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伯爵家の犬

作者: Ono
掲載日:2026/04/23

 異変は紙の匂いの中にあった。


 ロックフォーゲル伯爵家の図書室は城館のどの部屋とも異なる時間を保っている。朝がきてもすぐには明るくならず、外光は高い石窓を経てまず鉛のように冷えた床を撫で、それから長卓の端、閲覧台の真鍮、梯子の艶を鈍く照らし出す。

 古い革表紙は土の匂いを帯び、羊皮紙は湿り気を含んだ雨の気配を返してきた。棚板の木目に百年単位の沈黙が沁み、ページを繰る音はそこに積み重なった死者たちの息継ぎのようだ。

 私はその部屋に人生の半ばを置いてきた。


 コース・リーズニング、三十四歳。私は伯爵家付きの司書として、貴重な手写本の保護に蔵書目録の管理、閲覧台帳の記録、損傷箇所の補綴を任せられている。日々の仕事を挙げればきりがないが、要するに私はこの家の記憶を数え、並べ直し、散逸から守る役目を負っていた。

 人の名は忘れても本の重みは忘れない。誰が何を偽るかは見誤っても、どのページが開かれたかは分かる。だからこそ今朝、第三列東面上段の書架に目をやっただけで違和に気づいた。『初源魔術考』が半寸ほど右へずれていた。

 ほんの僅かな狂いだ。しかし私が戻し損ねたものではない。この部屋に息づく図書のことを、私は自らの内臓の在処よりもよく知っていた。野良犬が棲みついた家の変化を嗅ぎ分けるような、説明しがたい勘に近いものとして。


 ページを開くとインクの沈み方が違っていた。何者かによって書き換えられている。

 大貴族の図書室では、蔵書の真正を守るために館主の魔力を混ぜた魔導インクが用いられる。鍵や封蝋の代わりに、家そのものの魔力が蔵書の帰属を証明する。許可なき書き換えはページの損傷として現れ、書き手の側にも痕を残すのだ。つまり外部の者には不可能な改変だった。

 じっとその一文を見つめる。反呪の原理を述べる章の末尾。元は「呪いは返される際、媒介となる術理に等しく損耗する」とある箇所の、本来あるはずの文言が消え、代わりにこうある。

 ――門は返される際、その名を知る者にのみ応える。

 反呪の章に、門。意味深と言えば意味深な一文。筆致はあまりに自然で、もとからそこにあった文章が素知らぬ顔で記憶を欺いているかのようだった。

 それ以上に私を震えさせたのは字の癖だ。行末が持ち上がる。注記の符号を左へ寄せる。古形綴りを残すべきところと現行表記へ直すべきところの躊躇い。私自身のそれによく似ている。似せている筆だ。私の筆の癖を、知りすぎている者の手だった。


 私は本を閉じず、ただしばらく立ち尽くした。この図書室で私の手元を最も長く覗き込んできたひとりを、思い出さずにはいられなかった。


 ***


 レティシア様が初めて図書室へきたのは、彼女が六歳の秋だった。

 私はその頃まだ伯爵家に仕えて日が浅く、蔵書の全貌を把握しきれていなかった。王都から移ってきたばかりの若い司書で、手を伸ばせば届くはずの書棚の高さにさえ妙な気後れを覚えていた時分である。

 図書室は壮麗であるがゆえに容赦がなかった。誤れば記録を損ない、順序を狂わせれば知の流れを濁らせる。私は勤めの最初の一年、常に試されている心地でいた。その私の裾を小さな手が引いた。


「その本は、どんなお話ですか」

 栗色の髪をした少女が立っていた。頬には幼さが丸く残り、礼儀作法より先に好奇心が前へ出る年頃だったが、瞳は妙に落ち着いていた。大人が自分に何を隠そうとしているのか、いつか必ず見抜く子供の目だった。

「お嬢様。お話ではありません。地誌です」

「ちし、とは、お話ではないのですか」

「事実を記した本です」

「事実は、つまらないのですか」

「……いえ」

 返事に詰まった私を見上げて、少女は少し得意そうに笑った。その時からだったと思う。私が彼女に本を選ぶようになったのは。


 最初は絵入りの博物誌だった。次に簡単な王朝史。寓話。祈祷文の写し。星の名前を記した子供向けの冊子。彼女は驚くほどよく読み、よく覚えた。そして彼女は読むたびに、前とは別の問いを持ってきた。

 どうしてこの年代記には、戦の始まりだけ書いてあって、終わりのあとに誰が飢えたかは書いてないのですか?

