②
「どうかな、サイドカーの運転具合は」
「重いけど、運転してたら慣れるよ」
田中君のバイクには、ピカピカに光る新品のサイドカーが装備されていました。
「流石に長野まで後ろに乗っけるのは嫌だしね」
サイドカーに座る半蔵門は背後を振り返ります。寂れた看板を掲げるバイクショップの駐車場には作業着の男性が立っていました。職人然として立つ彼は二人の行く末を見守るようでもありました。
「それにしてもこれは意外と悪くない」ヘルメットの紐をしっかりしめた半蔵門はサイドカーの中でふんぞり返ります。
「やっぱり、高速は使えないんだよね」
「恐らくな。連中は高速にも検閲を敷いているだろう」
「その連中ってのはさ、さっき、ひと悶着あった、あの人たちだよね」
「察しが良いな。その通りだ」
「あの人達って何者なの?」
「顔馴染みだ。渋柿のような連中だ」
「どういう意味?」
「口にするのも嫌だということだ」
「要するに教えてくれないんだね。あんまり上手いこと言えてないなあ」
二人は県道を進んでいましたが、半蔵門が何度もトイレに行きたがるので、その度にコンビニや大型スーパーマーケットの駐車場に止まらざるを得ませんでした。
コンビニに駆け込んだ半蔵門を待っている間、田中君はスマホで長野までの道のりを調べていました。
「長野に着くのは明日だなあ」
「のんびり行こうじゃないか」半蔵門は丁寧にハンケチで拭きながら帰ってきました。「県を出れば奴らも追っては来ない」
果たして、そうかしらと田中君は思いました。ふと、もしかして、県境にも検問が敷かれているのではと田中君は気付きました。相変わらずの勘の持ち主は、ちょっとだけ怖くなりましたが、いざとなったら半蔵門を置いて逃げればいいと考え直しました。
「なんでそう言い切れるの?」
「連中が結果だけを求める物臭共だからだ。楽をして成果を上げたい。だから書類を作ったりだとか、張り込みや聞き込みなどの地道で面倒なことはしない」
「あっそう」
田中君はサイドカーに乗り込んだ半蔵門と共にコンビニの駐車場を出発します。
「あんたさ、何か話をしてよ」
信号待ちをしている間、あんまりに同じ展開に飽きた田中君は口を開きました。
「うむ。何をだね」
「ご飯の先生なんでしょ。美味しい食べ物の話とか」
「そうだな。うむ。こんなにも暑いと冷たい飲み物が欲しくなるな。君は炭酸飲料は好きかね?」
「まあ、毎日は飲まないけど、好きだよ」
「炭酸飲料といえば、やはり炭酸だな。しかし放っておけば、炭酸は気が抜けて、ただの甘いだけの水になってしまう」
「どうすれば炭酸が抜けにくくなるかってこと?」
やはり田中君は勘が鋭いです。半蔵門は頷いて返しました。
「うむ。液体はその温度が低い程に、吸収し保持できる炭酸の量を増やす。冷蔵庫内と室温とで比べると、その差は二倍だ」
「へえ、じゃあ、冷蔵庫で冷やすのが一番なんだね。ってことはさ、凍らしたらどうなるの。もっと炭酸を吸収するの?」
「結局のところ、飲むためには、凍らした炭酸飲料を再び溶かさねばならない。しかし、水は凍ると体積が膨張し、ペットボトルも膨らむ。氷が解けた後でも、ペットボトルは膨張したままだ。すると液体から炭酸が抜けるスペースができてしまうのではないだろうか」
「つまり冷蔵庫に入れておくのが一番って訳だ。外に居るときはどうしたらいいかな」
「さっさと飲み干してしまう事だな」
「確かに!」
二人は呑気に笑いながら国道をのんびり行きます。
夏の日差しと風を浴びながら段々と県境に近づいていくバイクでしたが、田中君の考えは杞憂でした。県境の町は普段と何一つ変わらない様子で、穏やかな時間が流れていただけでした。
