逃亡と少女
肺に溜まっていた空気をすべて絞り出すような激しい咳き込みと共に、バルツは床に膝をついた。視界は激しく揺れ、鼻からは熱い一筋の血が滴っている。
「……はぁ、はぁっ! シド、今のは……」
バルツが顔を上げると、天蓋付きのベッドにはもう老皇帝の姿はなかった。
そこにあるのは、古びた寝着と、かつて英雄と呼ばれた男の成れの果てである灰の山だけだ。
シドは重火器の銃口を入り口へ向け、驚愕と警戒に顔を歪めている。
「……何が起きてやがる。死体が消えるなんて、聞いてねえぞ」
シドの視線の先――重厚な黒檀の扉の向こうに、その少年は立っていた。
エレーネの別邸で眠っていた、魂のないはずの「器」だ。
少年は、バルツが精神世界で見た「真空」をそのまま瞳に宿したような冷ややかな微笑を浮かべていた。
「芸術的な執刀だったよ、バルツ先生。君のメスが、ようやく僕をこの窮屈な牢獄から解き放ってくれた」
少年の口から漏れたのは、バルツが精神世界の最深部で聞いた、あの「三百年前から待っていた」という男の声だった。
その瞬間、緊迫した沈黙を破ったのはシドの乾いた笑い声だった。
「……おいバルツ、聞いたかよ今の。『窮屈な牢獄』だってさ。おまけに『芸術的な執刀』だ。言い回しから空気感まで、驚くほどお前にそっくりじゃねえか」
シドは銃口を少年に向けたまま、呆れたように肩をすくめた。
「まさかお前の身内とかじゃねぇだろうな? よく見りゃちょっと、お前の面影があるぞ」
「…… 馬鹿なこというな、『俺』はあんなに、白くねぇ」
バルツは怒鳴り返したが、少年の放つ異様なプレッシャーに、ひどく狼狽した。
「おい、大丈夫か?」
「いや、危うく取り込まれるところだった……実はまだ頭が混乱してて何が何だかわかんねぇ。簡潔に状況教えてくれ」
「それは俺も同じだよ、よくわかんねぇけど、突然皇帝の身体が消えたんだ。そして気がつくと目の前にあいつがいた。あいつ多分、エレーネのところにいた……」
シドが言い募ろうとしたその時、宮殿中にけたたましい警報音が鳴り響いた。
廊下の向こうから、無数の甲冑が走る音と、防衛機巧の駆動音が迫ってくる。
「……チッ、お喋りはここまでだ。ずらかるぞ、バルツ!」
シドは瞬時に「仕事」の顔に戻り、バルツの襟首を掴んで引きずった。
少年は追う素振りも見せず、ただ楽しげに手を振っている。
「また会おう、バルツ君」
「二度と会うかよ、気取り屋二号!」
シドは捨て台詞と共に閃光弾を放ち、二人は闇の中へと飛び込んだ。
脱出は困難を極めた。
宮殿の衛兵たちは殺気立っていたが、シドの腕は確かだった。
彼は重火器のストックで衛兵の顎を砕き、関節を外し、あるいは麻痺弾を撃ち込んで、誰一人殺すことなく無力化していく。
「殺すなよ、バルツ! 死体が出れば追及がうるさくなる!」
「分かってる! 僕だって無駄な殺生は趣味じゃない!」
「切羽っってるのにそのキャラ崩さねぇんだなっ!」
二人は再び泥まみれの地下水道を逆走し、マンホールの蓋を蹴り上げて、夜の裏路地へと転がり出た。
呼吸を整える間もなく、街頭の魔導モニターに「緊急速報」が流れる。
そこには、皇帝暗殺の実行犯として、バルツとシドの人相書きが大きく映し出されていた。
「手回し早すぎんだろ……ハメられたな。俺たちは最初から、皇帝殺しのスケープゴートってわけだ」
シドは泥だらけの顔を拭いもせず、壁を蹴りつけた。
しかしバルツは、それどころではなかった。
彼の脳裏には、あの少年の瞳と、そこから感じた異質な波動が焼き付いていた。
「……シド。あの少年から感じた魔力波長……あれは、僕が集めてきた『始祖の錬金術師』の断片と酷似していた。もしかすると、彼は始祖そのものかもしれない」