 異教の神話が禁書になるなら、禁じた側の神話はどうして正しいと分かるのですか?

 この章に出てくる“家”は建物のことですか、それとも血筋のことですか?

 答えに窮するたびに私は本を新たな図書を探し、彼女の前に積んだ。積まれた本はレティシア様の問いによって順に開かれてゆく門のようだった。


 やがて彼女は、伯爵令嬢としての教育の一部として正式に図書室へ通うようになった。礼法や舞踏、神学、政治、隣国語に家政、そして王太子妃教育。忙しい日々の合間を縫って彼女はよく北棟までやってきた。最初は私が必要な資料を家庭教師へ提示するだけだったが、そのうち彼女は目録台帳の記入を手伝い、索引札を整え、返却本の仮置き順まで覚えてしまった。

「お嬢様。それは第七分類です」

「なぜですか」

「地誌ではなく巡礼記だからです」

「でも途中から地図の話ばかりです」

「だからといって地誌には入れません」

「規則はとても不自由なのですね」

「不自由でなければ秩序になりません」

「でも、秩序が本当に知識のためになるかは別でしょう」

 そう言って首を傾げる姿は、まだ幼いのに、すでに議論を知っていた。


 その頃から家人たちは半ば呆れ、半ば面白がって私をこう呼ぶようになった。伯爵家の犬。いや、あれは令嬢の犬だと。侮りの響きがなかったとは言わない。けれども私は腹を立てなかった。むしろ妙に腑に落ちたものだ。

 犬とは、主の足音を覚え、戸口の前で耳を立て、呼ばれるより先に気配で立ち上がる。彼女が石廊下を歩いてくると私は姿を見る前に分かった。小さな歩幅、裾の擦れ、重い扉を開けるために息を止める癖。彼女がその日、学びたいのか、考えたいのか、ただ静かに本に囲まれていたいのかも、およそ察しがついた。


 私はいつから彼女に忠義を誓うようになっていたのだろう。問いに本を返しているうちか。あまりに多くを理解し、それでも驕らず、知ることの痛みまで引き受けようとする彼女を見ているうちか。あるいは彼女が初めて私の書き癖を真似し、「これでわたくしも司書見習いです」と笑った、あの午後からか。

 気づいた時には、私は伯爵家に仕えるだけでなく、彼女の未来が損なわれぬためにこそ書庫の深みから本を掬い上げる者になっていた。


 ***


 レティシアお嬢様は、この春の終わりに罪人として伯爵家を去った。

 六歳の頃よりすでに王太子と婚約関係にあり、十六歳となった今年の夏に婚儀が予定されていた。けれども春の終わり、王宮でフォンテ子爵令嬢が死んだ。ほどなくしてレティシア・ロックフォーゲル伯爵令嬢がその殺害の罪を認めたと布告され、身分剥奪、国外追放の処分が下された。もちろん王太子との婚約は破棄された。

 伯爵家の馬車は彼女を迎えに行かなかった。行けなかったのだ。お嬢様は裁判からそのまま国境へ移されたと後に聞いた。


 私が最後に彼女を見た時、薄青の旅装にも似た宮廷衣をまとって、彼女は図書室の入口で振り向いた。陽がよく入る時刻で、石窓から落ちた光が頬の輪郭を白くしていた。

「夏にはもう結婚式。婚約者として殿下にお会いするのは、これが最後になるのですね」

 そう言って微笑んだ。私はその言葉の意味を読み損ねたのかもしれない。婚前の感慨だと受け取り、ただ頭を下げた。おめでとうございます、と言った。

 あのような形で最後になるとは思いもしなかった。


 私は順に、別の違和を放つ書を確かめ始めた。『列島異境誌』も、『失われた館の伝承』も、『境界学序説』も同じだった。数行ずつ書き換えられている。いずれも意味の通る文章でありながら、本来の主題からずれている。そのずれが朧気に指し示すもの。家、門、名、鍵、書。まるで誰かが図書室そのものを使って長い手紙を書いているようだった。

 ――これは彼女の残した助けを求める文ではないか。

 そう思った瞬間、自分の鼓動が浅くなるのを覚えた。


 ***


 やめておけ。

 彼の声は低く、よく整っていた。聖王教会から当伯爵家へ派遣されている魔道士、ヴェイグ・ハイリヒ。私よりも二つほど年上で、痩せた長身に癖のない黒髪、祈る時だけ目元が妙に老ける男だった。

