【09】絡みつく黒い影
あははっ、と声変わりもしていないような甲高い笑い声に、啓孝はようやく我に返った。
「その顔サイコー」
少年がおかしくてしかたがないといった風情で、うっそりと目を細める。ガラス玉のような瞳に嗜虐的な色を湛え、それを隠そうともしていない。
彼は異世界の人間だ。啓孝はすぐに悟った。西洋人とも東洋人とも言えない顔立ちやコスプレ紛いの奇妙な服装。教室という啓孝にとっての日常的な風景の中にあって感じる拭いきれない異質さ。そして少年の背中に現れた見事な翼がすべてを物語っている。その特徴的すぎる外形は、フェノンたちのそれと酷似していた。
彼ら――異世界からの来訪者がこちらの常識を無視した力を有していることはもうわかっている。急に教室の戸が開かなくなったのも、一瞬で啓孝以外の人気がなくなったのも、おそらく何かの術が作用したからだろう。つまり啓孝はこの少年によって閉鎖された空間に閉じ込められたのである。
結美の白い翼とは対照的な黒い翼から視線を外し啓孝は少年の顔を見やった。そして感じたままを口にした。
「……昨日、結美を襲ったのはおまえなのか」
「へぇ。察しがいいねえ。さすが秀才様だ。ボクが何者なのか、わざわざ教えてあげなくてもわかったんだ?」
少年が感心したように腕を組み、瞳を閃かせた。
こいつが結美に傷を負わせた張本人……。気圧されている自分を自覚しながら、啓孝は相手を睨み返した。
いつ現れるかしれない暗殺者から妹を守るため、啓孝は今日一日彼女の周りを見張っていた。しかし敵がこんなふうに自分の目の前に現れるとは思いもしていなかった。おまけに結美と歳も違わないようなこんな少年が刺客だったとは。
だがこれは啓孝にとってまたとない好機だった。
詰めていた息をゆっくりと吐き出し、内心の憤慨を押し隠した。できるだけ真摯に聞こえるように、
「結美を付け狙うのはもうやめてほしい」
少年が結美の命を奪おうとしているのは、それが彼らの戦況に大きく関わる大事だと見ているからだ。まだ十六にもならない少女が自分たちを脅かす存在になると本気で思い込んでいる。
そんな馬鹿な、だ。しかし、それならその間違いを正してやるだけで問題は解決するはずである。
「おまえたちと違って、あいつに特別な力なんて何もない」
結美は聖人でも君子でもなんでもない。人一倍食欲旺盛で数学と英語の成績がいつも地を這っているような普通の高校生だ。すぐ感情的になるし頑固で子供っぽくて落ち着きもない。よその世界で起こっている戦なんかどうこうできるわけがないのである。啓孝はいかに結美が無害であるかを少年に言って聞かせた。
そもそも結美の居場所はこの世界にある。異世界に渡る気は初めからない。それをフェノンたちが勝手なことを言って騒ぐから。
「そっちの世界でのことに口を出す気もないし興味もない。だから、これ以上おまえたちの揉め事に妹を巻き込まないでくれ」
啓孝の訴えを少年は黙って聞いていた。そして驚くほどあっさりと。
「そんなのボクの知ったことじゃないよ。だってコレ任務だもん。あの女がキミの言うように無能だろうとなんだろうと消えてもらうよ?」
「な……っ」
そのあまりに軽い言いように啓孝は一瞬耳を疑った。
「それよりさぁ、なんでキミはそんなに必死にあの女を庇うの?」
「結美は僕の家族だ。放っておけるわけないだろっ」
「本当にキミはそう思ってるの?」
「そんなのあたりまえ――」
「キミと彼女は血の繋がりもない他人だよ」
啓孝の言葉じりを遮った少年の瞳に妖光が揺らめいた。
はっと息を呑む。気づくと啓孝は自分を見つめる少年から目が離せなくなっていた。それでも意識は逃げ場を求め、足だけがじりじりと後退する。
