刻まれない記憶。
帝都の中央に聳え立つ「大時計塔」。
その最上階は、都市の心臓部とも言える巨大な機械室だった。
直径数メートルはある真鍮の歯車が幾重にも噛み合い、轟音を立てて回転している。
壁一面のガラス窓の外では、暴風雨が荒れ狂い、稲妻が時折、暗い室内を青白く切り裂いていた。
その巨大な文字盤の裏側で、儀式は執り行われていた。
中央には、豪奢な椅子に座らされた少年――「器」。
その足元に跪くエレーネ。
そして、仮面をつけた長身の男が、指揮者のように両手を広げていた。
「素晴らしい……! 時は満ちた。今こそ、帝国の歴史が書き換わる瞬間だ!」
男の声が、雷鳴に負けじと響き渡る。
エレーネは縋るような目で男を見上げた。
「あ、あの……約束は? 始祖様は復活したわ。これで、時間は戻るのよね? あの人が私を忘れる前の、幸せだったあの日々に!」
「焦ることはない、夫人は黙って見ていればいい。……おや?」
男がふと、入り口の鉄扉へと視線を向けた。
同時に、重厚なロックが爆破され、扉が内側へと吹き飛んだ。
「――往診の時間だ。随分と高いところに病室を構えたもんだな」
硝煙の中から現れたのは、コートをなびかせたバルツと、巨大な魔導重火器を構えたシドだった。
その背後の影の見えないところに、ペロペロキャンディを舐めるココも控えている。この場を顔は出したくないらしい。
「ようこそ、バルツ・シュライバー。待ちかねたよ」
仮面の男は動じることなく、優雅に一礼してみせた。
「君のおかげで『檻』は開かれ、中身は無事にこの新しい器へと定着した。感謝するよ」
「どういたしまして。……で、アンタがこの三文芝居の脚本家か。随分と趣味が悪い」
バルツは油断なく間合いを詰めながら、冷ややかに言い放った。
「目的を聞こうか。……いや、その前に一つ確認だ」
バルツは懐から、クシャクシャになった自分の手配書を取り出し、男に見せつけた。
「僕らを皇帝暗殺犯に仕立て上げ、即座に都市全域へ指名手配を回す。さらに報道管制を敷いて、死体なき暗殺事件を『事実』として定着させる……。そんな芸当ができるのは、この国に一人しかいない」
「……ほう?」
「軍部ですら即断できない権限を持つ、行政のトップ。――帝国宰相ヴォルガード閣下。アンタだろ」
バルツの指摘に、仮面の男は一瞬沈黙し、やがて肩を震わせて笑い出した。
「クックッ……。やはり君は優秀だ、記憶外科医」
男が仮面に手をかけ、ゆっくりと外す。
現れたのは、ニュース映像でよく見る知的な初老の顔――この国の政治を実質的に取り仕切る、宰相ヴォルガードその人だった。
「宰相様が、国家転覆のテロリストとはな。笑えない冗談だ」
シドが軽蔑を隠さずに唾を吐き捨てる。
だが、ヴォルガードは悪びれる様子もなく、両手を広げた。
「テロリスト? 心外だな。私は『革命家』だ」
ヴォルガードは少年の肩に手を置いた。
「貴様らも知っての通り、歴代の皇帝は始祖を封印する『生きた柩』に過ぎなかった。私も含め、愚かな官僚どもは、偉大なる始祖の魂を、ただの国力を維持するための『電池』として扱い、飼い殺しにしてきたのだ!」
その瞳には、政治家の理性ではなく、狂信的な崇拝の炎が宿っていた。
「だが、今の腐敗した帝国を見ろ! 貴族は肥え太り、技術は停滞し、民は希望を失っている。今のシステムでは限界なのだ! だからこそ、私は始祖を柩から解き放ち、完全なる自我を持った『真の支配者』として君臨させる!」
「それで、ご自慢の権力を使って自作自演の暗殺劇ってわけか。……電池じゃなくて、独裁者として再利用したいだけじゃないか。それに俺たちに変な罪着せやがって」
シドが呆れたように鼻を鳴らす。
だが、エレーネだけは政治の話など耳に入っていなかった。彼女はふらふらと立ち上がり、ヴォルガードの袖を掴んだ。
「そ、そんな話はどうでもいいわ! 時間よ! 始祖の力で時間を戻して! 私の夫を返して!」
その叫びを聞いた瞬間。
ヴォルガードの表情から、革命家の熱が消え、冷酷な管理者の顔に戻った。
「……まだそんな寝言を言っているのか」
「え……?」
「エレーネ夫人。君は聡明な人だと記憶していたが、いささか買いかぶり過ぎていたようだね。君の旦那も錬金術師だったはず。ならば妻である貴女も知っているはずだ。錬金術における絶対の法則を」
ヴォルガードは冷酷に、事実を突きつけた。
「『等価交換』。過ぎ去った時は、神ですら戻せない。等価交換する対価など、この宇宙のどこにも存在しないのだよ」
「う、そ……嘘よ……だって、あなたは……!」
「ああ、嘘だとも。君を動かすための甘い餌だ」
ヴォルガードはエレーネの手を無慈悲に振り払った。
彼女は床に崩れ落ち、虚ろな目でバルツの方を見た。
バルツは痛ましげに目を伏せることしかできない。
「じゃあ、私は……何のために……?」
「君の役割は『燃料』だ」
ヴォルガードは恍惚とした表情で宣言した。
「始祖の完全覚醒には、足りないものが多くてね、その一つが、莫大な感情のエネルギーだ。研究の結果、最も純粋で、最も爆発力のあるエネルギーが分かった。それは『絶望』だ。信じていた希望が砕け散り、愛が憎悪へと反転する瞬間の負の感情こそが、怪物を目覚めさせる糧となる!」
「あ……あああぁぁぁぁッ!!」
エレーネが絶叫した。
騙されていたことへの怒り、夫を取り戻せないという絶望、自らの手でバルツを陥れた罪悪感。
全てが混ざり合った漆黒の感情が、彼女の身体から黒い霧となって噴き出した。
その霧を、座っていた少年が吸い込んだ。
「――ギ、ガァァァァァッ!!」
少年の口から、人間とは思えない咆哮が上がった。
華奢な体がビキビキと音を立てて膨張し、肌の下でどす黒い血管がのたうち回る。
瞳の白目が反転し、そこから溢れ出した魔力が、物理的な衝撃波となって時計塔のガラスを吹き飛ばした。
「おっほっ! うまく言ったようだな。見ろ、偉大なる始祖の再来を!!」
ヴォルガードが高笑いする中、暴走した少年の背中から、黒い泥のような翼が噴出した。
「なぁ、世の中お前みたいなやつばっかなのか?」
シドが防壁を展開し、暴風を防ぐ。
ココは柱の陰に隠れながら、「うわー、Bプラン確定だねぇ♡」と呑気に実況している。
バルツはコートの裾を翻し、『魂の穿孔針』を構えた。
「僕みたいなのって、どういう意味だよ」
「つまりぃ? なんていうの? ちょっと痛い感じ」
「よく考えてみろ。国の宰相があれなんだぞ? つまり僕がスタンダードで、君みたいに冷めた人間がイレギュラーなんだよ」
「はあ、やっぱり亡命しときゃあよかったぜ」
シドが重火器を構えて、宰相に向ける。
「俺はあいつを担当するよ。お前は小さい方な」
「すぐに終わらせろよ。自慢じゃないが、僕の腕力は小3並みだ」
「誰も自慢だと思わねぇよ」
バルツは、暴走する少年――世界を壊そうとする「神の器」へと向き直った。




