③
少しの肌寒さが田中君を起こしました。
田中君は天井を見つめていました。彼の体はベッドの上にあり、包んでいるのは柔らかなタオルケットで、とても心地が良く、また眠ってしまいそうでした。
おや、確か昨晩は森の中で疲れ切って眠気に耐えきれなくなったはずだ。ならば見えているのは天井ではなく青空では、と田中君は眠気に負けないように考えていました。
「目が覚めたようだな」
半蔵門が部屋の入り口に立っていました。
「先生、おはよう」田中君はゆっくりと体を起こします。
「うむ」
半蔵門は白い液体が満たされた瓶を持っていました。起きたばかりで喉が渇いていた田中君でしたが、半蔵門は田中君の前で飲み干してしましました。
「うむ。搾りたては最高だな」
「先生、豆乳好きなんだ」
「豆乳?」半蔵門は自分の持っていた空の瓶を見ます。「これは豆乳ではないぞ」
「じゃあ、何?」
「牛乳だ」
「ぎゅうにゅう?豆乳じゃないの?」
半蔵門は口角を上げました。「そうか。そうだな。よし、私に着いてきたまえ」
部屋を出ると、長い廊下が現れました。田中君は雰囲気から、小学校の頃の宿泊学習を思い出していました。どこかの施設にいて、きっと誰かに助けられたのだろうと良すぎる勘で推理します。
顔を洗った田中君は半蔵門の後に着いてくと、建物の外に出ました。
「うわあ」
田中君の目の前には、草原が広がっていました。
風を受け波のように踊る草木は、昇り始めた朝日を浴びて、より一層、眩いていました。
ほど良く冷たい風が田中君の残った眠気をさらっていくようで、田中君は思わず両手を広げて心地よさに身を任せていました。
「こんな所に来たの初めてだよ」
「牧場にでしか感じられない空気というものは確かにある」
「牧場?俺、今、牧場に居るの?」
半蔵門はニヤリと笑います。「そうだ。そして此処こそが我々の目的地だよ」
二人が並んで深呼吸をしていると、背筋の伸びた老人がやってきました。彼はお盆に牛乳を乗せていました。
「寝室にいなかったからぁ探したけどぉ、調子はぁ、どうかなぁ」
「おや、小諸さん。すまないね」半蔵門は田中君に向き直りました。「田中君、小諸さんだ。彼はこの牧場のオーナーだ」
「ここはどこなんですか?」
「ここはのぉ、信州のぉ秘境のぉ奥地にぃある、僅かなぁ人だけがぁ知る、牧場だぁ」
この爺さんは訛りがきついな、と田中君は思いましたが懸命にも黙っておりました。小諸さんはお盆に乗ったコップを田中君に勧めます。
「なにこれ」
「牛乳だぁ」
「さっきから言ってる牛乳ってなに?」
「乳牛から絞られる完全栄養食だ。カルシウムが豊富でチーズやバターの原材料になる他に様々な料理に使用されていた」
「されていた?」
「今はもう飲むことすらも許されていない食品だよ。もしかしたら、君は飲まない方が良いかもしれない。乳糖を分解できずにお腹を壊してしまう」
「紅茶やぁ、コーヒーにぃ、混ぜればぁ体には優しいだよぉ」
どこから取り出したのか小諸さんは、お盆に紅茶とコーヒーポットを乗せます。田中君はまず牛乳を一口飲んでから、ほう、と溜め息をつきました。
「なんか豆乳とは違う感じがする」
「植物由来と動物由来ではまるで味が違うからな」
三人は早朝の牧場で、牛乳を入れた紅茶やコーヒーを楽しみました。
「さあ、元気が出たら向かうとしようか」
「どこに?」
「我々の目的さ」
「そういえばさ、俺のバイクは?」
「早朝に、うちぃの倅が回収してきただぁ。心配はぁいらねぇ。あぁいつは、機械いじれぃが好きだかぁら、簡単に直すよぉ」
牧場を練り歩いていた三人が到着したのは、かぐわしい香り漂う大きな建物でした。
「ここは?」
「牧舎だ」
「ぼくしゃ?」
「んもぉー」
田中君が聞き返したのとほとんど同時に、牧場の静寂を吹き飛ばすような、野太い鳴き声が聞こえてきました。
「どうやら、我々を出迎えてくれるようだ」
