↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

氷の城の春告げ鳥 ~家族に愛されなかった令嬢は、冷酷と噂の辺境伯に溺愛される~

掲載日:2026/11/07

『氷の城の春告げ鳥』


第一話 冷えた靴音と温もりのシチュー


 母の足音が廊下の向こうから聞こえたとき、クララ・フォン・リーデンは、まだ扉が開かないうちに立ち上がった。


 いつもより靴音が重い。きっと頭痛がするのだろう。クララは机の上の刺繍糸を片づけ、冷めた紅茶を盆に載せた。母は散らかった部屋を見ると、余計に気分が悪くなると言っていた。


 床に落ちた糸くずを拾い終えたところで、扉が開いた。


「クララ、エミリアのドレスはまだなの?」


「申し訳ありません、お母様。裾の刺繍は、あと少しで仕上がります」


「明日には仕立て屋が来るのよ。お前は本当に手が遅いわね」


「はい。今夜中に必ず仕上げます」


 クララは頭を下げたまま、母の次の言葉を待った。


 母がため息をつく。


 まだ何か足りないのだ。


「明日は客間のお掃除もあるのに、困った子ね」


「朝食の前に床を磨いておきます。暖炉の灰も片づけますので」


「……そうしてちょうだい」


 母の声が少し和らいだ。


 クララは胸を撫で下ろした。今度は、母に言われる前に気づくことができた。


「それから、明後日には出発でしょう。荷造りも済ませなさい」


「はい、お母様」


「エミリアの婚礼で忙しいのだから、余計な手間をかけさせないでね」


「承知いたしました」


 母が部屋を出ると、クララは足音が階段を下りきるまで動かなかった。


 扉の向こうが静かになって、ようやく息を吐く。


 今日も母をひどく怒らせずに済んだ。


 それだけで、少し安心できた。


 机に戻ると、針で刺した指先に血が滲んでいた。クララは布切れで押さえ、白い絹に染みをつけないよう注意して針を動かした。


 妹のエミリアが嫁ぐ相手は、ひと月前までクララの婚約者だった青年だった。


「君は一人でも何でもできるだろう。エミリアは僕が守ってやらなければならないんだ」


 そう告げられたとき、クララは彼が言葉を探していることに気づき、先に微笑んだ。


「どうか、お気になさらないでください。エミリアを幸せにしてあげてくださいね」


 青年はほっとした顔をした。


 クララも安心した。最後にまで彼を困らせずに済んだのだから。


 領地の帳簿を覚え、刺繍を縫い、礼儀作法を学んだ。それでも彼の心を安らがせることができなかったのは、自分が不器用だったからだろう。


 もっと明るく笑えたなら。


 もっと可愛らしく甘えられたなら。


 母も、彼も、きっと困らずに済んだ。


 ほどなくして、クララにも新しい縁談が決まった。


 北方のヴォルク辺境伯、ゲオルグ・フォン・ヴォルク。十二歳年上の武人で、戦場では敵に容赦しないことから「氷の狼」と呼ばれているという。


「よかったわね、クララ。お前にも嫁ぎ先ができたのですから、ありがたく思いなさい」


「はい、お母様」


「辺境伯様は厳しい方だそうよ。お前の要領の悪さで、ご迷惑をおかけしてはいけませんよ」


「気をつけます」


「エミリアの婚礼で物入りだから、嫁入り支度は手持ちのもので済ませてちょうだい」


「承知いたしました」


 クララはその日のうちに衣装箪笥を開けた。


 何度も繕ったドレスが三着と、薄い夜着が二枚。冬用の外套はなかったが、古い肩掛けを重ねれば何とかなるだろう。靴は一足だけで、踵の革が薄くなっていた。


 まず、ドレスのほつれを確かめた。嫁ぎ先で破れれば、辺境伯に恥をかかせてしまう。袖口を補強し、靴の裂け目には手持ちの革を当てた。


