暗黒騎士は暖かな光に包まれて
彼の罪を物語るかのように重く降りしきる雨に打たれ、暗黒騎士は、最愛の人をその腕に抱き続けた。腕の中のその人の美しい顔に生命の輝きは既に無く、それが彼が為してきたことに対しての残酷な答えであることを、魂の本質において彼は思い知らされてしまった。
雨に濡れる髪が顔に垂れ、視界を塞ぐ。凍れる瞳で彼女の青白い顔を見つめる暗黒騎士の目の前に、煌めく光の柱が現れ、その中から、人の形をした何かがゆっくりと彼の傍に歩み寄ってきた…。
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「別れは…いいのかい?」
町の外れの草原。既に返ってくる答えを予期して、しかしそれでも言わなければならぬことを言うのだといったような素振りでカシスは彼の親友に問いかけた。
「いいんだ」影を宿らせた瞳を伏せてかぶりを振り、ウォルクスは脇に差した聖剣の柄をぎゅっと握った。「これから人を殺そうという人間に掛ける言葉など、無いだろう。まして聖騎士が……だ」
深夜の冷たさが二人の頬を撫で、これから自分達を待ち受ける巨大な試練の厳しさを予感させた。普段は陽気なカシスもその重くのしかかる雰囲気に飲まれ、諧謔に富んだその口を閉ざして眉をひそめ、西の空を厳しく見つめている。
西の空。そこに、魔女エレーナの予言に従って、カシスの妹やウォルクスの父を殺めた、あの男──魔に手を染めた悪しき法務官グリアスがいるのだ。今二人は才能ある若者としての輝かしい未来をすべて捨て、復讐のために己を捧げる道に足を踏み入れようとしていた。
「分かっていると思うが、法務官に逆らうということは、聖騎士団をも敵に回すということだ」
「ああ…」彼らの所属する聖騎士団は、実質的に国の権力者の傀儡と化していた。それを知ったのは、ウォルクスが騎士団に憧れてそこに入り、団内でこそこそと言い伝えられる噂話を確かめた後のことだった。
「…行くか」国の聖騎士団の象徴的な存在である白馬。その鐙に足を載せようとしたウォルクスの体を、一つの声が固めた。
「お待ち下さい!!」
心はざわめきながらも、無感情を装って振り返るウォルクスの前に、麻のドレスを身に着けた少女が、不安げに手のひらを胸の前で重ね合わせて彼らを見ていた。
「なぜ来てしまったのです?」目を合わせずに町の方を向き、ウォルクスはセリアに言った。
「今行かないと…、もう二度と会えないような気がして!」セリアの目は優しく潤んでいた。ウォルクスが大好きだった目だ。気持ちが揺らぐのを感じる。
しかし、彼は努めて心を凍らせようとした。
「もはやあなたに話すことなど何もありません」踵を返し、ウォルクスとカシスは馬に乗り込んだ。
「町長の娘でありこの町を背負うべき一人であるあなたが、俺のような木っ端騎士に釣り合うはずなど無いのです」
「いいえ!」彼女にしては不思議なくらい強い口調でセリアは叫んだ。「復讐のために、あなたは自分を殺そうとしているだけです! 復讐の果てには何の未来もない、そんな場所を目指すことにどんな意味がありましょうか!?」
「父の名誉のためです」静かに燃え上がる声でウォルクスは答えた。その口調が、もう彼の決心を揺るがせられはしないことをセリスに悟らせた。
「もし、それでも行くのならば……もし釣り合わないなら、私は町長の娘という立場を捨てましょう! そして、あなたとともに…」
「馬鹿なことを!」ウォルクスは馬の横腹に拍車をかけた。見事な体格の白馬二頭は駈歩を始め、セリスとの間はみるみるうちに開いていった。
「覚えていてください! 私はきっと、あなたとともに…」
闇に溶けてゆくウォルクスの背に、セリスはあらん限りの強勢で声を投げかけた。