三人は牧舎の扉をくぐって入ります。広々とした屋内には独特な匂いが満ちていました。
牧舎の中にいた数頭が、三人に気付き顔を向けました。
「この子らが私の目的だよ」
愛らしい瞳を持つ大きな塊は三人を見つけてか、「んもぉー」と鳴きました。意外な鳴き声の大きさに、田中君は内心、驚いていました。
「う、牛だ! 初めて本物を見た!」
興奮する田中君をよそに、牧舎の牛たちは普段と変わらない様子で朝食にありついていました。
「私も生きている牛を見たのは随分と久しぶりだ」
半蔵門は驚かせないように、牛の頭を撫でました。
「昨晩、私たちを助けてくれたのも彼らの声ですね」
「あれぃは発情期の牛の声でさぁ。録音しぃたのぉパァソォコンで加工したぁんだぁ」
長野の山奥に住む、訛りのきつい老人のくせに、妙にハイテクだなと田中君は感心していました。
「あの狼狽振りを見るに、連中、牛の声など聞いたことも無かっただろうな。まったく無学な輩だ」
「先生の目的って、牛を見に来ることだったのか!」
「それだけなわけ無かろう。田中君、昨晩、あの男が私に言ったことを覚えているかね」
田中君は昨晩のことを目まぐるしく思い出していましたが、やがて微笑みの男が半蔵門に吐き棄てた言葉を思い出しました。
「あなたをキンニク法で逮捕します、だっけ」
半蔵門は溜息をつきました。
「畜産肉取引禁止法。通称、禁肉法。家畜の食用目的での飼育と、それらから生み出される畜産物全般の取引を禁止する法律だ」
「何それ?」
「もう半世紀も昔の話だ」
半蔵門は遠い目で話し始めました。
「人工肉の製造が本格的になったのだ」
「それって普段、俺たちが食べてるやつだよね」
「そうだ。君もファミレスで食べていたな」先生は頷きました。「環境問題、人口の増加、飼料の高騰。あらゆる要因が牛肉を、ひいては肉の値段を押し上げた」
半蔵門は眉の下がった表情で牛の頭を撫でます。田中君の目には寂しく映りました。
「昆虫よりも、人工でもいいから肉を食べたいと考える人は多く、人工肉が食卓に並ぶようになるのは必然だった」
「先生は昆虫も食べるの?」
「ああ。イナゴ、蜂の子、テッポウムシ。いずれも日本の伝統的な食材だ」
「先生、美食家っていうか、ただのグルメだよね」
「そうとも言うな。しかし、その状況を自身の懐を温めるのに利用する連中もいる」
先生は嘆かわしいと言わんばかりに首を振ります。
「田中君。君は百グラム一万円はくだらない、私のA5ランクの肉を捨てたと言ったな」
先生は根に持つタイプだなと思いながらも、田中君は黙って頷きました。
「特上肉を顔に近づけた時、何か感じなかったか?」
「ああ、うん。凄い臭いだなって。腐ってると思ったよ」
「そうだ。その香りこそが天然肉と人口肉の最大の違いだ。年々、完成度が増す人工肉だったが、唯一の課題は香りを再現できないことだった。香りを付けることは出来ても、人工肉自体が香りを放つことはない。天然肉の香りに慣れていない君たちが、腐っていると勘違いしてしまうのも無理は無い」
「だから、たっぷりのソースをかけて食べるのか」
先生は無言でうなずきました。田中君は、半蔵門がファミレスでお肉を食べなかった理由に気付き、何とも言えない気持ちになりました。
「投資家連中にとって大事なことは金稼ぎだ。未解決の問題は先延ばしにしてな。まさに臭い物に蓋をしたわけだ」
「香りだけに」田中君は呟きました。
先生は溜息をつきました。
「新たなビジネスの隆盛は経済界には、諸手を上げて歓迎される。いち早く乗ったのはマスコミだ。あろうことか連中は、天然の肉に対する負のイメージを植え付け始めた。地球環境に不要に負担を強い、人々を無意味に肥え太らせると」
先生は忌々し気に歯ぎしりをしますが、それでも感情を抑えきれないようでした。
「風潮は一気に傾いた。そして、初の禁肉法、食用牛取引禁止法案が可決された」