 自分の荷造りが終わると、今度はエミリアの衣装箪笥を整えた。妹が朝になって髪飾りを探さずに済むよう、真珠の櫛を鏡台の上へ置き、婚礼用の手袋も揃えておいた。


 出立の朝、母は仕立て屋と相談していた。


 クララは部屋の前で立ち止まり、扉に手を伸ばした。


 最後に一度だけ、母の手を握りたかった。


 幼い頃、熱を出したエミリアの額を撫でていた、あの白く柔らかな手を。


 けれど、扉の向こうから母の笑い声が聞こえると、指先を引っ込めた。


 今は機嫌よく過ごしていらっしゃる。自分のために呼び出してはいけない。


「行ってまいります、お母様」


 クララは小さく頭を下げ、旅行鞄を抱えて屋敷を出た。


 北へ向かうにつれ、馬車の窓を流れる景色は白く変わっていった。


 十一月の終わりだというのに、山道には深い雪が積もっていた。枯れた木々の枝には氷が張りつき、車輪が凍った轍を越えるたび、馬車が大きく揺れた。


 クララは古い肩掛けを胸元でかき合わせた。


 薄い革靴の中では足の指がかじかみ、膝に置いた両手も冷たかった。あかぎれのある指先を擦ると痛んだが、膝の下に隠してしまえば御者にも見えない。


「お嬢様、少し休憩なさいますか」


 御者が窓越しに声をかけた。


 クララは彼の赤くなった鼻先を見た。


 きっと寒いのだろう。自分が休憩を頼めば、その間も御者は馬の世話をしなければならない。


「いいえ、大丈夫です。どうぞ先を急いでください」


「ですが、お顔の色が……」


「寒いのには慣れておりますから」


 クララは微笑んだ。


「それより、あなたこそ温かいものを召し上がってください。私のことは気になさらずに」


 御者は何か言いたそうだったが、やがて帽子を押さえて前を向いた。


 夕暮れ前、馬車はようやくヴォルク城に到着した。


 灰色の城壁が雪の中にそびえ、尖塔の上では黒い旗が風に翻っている。城門が開くと、冷たい風が馬車の中まで吹き込んだ。


 クララは肩掛けを押さえ、雪の積もった石畳に足を下ろした。


 靴底から冷たさが突き上げてきた。革の裂け目から雪水が染み込み、足の指先に鋭い痛みが走る。


 思わず顔をしかめたが、すぐに表情を整えた。


 迎えの人を心配させてはいけない。


「お荷物をお持ちします、奥様」


 使用人が手を伸ばした。


「ありがとうございます。でも、これくらいなら自分で持てますから」


「いえ、私どもの仕事でございます」


 クララは使用人の手袋を見た。指先に雪がつき、少し濡れている。


 自分の鞄など運ばせたら、ますます冷えてしまうだろう。


「お気遣いなく。お手を煩わせては申し訳ありません」


 使用人が困ったように眉を下げたとき、城の大扉が開いた。


 石段の上に、大柄な男が立っていた。


 濃紺の軍服に黒い毛皮の外套。広い肩、頬を斜めに走る古い刀傷、雪明かりを映した金色の瞳。


 ゲオルグ・フォン・ヴォルク辺境伯だった。


 クララは慌てて鞄を足元に置き、膝を折った。


「クララ・フォン・リーデンと申します。このたびはお迎えいただき、ありがとうございます。到着が遅くなりまして、申し訳ございません」


「道が凍っていたと聞いた。無事で何よりだ」


 思っていたよりも穏やかな声だった。


 ゲオルグは石段を下り、クララの前で足を止めた。その視線が濡れた靴に落ち、薄いドレスへ移った。


「……その格好で山を越えてきたのか」


 クララの背中が強張った。


 叱られる。


 そう思った瞬間、身体が先に動いていた。肩をすぼめ、両手を重ね、視線を足元へ落とす。


「申し訳ございません。北方の寒さを考えて、もっとふさわしい衣装を用意すべきでした」


「いや、そういう意味では……」


「すぐに身なりを整えます。どうかお許しください」


 言い終える前に、ふわりと肩が重くなった。


