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雨上がりの恋の予感

作者: 久遠 睦

第一部 空っぽの部屋に響くこだま


1. 解けていく糸


三軒茶屋の駅から少し歩いた、静かな住宅街にあるマンションの7階。それが、今の沙織の世界のすべてだった。達也がこの部屋を出ていってから、二週間が経つ。カレンダーの赤い丸だけが、無情に時間の経過を告げていた。

世界から音が消えたようだった。かつては彼の鼻歌や、シャワーの音、深夜のサッカー中継に文句を言う自分の声で満たされていた1LDKは、今や巨大な真空の箱だ。時折、冷蔵庫のモーターが唸る低い音が、この部屋の静寂をより一層際立たせる。それはまるで、主を失った空間が上げる、か細い呻き声のようだった。

沙織はソファに深く身を沈め、膝を抱える。視線の先には、達也が置いていったものが点在している。読みかけの文庫本が挟まれた栞。洗面台の隅に忘れられた、半分ほど残ったオーデコロンのボトル。そして、キッチンカウンターの上には、彼が愛用していたマグカップが、まるで持ち主の帰りを待つ忠犬のように鎮座していた。それらはもはや日用品ではなく、滅びた文明から出土した遺物のように、痛々しい光を放っていた。


五年間。沙織の23歳から28歳までの、人生で最も輝かしいはずだった時間。そのすべてを、達也と共に未来を描くために費やしてきた。30歳で結婚し、32歳で最初の子供を。都心からは少し離れても、日当たりの良い庭付きの一軒家を。そんな、雑誌の特集記事を切り抜いたような、けれど二人にとっては確かな現実となるはずだった未来予想図。それが、彼の「好きな人ができたんだ。年下の、会社の同僚なんだ」という、たった一言で、砂の城のように崩れ去った。

失ったのは、恋人だけではなかった。もっと根源的な何か、自分という人間の設計図そのものを奪われた感覚だった。「あなたは誰ですか?」と問われれば、この五年間、沙織の答えは常に「達也のパートナーの沙織」という枕詞から始まっていた。その枕詞が消えた今、後に残された「沙織」という名前は、ひどく頼りなく、空虚に響いた。失恋という言葉では生ぬるい。これは、アイデンティティの喪失だった。

無理に忘れようとは思わなかった。悲しむときは、気が済むまで悲しむべきだという記事をどこかで読んだ 。だから沙織は、泣きたいときには声を上げて泣いた。彼の匂いが残るクローゼットに顔を埋め、嗚咽した。しかし、涙が枯れた後に訪れるのは、凪いだ海のような絶望だけだった。この悲しみの底には、出口がない。沙織は、この静かな部屋で、ゆっくりと溺れていく自分を感じていた。


2. デジタルの短剣


「もしもし、沙織? 大丈夫?」

スマートフォンの画面に表示された「里奈」の文字に、沙織は重い指で応答した。大学時代からの親友である里奈は、事情を知ってから毎日こうして電話をくれる。

「うん、なんとか」 「声、元気ないじゃん。今日、仕事帰りに寄ろうか?」 「ううん、大丈夫。一人でいたい気分だから」

気遣いはありがたいが、今は誰の優しさもガラスの破片のように心に刺さる。里奈との当たり障りのない会話を続けながら、沙織は無意識にSNSのアプリを開いていた。指が勝手に、達也のアカウントを探す。ブロックすることも、フォローを外すこともできずにいた。

そして、見てしまった。

彼の最新の投稿。それは、週末に行ったであろう海辺のカフェで撮られた一枚だった。達也が、満面の笑みで誰かの肩を抱いている。その隣で、太陽のように明るく笑っているのは、知らない若い女性だった。ショートボブがよく似合う、快活そうな顔立ち。タグ付けされた彼女のアカウントに飛ぶと、プロフィールには「23歳」と書かれていた。

