母の想い娘知らず
エレベーターを降りて、マンションのエントランスホールを歩いていると、スマホから着信音が鳴った。
画面を見れば、雪さんからだった。
「もしもし?」
「良かった繋がった。優君、もうマンションは出ちゃった?」
「いや、ちょうど今出るところだったよ」
「そっか、そしたら少しだけそこで待っていて」
「それはいいけど何かあっ……」
こちらが最後まで言う前に電話は切れてしまった。
そんなに急ぐ事が何かあっただろうか?訝しく思うものの、何やら切羽詰まって様子だったので心配になった僕は大人しく彼女を待つ事にした。
エレベーターが僕の部屋の階まで上がり、すぐにそのまま降りてくる。
扉が開けば、中には小さな袋を持った雪さんがそこに立っていた。
「あ……」
「もう、優君お弁当また忘れてるじゃない。あれだけ忘れないでって約束したのに……」
「いや、その……すまない。あまりにも衝撃的な事があって頭から抜けていた。自分を棚に上げるわけではないけど、雪さんも家を出る時に気づいてくれたら良かったのに……」
「それは、だって……行ってらっしゃいのチューする事で頭がいっぱいで……あっ、違うの!!今のはなし!!」
そう言って顔を赤くして、手を振り回す。手に持っている弁当の事は完全に忘れてしまっているのだろうな。
それがまたおかしくてつい声を出して笑ってしまった。そして、そんな僕の態度にムッとしているのが、とても微笑ましく思えた。
「ごめんごめん、違うんだよ。雪さんお弁当持ってるのにそんなに手を振り回して大丈夫なのかなと思ってさ」
「えっ!?あ……どうしよう。多分お弁当箱の中身悲惨な事になってるよ。優君申し訳ないのだけど、今日のお昼はどこかで買って行ってもらえるかな?」
そう言って肩を落としながらしょんぼりしている雪さんの手からお弁当をさっと抜き取る。
「せっかく作ってくれたんだから、美味しくいただかせてもらうよ。それじゃ行ってきます」
雪さんは僕の行動に抗議の声を上げていたが最後に小さく『ありがとう』と言い、嬉しそうに手を振り見送ってくれた。
「なんか朝から色々あったけど、今日も頑張りますか」
僕はどこか浮かれた気分で駅へと向かい歩き始めた。
〜優が出かけた直後のリビングでの親娘の会話〜
「ねぇ、ママ。顔が赤いけど体調悪いんじゃない?」
「えっ!?そんな事ないわよ、大丈夫だから。お母さんはほんとに大丈夫よ。こ、小春は早くご飯食べちゃいなさいな」
「ねぇ、さっき優先生を見送りに行った時なんかあった?」
「何かって何!?べ、別に何もないわよ!!」
不自然な程に強く否定した雪は、コーヒーを飲んでいたマグカップを持ちキッチンへ移動する。
「なんかムキになるのがすごく怪しい……。まさか行ってらっしゃいのキスとかしたりしてないわよね?」
それを聞いた雪は動揺したのだろうか?手に持っていたマグカップをシンクに落としてしまう。
「もぅ、お母さんの歳をいくつだと思っているのですか?そのような恥ずかしい行為を平気で出来るのは、新婚の若い夫婦ぐらいなものです。節度ある大人は間違ってもそういう事はやりません」
果たして自分の喋り方が娘相手に丁寧語になっている事を彼女は気づいているのだろうか?
「ママ……やったのね……」
小春が知りたくもない事実を知り複雑な顔を浮かべている事など露知らず、雪は先程の自分の行動を振り返っては悶絶している。
しかしながら、そんな幸せいっぱいの雪の目に、あってはいけないものが飛び込んできてしまった。
「大変、優君がお弁当を忘れてしまっているわ。急いで持っていってあげないと」
電話をかけるやすぐさま飛び出していく雪を冷めた目で見送った小春は誰もいなくなったリビングで小さく溜息を吐く。
「娘の目も憚らずにイチャイチャしてるくせに、自分の事は気にせず好きになっていいなんて言われても、どうしていいか分からないじゃない……」
昨日、雪は優から告白された後、返事を1日待って欲しいと伝え、親娘の密談の場を設けていたのだ。
雪はこれから優に積極的にアプローチをかけると宣言し、同じく優に恋してるであろう小春にも遠慮する事なく奪い取るつもりで彼にアプローチしろと伝えていた。
十数年間想い合っていた初恋の相手同士でもある二人の間に割って入る事がどれだけ困難かは、火を見るより明らかだと言ってよいだろう。
「ああ、もう!!頭がこんがらがってよく分からない!!一体全体ママはどうしたいのよ!?自分が幸せなんだから私の事なんて放っておけばいいのに。ママのあの幸せそうに溶けた顔を思い返したらなんだか段々腹が立ってきたし。はぁ……困った時は相談していいって言われてたもんな。夕凪さんもう起きてるかな」
小春の言う夕凪という女性は、先日まで教育実習生として学校に来ていた優の元教え子の大学生である。ここでは割愛するが彼女も少しだけ特殊な恋愛を経験しており、小春の功績のおかげでつい先日それが成就した。
メールアプリを開いた彼女は、そのままじっと画面を見つめ、素早く文字を打ち込んでいく。
最後に送信ボタンを押し、スマホをテーブルに置く。
何度も見直し納得のいく文章が仕上がったのだろう事が窺える、満足そうな顔で食事を再開する。
「いつも思うけど、ママのご飯って冷えても美味しいんだよね。私でも頑張ったらこういう料理作れる様になるのかな……」
彼女は今まで満足に料理を作った経験などない。
自分の劣っている部分が浮き彫りになってしまった事に気づいた彼女は、美味しいの言葉とは裏腹に苦虫を噛み潰した様な顔で朝食を凄い勢いで平らげていく。
その姿は好きな人には絶対に見せてはいけない類のものであった事はなんとなく察していただける事だろう……。
いつも読んでくださってありがとうございます。
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少しだけ物語の構成を変更させていただきました。どんだけの頻度になるかは分かりませんが、優の居ない二人のやり取りを他人語りの形にして盛り込んでいこうと考えてます。楽しんでいただければ嬉しいのですが、ガッカリさせてしまったら申し訳ないです。笑ってお許しいただければ幸いです。これからも宜しくお願いします!