第8章:王都に届く噂と、焦る王子
枯れ谷の小さな食堂『太陽の恵み』が生み出す奇跡は、商人マルコの広域な情報網に乗って、瞬く間に王国中に広まっていった。
「辺境に、どんな病も癒すと言われる料理を出す店があるらしい」
「食べた者は、たちまち元気になり、長年の持病さえ和らぐとか」
「その店の食材は、呪われた谷で採れたものだというが、真偽は定かではない」
噂は尾ひれをつけ、やがて伝説の料理人ソフィアが厨房に立っていること、そしてその店のオーナーが、かつて追放された悪役令嬢エレオノーラ・フォン・ヴァイスであることまで、王都の社交界に知れ渡ることになった。
その噂を、最も苦々しい思いで聞いていたのは、アルベルト王子その人だった。
執務室で報告を受けたアルベルトは、苛立たしげに書類を机に叩きつけた。
「馬鹿な! あの女が、料理人だと? しかも、国中がその話題で持ちきりだというのか! 枯れ谷で朽ち果てているはずではなかったのか!」
彼にとって、エレオノーラは断罪し、社会的に抹殺した過去の存在のはずだった。それが、自分とリリアの知らないところで、自分たち以上の名声を得ている。その事実が、彼のプライドをひどく傷つけた。
さらに、アルベルトにはもう一つ、大きな悩みの種があった。
最愛の婚約者、リリアの力が、日に日に弱まっているのだ。
かつては、指先から溢れ出る聖なる光で、人々の小さな傷や病を癒し、「聖女」と崇められていたリリア。しかし最近では、その魔法を使っても、効果がほとんど現れないことが増えていた。
「アルベルト様……また、力が……」
今日も、軽い風邪をひいた侍女を癒そうとして失敗し、リリアは青ざめた顔でアルベルトに縋り付いてきた。
「大丈夫だ、リリア。少し疲れているだけだよ」
アルベルトは優しく彼女を抱きしめながらも、内心では激しい焦りを感じていた。医師に診せても原因は不明。神殿に祈りを捧げても、効果はない。
彼らは知らなかった。リリアの聖魔法の源が、人々からの「信仰心」や「注目」といった、曖昧なエネルギーによって成り立っていたことを。彼女が「聖女」として輝けば輝くほど、その力は増大する。
だが、今や王都の人々の話題の中心は、リリアではなく、辺境の「奇跡の料理人エレオノーラ」へと移りつつあった。人々の関心がエレオノーラに向かうにつれて、リリアへと注がれるエネルギーが減少し、結果として彼女の力は弱まっていたのだ。
エレオノーラの評判が上がるほど、リリアの力は失われていく。まるで、天秤の両端に乗せられたかのように。
「くそっ、エレオノーラめ……! どこまでも私を苛立たせる女だ!」
アルベルトは、すべての原因があの追放した女にあると信じて疑わなかった。彼女が何か邪悪な魔術でも使って、リリアの力を奪っているのではないか、と。
彼は、もはや自分の過ちを省みる余裕などなく、ただただエレオノーラへの憎しみを募らせていた。
「こうなれば、直接確かめに行くしかない。リリア、準備をしなさい。『枯れ谷』へ視察に行くぞ。あの女が、一体どんな詐術を使っているのか、この目で見定めてくれる」
アルベルトの瞳には、嫉妬と焦燥の炎が燃え盛っていた。
彼はまだ、自分が対峙することになるのが、邪悪な魔女などではなく、大地に愛され、人々を幸せにする力を持った、真に輝く一人の女性であることに気づいていなかった。
王都で燻る焦りが、やがて大きな嵐となって、平和な谷に吹き荒れることになるのは、もう少しだけ先の話である。