写真の中の二人は、沙織が達也と過ごした五年間にはなかったような、弾けるような幸福感に満ちていた。まるで、世界には自分たち二人しかいないとでも言うように。それは、沙織の心を抉る、鋭いデジタルの短剣だった。

「…ごめん、里奈。また後でかける」

通話を切り、沙織はスマートフォンをソファに投げつけた。怒りと悲しみが、マグマのように腹の底からせり上がってくる。年下。23歳。その数字が、呪いのように頭の中で反響した。自分より五つも若い。それは、努力ではどうにもならない、残酷な事実だった。

達也は、沙織という五年の歳月を、いとも簡単に上書きしてしまったのだ。新しい、若くて、輝かしい存在によって 。沙織は、自分が古びて、価値のなくなった骨董品のように感じられた。過去の恋愛と比較するのは無意味だと頭では分かっているのに、やめられない 。写真の中の彼女の、シミひとつないであろう肌と、自分の目尻にうっすらと刻まれ始めた小じわを比べてしまう。

怒りはやがて、冷たい自己嫌悪に変わっていった。自分には、もう価値がないのだろうか。女としての賞味期限は、もう切れてしまったのだろうか。


3. 試練の合コン


「いい加減、外に出なよ! 新しい出会いを探しに行くの!」

半ば強引に里奈に引きずられるようにして、沙織は恵比寿のダイニングバーの個室に座っていた。合コン。その言葉の響きだけで、今の沙織には眩暈がした。

店内は、週末の活気と男女の浮ついた笑い声で満ちている。沙織は、まるで場違いな場所に迷い込んだ幽霊のような気分だった。周りの女性たちは、きらきらと輝いて見える。自分だけが、重い喪失感という名の外套をまとっているようだった。

当たり障りのない自己紹介が終わり、乾杯のグラスが鳴る。沙織は、向かいに座った商社勤務だという男性と、途切れ途切れに言葉を交わした。仕事の話、趣味の話。何を話しても、会話は上滑りしていく。

「沙織さんって、落ち着いてますよね。おいくつなんですか?」 「28です」 「へえ、大人っぽい。俺、今カノ募集中なんすよ。前の彼女に振られちゃって」

男性は、酔いも手伝ってか、饒舌に自分の失恋話を語り始めた。そして、核心に触れる一言を、悪気なく口にした。

「まあ、相手が年下の男にいったから、しょうがないんすけどね。やっぱり男って、結局は年下のほうが話しやすいっていうか…楽なんすよね、正直」

その瞬間、沙織の周りの喧騒が、すっと遠のいた。男性の言葉が、スローモーションで鼓膜に突き刺さる。それは、ここ数週間、沙織が自分自身に問い続けていた、最も恐ろしい疑念への肯定だった。

あなたはもう、若くない。 あなたはもう、選ばれる側ではない。

それは、個人的な侮辱ではなかった。もっと大きな、社会的な価値基準という名の巨大なハンマーで殴られたような衝撃だった。「若さ」というものが、恋愛市場においていかに絶対的な価値を持つか。そして、自分がその価値を日々失いつつあるという事実を、残酷なまでに突きつけられたのだ。達也の選択も、この男性の言葉も、同じ根から生えている。沙織は、一個人に負けたのではなく、「若さ」という抗いようのない概念に敗北したのだと悟った 。

「…すみません、ちょっとお手洗いに」

沙織は、かろうじてそれだけ言うと席を立った。個室を出て、喧騒から逃れるように店の外に出る。恵比寿の夜の空気が、火照った頬に冷たかった。もう、無理だ。自分はもう、恋愛なんてできないのかもしれない。

空を見上げると、星ひとつない、黒いベルベットのような空が広がっていた。東京の空は、いつだって自分の気持ちなどお構いなしに、無表情にそこにある。


第二部 空が泣いている


1. 硝子のジャングル


合コンでの一件から一週間後、沙織は丸の内の高層ビル群の中を歩いていた。大手クライアントとの打ち合わせを終えた帰りだった。時刻は午後四時半。傾き始めた西日が、ガラスと鉄骨でできた巨大なビル群に反射し、地上に幾何学的な光と影の模様を描き出している。

