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蝶につき

作者: 相葉俊貴
掲載日:2017/09/12

[覚醒者]

 シィィーーー……ピシッ……パシュン

 宵闇から明ける夜空のような灰色をした半透明なフタが開いた。私は〝その中〟にいて、静かに目を醒ます。月の時間の終わり。

 〝その中〟から、私は脱けでようと試みるが、ねっとりと微睡む体は粛然と抗う。眠れる森の美女も、数百年ぶりの目醒めに、微睡みの体を厭うたのかもしれない。

 私は〝その中〟で仰向けに寝そべっていて、粘ついた体の各々のパーツを見渡すことができる。まずは左足から、次に臀部を、そして上半身へと少しずつ動かしていく。〝その中〟から脱けでるのに、数十分を要した。

 脱けでた私は、おそるおそる振り返って〝その中〟を見渡した。〝その中〟は、私の体を納めるに至適なサイズのクッションに満たされていて、クッションは私の体分へこんでいた。〝その中〟の外身は白い艶のある――カイコの繭のような――角のない箱だった。

「ここは……?」

 私は独りそう言い、周りをゆっくりと観察した。私以外の人間は見当たらない。その代わり、私のいた繭と同じようなものが等間隔でいくつも並んでいる。――教室のような広さだな、と独りごちる。私は白い扉が繭の並びの先にあることに気がついた。

 白い扉の前に立つと、その扉はのっぺりとしていて取っ手も何もないことがわかる。私は扉を押してみたが、扉は微動だにしない。

 正攻法で扉を開けるのを諦め、扉の周囲に視点を移した。すると扉の横に、四角い――これも角張っていない――枠がある。ちょうど手のひらサイズ。私は何とはなしに、私の手をそこにゆっくりとあてがった。

 プシュゥシという音をたて、存外の速さで扉が開いたため、私は目を丸くした。その時、はたはたはた……と立ち尽くす私の肩に何かがとまった。あまりにも自然に降り立ったため、私はその黒い物体を払うこともしなかった。

「これは……蝶……?」

 黒い蝶だった。黒い羽を思い切りよく広げて、心地よさそうに蝶は私の肩にいた。私はその蝶を知っていた。確か日本人が発見した蝶――だったはずで、学名は忘れてしまったが、通称を《海月(くらげ)蝶》といったはずだ。夜空のような黒い両方の羽には、大きな黄色い丸い円と少しの黄色い斑点がある。――夜空に満月と少しの星が煌めくように。

 海月蝶にはある特殊な生態がある。そもそも海月蝶は海の近くに宿場を持つ蝶であり、だから海月蝶は海からまるで離れた場所に放逐しても、一心に海を目指す生態。海をゆく月、――海月蝶の名前の由来はその生態からきている。

 私は蝶の名を思い出し、私についての一つの事実に突き当たった。

「――私は誰?」



[探求者]

 夫を亡くしてもう二年も経つ。夫が亡くなってから、わたしの心には新月のような黒く見えない部分がある。いつまで経っても満ちようとしない朔。

 いっそわたしを飲み込んでしまってくれたら、何度もそう思った。それほどに、わたしの心に夫はいた。

 夫は探求者だった。夫は興味のほとんど全てを蝶の探求に捧げていた。

 夫は数多の蝶について深い造詣を持っていたが、とりわけ《海月蝶》の探究に目がなかった。わたし達に子はなかったからか、自分が発見したその蝶を我が子のように愛した。

 もしかしたら海月蝶がなければ、夫はもっとわたしとの時間を大切にしたのかもしれないが、それではわたしの愛した夫ではなかった。

 わたしは夫の考え込むしぐさも、わたしの拙い質問に答えてくれることばも、全て好きだった。

「この蝶はなんでこんな色をしているの?」

「――それはね」

 わたしにもわかるように夫は蝶をかたり、その時の夫の目には少年の無垢さがあった。

 そして夫は逝った。こんな若さで――誰しもそう言ったし、わたしもそう思った。

 夫の残した蝶たちを、わたしは養う自信がなかったから、わたしは蝶を大学などに寄付した。でも海月蝶だけは手元に残した。海月蝶がいれば、夫がそばにいてくれる気がしていたから。