 ゲオルグが自分の外套を脱ぎ、クララに掛けていた。


 厚い毛皮が背中を包み、革と針葉樹の匂いが鼻先に届く。内側に残っていた体温が、凍えた首筋へゆっくりと染み込んだ。


「だ、旦那様。いけません。こんな高価なものを……」


「妻が寒がっているのに、外套を着たまま見ているわけにはいかんだろう」


「ですが、雪で汚してしまいます」


「毛皮は雪を防ぐためのものだ。役目を果たしているだけだよ」


 ゲオルグはそう言って、手を差し出した。


 クララも手を伸ばしかけたが、途中で止めた。


 洗濯や床磨きで荒れた指には、いくつものあかぎれがある。手のひらには硬いまめもできていた。こんな手で辺境伯の上等な手袋に触れたら、嫌な思いをさせてしまう。


「どうした?」


「……手が、汚れておりますので」


 ゲオルグは彼女の指先を見た。


 金色の瞳がわずかに細められた。


 クララは息を止めた。


 何か言われる。


 ところが、ゲオルグは手を下ろし、石段の脇へ退いた。


「わかった。石段が滑るから、ゆっくり歩いてくれ」


「……はい」


 クララは一歩踏み出した。


 叱られなかった。


 けれど、安心するより先に、どうしてだろうという戸惑いが胸に広がった。


 城の大広間には、見上げるほど大きな暖炉があった。


 太い薪が赤々と燃え、ぱちぱちと乾いた音を立てている。石床には厚い羊毛の絨毯が敷かれ、燭台の蜜蝋が甘く香っていた。


 クララは入口で立ち止まった。


 暖炉の前には、背もたれの高い椅子が二脚並んでいる。実家では母とエミリアの席だった場所だ。自分はいつも、廊下で呼ばれるのを待っていた。


「クララ、こちらへ」


 ゲオルグが暖炉の前の椅子を引いた。


「私が、そこに座ってもよろしいのでしょうか」


「もちろんだ。お前の席だからな」


 クララは恐る恐る腰を下ろした。


 柔らかなクッションが背中を受け止め、暖炉の熱が濡れた靴を温めていく。


 あまりの心地よさに、思わず目を閉じかけた。


 そのとき、背後で薪が大きくはぜた。


 ぱん、と乾いた音が響いた瞬間、クララは椅子から腰を浮かせた。


「申し訳ありません!」


 自分でも、何を謝ったのかわからなかった。


 ゲオルグが驚いた顔をする。


「どうした?」


「い、いいえ……」


 クララは慌てて座り直し、膝の上で手を重ねた。


 ただ薪がはぜただけだ。こんなことで騒いではいけない。


「大きな音がしたな」


 ゲオルグは暖炉へ目を向けた。


「この城の薪はよく乾いている。ときどき派手な音を立てるんだ」


「……そうなのですね」


「驚かせたか?」


「いいえ。私が落ち着きなくしてしまって……」


 ゲオルグは何か言いかけたが、やめた。


「夕食を用意させている。まずは身体を温めてくれ」


「ありがとうございます。あの、何かお手伝いすることはございませんか」


「手伝い?」


「食器を運ぶことも、お掃除もできます。お裁縫も少しは……」


「長旅のあとだ。今夜は何もしなくていい」


 クララは膝の上で指を握った。


 何もしなくていい。


 母も、時折そう言ってくれることがあった。けれど、言葉どおりに休んでいると、後から困った顔をされた。


「お前は本当に気が利かないのね。私が休んでいいと言ったからといって、何もしなくていいわけではないでしょう」


 あのときは、母の気持ちを察せなかった自分が悪かった。


 だから、今度は間違えないようにしなければ。


「……では、食後に何かございましたら、何でもお申しつけください」


 ゲオルグは彼女を見つめた。


「わかった。必要なことがあれば、きちんと頼むよ」


 クララはようやく頷いた。


 しばらくして、ゲオルグは書類に目を通し始めた。