ここは、東京という都市の心臓部だ。整然と区画された街並み、塵ひとつない歩道、足早に行き交う隙のないスーツ姿の人々。すべてが完璧に設計され、管理されている、巨大な箱庭。沙織が普段過ごしている三軒茶屋の、どこか人間臭い雑多な空気とはまるで違う、非現実的なまでの秩序が支配する世界だった 。

多くのビジネスマンが、駅やビルに直結した巨大な地下街へと吸い込まれていく。雨の日でも濡れることなく、夏の暑さや冬の寒さに身を晒すことなく、快適に移動できる合理的なシステム。それは、感情の揺らぎや自然の気まぐれといった、予測不能な要素を徹底的に排除しようとするこの街の意志の表れのようにも思えた 。

しかし、今日の沙織は、その合理的な地下通路を選ぶ気にはなれなかった。あえて地上を、この無機質な硝子のジャングルの下を歩きたかった。何かを感じたかった。たとえそれが、この街が放つ圧倒的なまでの威圧感や、自分がこの壮大な風景の中のちっぽけな一点でしかないという孤独感であったとしても。

皇居へと続く行幸通りは、高層ビルが林立する中で唯一、視界が大きく開けている。その道の向こうに広がる空は、いつもより低く、重く垂れ込めているように見えた。


2. 夕立


空の変化は、唐突だった。

さっきまで空を染めていた鈍色の光が、病的なまでの黄色みを帯びた灰色へと変わる。むっとするような湿気を含んだ生暖かい風が、沙織の髪を撫でた。次の瞬間、アスファルトに、ぽつ、ぽつ、と大きな雨粒が落ち、乾いた音を立てて黒い染みを作った。

それは、ほんの序章に過ぎなかった。一分と経たないうちに、空が裂けたかのような豪雨が、街を叩きつけた。夕立。その言葉が持つ情緒的な響きとは裏腹に、それは暴力的とさえ言えるほどの激しさだった 。人々は悲鳴を上げて走り出し、ビルの軒下や地下鉄の入り口へと避難していく。ついさっきまで秩序に満ちていた街は、一瞬にして混乱に陥った。

沙織は、その場に立ち尽くしていた。あっという間に、髪も、ブラウスも、スカートも、すべてがずぶ濡れになる。冷たい雨が肌を打ち、体温を奪っていく。だが、不思議と不快ではなかった。むしろ、一種の解放感があった。

この数週間、沙織はずっと、自分の感情という名の嵐に抗おうともがいていた。悲しみに沈まないように。怒りに我を忘れないように。絶望に飲み込まれないように。必死で自分をコントロールしようとしていた。

だが、この天からの奔流はどうだ。人間の力では到底コントロールできない、圧倒的な自然の力。それに身を任せていると、自分の内側で荒れ狂っていた感情の嵐が、外の世界の嵐と呼応し、溶け合っていくような錯覚を覚えた。

もう、もがかなくてもいい。 もう、戦わなくてもいい。

これは、降伏だった。自分の無力さを認め、ただ、この嵐に打たれることを受け入れる。それは、心の奥底で固く張り詰めていた何かが、ぷつりと切れる瞬間に似ていた。涙なのか雨なのか分からない水滴が、頬を伝って流れ落ちていった。


3. 分かち合う沈黙


「風邪、ひきますよ」

穏やかで、飾り気のない声だった。 はっと顔を上げると、そこに一人の男性が立っていた。大きな紺色の傘を、沙織の頭上へと差し出している。今日の打ち合わせ先で、何度か見かけたことのある顔だった。確か、営業部の若い社員。

「…あ…」

言葉にならない声が漏れる。彼は、特に何かを言うでもなく、ただ静かに傘を傾けていた。傘の下に生まれた小さな空間だけが、轟音を立てて降り注ぐ雨から守られた、唯一の聖域のようだった。彼の肩は、沙織を庇うために半分濡れている。

