彼と彼女のニオイ
彼と彼女のニオイ
ミズキくんの横顔は、何よりも美しい。
秋に似つかわしい涼しい風が、前髪をそっと揺らす。
風はそのまま隣の私の席にまで、彼の香りを届けてくれた。
どこか懐かしい、甘いような、くすぐったいような香りだった。
(これ、なんのにおいだったっけ…。)
思い出せないまま、2学期の中間テストが終わり、席替えをすることになった。
席が離れても、私はミズキくんのことを目で追いかけ続けた。
いつの間にか、私は彼のことが好きになっていた。
彼が騒いでいるのを、見たことがない。
男子生徒同士がじゃれあっていても、ミズキくんは微笑んで傍に立っているだけだ。
彼が怒っているのも、泣いているのも、見たことがない。高校生も3年になれば、感情を表に出さずに日常をこなせるのかもしれない。
けれど、それにしては静かな男の子だった。
すらっと伸びた手足が綺麗だった。
細身の体のわりに、重いものを軽々と持ち上げられた。女子生徒に代わって、ごみ捨てでも課題提出でも、率先して手を差し伸べてくれる子だった。
そんなところもいいなと思ってしまっていた。
だが、この恋は発展させられない。
受験期だからだ。
彼の集中を乱すようなことはしたくないし、私も一般受験を控えていた。
自分の気持ちを打ち消しながら、私は問題集を解き続けた。受験が終わったらこの気持ちを伝えたいと願って、机に向かい続けた。
ある日、私は最終下校ギリギリまで図書室にいた。受験勉強も佳境に入る冬の初めだった。
「カシャ…ン!」
手が滑って、シャーペンを床に落とした。
たまたまそこに男子生徒2人組が通りかかった。
1人が、私のシャーペンを蹴ってしまった。カツーンとまた音がして、私のシャーペンは書架コーナーの方へと勢いよく転がっていった。
「わ、ごめん!」
「お前、何やってんだよ。」
男子生徒は拾おうと、追いかける素振りを見せてくれた。
でも、私は
「大丈夫だよ!自分で取るから。」
と声をかけて、席を離れた。
本棚と本棚の間に飛び込むと、そこにはミズキくんがいた。
床を滑ってきたシャーペンをスッと拾い上げ、私に向かって差し出した。
「これ、どうぞ。」
「あ…ありがとう。」
震える手で受け取った。
ーこんな日を待っていたんじゃなかった?
ー彼と、色んな話がしたいんじゃなかった?
唐突すぎて頭が真っ白になって、私は…
「あのさ、ミズキくんてさ」
ーどうしよう。続きの言葉、何を言えばいいの?
「えっと…い、良いにおい、するよね…!」
言ってから、すごく恥ずかしくなった。
なんで、もっと気が利いたことが言えないんだろう。
カーッと顔が赤くなるのが、自分でも分かった。
思わず下を向いた。その拍子に、私のセミロングの髪がサァッと肩から落ちた。そうして私の視界を狭くした。
「あ、これ?たぶん、ベビーパウダーかな。
お風呂上がりに毎日使ってる。」
ーベビーパウダー…!
ーそうだ。この優しい甘い香りはベビーパウダーだわ…!
「そっちこそ、なんか、いつも甘い良いニオイするよね。」
ミズキくんが、ほんの少しだけかがんだのが分かった。
わずかに顔を私の髪に寄せてきた。
「うん。やっぱ、いいニオイする。
なんのニオイだろって、ずっと思ってた。」
顔をあげられないまま、私は、
「あ、ハチミツ…の、香りのシャンプー使ってる…。」
とかろじて答えた。
とてもとても、ドキドキした。
この心臓の音がミズキくんに聞こえてしまうんじゃないかって心配になるほどだった。
「そっか。確かに、言われてみればハチミツのニオイだね。」
すれ違いざま、ミズキくんはこう言った。
「僕、そのニオイ、好きだよ。
じゃ、またね。」
ーピンポンパンポーン…。
閉館の時間です。生徒の皆さんは、忘れ物のないように速やかに帰りましょう…。
館内放送が流れた。
好きだよ、の言葉だけが何度もこだまして、私の中を駆け巡った。
ギュッと握ったシャーペンが、体温で温まり熱を持っていた。
ー好きだよ。
ー好きだよ。
ーあなたのこと、大好きだよ。
って、伝えられる自分になりたい。
そう思って、やっと顔を上げると、窓ガラスに自分が映っていた。
向こう側、暗くなった校庭に、ひとつ、ふたつ…と街灯の明かりが灯っていく。
それはまるで星の光のように、優しく温かく輝いていた。
辺りにはまだ、彼の柔らかなニオイが少し残っていて、私の胸をギュウッと切なくさせた。