【04】兄と妹
異世界人に啖呵を切った結美は、そのまま一日部屋に籠りきりになった。憔悴した様子の両親の口数も少なく、たったひとりが姿を見せないだけで家の中は不自然なほど静かな空間となっていた。
結美の部屋の前には朝からずっとフェノンが張りついていた。はじめは何度も部屋の中へ呼びかけていたが、いまは結美が出てくるのを大人しく待っている。まるでどこかの忠犬のようだ。
「おい。夕飯だぞ」
声をかけるとフェノンはきょとんとした顔で啓孝を見返した。言われたことが理解できなかったのか、その顔はとても無防備で年相応に見える。
「夕食の時間だから下に行けって言ってるんだよ」
そう言ってやると、目を丸くしていたフェノンはわずかに首を傾げて微笑した。
「てっきりあなたには嫌われていると思っていたのですが」
「好かれてるだなんて思うなよ。同じ家の中にいるのに、自分たちだけで食べるわけにはいかないだろ。わざわざおまえたちの分まで作ってるんだから今度はちゃんと食べろよ」
昼にも声をかけたが、そのときは気にするなと言われて引き下がったのだ。本当ならこんなやつらと食卓を囲むのはごめんなのだが、母は彼らの分の食事もあたりまえのように用意している。たとえ望まない客だったとしても、そこには人数分の食事が並ぶのだ。だから啓孝も彼らを無視するわけにはいかなかった。
「ですが、ユーミリシェリア様も朝から何もお召し上がりになっていないでしょう?」
「心配しなくても結美の分は三食ちゃんと残してある。じゃないと、あとでうるさいからな」
こと結美の食べ物に関してのうらみは恐ろしい。以前、冷蔵庫に残っていた母の手作りプリンを啓孝が食べてしまったときは、一週間ほど口をきいてくれなかった。最初の三日は呆れて相手にしなかった啓孝も、四日目からは機嫌をなおすのにほとほと苦労させられたことがある。
「……わかりました。では、少しの間だけ失礼します」
フェノンは少し迷うようなしぐさを見せたあと、啓孝の横を通りすぎ音も立てずに階段を降りていった。
それを見送ったあと啓孝は自室に戻りドアの鍵を閉めた。そしておもむろに壁際に向かうと、そこにあるキャスター付きの衣類ケースを転がして脇へと移動させた。そのうしろから出てきたのは、隣の部屋へと繋がる引き戸だった。むかしは常に開かれていて、互いの部屋を自由に行き来していたものだ。それがぱたりと使われなくなったのはいつのころだったか。
一つ息を吐いて、啓孝は意を決して戸を叩いた。
「入るぞ」
返事は待たなかった。戸を開けて一気に妹の部屋へと足を踏み入れる。明かりはついていなかった。それでもカーテンが開いたままの部屋はほのかに明るい。部屋の主は外明かりに照らし出されたベッドの下に座っていた。抱えた膝の上に頭をのせて丸まっている。
……変わってないな。
小さいころ、ケンカをすると結美はいつもそうやって部屋の隅で丸くなっていた。昔といまの姿が重なって、啓孝はやれやれと小さく首を振った。
こんなやつが異世界の救世主なんかであるはずがない。昔と何も変わらない。ここにいるのは、勉強嫌いで泣き虫で食い意地の張った、たったひとりの自分の妹だ。
「結美、夕飯も食べないつもりか?」
丸くて小さな頭に向かって啓孝は言葉を落とした。
「おまえが三度の食事を欠かすなんて、天変地異の前触れかな。まさか自分の生きている間に、地球が崩壊する日が来るなんて思ってなかったけど」
「あにぃ……」
腰に手をあてて大仰にため息をついてやると、伏せた顔の下からかすれた声が聞こえた。こちらを見上げた結美の顔は明かりの足りない部屋の中ではよく見えない。きっと涙でぐしゃぐしゃになっているのだろう。
結美は啓孝を見つめたままかすかに唇を歪めた。
「あたしと兄ぃさ、兄妹なのに顔とかぜんぜん似てなくて、勉強だって兄ぃはいっつも一番で……周りの人にも似てないねって……よく言われてたけどさ。あたりまえだよね。だってホントはあたしたち兄妹でもなんでもなかったんだもん」
あはは、と結美は感情のともなわない乾いた笑みを浮かべた。そのとたん込み上げてきた嗚咽をこらえようと唇をかんで顔をそらす。
「もう兄ぃなんて呼んだらダメだよね……」
ぐしぐしと鼻をすする姿に啓孝は深々と息をもらした。
「バーカ」
結美の頭を軽くこづいてベッドの端に腰掛ける。