 マルタは夕食の支度を整え、使用人たちは静かに働いている。誰も怒っていなかった。誰も困っていなかった。暖炉の薪がはぜる音だけが、穏やかな広間に響いていた。


 それなのに、クララは少しも落ち着かなかった。


 何かしなければ。


 このまま座っていては、何の役にも立たない娘だと思われてしまう。


「旦那様、あの……暖炉のお掃除をいたしましょうか」


「いや、今は火が入っている。危ないから座っていてくれ」


「では、書類の整理を……」


「それも大丈夫だ」


「お茶をお淹れいたします」


「クララ、先ほど飲んだばかりだよ」


 ゲオルグは穏やかに笑った。


 クララも笑おうとしたが、うまくいかなかった。


 何も頼んでもらえない。


 何もさせてもらえない。


 この方は、自分に何も期待していらっしゃらないのだろうか。


 クララは膝の上で指を握りしめた。爪があかぎれに食い込み、ちくりと痛んだ。その痛みで、少しだけ気持ちが落ち着いた。


「……私、何かお役に立ちたいのです」


 ゲオルグが書類から顔を上げた。


「そうか。ありがとう」


 クララは期待して彼を見つめた。


「では、何をすれば……」


「今夜は、温かいシチューを食べてくれ。それだけで十分だ」


 クララは言葉を失った。


 食事をするだけでは、誰の役にも立たない。


 それなのに、旦那様は優しく微笑んでいる。


 その笑顔が、どうしようもなく怖かった。


 ほどなくして、白い陶器の深皿が運ばれてきた。


 鹿肉と根菜のクリームシチューだった。


 乳白色の汁の中には、柔らかく煮込まれた蕪と人参、飴色の玉葱、肉厚の茸がたっぷり入っている。刻んだ香草の緑が鮮やかで、湯気とともにバターと胡椒の香りが立ちのぼった。


 籠に盛られた黒パンは焼きたてらしく、皮がつやつやと光っていた。


 クララのお腹が、小さく鳴った。


 頬が熱くなる。


「申し訳ございません。お行儀が悪くて……」


「腹が減っているんだろう。冷めないうちに食べよう」


 ゲオルグは気にした様子もなくパンをちぎった。


 クララは銀の匙を持ち上げたが、すぐには口へ運べなかった。


 まだ何も働いていない。


 こんな立派な食事をいただいて、あとで叱られないだろうか。


「口に合わないか?」


「いいえ、とんでもございません。ただ……」


「ただ?」


「私、まだ何のお仕事もしておりませんのに、こんなご馳走をいただいてもよろしいのでしょうか」


 ゲオルグの手が止まった。


 クララはその動きを見逃さなかった。


 匙を置き、背筋を伸ばす。


「申し訳ありません。食後には食器を洗わせてください。床のお掃除もできますので」


「クララ」


 低い声がした。


 クララは反射的に頭を下げた。


「はい」


「顔を上げてくれ」


 クララはゆっくり顔を上げた。


 ゲオルグは怒っていなかった。


「今夜は食事を楽しんでほしい。片づけは城の者に任せよう」


「……はい」


「腹を空かせたままでは、明日のことも考えられんからな」


 ゲオルグが少し笑ったので、クララもようやく匙を口へ運んだ。


 熱いシチューが舌の上に広がった。


 蕪はほろりと崩れ、鹿肉は驚くほど柔らかい。根菜の甘みが濃厚なクリームに溶け込み、香草の爽やかな香りが鼻へ抜けた。


 美味しい。


 もう一匙、食べたい。


 そう思った瞬間、クララは匙を止めた。


 こんなに美味しいものを好きになってしまって、もし明日から食べられなくなったら、きっと悲しい。


 実家でも、母が珍しく焼き菓子を分けてくれたことがあった。嬉しくて何度もお礼を言った翌日、エミリアの刺繍を夜通し仕上げるよう頼まれた。眠くて針を落とすと、母は悲しそうに言った。