 神学論争のために資料を集め、時にはお嬢様の教育にも協力してきた友人である。私よりも信仰に篤く、私よりも現実的で、私よりも少しだけ人に優しい。

 薬草と蝋の匂いがする書記官室で私が見つけた異変を説明すると、彼は長い指で額を押さえた。彼は最後まで遮らずに聞き、そしてたった一言を告げた。

「やめておけ」

「それだけか?」

「お前にはそれで足りると思ったのだが」

 彼はため息をつき、椅子の背にもたれた。


「秘されたものには秘されるべき理由がある。今さら真実を掘り起こしたところで、彼女が戻ってこられるわけではない。むしろ国をひっくり返してしまうかもしれない。ロックフォーゲル家が王家に目をつけられたらどうする」

 歴史が、必ずしも真実を記録するわけではないことくらい、司書として理解している。記録とは残ったものの名であって、起きたことそのものではない。それでも王家の年代記に一行記されたなら、後世の大半にとってそれが事実になる。

「分かっている」

「コース、分かっていて止まらない時の顔をしているぞ」


 司書は記録をするのが仕事だ。捜査に踏み出すのは本分ではない。だからこそ――。

 あの少女が、己の意志と知性を持って選び、学び、考えた人間だったこと。その輪郭を歴史の濁流に流したくなかった。

「私は、彼女が彼女であったことの証明がほしい」

「潔白の証ではなく?」

「それが私の忠義だ」

「伯爵家への、なら止めない。しかし違うのだろう」

「ああ。レティシア様への忠義だ」

 私が躊躇なく言い切ると、彼は思わずといったように笑った。

「お前は正直で助かる。いや、むしろ厄介だな」


 ヴェイグは彼は改変本を一冊手に取り、その縁を指で撫でた。

「まったく。こういう時だけ忠犬ぶりを隠そうともしない」

「止めるのか?」

「止めたって、主人ではない私の言うことなど聞かぬだろう。……コース、文字は嘘をつく。お前ひとりでは自分に都合の良い嘘を前に道を見失うかもしれない。だから私がいる」

「……ありがとう」

「礼には早い。あとで後悔するかもしれない」

 止めないとは言ってないからな、と彼は念を押した。


 ***


 それから数日、私たちは図書室に籠もった。昼は通常の業務をこなし、夜になると閲覧台に蝋燭を並べ、改変箇所を洗い出した。棚から抜き取る本はどれも重く、持ち上げるたびに古い革が軋む。高窓の外では雨が続き、時に風が石壁に沿って鳴いた。蝋の匂いとインク臭が混じると、図書室は巨大な生き物の腹の中に思える。


 私が筆写した古記録。異端審問の抜粋。お嬢様が幼い頃に読んだ入門書。十二歳より許可された高等魔術理論。すべてを並べてゆくうち、書き換えには規則があると分かった。

「見事なほどお前の癖に似せてある」

「似せているだけだ。私ならこの語は使わない。“探す”ではなく“辿る”になっている」

「それは重要なことなのか」

「お嬢様は“辿る”を好まれた。探すのは失せ物に向ける言葉で、辿るのはすでにそこにある道筋へ向ける言葉だ、と昔仰っていた」

 ヴェイグは揶揄するように片眉を上げた。

「よく覚えているものだな」

「君も覚えているだろう」

「お前ほどではない。まあ、記憶に残りやすい令嬢だったのは確かだ」

 彼の言い方は不敬すれすれだったが、そこに親しみがあることを私は知っていた。


「コース、あの子のどこに最も驚かされた?」

「知りたがること。……知ることの代価を、最初から薄々理解していたことだ」

「ああ。私が驚かされたのは、祈らぬくせに信仰の骨格だけは見抜いていたことだな。教義の言葉を丸呑みせず、しかし嘲りもしない。あれは稀有だ。レティシア様は神を信じるより先に、人が何を信じたいのかを考えた。危ういほどに」

 賢い娘は、しばしば自分ひとりで背負えると思い込む。そうヴェイグは続けた。その一言があとになって重みを増した。


 改変は十七冊に及んでいた。どれもお嬢様の閲覧記録が残る本ばかりだ。写本の綴じ目、索引符、章題の余白に紛れる一文一文を抜き出して並べる。乱雑だった断片が、やがて奇妙な整列を見せてゆく。