「なんだか拍子抜けしちゃったなあ」
田中君の独り言は風に運ばれていきました。
「なにか言ったかね?」
「なんでもないよ」
「まずは宿の確保だな。それから夕飯だ」
夕陽も地平線の向こう側に隠れ始めた頃、スマホで通話をしていた半蔵門の指示に従って田中君が運転していると、目の前に巨大な和風の建物が現れました。
傍目から見ても高級旅館だと分かる建物の佇まいに、田中君は驚くと同時に呆れてしまいました。
「先生さぁ」広い駐車場に停止した田中君は宿を見上げます。「自分が追われているってこと忘れてない?こんな立派な宿に泊まったら、他の宿泊客に写真を撮られて、SNSで拡散されて、先生の場所がバレちゃうよ」
「む、そうか。うっかりしていた。いつもの癖で」
半蔵門は雅な名前の付いた大きな旅館を惜し気に見ますが、諦めたように首を振ると、前を向き直りました。
「だが心配は無用だ。この町には私が認めた隠れた和風割烹の名店がある。さっさと今晩の宿を見つけて、そこでご馳走してあげよう」
しかし、半蔵門の浅い考えを嘲笑うように街中の宿泊施設は満室で、ようやく二人が泊まれる宿を見つけた時には、すでに夜も深い時間でした。
「パンナコッタ!違う!なんてこった!」
半蔵門は既に営業を終えた和風割烹の名店の前で項垂れていました。そんな半蔵門の肩を、田中君は優しく叩きます。
「ファミレスなら夜遅くまでやってるからさ。そっちに行こうよ」
二人は国道沿いのファミリーレストランに入りました。夜遅くという時間もあってか、店内にお客さんは一人もいませんでした。
「なんでも頼むがいい。私にはこのカードがあるからな」
半蔵門がブラックカードを見せびらかして言うものですから、田中君は遠慮も無しに注文しては並べられた端から皿を綺麗に平らげていきます。麺類や揚げ物、サラダにサンドイッチなどが並ぶテーブルは、さながら料理の万国博覧会でしたが、開幕と同時にたった一人の若者の食欲によって閉幕していきます。
「そんな勢いで食べたら、喉につまってしまうぞ」
「一日中、運転してたからお腹が減っているんだよ」
「うむ。そんなことを言われたら、私までお腹が減って来たぞ」
「先生、隣で座ってただけでしょ」
田中君の目の前にステーキが並べられ、田中君は目を輝かせてナイフを入れます。しかし、お肉の断面を見ると表情は不審になってしまいました。
「先生、このステーキ、生だよ。血が滴ってる」
「はっはっは」半蔵門は笑います。「田中君。君が食べている、その肉はともかくとして、本来、肉にはほとんど血液は残っていないのだよ」
「じゃあ、この赤い色は何?」
「この赤い色はミオグロビンというたんぱく質の一種だ。血ではないのだよ」
「へえ。でもさ、生焼けだったらお腹を壊すよね」
「それはそうだな。だから豚や鶏肉は生では食べられない。加熱することは大切だ。しかし牛肉には細菌などが付着しにくい。だからレアの状態でも食べられる。空気に触れる部分はしっかり加熱しなければならないのだがね。さて、田中君、ここでクイズだ。新鮮な肉はどんな色をしていると思う?」
「これと同じ赤い色じゃないの?」
「それは不正解だ。新鮮な肉は紫がかっている。これもまたミオグロビンだ。しかしミオグロビンが酸素に触れるとオキシミオグロビンに変化し、瞬く間に赤い色に変化するのだ」
「へえ」
「これは余談だが、オキシミオグロビンが酸化すると、メトオミグロビンに変化する。これは茶色っぽい色をしており、そろそろ腐り始めますよということ教えてくれている。消費期限を知らせているのだ」
「へえ、流石、料理の先生だね」