 わたしは毎晩、地球に湧き上がる月と、地球に沈む月を自宅から見て過ごした。わたしは何度も海と月に訊いた。

「あなたはどうしていってしまったの」

 海と月は応えてくれなかったが、静かに海月蝶が私の周りを飛んでいた。

 わたしは住処を変える決意をした。夫がいたココには、夫がいすぎるので、反対にわたしは苦しい。

 そして、わたしはわたしに好適な移住先の情報を知った。



[覚醒者]

 私は開いた扉の前に立ち尽くしていたが、ようやく一歩踏み出す意思が成った。どうして自分が誰かも思い出せないのか、思い出せないからわからなかった。

 私がいた部屋は音がなさすぎる。耳を澄ましても、静寂な空気の音が耳を支配する。それが苦しかったので、扉の向こうに出たくなった。とっ…、そんな音であっけない一歩は終わった。機械的に明るい次の部屋は、ただの廊下だった。廊下の先にも、この扉と同じ形の扉がある。そこまで行くと私は、次の扉を開けるのも、そこを通過するのにも何の抵抗もなかった。次の扉の先には――、緑……緑……満たされる緑。

 すぐに〝植物園〟を連想した。南国を彷彿とする植物……ヤシのような木、シダのような草、あとは何かよくわからない種類の草やら木で、所狭しと覆い尽くす植物たち。ジャングルではなく植物園を連想したのは、天井がドームのような物に覆われていたからだ。ドームは静かに苔むしている。ほんのりではあるものの、機械的であることには変わらない白い光が降り注いでいる。

 やはりそこにも音は無かった。これだけ植物があるのなら、鳥や、虫の声が多少なりともあってよいのではないか。しかし、植物たちの無言が、私を限りなく寂しくさせた。

 ――水が、海が見たい。

 反射的に私はそう思った。水のせせらぎが、海のさざなみが恋しかった。音が欲しい。流れ行く水が欲しい。

 私は肩にとまる海月蝶を見た。この蝶は海を目指す性質がある。ならば、この蝶の行く先を追えば――……海にたどり着ける。私はひとひらの蝶に願いを託した。

「私を……海へ……」



[探究者]

 海月蝶は、優しかった。わたしを責めることもないし、追い立てもしない。優しく寄り添ってくれる。

 蝶は、意識してみれば限りなく静かだった。音もなく生まれ、音もなく成長し、音もなく飛び、そして音もなく死んでいく。

「――それはね、蝶には音がないから。他の動物や虫たちは、人間も、音を大切にしている。言葉を……音を奏でて、個体間で存在を認識しあったりするんだ。でも蝶はそれができないから、こんな色で自分を他の個体に示しているんだよ。僕はそう思う」と、あの人は言っていた。

 「へぇ……」と、その時のわたしはそれぐらいの反応をしたと思う……けれど、今はこの言葉を深く考える。

 ねえ、あなたのいないわたしの今の心は、どんな色をしているの?

 あの人の声がきこえてくる。

 ――それはね、



[覚醒者]

 海月蝶は私の願いに応えるように、私の肩を離れ……私には見えない何かに導かれるように、ひらひらと進みだした。

 私は願いを込め続けて、海月蝶のあとを追った。

 海月蝶はたまに木にとまったりして、それでもどこかに進んでいた。私は海月蝶を見失わないように、無秩序に生い茂る木々をくぐったり、またいだりしながら進んだ。まだ微睡みの残る体は、いやいやと言いつつも私について来てくれた。

 歩いても、歩いても、人も動物も虫にも出会えない。私が発する音だけが、この〝植物園〟に染み込まれていく。

 どこまで進もうともまるで化かされるように景色が同じで、私はうんざりしてきた。機械的な発光は次第に私の目を疲れさせ、溢れる緑がそれを強制的に癒した。

 これだけの植物があるのに、不思議にも水にまつわるものはなかった。池も、せめて水たまりもない。もう人工的な蛇口でもいい……そう思った時、のっぺりした扉が現れた。先に通過した扉と違うと私がすぐに理解したのは、その扉がほんのりクリーム色をしていたからだ。

 クリーム色の扉の前に、揺らめく海月蝶。私に語りかけてくるように見える海月蝶。

 ――開けて……開けて……この扉を開けて。

 私はそれに応じた。手のひらを枠に押し付ける。

 プシュゥシ

 冷たい空気が流れ込んでくる。夜明けの海風に似た冷たさ……しかし何かが海風のそれとは決定的に違った。



[探究者]

