お口かぐわしく、お尻騒がしい
薄暗い林の奥、苔むした岩の間にひっそりと佇む「願いの泉」
「美しく、誰もが振り返るような存在になりたい」
そんな切実な願いを胸に、リリィは実家の屋根裏部屋で見つけた、くすんだ古いコインを泉へと投げ入れた。
ぽちゃん、と澄んだ音が響き、水面が激しく波立つ。まばゆい光と共に現れたのは、黄金の羽衣を身にまとった美女——に見えるが、どこか胡散臭い、妙に軽い笑みを浮かべた女神だった。
「はーい、お呼びかな? 君の願い、確かに聞き届けたよ。麗しくなりたいんだっけ? まかせときなさい!」
女神はパチンと指を鳴らす。その瞬間、リリィの体に電流のような衝撃が走った。
「これでもう、君の行く先々は素晴らしい香りで満たされるはずさ。じゃあね!」
大雑把な祝福を残し、女神は煙のように消え去った。
呆然と立ち尽くすリリィだったが、すぐに自分の体に起きた「異変」に気づく。
「え……? あ、あの、もしもし?」
声を出した瞬間、口から極上の薔薇と最高級のヴァニラをブレンドしたような、うっとりするほど芳醇な香気が溢れ出した。まるで吐息そのものが、一流の調香師が人生を賭けて作った香水のようだった。
(すごい……! 本当に麗しくなってる!)
リリィが歓喜したのも束の間。下腹部に、かつて経験したことのない奇妙な、そして強烈な圧迫感が走った。
——プゥ。
静まり返った森に、気の抜けた音が響く。
気のせいだと思いたかった。しかし、下腹部の圧力は一向に衰えない。
——プ。プププ。プスー。
「えっ、ちょっ、嘘……っ!?」
慌てて口を覆うと、そこからは素晴らしい香気が「はわわ」と溢れ出る。しかし、その高貴な香りと完全に反比例するように、お尻からは絶え間なく、規則正しく、そして情けない音と共にガスが噴出し続けている。
「うそ、止まらない……! 止まらないんだけど!?」
どれだけお腹に力を入れようが、お尻の筋肉を締めようが、まるで意志を持った永久機関のように、それは「プ・プ・プ」と出続ける。
幸いなことに(いや、不幸中の幸いと言うべきか)、お尻から出るものに臭いは一切なかった。おそらく、その分のすべての香気成分が口からの吐息に全振りされているのだろう。
だが、そんなことは問題ではない。
口からは天上の香水、お尻からは終わらないおなら。
これでは「誰もが振り返る存在」ではなく、「歩く不審者」である。
「あの胡散臭い女神、絶対に許さない……!!」
こうして、前代未聞の奇妙な体質になってしまったリリィの、元に戻るための爆走劇が幕を開けた。
まずは医者だと、リリィは町で一番大きな総合病院へ駆け込んだ。
受付で事情を説明しようとするが、口を開けば「ふわぁん」と熟したリンゴにバニラをひとさじ、香りが広がると、ラベンダーが爽やかさを保ちながらクリーミーな甘さが漂い、足元からは「プ・プ・プ・プ」と軽快なリズムが刻まれる。
「あの、先生、お腹の調子がその……」
「ほう、これは驚いた。お嬢さん、息からもの凄くいい香りがしますね。しかし……その、足元から聞こえるその音は、何かの楽器ですか?」
「おならです!! ずっと出続けてるんです!!」
医師が集まり、リリィを診察した。お腹の中に異常なガスが溜まっている様子はない。にもかかわらず、彼女の体内からは無限に空気が湧き出ている。
医師たちは深刻な顔で頭を振った。
「医学的には完全に健康です。というか、こんな現象は医学の範疇を超えている。これは……呪いの類か、あるいは神の悪戯ですね。教会へ行きなさい」
次にリリィが向かったのは、町の巨大な大聖堂だった。
厳かな沈黙が流れる聖堂の扉を、リリィは「プププププ」と音を立てながら潜る。祈りを捧げていた神父が、怪訝な顔で振り返った。
「迷える子羊よ、どのような悩みがあって……おお、なんと素晴らしい聖なる香りだ。まるで聖母の……」
「神父様! 助けてください! 女神にこんな体にされたんです!」