田中君は調味料台からスパイシーなソースを取ると、ステーキ肉が隠れるまでたっぷりとかけます。
「そんな量のソースをかけたら、病気になってしまうぞ」
「ファミレスのステーキは味がしないから、たっぷりソースをかけて食べるんだ。それに塩分も脂質もない人工の香辛料で作られた風味付けのソースだから大丈夫だよ。先生だって知っているでしょ?」
「うむ。そうだったな」
田中君はソース塗れのステーキを切り分けます。「先生、食べる?」
半蔵門は笑ってしまいました。「いや、私は食べない。野菜だけで充分だ」
「先生、ベジタリアンなの?」田中君はお肉を口に運びます。
「そうじゃあない。まあ、そのうち分かる」
半蔵門はそれきり、むしゃむしゃと野菜を口いっぱいに頬張って食べていました。
田中君は「先生は不思議な人だな」と思いつつも、変わらないペースで食事を続け、結果としてワンオペで頑張っていた店員が二人の前に現れて「もう、疲れましたぁ」と、給仕ロボットと共に泣き叫んでしまったので、二人は申し訳なさとともに店を出たのでした。
翌朝、宿を出発した二人は今日も今日とて、国道をたらたらと進んでいました。
晴天の中、半蔵門は良く回る舌で、田中君に講釈をしていましたが、一時間ほどで飽きたのか眠ってしまい、田中君は「静かでいいか」とハンドルを握りしめていました、
「先生、着いたよ」
田中君にヘルメットを叩かれた半蔵門は目を開いて背伸びをします。辺りを見回してみれば、目の前には湖が広がっておりました。「ここは?」
「諏訪湖。初めて来たよ。大きいね」
お土産屋さんの駐車場に佇む二人を湖の冷たい風が撫でます。あまりの心地よさに半蔵門は目を閉じ、身を任せていました。
ふと、横からバリバリと音がするので田中君を見てみれば、彼はお煎餅をげっ歯類に負けないくらいの勢いで齧っておりました。
「ふむ。ピーナッツ煎餅か。通だな。私にもくれ」
半蔵門に田中君は一つ差し出しました。「それで、どうするの?」
「飛び出してきたはいいものの、実は情報が無いのだ」半蔵門も豪快に煎餅を食べます。
「そもそも何のために長野に来たんだっけ」
「それはまだ秘密だ。まずは腹ごしらえだな。出来れば蕎麦が食べたい」
「いいね。賛成」
「さて、ではとっておきの名店を―」
「それはもういいから。先生の知らないお店に行こうよ」
「それもいいな。新たな発見こそが人生には重要だ」
「先生って、結構、前向きだよね」
しばらくバイクを走らせると、二人は蕎麦屋の看板を見つけました。
四隅の錆びた看板を掲げる店は、かなり年季の入った建物でした。外観は汚く、お店の駐車場に車は一台も止まっておりません。雑草は方々に伸び放題で、掃除がされていないのは一目瞭然でした。
田中君は半蔵門が指示するので止まりましたが、果たして営業しているのか不安に思っていました。
「こういう店こそ、本当にうまい蕎麦を出す店なのだよ」
店内では、割烹着姿の老女が眠そうにテレビを見ていました。恐らくは店員なのでしょうが、まるでやる気を感じません。
「いらっしゃいませ」
店員は大きく背伸びをすると、店の奥に向かって「あんた、お客さんだよ!」と叫びます。奥から男性の声で「あいよー」と返事がありました。
田中君は店内を見回します。薄暗く、壁に貼り付けられているポスターは色褪せていて、せっかくのビキニ美女の顔も分かりません。辛うじて掃除はしているようですが、観葉植物などの彩りも見当たらず、頑張っても誉め言葉が出て来ません。
田中君は別のお店に行きたかったのですが、半蔵門はさっさと着席し、お冷やをコップに注ぎます。
「先生さぁ」
「私の経験と勘を信じたまえよ。さて、田中君、何を食べる?」