「駅まで、送ります」

彼はそれだけ言うと、ゆっくりと歩き出した。沙織は、まるで操り人形のように、彼の隣について歩く。傘を打つ激しい雨音が、二人の間の沈黙を埋めていた。不思議な沈黙だった。気まずさはなく、むしろ心地よいとさえ思える、穏やかな静寂。彼からは、下心も、過剰な親切心からくる押し付けがましさも、一切感じられなかった。ただ、雨に濡れている人間を、ごく自然に傘に入れる。その行為に、純粋な優しさが滲み出ていた。

地下鉄の入り口が見えてきた。階段の数段下まで、彼は沙織を送ってくれた。

「これを」

彼は、持っていた傘を沙織の手に握らせた。

「え、でも…」 「次にいらっしゃる時でいいので。それじゃ」

彼は軽く会釈すると、踵を返し、まだ雨が降りしきる地上へと戻っていった。その背中が雑踏に消えるのを、沙織は呆然と見送る。手の中に残された、まだ彼の体温が微かに残る傘の柄を、強く握りしめた。

それは、ほんの些細な出来事だったかもしれない。けれど、乾ききってひび割れていた沙織の心に、その親切は、最初の一滴の雨水のように、深く、静かに染み込んでいった。


第三部 二人の食卓


1. 返却


翌週、沙織は再び丸の内のクライアント先を訪れていた。打ち合わせが終わると、彼女は少しの逡巡の末、営業部のフロアへと足を向けた。借りた傘を返すためだ。

フロアの入り口で、彼の姿を探す。すぐに、デスクでパソコンに向かっている彼を見つけた。沙織が近づくと、彼は顔を上げて、少し驚いたように目を丸くした。

「あ、先日はありがとうございました。傘、お返しします」 「いえ、わざわざすみません」

彼は立ち上がり、傘を受け取った。その笑顔は、先日の雨の中で見た時と同じように、穏やかだった。これで用件は終わるはずだった。お礼を言って、立ち去ればいい。それなのに、沙織の口は、自分でも予期しない言葉を紡いでいた。

「あの…もし、ご迷惑でなければ、今夜、お礼に何かご馳走させていただけませんか」

衝動的な申し出だった。自分でもなぜそんなことを言ったのか分からない。けれど、あの雨の中の静かな優しさに対して、ただ傘を返すだけでは足りないような気がしたのだ。

彼は一瞬考え込むような表情をしたが、すぐに「いいですよ」と頷いた。

「じゃあ、定時で上がります。ロビーで待っていてもらえますか」 「はい」

約束を取り付けると、沙織の心臓が少しだけ速く脈打った。


2. 『梟の止まり木』での告白


彼――翔太しょうた、と自己紹介で名乗った――に連れられてやってきたのは、東京駅の八重洲口からほど近い、路地裏にひっそりと佇む居酒屋だった。『梟の止まり木』という、古風な木の看板が掲げられている。

店内はこぢんまりとしていて、カウンター席とテーブル席が数席。木の温もりが感じられる、落ち着いた空間だった。焼き魚の香ばしい匂いと、客たちの楽しげな話し声が、心地よく耳に届く。

カウンター席に並んで座り、まずはビールで乾杯した。最初は、仕事の話や、お互いの趣味の話など、当たり障りのない会話が続いた。翔太くんは聞き上手で、沙織が話すことに、的確な相槌を打ちながら熱心に耳を傾けてくれた。彼の年齢は26歳だと聞いた。二つ年下。

料理が運ばれ、お酒も進むにつれて、店の温かい雰囲気と、翔太くんの穏やかな存在感が、沙織の心の鎧を少しずつ溶かしていった。この人になら、話してもいいのかもしれない。そんな思いが、ふと頭をよぎった。

