【08】彼の正体
「ねぇ、あの人さっきも来てたよね。何やってんのかな」
くすくすと囁くような笑い声が、啓孝の耳を掠めて遠ざかった。すれ違いざまの無遠慮な視線や嘲笑はもう数え切れないほど投げかけられていたが、啓孝は眉ひとつ動かさず、ただ一点を見つめ続けていた。
視線の先にいるのは教室で友人と雑談に興じる妹の結美だ。休み時間だけあって、周囲は騒がしく声までは聞こえてこない。しかしその様子は傍目にも明るく楽しげだ。
その結美の傍らにはおよそ教室の風景にそぐわない男が立っている。眉目のよさだけに限らず、何気なく立っているようで隙のない立ち居や少女を見守る静かな表情が明らかに周囲から浮いていた。
だが周りは誰ひとりそのことに触れず、気にもしていない。彼が他人から意識されなくなるという不可思議な術を使って、自分の存在を隠しているからだ。本人が自ら声をかけたり接触しない限り、彼――フェノンを目視することは誰にもできないのである。
そしてそれはいまの啓孝も例外ではない。妹を注視する啓孝の目は、すぐそばにいるフェノンの姿を捉えてはいなかった。
啓孝とフェノンは、昨日の一件から言葉を交わすどころか、まともに顔を合わせてもいないのだ。
昨日――結美は暗殺者に襲われ傷を負った。
怪我はほとんどが軽傷だった。だが左腕につけられた傷は痕が残るかもしれないらしい。制服の下に隠した包帯をクラスメイトに知られれば、ちょっとした騒ぎになるだろう。
冗談のような話だが、結美は命を狙らわれているのである。
彼女の生まれ故郷でもある異世界で百年続いてきた争いを終結に導くと、出生とともにそんな予言を受けた結美を邪魔に思う者たちがいるというのだ。
そうと知った啓孝は妹を守るため、学校でもできるだけ目を離すまいと休み時間ごとに――さすがに授業をさぼるわけにはいかなかった――結美のもとにやってきて廊下から密かに様子を窺っているのだ。
幸い、二人の教室は階段を上り下りするだけで辿り着く位置にあった。鐘が鳴ると同時にダッシュで駆け出せば、授業に遅れることなく自分の教室に戻ることができる。そうして休み時間が終わるたびに息を切らして席に着く啓孝を、クラス中が奇異なものを見る目で盗み見ていたが、啓孝は気にも留めなった。
こんなのはらしくないと、自分でもわかっていた。それでもそうせずにはいられないのだ。結美はずいぶんと心を許してしまっているが、啓孝にとって突然現れた二人の異世界人――フェノンとセオは信用ならない存在だった。彼らは自分たちの都合で結美を手放し、今度は無理やり家族から引き離そうとしている。自らを結美の護衛だと称しているが、そんな勝手なこと言う相手に結美を任せておけるわけがない。そもそも彼らは最初から啓孝の味方ではないのだ。
結美を守れるのは自分しかいない。
そんな思いに駆られた啓孝は、今朝からずっと教室間を往復しているのである。
一方、結美は兄の奇行を気にしながらも昨日の言い争いを引きずって口を閉ざしていた。ちらちらと視界に入り込む啓孝の姿を無理やり外へ押しやり、見て見ぬふり。内心ではため息の嵐が吹き荒れていた。
しかし我慢ができたのは午前中の授業が終わるまでだった。
昼休み。またも廊下に現れた兄を発見すると結美はたまりかねた様子で教室を飛び出した。そして啓孝の腕を取り、「一緒におべんと食べよ」と誘ったのだった。
中庭まで出たきた兄妹はベンチに並んで座った。
「――だからね、あき兄。あたしのことなら大丈夫だから、もうあんなことするのやめて。あれじゃ完全に不審者だよ?」
大好きなそぼろ入りの卵焼きを頬張りながら結美は、「監視」を止めさせようと説得を試みた。しかし食べるか喋るかどっちかにしろと、反対に窘められますます頬を膨らませた。昼食を終えたあとも結美は訴えを続けたが、啓孝は頑として聞き入れず、最後にはまた言い合いになってしまった。
昼休みが終わり、自分の教室に戻っていく啓孝を見送る結美は、
「あき兄ってああ見えてけっこう頑固なんだよね。一度決めたら周りが何言ってもダメなの」
と、独り言のように呟いてため息を落とした。
啓孝がいるうちはずっと黙って控えていたフェノンは、それを聞いてどこかで耳にした台詞だとこっそり肩を震わせていた。