「昨日あんなによくしてあげたのに、お前は本当に気が利かないのね」


 母をがっかりさせた自分が悪かった。


 けれど、それからは何かをいただくたびに、次は何をすればいいのかと考えるようになった。


 クララは皿の中を見つめた。


 シチューはまだたっぷり残っている。


 残してはいけない。せっかく用意してくださったのだから、綺麗に食べなければ。


 クララは急いで匙を動かした。


 熱い汁が舌に触れ、思わず顔をしかめる。それでも手を止めなかった。


「クララ、そんなに急がなくていい」


 ゲオルグの声に、クララの手が止まった。


「申し訳ありません。食べ方が汚かったでしょうか」


「いや、熱そうだったからな」


「大丈夫です。すぐにいただきます」


「急ぐ必要はない。ゆっくり食べてくれ」


 クララは匙を置いた。


 ゆっくり食べていい。


 けれど、どのくらいゆっくりなら許されるのだろう。


 ゲオルグがパンをちぎる音を聞きながら、クララはその速さに合わせて匙を動かした。


 相手より先に食べ終わってはいけない。相手を待たせてもいけない。


 何が正しいのか考えるうちに、胸が苦しくなってきた。


 ゲオルグが水杯へ手を伸ばした。


 クララはすぐに水差しを持ち上げた。


「お注ぎいたします」


「ありがとう。だが、自分でできるぞ」


「申し訳ありません」


 クララは水差しを戻した。


 今度は給仕の青年が皿を運んできた。クララは青年の両手が塞がっているのを見ると、椅子から立ち上がりかけた。


「私が扉を……」


「奥様、どうぞお座りください」


 青年が慌てて言った。


 クララは椅子へ戻った。


 何もしないほうがいいのだろうか。


 けれど、何もせずにいると、あとで気が利かないと思われるかもしれない。


 クララは膝の上で指を握り、ゲオルグの表情をうかがった。


「クララ?」


 声をかけられ、慌てて微笑む。


「とても美味しゅうございます」


「そうか。それはよかった」


 ゲオルグは嬉しそうに頷いた。


 その顔を見た途端、クララの目に涙が浮かんだ。


 どうしてだろう。


 何かを差し出さなくても、喜んでもらえた。


 それが嬉しいのに、同じくらい怖かった。


 今は優しくしてくださっている。でも、いつか自分の欠点に気づかれたら、この方もがっかりなさるだろう。そうなったとき、今日の温かさを思い出したら、どんなに悲しいだろう。