「沙織さん、何か悩み事でもあるんですか。さっきから、時々遠い目をしているので」

彼のまっすぐな視線に、沙織はドキリとした。取り繕うことが、急に馬鹿らしく思えた。

「…うん。実は、少し前に、長く付き合っていた人に振られちゃって」

一度口に出してしまうと、堰を切ったように言葉が溢れ出した。五年間の交際。結婚の約束。彼が選んだのは、会社の年下の女性だったこと。そして、自分はもう年だから、次の恋愛なんてできないんじゃないかと、怖くてたまらないこと 。

話しながら、涙が滲んできた。初対面に等しい年下の男性に、こんなみっともない話をしている自分が恥ずかしかった。きっと、引かれているだろう。同情されているだろう。


3. 彼の返答


沙織が話し終えると、二人の間にしばしの沈黙が流れた。翔太くんは、ただじっと、手元のグラスを見つめている。沙織は、言ってしまったことを後悔し始めていた。

やがて、彼はゆっくりと顔を上げた。その瞳は、同情や憐れみではなく、深く、静かな共感の色を湛えていた。

「すごく…辛かったんですね」

彼の声は、低く、優しかった。

「俺なんかが言えることじゃないですけど」と彼は前置きをして、言葉を続けた。「でも、俺は、恋愛に年齢は関係ないと思います。その人が好きかどうかっていう、ただそれだけのことじゃないですかね」

それは、ありきたりな慰めの言葉だったかもしれない。しかし、彼の口から発せられたその言葉は、不思議な説得力を持って沙織の心に届いた。彼は、沙織の問題を解決しようとはしなかった。安易なアドバイスもしなかった。ただ、彼女の痛みを「辛かったんですね」と、ありのままに受け止め、そして、彼の価値観を静かに提示しただけだった 。

その姿勢に、沙織は救われたような気がした。彼の態度は、年下とは思えないほどの包容力に満ちていた。それは、多くの男性が持ちがちな、問題を解決することで自分の価値を示そうとする尊大さとは無縁のものだった。彼はただ、一人の人間として、沙織の痛みに寄り添ってくれたのだ。

「…ありがとう」

沙織は、ようやくそれだけ言うのが精一杯だった。けれど、その一言には、心からの感謝が込められていた。


4. 新しい習慣


その日の食事は、重苦しい告白の後とは思えないほど、穏やかな雰囲気で終わった。帰り際、翔太くんが「また、こうやって食事でもどうですか」と誘ってくれた。

「俺、美味しい店見つけるの、結構好きなんです」

そう言って笑う彼の顔には、年相応の無邪気さがあった。

それから、二人の間に新しい習慣が生まれた。一週間か二週間に一度、仕事帰りに待ち合わせて、一緒に夕食をとる。翔太くんが探してくる店は、決してお洒落な高級店ではないけれど、どれも料理が美味しくて、居心地の良い場所ばかりだった。

彼との会話は、いつも自然体でいられた。仕事の愚痴をこぼしたり、新しく見た映画の感想を言い合ったり。彼は、沙織の話をいつも楽しそうに聞いてくれたし、彼自身の話も気兼ねなくしてくれた。

この時間は、デートではなかった。少なくとも、沙織はそう思っていた。傷ついた心を癒すための、リハビリのようなもの。けれど、その穏やかで温かい時間が、少しずつ沙織の中で大きな存在になっていくのを、彼女はまだ気づいていなかった。


第四部 予報を書き換えて


1. アップグレードされた自分


翔太くんとの食事が習慣になってから、沙織の日常に小さな変化が訪れ始めた。まず、仕事に身が入るようになった。以前は、達也との未来のために「安定」を第一に考えていた仕事が、今は自分自身の足で立つための土台なのだと、改めて思えるようになったのだ。失恋の痛みを紛らわすように仕事に打ち込むうち、上司から「最近、積極的になったな」と褒められることもあった 。

ある週末の朝、沙織は洗面所の鏡に映る自分をじっと見つめた。そこには、失恋の影を引きずった、少し疲れた顔の女がいた。 「これじゃ、ダメだ」 沙織は、何かを変えたいという強い衝動に駆られた。