「儂もぉオォンラインでぇ」小諸さんはゆっくりと口を開きました。「見てぇおぉったぁよぉ。とぉんでぇもなぇい時代に、なってしぃもぉうたと恐れたもんだぁ」
「家畜の食用目的での飼育と、それらから生み出される畜産物全般の取引を禁止する法律だ」
田中君はさっき聞いたばかりの説明を、すらすらと述べました。
「確かに人工肉は必要だった!だが、牛肉そのものを禁止するのは、間違っている!誰が何を食べるのか、それを法律で決定するのは間違っている!なのに、政治家共は自分たちの保身のために、いけしゃあしゃあと牛肉を目の敵にしおってからに!」
半蔵門は握りしめた拳の行く末を探していましたが、迷った末、ゆっくりと振り下ろしました。
「農林水産省も畜産業界もどうしようもなかった。条文に、牛肉は中毒性を与え人々を不必要に争わせると記され、有害食物に指定された。食用牛、乳牛の食用目的での飼育は禁止され、牛は農林水産省が管理する、動物園や博物館でしか見ることが叶わなくなった。それから立て続けに豚、鶏の畜産が禁止された」
半蔵門は牛たちの藁を一掴みすると、額に持っていきます。取られたことに気付いた、牛の一頭が半蔵門の頭を舐めました。
「当時、私は調理師の専門学校を卒業し、レストンランで働いていた。食材から牛肉が消えるのだと私は怖くなった。料理人たちの願いは儚くも崩れ去ったよ。私は料理人を辞め、せめて文化を守ろうと、調理の教師を目指すことにしたのだ」
「君らがぁ、生まれるよりもぉずぅっと、ずぅっと昔の事じゃよぉ」
小師さんがしみじみと、呟いて締めました。
田中君は「さっき先生が半世紀前と言っていたよ」と思っていましたが、懸命にも黙っておりました。なにより、すっかり意気消沈してしまった半蔵門を見て茶化すことなど、到底できませんでした。
「先生はさ、どうして、そんなに天然の肉に拘るの。人工肉が悪いわけじゃないでしょ」
「君の言うとおりだ。人工肉が悪いわけではない。もちろん、良い面もある。しかし、人工肉では決して再現できないものがある」
「香りでしょ?」
「多幸感だよ。人類が肉を造り出したとしても、それは人工肉であって牛肉でない。本物の肉を知っている者ほど、人工肉で多幸感は得ることは難しい」
「ふーん」
「食べたことがない者でも、きっと天然肉の美味さには気付いてくれるはずだ」
「先生はさ、どうして、そんなにお肉が大事なの?」
「肉が大好きだからだ」
半蔵門は力強く言い切りました。その瞳には微塵の、躊躇いも迷いもありませんでした。
「それにだ」先生は自分の頭を指しました。「一説には人類の脳が大きくなったのはタンパク質を摂取するようになったからだと言われている。我々の祖先、それも何百万年も昔、彼らは火を使って肉を焼いて食べ始めた。今、我々がここに居るのは、遥か昔の祖先がグルメだったおかげかもしれない。今、私がここにいるのも、彼らのおかげと考えれば、肉を食べるのは、彼らに対する礼儀でもある」
「へえー。そこまで言うなら、俺にも食べさせてくれるんだよね」
「勿論じゃぁ」
三人は牧舎を出ました。小諸さんが言うには、田中君が眠っていた施設は、かつて研修生たちが寝泊まりに使っていた建物だったそうです。
「でも、あの建物、すごく綺麗だったよ」
「いつかまた、使える日が来ると信じて、手入れを欠かさないのだろう」
「世ぉの中のぉ」小諸さんはしみじみと呟きます。「流ぁれぇ、なのじゃあ」
「一度、堰を切ったが最後、水のぉ流れはぁ誰にもぉ止めらぁれんしぃ、行くぃ先も分かぁらぬぅものぉよぉ。それがぁ煽ったぁ者であってもなぁ」
小諸さんは、もしかすると喋りたがりなのでは、と田中君は思っていました。
「そう言えばさ、あの笑ってばかりの男たちは何だったの?」
「食品警察だ。天然肉やアルコールなど、人々に不必要に争いを生み出させる食品を取り締まる連中だ」
「あの人たちがそうだったのか」
「知っているのか?」
「時々、ネットで話題になるよ。あいつら、また来るのかな」