その日の終礼が終わると、啓孝はただちに鞄を抱えすばやく身を翻した。
「そんなに急いで、また妹ちゃんのとこに行くのか?」
背後からいきなり図星をさされて思わず足を止める。いままさに結美の教室へ走り出そうとしていたのだ。振り返るとクラスメイトがにやにやと含み笑いを浮かべていた。
「今日一日べったりじゃん。何? ひょっとして、変な虫がつかないように見張ってんの? 健気だねー。お兄チャン」
「うるさいな。おまえには関係ないだろ」
ある意味そうかもしれないと啓孝は思ったが、もちろん口には出さなかった。余計な詮索をされるのが面倒だったからだ。なおも食い下がろうとしてくる相手を適当にあしらい、さっさと背を向ける。啓孝は教室の後ろ側の出口へと足早に向かった。
結美が襲われたのは昨日の放課後。何かが起こるとしたら、これからかもしれないのだ。啓孝は一刻も早く妹のもとへ向かわなければならなかった。
だが出入り口の戸に手をかけた啓孝は、そのままの姿勢でぴたりと動きを止めた。首を捻る。目で鍵がかかっていないことを確かめ、もう一度手に力を込める。
「……っ」
開かない。両手を使ってもその引き戸はびくともしなかった。まるで填めごろしになってしまったかのようだ。さっきまでなんの問題もなく開け閉めされていたはずなのに。
「どうなってるんだ? なあ、これ――」
啓孝は誰にでもなく答えを求めて振り返った。
いつのまにか、教室はがらんとしていた。
終礼も終わったばかりで、まだ大半の生徒が残っていたはずだった。それが啓孝が戸に意識を向けていたわずかな間にひとり残らず消えている。外や廊下の喧騒もいっさい聞こえてこない。静まりかえった教室に啓孝ひとりが取り残されていた。
その異様さに頭の中で警鐘が鳴り響く。
啓孝はとっさにもう一方の出入り口を目指した。
「よお。そんなに慌ててどうした?」
出し抜けに届いた人の声に、啓孝の身がびくりと竦んだ。のろのろと声のした方に首を巡らす。
誰かが机の上に片膝を立てて座っていた。
外は曇り。いつのまにか電気の消えた教室の中は少し薄暗い。逆光ぎみになっているせいで顔まではよくわからないが、その机の場所はちょうど啓孝の真後ろの席にあった。
「ああ、おまえか……」
見知った姿にほっとして力が抜ける。だが動悸はおさまらなかった。何かがおかしいと、本能が訴えかけている。
クラスメイトは黙って啓孝を見返していた。笑みを浮かべているようだが、やはり顔だけがはっきりと見えない。
啓孝は言い知れない胸騒ぎにこくりと喉を鳴らした。相対するものの違和感を見極めようと、一歩近づき目を凝らす。
ぞっと、背筋に冷たいものが走った。
クラスメイトの顔がなかった。
逆光で影になっていたのではない。顔の部分だけが墨を塗られたように黒くぼやけていたのだ。
「――っ」
後ずさった足が机を蹴った。ギギッと床をこする嫌な音が響いた。
「――ああ、なんだ。バレちゃったか。やっぱここでこの術を使うのはムリだな」
顔のないクラスメイトが言った。聞きなれない声だった。
目を瞠る啓孝の前で、突然相手の輪郭がぶれた。時間にして二秒にも満たない。そのぶれがおさまると、クラスメイトだと思っていた男は、まったくの別人に成り代わっていた。
一回り以上小さくなった身体。肩で切り揃えられた艶のある髪。学生服は白を基調とした外套のような服装に変わり、手にも白い手袋がはめられている。顔立ちはまだ幼く猫の目のようにつり上がった目元には、鋭くも何かしらの好奇を含んだ輝きがあった。驚愕する啓孝を舐めるように見やり、少年は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「驚くのはまだ早いんじゃない?」
少年は机から軽く飛び降りると、啓孝に向かって両手を伸ばした。その手を芝居がかった仕草で緩やかに横へ広げる。
啓孝の目が限界まで見開いた。
手の動きに合わせて少年の背中に大きな翼が現れた。フェノンやセオそれに結美と同じ、羽毛で覆われた鳥の羽のような一対の翼。
ただひとつ違うのは、その色。
少年が背負うのは――濡れたような艶を持つ見事な漆黒の翼だった。