その日の午後、彼女は予約もなしに表参道の美容院に飛び込んだ。そして、長年変えていなかったセミロングの髪を、肩上の軽やかなボブにばっさりと切った。鏡に映る新しい髪型の自分は、見慣れないけれど、どこか新鮮で、強そうに見えた。それは、過去の自分と決別するための、ささやかな儀式だった。

帰り道には、今まであまり着たことのない、鮮やかなブルーのブラウスを買った。クローゼットの中の、達也が好きだったベージュやグレーの服とは対極にある色。新しい自分になることで、心に空いた穴を過去のものとして追いやる。そんな記事を読んだことを思い出していた 。これは、誰かのためではない。自分自身をアップデートするための、自分だけの「自分磨き」だった 。


2. 思考の変化


変化は、内面にも静かに訪れていた。

ある日の帰り道、翔太くんから届いた「今日もお疲れ様でした」という短いメッセージに、沙織は思わず笑みをこぼした。そして、はっと気づく。今日一日、一度も達也のことを思い出さなかった、と。あれほど心を支配していた痛みや怒りが、薄紙を一枚一枚剥がしていくように、少しずつ薄らいでいる。

家に帰ると、沙織は意を決してスマートフォンを操作した。達也の連絡先を削除し、SNSのアカウントをブロックする。一緒に撮った写真が詰まったフォルダは、ゴミ箱へ。以前は、思い出まで消してしまうようでできなかったその行為を、今は不思議なほど冷静に行うことができた 。それは怒りや憎しみからではなく、自分の未来のために、過去をきちんと整理するための行為だった。新しい恋が、古い傷を上書きしていく。その言葉の意味が、今なら少し分かる気がした 。

沙織は、自分が少しずつ、前に進んでいることを実感していた。翔太くんという存在が、そのための穏やかな追い風になってくれていることも。


3. 垣間見えた弱さ


いつものように、『梟の止まり木』で食事をしていた夜のことだった。その日の翔太くんは、少し口数が少なく、元気がないように見えた。

「どうしたの? 何かあった?」 沙織が尋ねると、彼は少し躊躇った後、ぽつりぽつりと話し始めた。

「…今日、仕事で大きなミスをしちゃって。先輩にも、クライアントにも、すごく迷惑かけちゃったんです」

彼は、自分がどれだけ準備不足だったか、期待に応えられなかったことがどれだけ悔しいかを、うつむきながら語った。いつも穏やかで、年下とは思えないほどしっかりしている彼の、初めて見る弱い姿だった。そこには、救世主でも、完璧な大人でもない、仕事の壁にぶつかり、悩み、もがいている、一人の26歳の青年がいた。

その姿に、沙織は不思議な愛しさを感じた。そして、彼女の中に、自然と母性のような感情が湧き上がってくるのを感じた 。

「大丈夫だよ」 沙織は、彼のグラスに日本酒を注ぎながら、優しい声で言った。 「私も、翔太くんくらいの時は、毎日失敗ばっかりだったよ。でも、その失敗の一つ一つが、今の自分を作ってるんだから。無駄なことなんて、何一つないよ」

自分の経験から紡ぎ出された言葉は、何の気負いもなく、すんなりと口から出てきた。翔太くんは、驚いたように顔を上げる。

「…ありがとうございます。なんか、すごく、元気出ました」

彼は、少し照れたように笑った。 この瞬間、二人の関係が、ほんの少しだけ変わったのを沙織は感じた。彼が一方的に沙織を支えるのではなく、沙織もまた、彼を支えることができる。それは、お互いを尊重し、補い合える、対等で成熟した関係性の始まりだった 。彼が持つ、普段は見せない弱さという「ギャップ」が、二人の距離をさらに縮めたのは間違いなかった 。


