電話
「いらっしゃい」
六席しかないカウンターの中から、あいかわらず無愛想なオヤジが声をかけてくる。俺は軽くうなずいて、一番手前の小さなテーブルにすわった。コンビニの角をまがった路地にあるこのラーメン屋には、いったいどうやって商売がなりたっているのかと思うほど、いつも他に客の姿がない。
「今日はお早いですね、いつものやつですか?」
そう言ってテーブルに水を置くのはこの店の娘だ。若い、といわれるほどもう若くもないはずだが、化粧をあまりしていない顔はちょっとえたいの知れない、年齢不詳な感じがする。いつもの赤いバンダナに黒いエプロン、そしていつもどおりの優しい笑顔がそこにあった。
「はい、いつもの……あ、それと今日は食後に杏仁豆腐をもらおうかな」
「あら、やっと食べてくれる気になったんですね」
「手作りなんでしょ。一度くらい食べないと、バチ当たりそうだから」
なるべく普段と変わらないように、思いつめた口調にならないように気をつけたつもりだったが、彼女の目には一瞬、心配そうな色がちらと走った。しかしそれ以上何も言わず、彼女はカウンターの中に向かって「チャーシューメン、固め、ネギ多め、メンマ抜き、半チャーハン」と注文を読み上げた。
大学に入学してこの町で下宿生活を始めてからずっとこの店に来ているが、ここは何ひとつ変わっていない。手あかと油で黒ずんでいるカウンターや壁のペンキ、今はもう名前さえ思い出せないアイドルが水着姿で微笑むビールの宣伝ポスター、本棚に雑然と積まれた漫画本、あちこちに貼られたまま見る人もなく黄ばんでいる手書きのメニュー、ほこりだらけの造花や招き猫、壊れたテレビ。いつのまにか存在していることすら忘れていた物たちを、俺はひとつひとつ見回した。
カウンターの中では、オヤジが中華鍋をあおるたびにオレンジがかった赤い炎がちらちらと踊る。近所の人の噂では元警察官だというが、半ば白くなった坊主頭に手ぬぐいを巻いて、汗だくになって調理する姿はどこから見ても正真正銘、ラーメン屋のオヤジだ。奥さんを早くに亡くし、娘を育てるために警察を辞めたんだろうか。今まで一度もそんな目で見たことはなかったが、オヤジの眉間には深い深いシワが何本もきざまれている。
「あがったよ」
「はーい」
奥でどんぶりを洗っていたらしい娘が、まず半チャーハンを、そしてメンマ抜きでネギ多めのチャーシューメンを俺の前に並べた。俺はいつものようにまず、ラーメンのスープをすする。ここのスープはなつかしい中華そばを思い出させる、さっぱりしたしょうゆ味だ。それから昔ながらの身がしっかりしたチャーシューを口にする。固めにゆでた細麺はのびないうちに一気に食べ、残ったスープを楽しみながら半チャーハンを一口一口、ゆっくり味わう。隠し味に干し魚を使ったチャーハンは独特の塩加減が絶妙だ。
スープを飲み干したところに、娘が「お茶は私からのサービス」と言って、杏仁豆腐とジャスミンティーを持ってきた。
まだなんとなく食べ足りないな、という胃の中に、冷たい杏仁豆腐が気持ちよくツルツルとすべりこんでいく。口の中に残るほのかな甘さをジャスミンの香りがさっぱりと洗い流してくれる。
すっかり満ち足りた幸せな気分でもう一度店内を見回し、「ありがとうございました」というオヤジの低い声に送られて外に出ようとした時、俺のテーブルを拭いていた娘が「またどうぞ」と言った。なんだか胸にせまるようなその言い方に俺は足を止めて振り返り、「ええ、また」と答えていた。それを聞いて彼女はほっとしたような笑みを浮かべ、俺もその笑顔にほっとして店をあとにした。
何百回もかよった同じ道を、自宅に向かってゆっくりと歩いていく。毎年店の数が減っていく商店街を過ぎて左にまがると、そこから突然、住宅街がはじまっている。
いつのまにか、どこもかしこも庭の木々が華やかに白や黄やピンクで彩られ、濃い緑を背景に街灯の下で誇らしげな輝きを散らしている。恋人ができると花の名前を覚えるというのは嘘だな、と思う。若い女が欲しがるのは、いつだってバラの花だ。こうした木々の花の名をすらすら呪文のように唱えられた女性なんて、父方の祖母だけしか知らない。
ノラネコが塀の上にじっとうずくまって、だまって目だけを光らせてこっちを見ている。舌を鳴らして手を差し伸べてみると、俺の指先に残ったにおいをしばらく嗅いでいたが、やがて興味がなさそうに顔をそむけてしまった。
俺はふらふらと満月を見上げたり、どこかの家から聞こえてくるテレビの音に耳をかたむけ、どの番組かを当てようとしてみたりした。なつかしい歌謡曲が聞こえてきて、思わずそれに合わせて口ずさむ。たしか大学一年の夏休みに流行っていた恋の歌だが、もうずいぶん昔のことのような気がする。前から自転車のライトが近づいて来たので、恥ずかしくなって鼻歌をやめた。