「先生と同じ奴」
半蔵門は店員を呼んで「天ざる、二つ」と言い、店員も奥に向かって「天ざる、二」と叫びました。
田中君は改めて店内を見回します。テレビは地元の放送局を映し出していて、若い田中君はあまり興味が持てず、半蔵門は食前の瞑想にふけっておりました。
「はい。おまちどうさん」
運ばれてきた天ざるを見て、田中君は「おや」と思いました。
ざるにたっぷりと盛られた蕎麦は艶やかで透明感があり、濃さからいっても十割でしょう。エビや山菜、オクラのてんぷらは黄金の衣を綺麗に纏っていて彩も美しく、見る者の食欲を刺激します。
田中君のお腹が、ぐう、と鳴り、急かします。
田中君が蕎麦を麵つゆにくぐらせて一息に啜れば、蕎麦の風味と濃いつゆが絡み合って口の中で広がります。ワサビとねぎと一緒に食べれば、新鮮なシャキシャキとした触感が口の中で楽しく、噛めば噛むほどに蕎麦の香りが解き放たれ、爽やかなワサビの香りと共に鼻から抜けていきます。
あまりの美味しさに田中君は、無心で蕎麦を啜りまくっていました。
感激していた田中君は半蔵門と目が合いました。
「さすが食通だね」
半蔵門は誇ることなく、僅かに微笑んだだけで、てんぷらに塩を付けていました。
ざるを空にした田中君が、熱々の蕎麦湯に口を付けていると、ふと半蔵門の視線に気づきました。半蔵門は田中君の後ろをじっと見ていました。厨房で店員の夫婦がひそひそと顔を寄せて話をしています。
「店主、お会計を!」
半蔵門は高らかに言いました。他にお客さんがいれば、全員が振り向いたでしょう。店員がレジに立ち、二人も続きます。おんぼろの外観に似合わず、あらゆるカードに対応したリーダーが置かれているのを見て、田中君は驚いていました。
支払いは半蔵門に任せて、田中君は先にお店を出ました。
「あんた、この店のザブトンの座り心地はどうだったかい?」
店員が聞いたことに、半蔵門は微かに口角を持ち上げます。
「最高だ。まだランプが輝いているようだが、今日はもう仕舞いかね」
「トウガラシを吊るしている間はね」
レシートを受け取った半蔵門が店の外に出ると、田中君は所在無さげに揺れていました。
「先生さぁ。これから、どうしようか。っていうか、いい加減に先生の目的を教えてよ。ずっとはぐらかされて、ここまで来たんだよ」
不満を言う田中君の眼前に、半蔵門はレシートを見せました。
「なんだよ、ただのレシートだろ」
「よく見るんだ」
田中君は半蔵門からレシートを奪うと、凝視します。
「こんなの注文してない!詐欺だ」
レシートには食べた覚えのない料理名が並んでいました。二人が注文したのは天ざるだけでしたから、ぼったくりよりも質が悪いかもしれません。
「まあ、落ち着きたまえよ。大事なのは水面に投げ込まれた石ではなく、石が引き起こす波のほうだ」
田中君は目を皿にしてレシートを見ます。すると小計の所に違和感を覚えました。田中君の持ち前の勘の良さが閃きを生み出します。
「この五桁の数字の並びって、もしかして経緯度だ。すると、お店の人は先生の正体に気付いていて、先生が何の目的で来たのかも察していたんだ。だからレシートで経緯度を表した。口頭で言わなかったのは、周囲に知られるとそれだけ危険なことだからだ。そうだよね、先生」
半蔵門は目を閉じ、無言で田中君の推理を首肯します。しかし、自分が言いたかったことをすべて先に話されてしまったので、内心では狼狽えていました。
半蔵門は大人の威厳を見せるべく、襟を正し、ちょっとだけ胸を張りました。
「ここは彼らの指示のもとに動くことにしよう。夕方に出発だ」