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「ぐはっ!!?」
背中から切り込まれ、硬い地面に倒れ込むカシス。どくどくと流れる血が褐色の地面を黒く濡らしてゆく。
法務官グリアスの遣わした魔物との戦闘で、あまりに多勢の敵を相手にするうちにカシスは不意を突かれた形になった。
「カシスッ!! うぉぉぉ!!」
聖騎士の秘めた力を解放し、対峙するリザードマン達を一瞬のうちに光と消し去ったウォルクスは、急いでカシスの元にひざまずいた。
「カシスッ! しっかりしろ!」懐から膏薬を取り出して、鎧を破断するほどの深い背の切り傷に塗りつけるウォルクスだが、それが焼け石に水であることは分かりきっていた。
「ぐぅぅ…。へへ、もう痛みも感じないや」苦し紛れの微笑を浮かべ、諦めたようにカシスはぼやいた。
「おい、何を言ってる!」どうにかして親友の体を起こし、最寄りの町に運ぼうとするウォルクスの鎧を、親友の血が紅に光らせる。
「最後に言いたいことがある」カシスの呼吸が一層乱れた。「復讐を遂げられずに終わるなんて…ぐはっ…虚しいもんだ。でも、もっと虚しいことがある」
「やめろっ! 喋るな!」必死のウォルクスの呼びかけも虚しく、カシスの口は弱々しく最期の言葉を告げようとしていた。
「俺の代わりに…もう悪によって失われる人のいない世の中を作ってくれ…」
そして、カシスは事切れた。
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三年が経った。
黒い鎧に身を包んだ青年が、法務官の治める街の路地裏でたむろする商人数人に歩み寄る。鎧の半身はまるで血に濡れたように紅く鈍い輝きを放ち、商人達はぎょっとした顔で彼を見た。
「貴様達…」恐ろしく静かな声で、暗黒騎士は商人達に言った。「法務官の館に出入りしているのだろう? 場所を教えろ」
「へっ。なんで俺達がそれを教えなきゃ…」
そういいかけた強面の商人の首元に、黒い鋼の剣が差し出された。
「二度は言わん。法務官の館はどこだ?」
強面の商人は口をつむぎ、舌打ちをして心外そうに俯きながら、彼らの中で最も小柄な使いっ走りの商人に目配せをした。
「へ、へい! 私が案内しまさぁ、旦那」
怯えて跳ね回るように歩く商人の後ろを、暗黒騎士となったウォルクスの、コツコツと街の道を鳴らす音が追いかけていった。
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「ウォルクス! …ウォルクス?」
町の繁華街を歩いていると、聞き覚えのある柔らかな心地よい声に彼は振り返った。
「セリア…」
目の前にいる女性はかつての美しさによりいっそうの磨きをかけ、潤んだ瞳は彼の闇に沈んだ心を救わんと輝いていた。
繁華街から裏道に逃げ、人気の少ない小川沿いでウォルクスとセリアは向き合った。
「あなたが法務官の元に向かっていると聞き、先回りして、この町で生活していたのです。でも、その格好は??」
「カシスが死にました」ひどく淡々とウォルクスは言い放った。
言葉を失うセリア。
「俺はもはやかつてのような聖騎士ではなくなってしまったのです。あの日から、俺はグリアスを殺すことだけを胸に、闇の中に生きてきた。何人も、何匹もこの手にかけた…」漆黒の籠手をぐぐっと握りしめ、唇を噛んでウォルクスはセリアの下顎を見た。自分が汚らわしい存在に成り下がってしまったような気がして、彼女の瞳を正視することはどうしてもできなかった。
「いえ、あなたは…」鎧の血のような紅い部分に優しく手を添え、セリアは囁くように彼女の愛しい人に問いかけた。「何も変わってはいない。今でも優しい聖騎士のままです。そうでしょう??」