 帰るべき家、門を出よ、其の名を知るべし、鍵をあけ、書に記せ。

「やはり裁きの真相に関わるのではないか。お嬢様は……」

「そう急ぐな、コース」

「だが反呪の章まで使われている。尋常ではない」

「だからこそだ。彼女は君が真っ先にそこへ結びつけることくらい知っている」

「お嬢様が私を試しているとでも?」

「昔からそういうところがあっただろう。答えではなく、答えへ至る階梯だけ置いていく。まるであちらが教師のように」

 私は反論しなかった。確かに、お嬢様のやり方だった。


 ***


 夜半、伯爵のもとへ外套を深く被った来客があった。それを窓から見下ろしていると、私も書斎に呼ばれた。侍従の顔色が妙に硬く、私は呼び出しの理由を問えなかった。あるいは私の行いを叱責される可能性を考えた。

 書斎の扉の前に衛士が二人立ち、内側にはいつもより灯りが多いようだ。入室すると、伯爵が机の向こうに座っている。その横にヴェイグ。そして暖炉から離れた暗がりに、来客。

 クリシス王太子だった。無礼を詫びて頭を垂れると、彼は静かに首を振った。

「今夜ここでは、礼はいらぬ」

 公の場で見たことは幾度かある。だが今夜の彼は、王宮の光の中にいる時よりずっと若く、熱を帯びて見えた。婚儀を控えた華やかな王族の姿ではない。その声には裁きの場で響く硬さとは違った、何かを背負った男の疲労があった。


「リーズニング殿。図書室でのことは聞いている」

 胸の奥が冷えた。だが殿下は糾弾せず、ただ机上の燭台を見つめる。

「レティシアは、人を殺してはいない」

 室内の空気が静かに張り詰めた。それから語られたことは、私が想像していたどの筋書きよりも冷たく筋が通っていた。


 死んだフォンテ子爵令嬢は、ただの被害者ではなかった。隣国に通じる一派が王宮の奥へ足場を築くために差し向けた楔。色香と噂で宮廷に入り込み、王太子の近くへ侍ることそのものが目的だった。婚儀を間近に控えた殿下が一向に靡かなかったため、策は形を変えた。異教の禁呪による暗殺だ。

 ヴェイグが低く問う。

「殿下。おそれながら、禁呪の確証はございますか」

「もちろんある。だが公には出せぬ。術式の系譜が隣国の宮廷魔術に連なっている。レティシアはそれを見抜いた。彼女は異教の術理にも、反呪の禁にも通じていた。……そなたが教えたのだろう、司書殿」

 私は返事ができなかった。私が与えたのは知識であって、刃ではないつもりだった。だが知識は、時に最も静かな刃だ。


 お嬢様が反呪した。結果、呪いは術者へ返り、子爵令嬢は自らの放った死をその身に受けて果てた。

「ならば、なぜ、お嬢様は」

 喉が乾いて声が掠れる。なぜレティシアお嬢様は名を奪われ、この家から追われねばならなかったのか。

「真実は、いつも公表に耐えるとは限らぬ」

 殿下の言葉を継いだのは、他ならぬ伯爵閣下だった。


 子爵家を糾弾すればその背後にいる隣国へ矛先が向く。隣国はそれを待っている。王太子暗殺未遂、宮廷への異教浸透、若い令嬢の不審死――どれを取っても国内の強硬派には充分な開戦理由になる。あちらもまた、自国と縁ある家門の娘が“見せしめに殺された”と喧伝できる。血は血を呼ぶ。国境は燃える。兵だけではない、村が、街道が、交易が、祈りの場が焼ける。

 そしてフォンテ子爵令嬢もまた、家の思惑に使われた一人だった。真相を暴けば彼女の名は隣国の策謀札として永遠に使われ、幼い弟妹や縁者にまで累が及ぶ。

 だが、死者は出ている。すべてをなかったことにはできない。

「レティシアが願い出た。ロックフォーゲル家から己の名を排してくれと。その名に罪を着せれば、ひとりの咎で済むと」


 国を重んじることと、王家に従順であることとは違う。彼女は幼い頃からその違いを理解していた。家にも神にも王にも、そのままでは跪かない。だが守るべきものが本当にそこにあると判断した時には、自分の身を驚くほど軽く扱う。