第五部 新しい嵐の最初の一滴


1. 気づき


季節は巡り、街路樹の葉が鮮やかな緑色に輝く初夏になっていた。翔太くんと出会ってから、三ヶ月が経とうとしている。

その夜、沙織は自分の部屋で、買ってきたばかりの花を花瓶に生けていた。部屋には、達也がいた頃とは違う、新しい生活の匂いが満ちている。窓から入る夜風が心地よい。今の生活は、穏やかで、満たされていた。仕事は順調だし、里奈との時間も楽しい。そして、週に一度の翔太くんとの食事が、何よりの楽しみになっていた。

ふと、彼のことを考えている自分に気づく。彼の優しい話し方。食事を美味しそうに食べる顔。時折見せる、少年のような笑顔。そして、沙織の話を真剣に聞いてくれる、真摯な眼差し。

そのすべてを思い浮かべた時、沙織の心臓が、とくん、と大きく鳴った。 まるで、今まで霧がかかっていた視界が、一瞬で晴れ渡るような感覚。

――ああ、私、翔太くんのことが好きなんだ。

その気づきは、あまりにも突然で、けれど、あまりにも腑に落ちるものだった。彼がくれたのは、失恋からの立ち直りのきっかけだけではなかった。彼の優しさと誠実さが、凍てついていた沙織の心を、ゆっくりと、しかし確実に溶かしていたのだ。

これは、もうリハビリではない。紛れもない、恋だった。


2. 決意


気づいてしまった恋心は、沙織を眠れない夜へと誘った。ベッドの中で、何度も寝返りを打つ。喜びと同時に、嵐のような不安が押し寄せてきた。

もし、彼が私のことを、ただの年上の友人、あるいは、かわいそうな失恋した女、としか見ていなかったら? 年齢の差は、彼にとって、やはり乗り越えられない壁なのだろうか? 告白して、この心地よい関係が壊れてしまったら?

過去のトラウマが、亡霊のように囁きかける。また傷つくのが怖い。拒絶されるのが怖い。

けれど、その不安の奥から、もう一人の自分の声が聞こえた。新しい髪型で、新しい服を着た、少しだけ強くなった自分の声が。

――このまま、何もしないでいるつもり?

待っているだけでは、何も始まらない。若い頃のように、恋の駆け引きや探り合いをするのは、もうやめよう 。今の自分に必要なのは、誠実さと、素直に気持ちを伝える勇気だ。傷つくことを恐れて何もしなければ、後悔だけが残る。健全な関係は、どちらかが勇気を出して、本音をさらけ出すことから始まるのだ 。

夜が明ける頃、沙織の心は決まっていた。 伝えよう。自分の言葉で、まっすぐに。 その結果がどうであれ、自分の気持ちに正直になることこそが、この数ヶ月で成長した自分への、最大の誠意だと思えた。


3. 告白


二人が初めて食事をした店、『梟の止まり木』。沙織は、その店を次の約束の場所に指定した。

いつものようにカウンターに並んで座り、他愛のない話をする。けれど、沙織の心臓は、今にも張り裂けそうなくらい、大きく鼓動していた。

食事が終わり、お茶をすすりながら、沙織は心を落ち着けるように、深く息を吸った。そして、隣に座る彼の横顔を見つめる。

「翔太くん」

沙織の声は、自分でも驚くほど、落ち着いて響いた。彼は「はい?」と、穏やかな瞳をこちらに向ける。

その瞳を、まっすぐに見つめ返して、沙織は言った。

「正直に、言うね。私、あなたのことが好きになっちゃった」

それは、沙織自身が起こした、新しい嵐の最初の一滴だった。 かつて、丸の内の街で、沙織は空から降る夕立にただ打たれることしかできなかった。それは、自分ではコントロールできない、抗いようのない出来事だった。

けれど、今、この瞬間、沙織は自らの意志で、心の嵐を巻き起こしている。 それは、受け身だった自分が、自分の人生の主導権を取り戻した証だった。

彼の答えがどうであれ、もう大丈夫。 この告白ができたこと自体が、沙織にとっての勝利なのだから。

雨上がりの空が、澄み渡っていくように。 沙織の心は、恐怖を乗り越えた先にある、晴れやかな光に満たされていた。


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