「セリア…」
思わず彼女を抱きしめようとして、ウォルクスは踏みとどまった。彼女の柔らかさをもう一度知ってしまったら、法務官グリアスに立ち向かう心が折れてしまいそうだったのだ。
ぽつ、ぽつと二人の肩を濡らした雨は次第にその勢いを増してゆき、雨煙に紛れてウォルクスを襲おうとするアサシン達に、彼は気づくことができなかった。
シュッという音とともに、暗緑色の鎖帷子を身に着け短刀を握りしめた、グリアスの差し向けたアサシンの一人が背後からウォルクスを斬りつけた。
首にかすり傷を負い、しかし、返しの一撃でアサシンの腕を切り落とす暗黒騎士。
「ぐぁ!」腕を落とされたアサシンは地面に転がり倒れて小川に落ちた。
「どうした? こんなことで俺を仕留められるとでも…」気づかれずに殺害することに失敗し、距離を取って短刀を構えるアサシン達。
しかし、路地の死角から彼を襲うもう一つの影があった。影はウォルクスに忍び寄り、既に首に狙いを定めて突進せんとするところであった。
影が動いた。
「ウォルクス!!」
横で身を縮めていたセリアが、動物のように素早く動いて影とウォルクスとの間を塞いだ。
路地から飛び出たアサシンの刃は、彼に届くことはなかった。
「セリアーーー!!??」
己の首からどくどくと流れる美しいほどの鮮やかな血を、彼女自身は決して見ることはなかった。即死だった。
「ああああ!!」
吠えたけるウォルクスを置き、暗殺の失敗を確信したアサシン達はそそくさとその場を去っていった。
雨足はさらに強くなり、叩きつけるように暗黒騎士と失われた彼の愛しい人の体を濡らした。
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女性の形をした、煌々と光り輝くそれは、慟哭にむせび苦しむウォルクスの足元に立ち、柔和なその声で彼に呼びかけた。
『戦いを続ける限り、悲しみは決して消えません…』
「…あんたは?」ぐしゃぐしゃに崩れたその顔を上げ、ウォルクスは問いかけた。
『私は、平和と幸福の女神』
「平和と幸福だと?」嘲るようにケタケタと笑い、憤怒の形相でウォルクスは睨みつけた。「今しがた世の中に絶望したこの俺を笑いに来たのか?」
『あなたは安らぎを得るべきです。もうこれ以上、戦いを重ねることに意味は無いでしょう』
「意味は無いか」光を失ったその眼でじっ…と女神を見据え、ウォルクスは言葉を続けた。「確かに、もう意味は無い。俺に大切なものはことごとく失われてしまった。今更復讐など… よかろう、お前の言う安らぎを与えてみるが良い」
『その言葉を待っていました……!!』
ニコリと女神は微笑むと、その手を暗黒騎士に翳し、まばゆい光の雲を手から発して彼の体にまとわせた。
「暖かい…」
光りに包まれた屈強な彼の体が、徐々に変化し始めた。
全身の発達した筋肉はシュウウ…と消えゆき、ゴツゴツとした体格がほっそりとしたものになった。
身長はぐぐぐぐ…と縮み、それに伴い頭身も幼いものに変化した。
黒い短髪は伸び、美しい艶をもつ背中までのロングヘアーに変化した。
顔立ちは以前よりずっと優しく幼いものになり、目鼻立ちがはっきりしたものに変わった。
体毛は殆ど失われ、細かい産毛に置換された。つるんとして敏感な色白の肌が、その下にある。
暗黒騎士の剣と鎧は、くまのぬいぐるみと薄いレモン色のワンピースに変化し、“彼”の体を丁寧に包んだ。
光が消えた時、そこには安らかに眠る、ワンピース姿の愛らしい幼女が横たわっていた。
『うふふ、可愛くなりましたわね?』
女神はお姫様抱っこの姿勢で幼女をすくい抱くと、そのぷるぷるした赤い唇にキスをして、にやりと悪魔的に微笑んだ。