女子高生らしい制服姿は、チェック柄のスカートをマントのようにひるがえし、恐れるものなど何もないかのように暗闇を突進していく。いまどきには珍しい、ダイナモ式発電機のウインウインという苦しげなうなりだけが、妙に耳に残った。
どんなにゆっくり歩いても八分でアパートに着いてしまう。まだ時間が早いせいか、どの部屋の窓も暗く、壁に沿って並ぶ小型洗濯機たちがひっそりと主人の帰りを待っているようだ。一階の左奥にあるドアの鍵をあけ、俺は一番に自分の部屋の電気をつけた。白色蛍光灯のうそ臭い光に照らされた六畳一間のアパートはすっかり片付いていて、ダンボール箱が二、三個ずつ、三つの山にきちんとわけて置いてある。それぞれの箱には、紙クリップひとつにいたるまで中身がなんであるかをすべて、ていねいに細い黒マジックで書き込んであった。
入り口横の小さな冷蔵庫の上に携帯と鍵を置き、そのかわりにそこに置いてあった封筒を取り上げた。明日の夜、うちに遊びに来ることになっている俺の友人にあてたものだ。俺は手紙の内容をもう一度確かめ、今度はきちんと封をして、そこにあったセロテープでドアの外の目立つ場所に封筒を貼り付けた。
そうして内側から、チェーンははずしたままでドアに鍵をかけ、俺は脱いだ靴をきちんとそろえてから部屋の中にあがった。セロテープは一番手前のダンボール箱にしまう。一応できるだけ掃除はしたつもりだったが、改めて見ると急に隅ずみの汚れやほこりが目についた。セロテープを入れた箱のとなりのダンボールからペーパータオルを取り出し、洗面所で軽く濡らして、気になったところだけまた拭いてみる。さて、ゴミはすっかり処分したあとなので捨てる場所に困ってしまい、いけないと知りながら汚れたペーパータオルを細かくちぎってトイレに流した。少し泥のついたイチゴの花びらのように、こちらを見上げながらくるくる楽しそうに舞っている。そういえば今年はまだイチゴを食べていない。ついでに最後に用を足すと、体の中もだいぶ軽くなった。
薄汚れたベージュのカーテンをきっちり閉め、窓の下の積んであったふとんを敷く。コンセントを抜いてからだいぶ経ち、もうすっかり生ぬるくなってしまった冷蔵庫を開けて、一本五千円もした大吟醸酒の四合瓶と、薬の容器二個を取り出した。掛けぶとんを足でめくって、今朝クリーニングから取ってきたばかりの、まっ白なシーツの上にそれらを並べて置く。本当ならバーボンか何かで流し込んだほうがかっこよかったのだろうが、のどを焼くウイスキー類はどうしても好きになれなかった。電燈のヒモを二回ひっぱって消すと、キッチンの小さな窓から月明かりがうっすらと射しこんで、部屋全体がプールの底に沈んでいるようだ。さっきの恋の歌がまた頭の中で回り出した。初デートで彼女とプールに行って、彼女が見せてくれたビキニの日焼けあとがまぶしくてとか、そんなくだらない歌だった。くだらない歌だったけど、あの頃の自分はそんな恋にあこがれていた。
酒瓶のフタをねじってあけ、薬の容器のフタも両方あけた。いったい何錠飲めばいいのか、そんなことをインターネットで調べるのもバカらしかったので、とりあえず多めに用意してみた。いつも大きな音でテレビを見ている隣の部屋も、子供が楽しそうにバタバタ走り回っている二階の部屋も、まるで固唾を呑んでこの厳かな儀式を見守っているかのように静かだ。
俺は眠くなってきたらすぐ横になれるように、枕をととのえた。
その時、電源を切り忘れた携帯が冷蔵庫の上で鳴った。
手が届く前に切れますように、と思いながら俺はわざとゆっくり立ち上がってキッチンへ行った。
「もしもし」
「あ、お母さんだけど。昨日荷物送ったんで、一応電話しておこうと思って」
「もういらないって言ったじゃん」
「そうだけど、お向かいからおみやげに鮎の甘露煮をもらったのよ。お前あれ好きだったでしょう。賞味期限、間に合いそうだから送っといたよ。ちゃんと受け取って食べてよ、じゃあね」
偶然なのか虫の知らせなのか、俺にはわからない。しかし母親の声を聞いて、やっぱり自分はこの人より先には死ねない、と思った。いつも朗らかな母親が今まででたった一度、俺の前で泣いたのは、俺が手首を切りそこねたあの時だけだから。
大吟醸酒は明日、鮎の甘露煮を肴に友人と楽しむことにしよう。薬は……とりあえず「いらないもの」のダンボール箱に放り込んで、押入れの一番奥にしまった。
捨て忘れていたカレンダーが押入れのふすまの陰で、昨日が「母の日」だったことを小さな赤字でこっそり告げていた。