 海月蝶の探究を、あの人の見様見真似で続けている。一日の行動を観察し、それをノートに記す。

 あの人は、海月蝶は現代の地球の環境が生んだのだと言っていた。

 汚染につぐ汚染で、人は《地球の姿》を変え続け、たくさんの生き物が消えていった。その反対に生まれるものもあった。生き物は逞しい。砂漠なら砂漠に、氷河なら氷河に生まれ、適応し、育つ生物たちがいる。

 海月蝶はいったい何に適応し生まれついたのか、あの人はそれを探究していたので、わたしもそれに倣う。わたしではその解答を導けるべくもないが、それは大切なことではなかった。わたしは今もあの人の道の上にいると実感できることが重要だった。それでも、海月蝶はなぜ黒い羽に満月を宿しているのかとか、なぜ海を拠りどころとするのかとか、わたしなりにも疑問が生まれて楽しくもあった。

 だからわたしは新居に海月蝶を連れていくことを躊躇いもしなかったし、新居に関しても、海月蝶を飼育してよいかの問い合わせを最優先した。新居は集団生活になる。海月蝶がいらぬ諍いにならぬように配慮は必要だ。

 わたしの目指す新天地に海はある。しかし、それが海月蝶の望む今までの海ではないことを知っている。海月蝶に孤独を感じさせてしまうことになるだろう。

 ……ふと、海月蝶は孤独に適応するために生まれたのかもしれない……と思った。人が作った生物たちの孤独……それが今の地球環境……海月蝶は孤独の海を照らす月。あの人は昔、地球とは真の意味で隣接する存在がないのだから、孤独なものだと言った。だけどその孤独を照らしてくれる月があるから、僕たちは生きていけるとも。わたしはその時、あなたが地球で、わたしがあなたにとっての月になれたらと思った。あなたの孤独はわたしが照らしてあげると。

 ――行こう新天地へ。孤独の海に船出する。こわくないよ……きっとそこには、わたしの孤独を照らしてくれるあなたがいるから……。



[覚醒者]

 冷たい空気の部屋に踏み込む。これまでとは一転して、白光は影をひそませ、暗い部屋にポツポツとオレンジの光が灯っていた。海月蝶は迷わずその部屋を進み、おびただしい植物たちの間を脱けるより、海月蝶のあとを追うのが難しくなった。部屋は広くなったり、細くなったりを繰り返した。

 そして突然、ギラギラと文字を発する電光掲示が現れた。

《エマージェンシー 滞在者は即時この施設から脱出せよ》

 私の心臓がバクバクと鼓動する。私の他にここに誰もいないのは――この施設の滞在者が既に脱出しているから。

 とたんに、絶対の孤独を感じる。冷たく背を流れる汗。ここは一体どこで、なぜ滞在者たちは脱出し、私は一体何者なのか。孤独は私にいくつもの疑問を生み出させる強い力を持っていた。固まる私を気づけるように、ひらひらと海月蝶が電光掲示を横切る。私はハッとしてから、もはや盲信するように海月蝶のあとを追い出した。

 やがて行き着く再びの扉。私は思考を半停止させながら、枠に手をあてがい、無闇に次の部屋へ移動した。これまで天井は、外界の情報を完全に遮断していたが、その次の部屋では、

 ――美しい夜空、千の星がまたたく夜空が広がっていた。



[探究者]

 わたしはカイコの繭のようなスリープ装置に入る。ちょうどわたしがおさまる形に設計されている。静かに海月蝶もわたしのスリープ装置に降り立った。この移住用スリープ装置は、人を新天地へ送る装置。移住参加者は、目覚める時に、一時的な記憶喪失を起こすことを留意しなければならなかった。

 ――お願い海月蝶。新しい世界で孤独にわたしが目覚めても、わたしを導いて。



[覚醒者]

 夜空に浮かぶ、この星に寄り添うあの星。

 青く輝く地球が、星々の海に包まれていた。わたしは月面移住計画に参加したことを思い出した。孤独の月の海にいるわたし。海月蝶が天井の向こうにある地球へと向かって飛んでいく。孤独の海のくらげ。地球(あなた)にやっと出会えた。

 ――わたしの色は何色? あの人の声がきこえる。

 ――それはね、僕を照らす孤独の海に浮かぶ月の色だよ。

 カイコの繭の目覚めは近い。

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