 暖炉の火が爆ぜる。殿下が窓辺へ視線を逸らした。

「私は彼女を処刑などできなかった」

 その短い一言にどれだけの夜があったのかを考える。

「それでも追放が限界だった。死なせれば彼女は二度と戻れぬ。生かせば、少なくともどこかに道が続く」

 一度目を伏せてから、殿下が私を見た。この方の瞳はお嬢様に似ていると今さら気づく。

「王家の歴史には、レティシアの名は追放者として記されるだろう。今は覆せぬ。だが後世に疑いの芽を残したい。伯爵家の鍵付き図書として、真実を記録してほしい。誰にも開かれぬとしても、時代が変わった時には誰かが彼女に辿り着けるように」


 証明とは、今を救うためのものばかりではない。誰にも届かぬと知りながら、それでも未来へ手渡すための証明もあるのだった。


 ***


 殿下が去ったあと、伯爵の書斎を辞して私は図書室へ戻った。眠る気にはなれなかった。ヴェイグもついてきた。

 蝋燭を足し、改変箇所をもう一度最初から並べ直した。真相を知った今なら、これが何を意味するか見えるはずだった。だが逆に、私は分からなくなっていた。彼女が無実の訴えを託したのではないのなら、この異変は何だったのか。


 改変箇所を書き抜いた紙を何度も並べ替える。不意にヴェイグが、乾いた笑いを漏らした。

「帰るべき家、門を出よ、其の名を知るべし、鍵をあけ、書に記せ。おまけに反呪の章。あの裁判を知れば、誰でもそちらへ寄せる。だが、助けを求める文ではないな、これは」

「では何だと?」

「彼女は直接書いていない。各書の本文に紛れ込ませ、その本文が参照している古註、そのまた孫引きの異聞集……つまり“書から書へ”辿らせている。引用元の引用を辿ればひとつの伝承群へ繋がっている」


 私は慌てて紙を追いかけた。分類番号でも改変箇所でもなく、引用の系譜順に並べられたそこには、思いもしない別の輪郭が現れていた。

 誰も所在を知らぬ図書館。世界の原初の命名が帰るべき家。境界の外にあり、失われた学知を返す場所。招きはせず、辿り着いた者のみに門を開く書庫。

「異界図書館……」

 思わずそう呟くと、ヴェイグは肩を竦めた。

「そういうことだ」


 古今東西に伝わる伝説上の図書館だ。魔法の原点を始め、世界の叡智すべてがそこに収められているという、誰も場所を知らぬ異界の書庫。学者は夢物語として退け、宗教家は危険な比喩として警戒し、冒険者は死に場所の名として口にする。

 レティシアお嬢様は幼い頃から、物語の結末より地図の余白に惹かれるたちであられた。国境線の曖昧な古地図、失われた巡礼路、異境に沈んだ都市。王太子妃教育の合間にさえ目録の端へ妙な印を書き残した。「この伝承はこちらと別系統」「これは同じ家の別名かもしれない」などと。

 私はそれらを学究の遊びだと思っていた。だが彼女はずっと図書に対して本気だった。


「……無実を証明してほしかったわけでは、ないのか」

 私の声は、自分でも驚くほど悄気ていた。ヴェイグが少しだけ困った顔をする。

「お前というやつは、『令嬢の犬』と揶揄される忠義を忘れてしまったのか? 犬ならば、主人の意図を最大限に汲むべきだろう。お前は自分の見たいものを見ていたんだよ、コース」

 お嬢様が望むものが何か、私は誰より知っていたはずだ。あの少女は国家を軽んじない。むしろ重んじすぎるほどだ。戦を避けるためなら汚名を被ることも選ぶ。同時に、ただ犠牲になるだけの哀れな娘では決してない。

 レティシアお嬢様は、これを機に、ずっと憧れていた場所へ出ていったのだ。

「追放を、利用したと」

「そう考えるのが最も彼女らしい」


 子爵令嬢の犯罪も、王宮の裁きも、濡れ衣の追放も。そのすべてを意志ひとつでどうにかできたとは思わない。お嬢様もまた巻き込まれ、選ばされたのには違いない。だが選択肢がひとつしか残されていないように見える場で、そのひとつを“自分の道”へ変えてしまうような令嬢であったことを、私は知っていたのに。


「この改変は……」

 確かにお嬢様の手によるものだ。しかし無実の証明を求めたのではない。すべては異界図書館に関する彼女の十年間の考察であった。

「競争の果たし状のようなものだろう、お前への」

 よりにもよって自分に本を教えた司書へ、図書室そのものを使って謎を置いていった。先に見つけられるものなら見つけてみろ、と。

 なんと傲慢で、なんと彼女らしい。


 ***


 私は伯爵家の鍵付き図書を一冊、新たに仕立てた。

 表題は記さない。外見は伯爵家の一般的な家史録に紛れるように、しかし紙は最上のものを選び、糸綴じは百年単位の保ちを見越して固くした。本文は私が書いた。フォンテ子爵令嬢の死の真相。隣国との危うい均衡。クリシス王太子の悲痛な処断。娘の意を汲んだ伯爵の沈黙。その政治的必然と、感情では到底赦せぬ理不尽の両方を。お嬢様がいかに国家を重んじ、だが決して国家に呑まれただけの人形ではなかったかを。