「……というか、先ほどから妙な音が響いておるな? どこからだ?」
「私のお尻です! 止まらないんです!」
神父は色を失い、慌てて聖水をリリィに振りかけた。
「退散せよ、悪霊! ……いや、しかし悪霊の臭いはしないな。カシミヤのマフラーを羽織ったようなうっとりするほど良い香りだ。だが音が不浄すぎる!」
神父がどれだけ熱心に祈祷を捧げても、聖水をバケツ一杯分浴びせても、リリィの永久機関が止まることはなかった。
「我が教会の手には負えん。神の奇跡がこんな下品な形で現れるはずがない。これは、おそらくだが……『魔術』の領域だ。高名な魔術師か、あるいは錬金術師を訪ねるが良い」
リリィは諦めなかった。
町を飛び出し、怪しい薬草が茂る森の奥にある、偏屈な錬金術師の工房へと足を運んだ。
扉を叩くと、目の下にひどい隈を作った気難しそうな青年錬金術師、ルカが顔を出した。
「なんだい、騒々しい。僕は今、新しいポーションの調合で忙し……ん? なんだこの香りは。信じられないほど純度が高い。新種の素材か!?」
ルカはリリィの口元へ狂ったように顔を近づけ、クンクンと匂いを嗅いだ。
「これ、私の息なんです。あと、これもセットで付いてきました」
「これ、とは……プ、プ、プ、プ……? 待て、君、歩くたびにその音がしているな? 」
「おならが、泉の女神のせいで止まらなくなったんです! 治す薬を、お願いだから作ってください!」
ルカは目を丸くし、すぐにリリィを工房の中へ引き入れた。彼は様々な魔力測定器を取り出し、リリィの体を調べ始める。
「面白い……いや、本人にとっては災難だろうけど、魔術回路の歪みとしては非常に興味深い。その女神、君の『麗しくなりたい』という願いを、体内の空気循環のバランスを崩すことで無理やり成立させているんだ」
「バランス?」
「そう。本来なら体内で循環、または消滅するはずの微細な魔力を、すべて『香気』へと変換して口から排出している。余った魔力は、お尻から未加工の空気として絶え間なく噴出しているんだ。つまり、口の香水とお尻のおならは連動してるのさ」
「じゃあ、口の香りを止めれば治るんですね!?」
リリィが身を乗り出すと、ルカは難しい顔で腕を組んだ。
「理論上はね。でも、これは神格を持つ存在の術式だ。並の薬じゃ解けない。これに対抗するには、世界の果てにあると言われる『万呪滅却の苦い苦い超激辛ハーブ』を煎じたお茶を飲むか、女神をもう一度引っ張り出して、ぶん殴って契約を解除させるしかない」
「世界の果てなんて行っていられません! 女神を捕まえます!」
「でも、あの手の気まぐれな神は、同じコインじゃ二度と出てこないよ? 出現条件を書き換える触媒が必要だ」
「何が必要なんですか!?」
ルカはニヤリと笑った。
「神を呼び出すには、神が一番嫌がる『俗世の極致』みたいなエネルギーが必要さ。例えば……そうだね、最高に品がなくて、でも生命力に溢れたもの。……君のその、絶え間なく出ている『音』を増幅器で限界まで拡大して、あの泉に叩き込んでやれば、不快感で引きずり出せるかもしれない」
「私のおならの音を、大音量で泉に流すってことですか……!?」
リリィは羞恥心で顔を真っ赤にした。しかし、このまま一生「プププ」と、おしり騒がしく生きることに比べれば、一瞬の恥など安いものである。
「やります。やってやりますよ!」
翌朝、リリィとルカは再び「願いの泉」へと戻ってきた。
ルカは背中に、巨大な蓄音機のホーンのような形をした「音増幅装置」を背負っている。集音マイクが、リリィのお尻へとセットされた。
「よし、リリィ。準備はいいかい? 音量を最大にするよ。女神を驚かせてやれ!」
「うう……、恥ずかしいけど、背に腹は変えられません! いきます!」
リリィがお腹にぐっと力を入れると、集音マイクがその音を拾い、増幅装置が作動した。
——ブォォォォォン!!! ブプププププ!!! ドッドッドッドッ!!!
