入った器を見つめていた。
こんなにたくさんのお湯を使っていいのだろうか。
薪を余計に使わせてしまったのではないだろうか。
クララは指先だけをそっと湯に浸した。
「奥様、もっと深くお入れになってくださいませ」
「……はい」
温かい湯が手のひらを包んだ。
あかぎれに少し染みたが、それ以上に気持ちよかった。
思わず肩の力が抜ける。
けれど、マルタが布を取りに背を向けた瞬間、クララは慌てて手を引き上げた。
長く使ってはいけない。自分のために、こんなにお湯を使わせてはいけない。
持参した鞄を開けると、古いドレスが三着と、薄い夜着が二枚出てきた。
マルタは一着ずつ丁寧に取り出した。
「奥様、ほかのお荷物は後から届くのでしょうか」
「いいえ。これで全部です」
「冬の外套や、替えのお靴は……」
「持っておりません。でも、どれもまだ着られます。裾も自分で繕いましたから」
クララは一番上のドレスを広げて見せた。
袖口には細かな刺繍が施され、擦り切れた布地が目立たないように工夫されていた。
「こちらなら、少し手を入れれば、まだ使えると思うのです」
「……とても丁寧なお針仕事でございますね」
マルタがそう言うと、クララはほっとした。
「ありがとうございます。母にも、もっと上手になりなさいと言われておりましたので」
マルタはしばらく黙っていた。
クララはその沈黙に気づき、慌ててドレスを畳んだ。
「申し訳ありません。私、おしゃべりが過ぎましたね」
「いいえ、奥様」
マルタは柔らかく微笑んだ。
「お話を聞かせていただけて、嬉しゅうございました」
クララは目を瞬かせた。
そんなことを言われたのは、初めてだった。
やがて薄い夜着に着替え、羽毛布団へ潜り込むと、身体がふわりと沈んだ。
「奥様、今夜はゆっくりお休みくださいませ」
「あの、マルタさん」
「はい」
「このお部屋を、私が使ってもよろしいのでしょうか」
「もちろんでございます」
「……汚さないように気をつけます」
マルタは一瞬、悲しそうな顔をした。
けれどすぐに、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「何もご心配なさらず、お休みくださいませ」
扉が閉まると、クララは布団の中でそっと息を吐いた。
温かい。
寒くない夜が、こんなに静かなものだとは知らなかった。
けれど、眠ろうとしても、なかなか目を閉じられなかった。
廊下で足音がすると、身体が強張った。
誰かが来る。
何か用事があるのかもしれない。
クララは布団をめくり、いつでも立ち上がれるように足を床へ下ろした。
足音は扉の前を通り過ぎ、遠ざかっていった。
クララはしばらくそのまま座っていた。
もう一度布団に入ると、今度は暖炉の薪が大きくはぜた。
肩が跳ねた。
大丈夫。ただの薪の音だ。
そう言い聞かせても、胸の鼓動はなかなか落ち着かなかった。
クララはひび割れた指先を見つめた。
マルタは、その手を汚いとは言わなかった。
ゲオルグも、手を差し出すことをためらった自分を叱らなかった。
どうしてだろう。
自分がもっとよい娘だったなら、母も優しくしてくれたはずだ。もっと上手に笑えれば、婚約者も妹を選ばなかったかもしれない。
今も、そう思っている。
それでも、今日のシチューは美味しかった。
泣いても叱られなかった。
明日の朝も同じ席に座っていいと言われた。
クララは布団を鼻先まで引き上げた。
明日も、あの方は優しくしてくださるだろうか。
それとも、今夜の自分の振る舞いを思い返して、がっかりなさるだろうか。
考えるほど怖くなった。
けれど、胸の奥には、消そうとしても消えない小さな楽しみがあった。
明日の朝には、焼きたてのパンが出るだろうか。
それとも、温かなミルクだろうか。
そんなことを考えてしまう自分が恥ずかしくて、クララは目を閉じた。
期待してはいけない。
期待すると、悲しくなるから。