「ちょっと待って。数字を作るために注文を増やされたんだよね。お金、払ったの?」
「しっかり払ったさ。情報料だよ」
ま、払ったのは俺じゃないし、いいか。
などと、考えているのだろうな、と思いながら、半蔵門はバイクに向かう田中君を見ていました。
お土産屋さんでキーホルダーやペナントを買い漁ったり、ご当地スイーツを食べまくったり、旅行中の女性大生の二人組と写真を撮ったり、外国人旅行客と話をしたり、と諏訪湖をたっぷり堪能した二人は夕方になって出発しました。
田中君が例のレシートの数字を調べれば、近くの山中の経緯度を表していました。
「山の中だとバイクではいけないかもしれないよ」
「構わんさ。私も一緒に押して行く」
「その前に最後のトイレ休憩に行こう」
バイクがコンビニの駐車場に入るや否や、半蔵門はサイドカーから飛び降りて、コンビニに駆け込んで行ってしまいました。
広い駐車場にはシルバーのミニバンが数台止まっていました。
「なんだか気になるなあ」と田中君はバイクに乗ったまま半蔵門を待ちます。
すると、コンビニから怒号が聞こえて来て、半蔵門がズボンを上げ切らないで出て来ました。なんだか情けない姿に田中君の肩の力も抜けます。その半蔵門の後ろから見覚えのある男が走って来ました。
「お会いしたかったですよ!先生!」
あの微笑みの男でした。男の背後から、ぞろぞろとコンビニのレジ袋を持った警察官たちが現れます。
「貴様!何故ここが分かった!」
「先生はドが付く阿呆ですねえ。ええ、ドが付きますよ。ちなみにこの時のドは」
「話を進めんか!」
「クレジットカードを使った履歴を辿れば一目瞭然でしたとも!」
微笑みの男が勝ち誇った表情で言うと、半蔵門と田中君は口を大きく開けて固まってしまいました。
「うざく!ではなくて迂闊!」
「気付かなかった」
微笑みの男は半蔵門を指差しました。
「そして、半蔵門先生!あなたをキンニク法で逮捕します!」
「キンニク法?」
田中君は半蔵門を上から下まで見ましたが、半蔵門の体はそれほど筋肉が着いているようには思えませんでした。むしろ細身な印象を受けます。
「しかしクレジットカードの履歴を調べるなど、よく令状が降りたな」
半蔵門は至って冷静な様子でした。
「部下に探させましたよ」
微笑みの男が指を鳴らすと、部下の一人が進み出て茶色の包みを嫌そうに掲げました。半蔵門だけでなく田中君にも見覚えのある物でした。
「あっ!」
それは田中君が自宅のごみ箱に捨てたのと同じ物でした。瞬時に嫌な予感が田中君を駆け巡りました。まさか、姉さん。
「部下たちに街中を探させましたよ。見つけたのはごみ処理場でしたが」微笑みの男は鼻をつまみながら喋ります。「意外でしたね。あなたほどの美食家がこのような上等の牛肉を捨てるとは」
田中君はほっと一息ついてから、驚きました。「あれって牛肉だったのか!」
「A5ランクといっただろう。だが何故、私のだと分かったんだ?」
「先生の指紋が付いていたんじゃないの?」
田中君の相変わらずの勘の良さは、微笑みの男が喋る機会を奪ってしまいました。微笑みの男は、餌を求める魚のように口をパクパクさせていました。
「なるほどな。犯罪の物的証拠に指紋が付着していれば、裁判所も簡単に令状を出すか。タンパク質不足の脳みそで良く考えたじゃないか」
「黙っらっしゃい!兎にも角にも、あなたを逮捕します!」
「捕まってなるものか!」
半蔵門は頭から田中君のサイドカーに飛び込み、田中君はアクセルを回して、駐車場を飛び出します。微笑みの男と部下たちもミニバンに飛び乗り、バイクの後を追いました。
「どうしよう、先生」