「どうだろうな。連中は根性なしだからな」半蔵門は遠い目で草原を見ました。「連中が創設されたのもの禁肉法の成立と同時期だった」
「なくなるといいね。法律」田中君は牧舎を見ながら言います。
半蔵門は静かにうなずいただけでした。
「おーい。お三方」
三人は正面から男性が二人、歩いてくるのを見つけました。
「倅だぁ」小諸さんは作業着姿の大きな男性を指差すと二人に言いました。
「もう一人は?」
もう一人の男性は、牧場には場違いなスーツを着ていました。男性は半蔵門に歩み寄ると握手を求めます。
「半蔵門先生でございますね」
「うむ。君は」半蔵門は差し出された手を握り返しました。
「素性は明かせません。しかし、あなたの味方です。諏訪湖で食品警察に追いかけられていた男性を目撃したという情報を頼りにここまで来ました。あなたにかけられた容疑も直ぐに取り下げさせましょう。食品警察など私の力をもってすれば、木っ端同然ですよ」
「そいつは漁港。ではなく僥倖。しかし、ただの老人の私に、そこまでしてもらっても恩は返せそうにないが」
「いえ、先生の影響力は未だ衰えるところを知りません。近々、先生にお力を借りる日が来るかもしれません。その時は是非、お力添えを」
「うむ。この老体の身が役に立つなら喜んで」先生は田中君と小諸さんを見ます。「では、申し訳ないが、贅沢な朝食が我々を待っているので」
「楽しんできてください」スーツの男性は満面の笑みで言います。
「おや、君は何を食べるのか知っている様子」
「ええ。本当に旨いものを食べたいという欲求は、そう簡単には忘れられません。私はその欲を満たしてもらうために、この牧場を守っているのです」
宿舎の広々としたキッチンに入った田中君と半蔵門はお行儀よく、席に座って待ちます。小諸さんは冷蔵庫から真っ赤なお肉を取り出し、火を入れた鉄板の上に並べます。
しばらくすると、二人の耳に肉の焼ける音が聞こえてきました。
「先生、なんだか、涎が止まらないよ」
「それは良かった」
平然を装っていた半蔵門でしたが、テーブルの下では二人揃って足がそわそわと、落ち着きなく動いておりました。
「でぇきぃたぞおい」
小諸さんは焼きあがったステーキを二人の前に並べます。
それはそれは分厚いステーキでした。ゆうに数センチは厚みのあるステーキを、小諸さんはナイフとカービングフォークで手際よく切り分けていきます。ステーキの中心はまだ赤く、ナイフは肉汁と油を纏って艶やかに光っていました。
「この赤いのは?」半蔵門が聞きます。
「オキシミオグロビン、だよね」田中君は自信満々に答えました。
「正解だ」
田中君は渡されたフォークをステーキに突き刺します。肉は柔らかく、フォークの先端がすっと沈み込んでいきます。柔らかさが指先にまで伝わってくるようでした。
田中君は肉を鼻先に、そっと近づけてみました。
生まれて初めての香りに田中君のお腹が「ぐう」と鳴りました。
「いただきます」
二人は揃って、お肉を口に運びました。
舌の上で転がすだけでお肉の繊維はほぐれ、油が溶けていきます。油のほのかな甘みが塩味を引き立て、お肉の味を濃くします。次の一切れを運びたくなる衝動を抑え、二人はお肉の記憶に刻み込むように、ただ噛みしめていました。
自然と二人は目を閉じておりました。今、二人の意識は、お肉を食べ、味を感じることだけに集中しておりました。
半蔵門の頬を一筋の涙が伝いました。
今、二人は最後の一切れを食し、フォークとナイフを置きます。
「ごちそうさまでした」
後半については僕の想像であり、実際のものと関係は全くありません。悪しからず、ご了承ください。
出展・参考文献
『料理の化学 1:素朴な疑問に答えます①』ロバート・L・ウォルク、ハーパー保子、2013年。
『料理の化学 2:素朴な疑問に答えます②』ロバート・L・ウォルク、ハーパー保子、2013年。