森中に、地響きのような大爆音が鳴り響く。鳥たちが驚いて一斉に飛び立ち、木々が振動で震えた。同時に、リリィの口からは驚天動地の薔薇の香気が爆発的に広がる、朝露をまとった何百本ものピンクローズ、花びらを一枚ずつ空気に溶かしたような透き通る華やかさ。森全体がフレグランスショップ。
激しい音が鳴り響く。
その時、泉の水面が激しく沸騰した。
「ちょっとおおお!!! うるさいしこの香りナニ!!! ナニゴト!?」
頭を抱え、耳を塞いだあの胡散臭い女神が、たまらず水面から飛び出してきた。
「捕まえた!」
ルカが素早く、神の動きを縛る錬金術の捕縛網を投げつける。網に絡まり、地面に転がる女神。
「な、何よこれ! 私、神様よ? 敬いなさい!」
「うるさいわね! あんたのせいで私の人生めちゃくちゃよ! 麗しくするって言って、なんでおならが止まらなくなるのよ!」
リリィは女神に詰め寄り、口から極上のヴァニラの香りを放ちながら怒鳴り散らした。装置からはまだ大爆音が鳴り響いている。
「ひええっ、分かった、分かったから! その装置を止めて! 難聴になっちゃう! 」
ルカが装置のスイッチを切ると、森に静寂(と、リリィの本来のプププという小さな音)が戻った。
女神はハァハァと息を荒らしながら、バツが悪そうに言った。
「だってさぁ……『誰もが振り返るくらい麗しく』って言うから、お手軽に『歩くだけでみんなが振り返る香りの魔法』にしたんだけど……ほら、私、大雑把なタイプだからさ。出力の調整間違えちゃって、排気口(お尻)のバルブを閉め忘れたのよね……」
「閉め忘れたじゃ済まないわよ! 今すぐ治しなさい!」
リリィが拳を握りしめて脅すと、女神は「はいはい、分かりましたよーだ」と口を尖らせ、パチンと指を鳴らした。
その瞬間、リリィの体からすうっと力が抜けていくような感覚があった。
下腹部を常に圧迫していた奇妙な感覚が消える。
静かだった。お尻からの音は、完全に止まっていた。
「あ……。止まった……?」
恐る恐る口を開けて「あー」と言ってみる。溢れ出ていた強烈な香水のような匂いはなく、ただの、いつもの自分の息に戻っていた。
「直った……! 直ったわ!!」
リリィは飛び跳ねて喜んだ。ルカも「やれやれ、実験は大成功だね」と胸を撫で下ろした。
網から抜け出した女神は、衣服を整えながらフンと鼻を鳴らした。
「全く、せっかくの神の祝福を返上するなんて、もったいない。まあ、欲張らずに自分で綺麗になりなさいってことよ。じゃあね!」
女神は今度こそ、そそくさと泉の中へと消えていった。
帰り道、森を抜ける風が心地よい。口から薔薇の香りはしないし、お尻からお騒がせな音がすることもない。ごく普通の、平凡な体に戻ったのだ。
「大変な目に遭ったけど……でも、普通が一番だって本当によく分かった」
リリィがしみじみと言うと、ルカは笑った。
「そうだね。でも、君の口から出ていたあの香気、あれを研究したかった。ちょっと残念だ」
「もう、やめてよ」
リリィは笑いながら、背筋を伸ばして歩いた。
神様のいかがわしい奇跡に頼らなくても、自分の力で、少しずつ素敵になるのだ。
そう思った瞬間、お腹が「きゅるるる」と可愛らしい音を立てた。
「あ、お腹空いちゃった。ルカ、町に戻ったら何か奢って!」
「しょうがないな。じゃあ、おならの出ない、体に優しいスープでも食べに行こう」