半蔵門はサイドカーの中で、蠢いて姿勢を正しヘルメットを被ると、ズボンを上げました。
「巻いてやればいい。違う、撒いてやればいい」
「今、同じこと言ったよね」
「漢字が違うのだ。ミニバンとバイクでは機動力が違うだろう。山道のトップを決めようじゃないか。さあ、煮切れ!」
「何それ?」
「いま思いついたのだ。味醂や料理酒を火にかけてアルコール分を飛ばすことを煮切るというのだが、だから、つまり車を飛ばせという意味でだ―」
田中君は先生の説明を最後まで聞かずにアクセルを回しました。そんなことですから、先生は危うく舌を噛んでしまう所でした。
バイクは真っ直ぐに夕方の山道に向かって行きます。当然の事ながら、後ろからミニバンが追いかけます。バイクが山道を登り始めると、ミニバンも後に続きます。
田中君は速度を上げていきますが、背後から迫る車のフロントライトに照らされると、どうにも落ち着きません。
「先生、どうにかならない?」田中君は叫びます。
「追いつかれそうなのか?」びゅんびゅんと風が吹きすさぶ中、先生も叫びます。
「いや、多分、平気」田中君はミラーを見ました。「あの車の中、結構、人が乗ってるんじゃないかな。だから思った以上に速さが出ていないと思う」
実際に田中君は夜道であることもあって、そんなに速度を出していませんでしたが、サイドミラーに映る連中のバンの姿は一向に大きくなっていませんでした。
「間抜けな奴らだ」
「でもさ、燃料が持つかは別の話だよ」
先生の視線が木の板を捉えました。「そこだ!そこを右だ!」
「ええ?」と瞬時に沸いた疑問を田中君は一瞬で忘れて、バイクを右に曲げます。まさに刹那的な性格が役に立った瞬間でした。
真っ暗な雑木林をフロントライトだけを頼りに田中君はバイクを飛ばします。不安に感じていた田中君はすぐに違和感を覚えました。
この道は走りやすい。
誰かが使っているのだと、気付くとアッという間に安心してしまいました。田中君は勘が鋭く、あまり悩んだりしないのが良いところではありますが、半蔵門と一緒で油断しやすいのでしょう。
瞬間、フロントライトが照らしたのは地面に転がる太い枝でした。
気付いた田中君が目を大きく開いて恐怖している横で、半蔵門はこれから起きることをいち早く想像し、白目を剥いて意識を失っていました。半蔵門はやはりせっかちです。
バイクが太い枝にぶつかり二人は宙に放り出されました。
「ぬたーっ」「うわあっ」
田中君は地面に落ちると、ごろごろと転がって茂みの中で止まりました。
「先生!大丈夫?」
「ああ。私は平気だ。何せ普段から―」
相変わらずの調子でくどくど自分語りを話し始めた半蔵門は無視して、田中君は辺りの様子を伺いますが、まるで視界は利きません。こんなにも夜は暗かったのかと都会っ子は驚いていました。
そんなことを考えている田中君の顔を眩しさが包みます。思わず両腕で顔を隠した田中君の耳に、今一番聞きたくない声が届きました。
「さあ、もう終わりですよ。先生」
車から微笑みの男が現れ、警官たちが続々と姿を見せます。しかし彼らが見つけたのは田中君だけで、先生の姿は相変わらず見当たりません。
「おや、先生、どちらに?」
「お前ら如きに教えるものか!」
田中君は警察官たちから懐中電灯を受け取って一緒に探していると、そよ風に擦られる木の葉に混じって半蔵門の唸り声が微かに聞こえてきます。声に吸い寄せられるように木を登っていく光は、やがて枝に引っかかってもなお偉そうな半蔵門を見つけました。
「おやおや、哀れですねえ」微笑みの男は心底嬉しそうに言います。
「ふん。笑っていられるのも今のうちだ。その態度を楽しんでおくんだな」
「何を偉そうに」