「彼女は本当の家族でもないくせに、これまでのうのうとキミたちの家に巣食っていたんだよ。キミが一身に受けるはずだった両親の愛情の半分――いや、それ以上を掠め取ってね。そして優しい両親にたっぷり愛情を注がれて育った彼女は、誰からも愛されるお姫様になった。無知で無邪気でわがまま。自分ひとりでは何も出来ないくせに、ただバカみたいに笑っているだけでかわいがられる」
啓孝が離れた分だけ、少年がゆっくりとその距離を詰めた。目は啓孝を捉えたまま片時も放さない。
「知ってるよね? 彼女の周りにはいつだって自然と人が集まる。教室でいつも一人きりでいるキミとは大違いだ」
ぴくりと啓孝の肩が震えた。顔は緊張に強張って血の気が失せている。
「性格は真面目で品行方正。成績も常にトップクラスの優等生なのに、キミには友達と呼べる人間はひとりもいない。それはどうしてだろうね?」
「そ、」
「そんなことはない。とでも言うつもり? だったら、そのお友達の名前を言ってみてよ」
少年が小首を傾げるようにして微笑んだ。
「ぼ、僕にだって友人くらい……」
少年の言う通り結美には多くの友人がいる。今日一日見ていただけでも、彼女が一人でいる時間はほとんどなかったくらいだ。それに比べて啓孝には、友人と言われて思い浮かぶのは一人しかいなかった。
その名を口にしようとして、啓孝は自分の胸にぽかりと開いた穴に気がついた。
――あいつの、名前……?
クラスでただひとり、啓孝に気さくに声をかけてくる後ろの席のクラスメイト。ふざけた言動ばかりで呆れることもあるが、昔から集団の中で孤立しがちな啓孝にとって初めて友人と呼べる存在であった――はずなのに。
どういうわけかその人物の名前も顔も思い出すことができなかった。
突然の喪失感に戸惑っているうちにも、自分の中にあった存在はどんどん希薄になっていく。それは掬い上げた手のひらから零れ落ちる砂のように。そうして最後に残ったのは、初めからそんな人物などいなかったという事実だけだった。
蒼白になった啓孝を少年が嘲笑った。
「思い出した? キミに友達なんかいるはずないんだよ」
笑いながら。少年は啓孝を追い詰める。
もはや啓孝は言葉を失っていた。背中が教室の壁に行き当たる。いつのまにか壁際まで後退していたらしい。
少年はあと少しで手を伸ばせば届くところまで啓孝に近づき足を止めた。
「教えてあげる。どうしてキミは誰からも愛されないのか。それはね――」
口調はやさしく。しかし酷薄にささやく。
「それは、全部あの女のせいなんだよ」
啓孝の目が大きく見開かれた。
少年の言葉は啓孝を切りつけ、傷口からぞろりと侵食すると形を変えた。
黒く粘度の高い影が手足に絡みつく。
そんなイメージと現実の境が消失し、啓孝の身体の自由を奪った。
もう聞きたくない。そう思っても耳を塞ぐこともできない。啓孝は唯一動く首だけをゆるゆると左右に動かした。
「彼女がいま立っている場所は、本来キミのものだったんだよ。両親から満足な愛情を受けられなかったキミは、他者との距離をうまく測れない。だから孤立するんだ。だからキミはひとりなんだよ」
――違う!
啓孝の叫びは黒い影に呑み込まれた。そしてそれ以上の否定も抵抗も、自分と結美を繋ぐ家族の思い出や記憶までをも塗り潰していく。
「キミの本当の居場所を取り戻そうよ。ボクが力を貸してあげる」
一歩。少年と啓孝の距離が縮まる。
啓孝の瞳からは次第に光が失われつつあった。
――いや、だ。
薄れゆく意識の中、心の中で必死に手を伸ばす。
一歩。少年が啓孝に手を差し延べた。
「さあ――」
手と手が触れ合う寸前。
その間を切り裂くように一陣の風が吹き抜けた。