 涙が一粒、皿の縁に落ちた。


「あっ……申し訳ございません」


 クララは慌てて袖で頬を拭った。


「せっかくのお食事なのに、私……」


 ゲオルグが椅子を引いた。


 その音に、クララは反射的に肩をすくめた。


 叱られる。


 身体が固まり、息が止まった。


 ところが、怒声は降ってこなかった。


「クララ」


 恐る恐る顔を上げると、ゲオルグは椅子の脇で片膝をついていた。


 大柄な男が、彼女と目線を合わせるために身を低くしている。


「泣いたことを謝る必要はない」


「ですが……」


「悲しくて泣くこともあるし、嬉しくて泣くこともある。理由がわからないときだってあるだろう」


 クララの唇が震えた。


「私……どうして涙が出るのか、わからないのです」


「そうか」


 ゲオルグはそれ以上、尋ねなかった。


「無理に話さなくていい。シチューはまだ温かいぞ」


 クララは小さく頷いた。


「……もう少し、いただいてもよろしいでしょうか」


「もちろんだ。鍋にはまだたっぷりある」


 クララは黒パンをちぎり、シチューに浸した。


 温かな汁を吸ったパンは柔らかく、噛むたびに麦の甘みが広がった。


 涙はなかなか止まらなかったが、ゲオルグは何も言わず、向かいの席で一緒に食事を続けてくれた。


 食事が終わる頃、クララは思い切って尋ねた。


「あの……明日も、こちらでお食事をいただいてよろしいのでしょうか」


 ゲオルグは少し驚いた顔をした。


「もちろんだ。ここはお前の家になるのだから」


「……そう、なのですね」


 クララは胸の奥が温かくなるのを感じた。


 けれど同時に、明日になれば気が変わってしまうかもしれない、とも思った。


 今日が特別な日だっただけかもしれない。


 期待しすぎてはいけない。


 そう自分に言い聞かせながら、クララは最後の一匙を口へ運んだ。


 食後、侍女長のマルタが寝室へ案内してくれた。


 部屋には大きな寝台があり、厚い羽毛布団がふっくらと盛り上がっていた。暖炉のそばには柔らかな室内履きが置かれ、窓辺には小さな黄色い花が飾られている。


 洗面台には湯気の立つお湯が用意され、石鹸からはラベンダーの香りが漂っていた。


「奥様、お着替えをお手伝いいたします」


 マルタが微笑むと、クララは慌てて首を振った。


「いいえ、自分でできます。どうぞ、ほかのお仕事をなさってください」


「ですが、奥様のお世話が私の仕事でございますから」


「……申し訳ありません」


 クララが困ったように俯くと、マルタは少し考え、まず濡れた靴を脱ぐ手伝いを申し出た。


 靴下は薄く、かかとには何度も繕った跡があった。足の指先は赤く腫れ、革靴の内側まで雪水が染み込んでいた。


「まあ、奥様。お足がこんなに冷えて……」


「大丈夫です。昔から寒いのには慣れておりますから」


 クララは笑おうとした。


 けれど、マルタは笑わなかった。


 続いてドレスの留め具を外そうとしたとき、クララの手が燭台の明かりに照らされた。


 指の節には深いあかぎれがあり、爪の周りの皮膚は赤く裂けている。手のひらには硬いまめがいくつもできていた。


「奥様……お手が痛むのではございませんか」


 クララは慌てて両手を引っ込めた。


「見苦しい手で申し訳ありません。私、あまり器用ではなくて……。お洗濯をすると、いつもこうなってしまうのです」


「お洗濯を、奥様が?」


「はい。母は身体が弱く、妹も家事には向いておりませんでしたから。私が少しでもお役に立てればと思って……」


 クララは不安になって、マルタの顔を見た。


「こちらでは、お洗濯の仕方が違うのでしょうか。教えていただければ、すぐに覚えます」


「いいえ、奥様。そういうことではございません」


 マルタは優しく首を振った。


「今夜は、まずお手を温めましょう」


 マルタが洗面台の湯を運んでくると、クララは慌てて立ち上がった。


「私が持ちます」


「奥様、どうぞお座りください」


「ですが、重いでしょうから……」


「大丈夫でございますよ」


 マルタが微笑んだ。


 クララは椅子に座り直したが、両手を膝の上で握ったまま、じっと湯の入った器を見つめていた。