部下たちが誰も木に登りたがらずに、お互いに貧乏くじを押し付け合っていると半蔵門を吊っていた枝が折れて、半蔵門は警官たちの上に落ち、彼らは絞められた鶏のような声を上げて潰れてしまいました。
半蔵門は警官たちを踏みつけながら胸を張って、微笑みの男に歩み寄ります。半蔵門が足を前に出す度に、警官たちは「ぐぇ」とか「うぇ」とか言いました。
微笑みの男の前に立った半蔵門は両手を前に出します。微笑みの男は勝ち誇った表情で、手錠を掛けました。
「半蔵門次郎、打ち取ったり!」
「ふん」手錠を掛けられてもなお、半蔵門は胸を張ります。「貴様はバラムツを喰って、一週間、苦しめ!」
「先生、バラムツってなに?」
「とても口には出せない恐ろしい魚だ。決して調べるなよ」
田中君は躊躇うことなくスマホで調べ、検索結果を見て表情を変えました。そこにはとても、食事中の人には見せられない内容がありました。
「うわあ、先生も食べたの?」
「ああ。覚悟のうえで食べたが、三日は便座から立てなかった。宿泊先のホテルから出禁をくらったよ。だが旨かった。後悔はない」
あまりにも酷い話に田中君はうんざりしました。
微笑みの男が高らかに笑い、車の方へと半蔵門を引っ張って歩きます。二人の後を警官たちが「やってらんねー」と、ぶつぶつと文句を言いながら続きます。そんな様子を田中君はぼんやりと見送っていました。
「ねえねえ、俺のことは逮捕しないの?」
「君の事は眼中に無い」
「えっ?」
「我々の目的は半蔵門先生だけなのだ」
「そんなぁ。俺、巻き込まれ損?そんなの嫌だあ、俺も逮捕してよ」
「何を言っているのだ、君は!」
田中君は無謀にも微笑みの男にすがりつきます。意外にも力が強かったのか、微笑みの男は倒れそうになりました。二人が揉み合っているのにも気付かずに、半蔵門先生は空を眺めていました。
「臭い飯も慣れれば美味かろう」
先生の頬を一筋の涙が流れていきます。僅かな月光に照らされたそれは、まるで流れ星のようでした。
「おや?」
衰え切った半蔵門の耳が何かを捉えます。背後では、やや田中君が優勢で「その手錠を寄越せ!」と微笑みの男に掴みかかっていました。
「田中君、何か聞こえないかね」
微笑みの男の顔に引っ搔き傷を作っていた田中君と、手錠を奪われまいと奮闘する微笑みの男が同時に動きを止めます。痺れを切らした警官たちは「俺、もう辞めるわ」と、車に乗り込もうとしていました。
「あ、うん。なんか、耳鳴りが―」
突如、雑木林に轟音が響き渡りました。それは足を震えさせ、全身を揺さぶるほどの音でした。まるで呻き声にも聞こえる轟音は、地獄からやってきた魔物の叫びのようでした。
「な、なんだ!」
「ひぃー、逃げろ」
「化け物だ!長野には化け物がいるぞ!」
「まだ死にたくない!」
「いるわけねだろうが!」
微笑みの男が怒鳴りますが、警官たちはまるで言うことを聞きません。わあわあ言って我先に車に乗り込むと、誰が車のキーを持っているのか分からないので、車の中で取っ組み合いを始めます。
「先生?」
半蔵門は未だ鳴り響く、謎の音に聞き惚れているかのように、うっとりしていました。
やがて車にエンジンがかかると、微笑みの男と警官たちは逃げて行ってしまいました。
「先生、俺たちも逃げようよ」
「大丈夫だ。安心したまえ。この鳴き声は私もよく知っているものだよ」
半蔵門のやけに安心感のある顔を見て、気が緩んだ田中君の意識はそこで途絶えてしまいました。
この話の中では田中君のバイクにサイドカーが装備されていますが、運転するには必要に応じた免許が必要になります。悪しからずご了承ください。