「あぁ? 寝言は寝て言え。三百年前の亡霊がガキの姿で蘇ったってか? だったら俺は伝説の勇者様だ。おら、一緒に魔王を倒しに行くぞ」
「茶化さないでくれ。僕の『眼』は誤魔化せない。あれは本物に近い、あるいは――」
「はいはい、お二人さん。そこまで♡」
不意に、頭上から甘ったるい、それでいて人を小馬鹿にしたような声が降ってきた。
二人が見上げると、路地のゴミ箱の上に、一人の少女が座っていた。
ピンクがかった白髪のボブカットに、サイズの合わないブカブカの白衣を羽織っている。
手にはペロペロキャンディを持ち、それを揺らしながら二人を見下ろしていた。
「だーれだ、お前」
「ふふん、通りすがりの美少女天才錬金術師ココちゃんです……って言いたいところだけど、今のあんた達には『女神様』に見えるかもね? あははおじさんたち泥だらけで惨めだねぇ」
少女――ココは、ニシシと意地悪く笑うと、一枚のメモをヒラヒラと落とした。
「エレーネおねーさんが事情を説明するから来いってさ。こうなったのは手違いだって。よかったね。遅れちゃだめだよ?」
バルツが拾い上げたメモには、魔導都市の外れにある廃教会の座標が記されていた。
ココは「じゃ、伝えたからねー」と軽い足取りで屋根の上へと消えていった。
「……ふざけんな。誰が行くかよ」
シドは地面に唾を吐き捨てた。
当然だ。
自分たちを嵌め、指名手配犯に仕立て上げた相手の元へ、のこのこ出向く義理はない。
「俺は海外へ逃げる。仕事のツテを当たれば何とななるだろ。クソが、全部やり直しかよ。こんな腐った国、こっちから願い下げだ」
シドは踵を返した。しかし、背後の足音が付いてこないことに気づき、足を止めた。
「……おい、バルツ。なにしてる、早くこい。まさか、行くつもりじゃねえだろうな」
冷たい雨が、容赦なく二人の泥だらけの体を打ちつける。
「……行くよ」
雨音に消え入りそうな、しかし芯のあるバルツの声が響いた。
シドはゆっくりと振り返り、濡れた前髪をかき上げる。
その瞳は、相棒の正気を疑うように細められていた。
「そりゃあどっちの『行く』だ? 俺についてくるでいいんだな?」
バルツは首を横に振った。
彼の手には、ココから渡されたメモが強く握りしめられ、雨に濡れて滲み始めている。
「……あの少年が何者なのか。僕は知りたい。始祖の関係者なら、それを逃す手はない。それを確かめずには、僕はどこへも行けない」
その瞳に宿るのは、恐怖でも使命感でもない。
ただ純粋で、狂気じみた「目的」への執着だった。それを見たシドは、大きく息を吐き出し、天を仰いだ。
「……バカかお前は。こんなん殺されに行くようなもんだ。ハメられたんだぞ?」
「かもしれないね」
バルツは自嘲気味に口角を上げた。雨が頬の泥を洗い流し、その表情を白く浮き上がらせる。
「……でもさ、ちょっとでも手がかりがあるなら、僕はそれを捨てられない。それが僕という人間だ」
シドは数秒間、バルツを睨みつけていたが、やがて諦めたように肩の力を抜いた。
こいつは言い出したら聞かない。
その厄介な性質を、誰よりも知っているのは自分だ。
「ちっ、まぁ、お前が決めたんなら反対する義理もねぇ。少しの間だが楽しかったよ。あの世で元気に暮らしな」
シドはひらりと手を振ると、一度も振り返ることなく歩き出した。
その背中は、迷いなく「生」の方角へと向かっている。
「ああ、シドも元気で」
バルツの短い別れの言葉は、雨音にかき消された。
シドの重い足音が遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなる。
後に残されたのは、ただ一人の記憶外科医と、路地裏の静寂だけ。
バルツは寂しげにその背が消えた闇を見つめると、コートの襟を立て、一人、廃教会の方角――確実な「死」が待つ場所へと歩き出した。