 証明とは何だろう。それは潔白の札か。歴史への異議申し立てか。あるいは誰かがどのような重みを背負い、なお自分の意思で歩いたのかを残すことか。

 己の感情に溺れず、しかし彼らの感情を削ぎ落とさぬよう、何度も筆を置きながら書き記した。


 書き終えたのは夜明け前だった。高窓がようやく白み、蝋燭の火が役目を失い始める時刻。ヴェイグが封印の術を施した。祈祷の言葉は低く短く、余計な荘厳さを嫌う彼らしい簡潔さだった。青白い術式が革表紙に沈み、伯爵家の魔導インクと絡み合って、他者には開けぬ鍵となった。

「これで、後世の誰かが必要としたときだけ開く」

「ありがとう、友よ」

「まるで今生の別れのような言い方だ」

 聡明な友から窓の外へと視線を向ける。雨上がりの庭。濡れた石畳の色が深く、庭木の葉先にだけ朝の光が留まっている。


 昔、お嬢様が痩せた野良犬を拾ってきたことがある。結局閣下が折れて犬舎に迎え入れ、その犬は伯爵家の番犬となった。お嬢様は犬の名を考えながら、「家というのは壁と屋根を指すのではなく、帰ってくる場所のことなのですね」と言った。

 彼女にとって家とは、伯爵家の城館であると同時に、未だ見ぬ知の集積でもあったのだ。書物のあるところ、問いの尽きぬところ、辿り着けば名を呼んでくれる場所。異界図書館こそ、彼女が自ら選んだ新たな家なのだろう。


「まったく、気の毒な司書殿だよ、コース・リーズニング。死者の本より厄介な教え子を持った。いや、主人か……」

「犬は主人がいなければ暮らせない」

「お前はその喩えを、恥じる気がまるでないな」

「君も言っただろう。犬は主人の意図を汲む。呼ばれなくても、帰るべき家を嗅ぎ当てる」

「なるほど。確かにあの子の犬らしい答えだ」

 口の端が上がっていた。久しく忘れていた顔の動かし方だった。


 ***


 数日後、私は伯爵に紋章を返し、ひとりで国を出た。

 携えるのは最低限の衣類と筆記具、数冊の手帳、そしてレティシアお嬢様が残していった改変本の写し。目的地はただひとつ。しかしそこへの道程は何も定まってはいなかった。

 まずは西の港から砂漠へ入る商路を選ぶべきか、北の大地に消えた帰らざる巡礼路を辿ってゆくべきか、あるいは古い海図にだけ残る島影を追うべきなのだろうか。お嬢様の残した考察は、答えではなく、あくまで多くの入口ばかりだった。

 お嬢様はきっと、犬に決まった道順を与えることを嫌う。辿り着けるかどうか、それ自体が問いとして残されたのだ。わたくしのように己で辿ってらして、と笑うだろう。


 国境を越えてから、私は何度か振り返った。城館の石壁、その奥の奥にある図書室を思い出した。冷えた棚板、重たい長卓、朝の光に白く浮く紙片、革の匂い。あそこは長い間、私にとって最も確かな家だった。お嬢様にとっても、きっとそうだった。だからこそ彼女は最後に図書室へ書き残したのだ。

 旅の途上、何度も思い出すに違いない。六つの少女が踏み台の上から差し出した最初の質問を。十六の令嬢が王宮へ向かう朝、穏やかすぎる声で残した別れを。ページの癖まで学び取り、とうとう図書室そのものを一通の手紙に変えてしまった、その執念深い聡明さを。


 再会の約束はどこにもない。ただ予感だけがある。世界のどこかにあらゆる叡智を収めた家があるのなら、そこへ先に辿り着いているのは、きっとお嬢様だ。

 その時に私は何と言うだろう。お迎えに参りましたは、違う。遅くなりましたとまで、まだ負けを認めたくない。

 ならばせめて、こう言うのかもしれない。

 ――あなたの残した道が確かであったことを、ようやく証明できました、と。

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