 こんなにたくさんのお湯を使っていいのだろうか。


 薪を余計に使わせてしまったのではないだろうか。


 クララは指先だけをそっと湯に浸した。


「奥様、もっと深くお入れになってくださいませ」


「……はい」


 温かい湯が手のひらを包んだ。


 あかぎれに少し染みたが、それ以上に気持ちよかった。


 思わず肩の力が抜ける。


 けれど、マルタが布を取りに背を向けた瞬間、クララは慌てて手を引き上げた。


 長く使ってはいけない。自分のために、こんなにお湯を使わせてはいけない。


 持参した鞄を開けると、古いドレスが三着と、薄い夜着が二枚出てきた。


 マルタは一着ずつ丁寧に取り出した。


「奥様、ほかのお荷物は後から届くのでしょうか」


「いいえ。これで全部です」


「冬の外套や、替えのお靴は……」


「持っておりません。でも、どれもまだ着られます。裾も自分で繕いましたから」


 クララは一番上のドレスを広げて見せた。


 袖口には細かな刺繍が施され、擦り切れた布地が目立たないように工夫されていた。


「こちらなら、少し手を入れれば、まだ使えると思うのです」


「……とても丁寧なお針仕事でございますね」


 マルタがそう言うと、クララはほっとした。


「ありがとうございます。母にも、もっと上手になりなさいと言われておりましたので」


 マルタはしばらく黙っていた。


 クララはその沈黙に気づき、慌ててドレスを畳んだ。


「申し訳ありません。私、おしゃべりが過ぎましたね」


「いいえ、奥様」


 マルタは柔らかく微笑んだ。


「お話を聞かせていただけて、嬉しゅうございました」


 クララは目を瞬かせた。


 そんなことを言われたのは、初めてだった。


 やがて薄い夜着に着替え、羽毛布団へ潜り込むと、身体がふわりと沈んだ。


「奥様、今夜はゆっくりお休みくださいませ」


「あの、マルタさん」


「はい」


「このお部屋を、私が使ってもよろしいのでしょうか」


「もちろんでございます」


「……汚さないように気をつけます」


 マルタは一瞬、悲しそうな顔をした。


 けれどすぐに、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。


「何もご心配なさらず、お休みくださいませ」


 扉が閉まると、クララは布団の中でそっと息を吐いた。


 温かい。


 寒くない夜が、こんなに静かなものだとは知らなかった。


 けれど、眠ろうとしても、なかなか目を閉じられなかった。


 廊下で足音がすると、身体が強張った。


 誰かが来る。


 何か用事があるのかもしれない。


 クララは布団をめくり、いつでも立ち上がれるように足を床へ下ろした。


 足音は扉の前を通り過ぎ、遠ざかっていった。


 クララはしばらくそのまま座っていた。


 もう一度布団に入ると、今度は暖炉の薪が大きくはぜた。


 肩が跳ねた。


 大丈夫。ただの薪の音だ。


 そう言い聞かせても、胸の鼓動はなかなか落ち着かなかった。


 クララはひび割れた指先を見つめた。


 マルタは、その手を汚いとは言わなかった。


 ゲオルグも、手を差し出すことをためらった自分を叱らなかった。


 どうしてだろう。


 自分がもっとよい娘だったなら、母も優しくしてくれたはずだ。もっと上手に笑えれば、婚約者も妹を選ばなかったかもしれない。


 今も、そう思っている。


 それでも、今日のシチューは美味しかった。


 泣いても叱られなかった。


 明日の朝も同じ席に座っていいと言われた。


 クララは布団を鼻先まで引き上げた。


 明日も、あの方は優しくしてくださるだろうか。


 それとも、今夜の自分の振る舞いを思い返して、がっかりなさるだろうか。


 考えるほど怖くなった。


 けれど、胸の奥には、消そうとしても消えない小さな楽しみがあった。


 明日の朝には、焼きたてのパンが出るだろうか。


 それとも、温かなミルクだろうか。


 そんなことを考えてしまう自分が恥ずかしくて、クララは目を閉じた。


 期待してはいけない。


 期待すると、悲しくなるから。