そして、彼女の真の姿を現した。
真の姿──法務官グリアスを虜にして国政をほしいがままにし、人狩りと称して各地の不穏分子を殺害して回ることを命じた張本人──悪しき魔女エレーナは、偽女神として騎士を騙し、最初から無害な存在に変える魔法をかけてしまうつもりだった。わざわざ演技をしてまでウォルクスの答えを導いたのは、魔法の完了に対して騎士自身の同意が必要だったためであった。
彼女の喉元まで達するかもしれない力をつける可能性のあった暗黒騎士ウォルクスの無力化の企みが成功したことを、魔女は大いに喜んだ。すやすやと寝息を立てる小さな幼女に、ゴシック調の昏いドレスを身につけた魔女はささやきかける。
「グリアスには子供がいなかったな。丁度良い、奴のもとで可愛がってもらうがいいわ。うふふふ、憎き仇敵に育てられるという屈辱に、お前は決して気づけない」
魔女はカラカラカラと濁った笑い声を立てた。
「安らぎ…安らぎがそんなに欲しかったのか? くくく、せいぜい欺瞞に満ちた平穏な日々を送るが良い」
────
だんろのそばでお菓子を食べながらパパが帰るのを待っていたの。すると、家のめしつかいのプロディーがやってきてこう言ったわ。
「おじょうさま! そんなに間食ばっかりして、お夕食が食べられなくなっても知りませんよ!!」
「いくら食べてもお腹はすくのよ」クスクスと笑いながらあたしは言った。「それより、パパはいつ帰るの??」
「もうすぐですよ、おじょうさま」
プロディーが言ってからすぐに、玄関のベルが鳴った。
「パパだわ!!」
あたしはカーペットの敷かれた廊下を通って、玄関に向かって走っていったの。
ギィィと音を立てて玄関の大きなとびらが開いて、パパの赤い鼻が見えたわ。
「おかえりなさい、パパ!」
あたしは駆け寄ってパパに抱きついた。パパはとても優しい目をして、大きな腕を広げてあたしを抱き締めてくれる。パパの体温はとてもあったかい。
「いい子にしていたかい? エリザ」
「うん! もう宿題も終わったのよ」
「そうか…」目を細めるパパ。少しふとっちょのパパの、誰からも好かれている暖かな目だった。
「いい子にしていたなら、地方視察のお土産をあげよう!」
「やった!!」両腕を挙げて、あたしは玄関を跳ね回った。
パパは優しい。
少し前まで(といってもどれくらい前なのかは分からないけれど)、パパが、鬼のように厳しく残酷な役人をしていたなんてあたしに言ってくる人もいた。もちろんあたしはそんなこと全く信じていないけど……。だって、今のパパの様子からは、そんなこと全然想像できないんだもん!
じょうだん半分にパパ自身に聞いてみたこともあったの。
「…そう、確かにエリザに出会う前のパパは違っていたよ」下を向いて、少し悲しげな口調でパパは言ったわ。
「ちょうど妻を亡くして気持ちが沈んでいた頃に、ある一人のいけない女の人に騙されてね。人々に残酷なこともした。でも、きみを娘として迎え入れてから、僕は救われたんだ」
パパはぱっと顔を上げ、にこっと微笑んで言ったの。「エリザを育てていくうちに、だんだんと僕に人間的な感情が戻ってきた。そのいけない女の人が、ちゃんと悪い人だって理解するようにもなった。二度と関わらないように、スパッと彼女と縁を切ることができたのさ」
今では誰もがパパを好いているし、あたしもパパが大好き。パパの治める土地は皆が笑って、皆が幸せそう。悪い人なんて一人もいないんじゃないかしらと思うくらいに。
まただんろに戻って、あたしは本を読み始めた。
聖騎士団のお話。少し前に騎士団は無くなっちゃったけど、今でもあたしは聖騎士達に憧れてる。
本を読んでいるうちにうとうととし始めて、あたしは目を閉じたわ。
暖かな光が、あたしを包んでいるのを感じて。