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異世界と精神科医

「ねえ先生、異世界ってあると思います?」


 蝋燭の火が揺れる薄暗い部屋の中で、彼はそんな事をさも国家の存亡を揺るがす秘密かのように重く静かな声で呟く。


 ――あるわけがない。


 ここは日本で、都会の雑居ビルにある精神病院だ。剣と魔法が使われることはなく、電子化されたカルテと向精神薬だけが唯一無二の小さな世界だ。そんな世界があるなら足を運んでみたいものだが、残念ながら精神科医の激務中にそんな余裕は無く、実家に帰る暇もない。


 精神科医にもルールがある。それは、相手を否定しないこと。無理と違うは禁句で、言ってしまえば患者の感情の堰を簡単に壊せる呪文のような物だ。


「あるといいですねぇ」


 だから、俺はこう答えた。これが一般的な精神科の回答と考えて貰って差し支えないだろう。決して相手を否定せず、相手の世界に飲み込まれないための大事な灰色の答え。


「あるんですよ、本当は」


 患者は随分と小汚い格好をしていた。服は皺だらけで、無精髭は小さなミノムシのように寄生している。髪なんていつ洗ったのだろう、想像すらしたくない。


「そこはですね、ライグリッドという世界で精霊たちが自然を歌う美しい土地なんです」

「そうなんですか、僕の田舎もそういうところでしたよ」


 もっとも、何の変哲も刺激も無いから家を出たのだが。


「それでですね、今度都の方で精霊祭があるんですよ。国中から魔法使いなんかも集まって、それはもう随分と大規模なお祭りで……ああ、そう屋台。なんといっても屋台ですね。普段はおめにかかれないご馳走が山ほど出て」

「へえ、それは楽しいでしょうね」

「楽しいなんてものじゃないですよ! このために生きている連中だっているぐらいですから。どうですか先生? 一緒に行きませんか?」


 誰がそんな気色の悪い妄想の世界に行くものか。


「仕事の都合で難しそうですから……楽しんできてくださいね」


 灰色の回答をすれば、患者は少しだけ寂しそうな顔をした。

 同情はしない。してしまえば実害を被るのはいつだって俺達医者だ。


「ねえ、先生……先生にはこの世界がどういう風に見えるんですか? 大地は緑で溢れて、海はどこまでも果てしなく青く、魔法で生活は豊かになりましたか?」


 患者の戯言につられて、ふと窓の外を見た。


「そうですね」


 大地はビルで溢れ、ここからでは海が見えないがまだきっと青いままだろう。技術と工業の発展は魔法以上の豊かさをくれたが、代償として空の色を灰色に塗り替えた。

 それが、現実。ここから見える景色だけが、自分の頭の正常さを証明してくれていた。


「あるといいですね……では、お薬出しておきますね」


 そう答えると、患者は不安そうな顔で診察室を後にした。


 嫌な仕事だ。

 誰に答えるわけでもなく、俺は小さく呟いた。訳の分からない妄想に付き合わされて、はいはいと首を縦に振り飲んだこともない薬の数を勝手に決める。


 窓を開けて、空気を入れ替える。それから少しだけ身を乗り出して、景色を眺める。


 あの塔を覚えている。大学がまだ暇だった頃、当時付き合っていた女性を誘って登った事を。あの時は本当に恥ずかしかった。散々服を悩んだ挙句に、出来上がったのは随分とちぐはぐな格好だった。ビルのガラスに自分の姿が映る度に、決まっているなんて思っていた。


 あの保育園を覚えている。大好きな保母さんがいて、私は彼女に随分となついていた。随分と優しくしてもらえたが、今にして覚えば仕事だったのだろう。


 ――全部覚えている。


 あの街角も、あの街路樹も、あの公園も、あの通学路も、家族も、友達も、恋人も。全部、この場所から見えるものは全て覚えている。見間違うはずはない。その一つ一つを手に取るように思い出せる。楽しかった事も、辛かった事も目の前にあるかのように。


 だから、覚えている。

 だから、わからない。


 どうして俺の実家が、ここから見えるのかを。



 疲れているんだ。

 目を少しだけ閉じて、また開く。見慣れた景色がそこにある。もう何年も見慣れてしまった、この部屋からの景色がそこに。


 不意に、風が吹く。

 都会にしては珍しく、随分と涼しい風だった。






 今日も駄目だった。患者はそうため息をつくと、病室を後にした。魔法で心を読んだところで、彼の経過に変わりは無い。


「どうですか? センセイの様子は……」


 不安そうな顔をして、助手を努めさせているハーフエルフが尋ねる。


「駄目だったよ。相変わらず彼には、この世界がニホンという場所に見えるらしい」


 センセイは、この村の診療所の近くで倒れていた男につけられた渾名だ。真っ白い服を着て偉そうな態度を取るものだから、いつの間にかそんな呼び名がついていた。


「それにしてもひどい場所だな、その……彼の心の中は」


 灰色の建物に、灰色の空。想像の中の海だけが青く輝いているのは唯一の救いなのだろうか。


「まあ、私も医者の端くれだからね。見捨てるような事はしないよ」


 彼は笑顔でそう答えると、換気がてらに廊下の窓を開ける。


 ライグリッドの優しい風が、彼の気持ちを少しだけ軽くした。

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