 それでも、雪嵐の音を遠くに聞きながら、クララは生まれて初めて、明日の朝が来るのを少しだけ楽しみに思った。


 その頃、マルタはゲオルグの執務室を訪ねていた。


「旦那様、少々よろしいでしょうか」


「マルタか。クララは休んだか」


「はい。お部屋にお入りになりました」


 マルタは扉を閉め、静かに頭を下げた。


「旦那様、一つお耳に入れておきたいことがございます」


「何だ」


「奥様のお手が、ひどく荒れておいででした」


 ゲオルグは顔を上げた。


「荒れている?」


「はい。指の節にはあかぎれがあり、手のひらには硬いまめがございます。長年、冷たい水で洗濯や床磨きを続けてきた方のお手です」


 ゲオルグは城門で見たクララの指先を思い出した。


 寒さのせいばかりではなかったのか。


「それだけではございません。奥様のお荷物は、何度も繕われたドレスが三着と、薄い夜着が二枚だけ。冬用の外套も、替えのお靴もございません」


「……それが、嫁入り支度のすべてか」


「はい」


 ゲオルグは黙り込んだ。


 北方では、貧しい村の者でさえ、冬を越すための厚手の衣服を何より大切にする。雪の中を薄い革靴で歩かせれば、足を傷めることくらい誰でも知っていた。


「旦那様」


 マルタは悲しげに眉を寄せた。


「奥様は、いったいどのようなお育ち方をなさったのでしょうか」


 ゲオルグは答えられなかった。


「お着替えをお手伝いしようとしたときも、奥様は何度も謝っておいででした。お湯を使うことさえ遠慮なさって……。温かい寝台をご覧になっても、ご自分が使ってよいのかとお尋ねになるのです」


 マルタの声がわずかに震えた。


「何かをして差し上げるたびに、奥様は申し訳なさそうなお顔をなさいます」


 ゲオルグはゆっくりと目を閉じた。


 温かなシチューを一皿食べることにさえ、許しを求めていた女性。


 泣いた瞬間、叱られると思ったのか、肩をすくめた女性。


 胸の奥に、冷たい怒りが湧き上がった。


 だが、その怒りをクララに見せてはいけない。


 彼女はきっと、自分が何か悪いことをしたのだと思うだろう。


「マルタ」


「はい、旦那様」


「明日の朝、仕立て屋を呼んでくれ。冬のドレスと外套、それに靴を用意させよう。本人に布を選んでもらいたい」


「かしこまりました」


「手荒れに効く軟膏も頼む。足の状態が気になるから、医師にも相談しておいてくれ。ただし、本人が嫌がるなら無理強いはしない」


「承知いたしました」


 マルタは深く頭を下げた。


「旦那様……奥様は、とてもお優しい方でございますね」


「ああ」


 ゲオルグは短く答えた。


「だからこそ、これ以上、無理をさせたくない」


 マルタが退出したあと、ゲオルグはしばらく執務机の前に座っていた。


 彼には、吹雪の中で若い兵士を一人失った記憶があった。


 助けを求める声に間に合わず、冷たくなった身体を抱き上げた日のことを、今も忘れられない。


 守ると口にするのは簡単だ。


 だが、本当に誰かを守るには、剣の腕だけでは足りない。


 寒さを防ぐ衣服があり、腹を満たす食事があり、安心して眠れる寝台があること。そして、困っているときに助けを求めても、責められないこと。


 ゲオルグは窓の外へ目を向けた。


 雪が激しく降っていた。


「……明日も、温かい朝食を用意させよう」


 誰に聞かせるでもなく、彼は呟いた。


 クララの寝室では、暖炉の火が静かに燃えていた。


 眠りかけたクララは、廊下を通る足音に一度だけ目を覚ました。


 身体が先に起き上がろうとしたが、足音はそのまま遠ざかっていった。


 誰も扉を開けなかった。


 誰も仕事を言いつけなかった。


 クララはしばらく耳を澄ませ、それから恐る恐る布団へ身体を戻した。


 柔らかな羽毛が肩を包む。


 今夜は、もう起きなくてもいいのだろうか。


 そう思うことさえ怖かったが、瞼は少しずつ重くなっていった。


 窓の向こうでは、雪嵐が城壁を叩いている。


 春はまだ遠い。


 それでもクララは、明日の朝に温かなパンがあるかもしれないと思いながら、ようやく眠りについた。


 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。