私が愛されたかったのは、私が一緒に生きたかったのは、私が殺した人でした。
僕の弟が生まれたのは、小学1年の初夏だった。3日後、同居していた祖父が亡くなった。
翌日、弟が亡くなった。
今でも鮮明に覚えているのは言葉にし難い苦い感情と恐怖。自分の腰ほどの高さから見た喜びに溢れた病院のフロア。数日後家に集まる黒ずくめの大人。何をしているのか、何が起こっているのか、何をしたらいいのかまるで理解ができなかった。この頃からだったと思う、僕を含めた家族がおかしくなったのは。
祖母は半狂人のようになってしまい施設へ送られたんだと思う。よく訳の分からない押し問答を両親としていた記憶がある。それまで温厚だった父もストレスからか人が変わって暴力を振るうようになった。
母は父から常に暴力、罵声を浴びせられていた。弟が亡くなったショックで頭もおかしくなっていた。僕は殴られるのも嫌だったし喧嘩してるところを見たいわけでもなかったので、家にいる時間が短くなるよう常に友達と遊んでいた。学校では普通を装い、放課後友達と学校から800メートル離れただだっ広い公園で遊ぶ約束をしたりして。
いざ死ぬとなったら人生の分岐点であるこの出来事を思い出した。
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相手が発する音の区切りに合わせて返事をする。
「――はい。―――はい。分かりました。」
淡々と返事をし指示された仕事をこなす。僕は自分で自分にロボットかよと何度目かもわからないツッコミをいれる。もう働いて5年も経つ。ついこの前高校を卒業したと感じることもあれば、大分昔に卒業したと感じることもある。
僕は同期と比べると結構仕事が出来る方だと思う。コミュニケーショは今ひとつだが。昇給は早かった。そこそこの会社で能力主義な方針もあってか年収は23歳にして500万円ほどだ。
実家から遠く離れた親族の家で小学2年から高校卒業までを過ごしたので一人で生きていけるように勉強とバイトに励んだ。転向しても友達がすぐできなかった。あんな事があったから精神的にも肉体的にも疲労過多でおかしくなっていてまともに会話できていなかったと思う。
それでも将来自立の為に毎日頑張れていたのは、引き取ってくれた父のお兄さん家族がとても優しかったからだ。子供がいなかったらしくまるで我が子のように接してくれたのでとても感謝している。
そんなこんなで現在は一人暮らし独身会社員として趣味の車にお金を使い自由を謳歌している。彼女はいないどころかできたこともないので、車が彼女みたいになっている。
「明日はどこ行こうか?」
行きつけの手洗い洗車場でリアフェンダーを優しく洗いながら愛車に語り掛けていると、背後から急に話しかけられた。
「ごめんなさい。」
「へ?」
僕は驚きながら気の抜けた返事をして、振り返ろうと―――。
鋭い痛みを理解する暇もなく高熱が身体の中心から発生し反射的に両手が痛みの場所に伸びて立っていられなくなる。崩れ落ちながら必死に理解しようとするも理解が追い付かないまま前頭部にまた鋭く焼けるような痛みが走った。
直後、僕の意識は途絶えた。
それはまるで朝の目覚ましみたいに突然脳内に入ってきた。
「いきなり殺してごめんなさい。私と一緒に死んでください。」
控えめだがどこか芯のある、弱々しいがどこか幸せそうな、そんな声が病人を看病する時のような口調で話しかけてきた。なぜかすんなり聞き取れたし言葉の意味も理解できた。
儚げな声音に起こされ朦朧としていた意識をゆっくりと自分の身体に繋ぎ目を開ける。白い天井を視認する。数回瞬きし辺りを見回すと綺麗に整頓された木目調の机と椅子が並んでおり、奥の壁は大きい黒板になっている。反対に1番近くの壁は綺麗な正方形に区切られ、それぞれに白いテプラのシールが貼られている。どこか見覚えのあるこの風景を記憶の中から探す。
それは僕が小学1年の時の教室で、忘れ去られた少女の最後の訴えだった。