それでも、雪嵐の音を遠くに聞きながら、クララは生まれて初めて、明日の朝が来るのを少しだけ楽しみに思った。
その頃、マルタはゲオルグの執務室を訪ねていた。
「旦那様、少々よろしいでしょうか」
「マルタか。クララは休んだか」
「はい。お部屋にお入りになりました」
マルタは扉を閉め、静かに頭を下げた。
「旦那様、一つお耳に入れておきたいことがございます」
「何だ」
「奥様のお手が、ひどく荒れておいででした」
ゲオルグは顔を上げた。
「荒れている?」
「はい。指の節にはあかぎれがあり、手のひらには硬いまめがございます。長年、冷たい水で洗濯や床磨きを続けてきた方のお手です」
ゲオルグは城門で見たクララの指先を思い出した。
寒さのせいばかりではなかったのか。
「それだけではございません。奥様のお荷物は、何度も繕われたドレスが三着と、薄い夜着が二枚だけ。冬用の外套も、替えのお靴もございません」
「……それが、嫁入り支度のすべてか」
「はい」
ゲオルグは黙り込んだ。
北方では、貧しい村の者でさえ、冬を越すための厚手の衣服を何より大切にする。雪の中を薄い革靴で歩かせれば、足を傷めることくらい誰でも知っていた。
「旦那様」
マルタは悲しげに眉を寄せた。
「奥様は、いったいどのようなお育ち方をなさったのでしょうか」
ゲオルグは答えられなかった。
「お着替えをお手伝いしようとしたときも、奥様は何度も謝っておいででした。お湯を使うことさえ遠慮なさって……。温かい寝台をご覧になっても、ご自分が使ってよいのかとお尋ねになるのです」
マルタの声がわずかに震えた。
「何かをして差し上げるたびに、奥様は申し訳なさそうなお顔をなさいます」
ゲオルグはゆっくりと目を閉じた。
温かなシチューを一皿食べることにさえ、許しを求めていた女性。
泣いた瞬間、叱られると思ったのか、肩をすくめた女性。
胸の奥に、冷たい怒りが湧き上がった。
だが、その怒りをクララに見せてはいけない。
彼女はきっと、自分が何か悪いことをしたのだと思うだろう。
「マルタ」
「はい、旦那様」
「明日の朝、仕立て屋を呼んでくれ。冬のドレスと外套、それに靴を用意させよう。本人に布を選んでもらいたい」
「かしこまりました」
「手荒れに効く軟膏も頼む。足の状態が気になるから、医師にも相談しておいてくれ。ただし、本人が嫌がるなら無理強いはしない」
「承知いたしました」
マルタは深く頭を下げた。
「旦那様……奥様は、とてもお優しい方でございますね」
「ああ」
ゲオルグは短く答えた。
「だからこそ、これ以上、無理をさせたくない」
マルタが退出したあと、ゲオルグはしばらく執務机の前に座っていた。
彼には、吹雪の中で若い兵士を一人失った記憶があった。
助けを求める声に間に合わず、冷たくなった身体を抱き上げた日のことを、今も忘れられない。
守ると口にするのは簡単だ。
だが、本当に誰かを守るには、剣の腕だけでは足りない。
寒さを防ぐ衣服があり、腹を満たす食事があり、安心して眠れる寝台があること。そして、困っているときに助けを求めても、責められないこと。
ゲオルグは窓の外へ目を向けた。
雪が激しく降っていた。
「……明日も、温かい朝食を用意させよう」
誰に聞かせるでもなく、彼は呟いた。
クララの寝室では、暖炉の火が静かに燃えていた。
眠りかけたクララは、廊下を通る足音に一度だけ目を覚ました。
身体が先に起き上がろうとしたが、足音はそのまま遠ざかっていった。
誰も扉を開けなかった。
誰も仕事を言いつけなかった。
クララはしばらく耳を澄ませ、それから恐る恐る布団へ身体を戻した。
柔らかな羽毛が肩を包む。
今夜は、もう起きなくてもいいのだろうか。
そう思うことさえ怖かったが、瞼は少しずつ重くなっていった。
窓の向こうでは、雪嵐が城壁を叩いている。
春はまだ遠い。
それでもクララは、明日の朝に温かなパンがあるかもしれないと思いながら、ようやく眠りについた。