「いまさら何言ってんだよ」
「兄ぃ……?」
ほうけた顔をさらす妹に思わず吹き出しそうになりがら、啓孝は続けた。
「おまえは一緒に過ごした時間より、目に見えない血の繋がりのほうが大事なのか?」
これまで意識することなどなかったが、いま改めて思い返せばよくわかる。両親がどれだけ自分たちを大事にしてくれていたか。二人はやさしくも厳しくも兄妹わけ隔てない愛情を注いでくれていた。たまの休日を家族に費やしてしまう子煩悩な父。子供が熱を出せば一晩中手を握っていてくれたやさしい母。そんな両親に育てられた啓孝と結美には、同じだけの思い出がある。それをひとつひとつ語って聞かせれば、結美の目からまた大粒の涙が転がり落ちた。
「母さんの手料理を食べて、おかずの取り合いになれば二人で父さんに叱られて――。僕とおまえは、同じ屋根の下で一緒に大きくなったんだ。これで兄妹じゃないっていうなら、なんだっていうんだよ」
「だって……でもあたし、」
「『でも』も『だって』もない。だいたい、兄妹なのに学校の成績に天と地ほどの差があるのは、僕の努力の賜物であって血の繋がりがないからとかは関係ないんだぞ?」
「……兄ぃ、なんかそれだとあたしが努力してないみたいに聞こえる」
「あぁそっか。努力はしてるよな? 優秀なお兄様が自分の勉強も後回しにして見てやってるわりに、結果は芳しくないようだけど」
おどけるように肩をすくめると、結美の頬がてきめんに膨れた。
「兄ぃ、それ言いすぎ!」
「はは、元気になったな」
笑いながらぽんぽんと頭を叩いてやると、結美ははっとなって啓孝をみつめた。瞬きをする目じりからは、もう涙の気配が消えている。
振り上げていた腕を下ろした結美は、またしゅんとなってうつむいた。
「ごめん、兄ぃ。心配かけて」
「別におまえが謝ることじゃないさ。驚いたのは僕も同じだしな」
実際、寝起きから驚きの連続で感覚が鈍ってしまったほどだ。
「それに諸悪の根源は、勝手なことを言ってひとの家を引っ掻き回したあいつらだろ」
「……あたし、あの人たちと帰らなくちゃいけないのかなぁ」
「帰るってどこへ帰るつもりだよ。おまえの家はここだろ」
「でも、お父さんたちはそう思ってないのかもしれない……」
結美も両親の様子には気がついていたらしい。そしておそらく――啓孝がそうだったように――その理由を勘違いしている。また暗く沈みそうになる結美に、啓孝はすばやく言葉を返した。
「父さんたちは、恩があるからあいつらに強く言えないだけさ。一応、命の恩人らしいからな。僕の」
両親が黙っていたのは息子の命を人質に取られているからだ、などという馬鹿げた話はもちろんしない。知ったらきっと結美は自らフェノンたちに従うだろう。自分の存在が結美を追い詰める。そんなことは絶対にしたくなかった。
「……」
啓孝の言葉に納得できなかったのか、結美は立てた膝に顎をのせて黙り込んでしまった。小さく唇を突きだして眉間にしわを寄せたその顔は、まるで小さな子が拗ねているように見えた。実際、拗ねているのだろう。
「おまえな、父さんたちの気持ちも考えてみろ」
啓孝は小さく息をついて、結美に問いかけた。
「父さんたちがいままで本当のことを言わなかったのは、なんでだと思う? おまえがこんなふうに傷つくのがわかってたからだろ。父さんも母さんもおまえのこと大事だと思ってるよ。そうじゃなかったらあんな顔、するわけないよな?」
そう言い聞かせる声は、自分でも驚くほどやさしい声音になった。床に座る妹の後頭部を黙って見下ろしていると、やがて「……うん」と小さく返事があった。
そしてほっと息をつく間もなく、
「あたし、もう考えるのやめる!」
がばりと頭を起こし、結美は力強く宣言した。
「たとえ翼が生えてても、あたしはここの家の子で兄ぃの妹! それは何があっても変わらないよね?」
「あ、ああ」
こちらを振り返り、勢い込んで身を乗り出してきた結美に押され、啓孝はこくこくと頷いた。
結美は何かをふっきったように、いつもの明るさを取り戻していた。目を丸くしながら頷く啓孝を見ると、結美は「んっ」と、満足げな笑顔を見せた。
「あー。珍しくいっぱい考えごとしたらお腹空いちゃったな」
結美は立ち上がって大きく伸びをすると、啓孝があっけにとられている間にドアへと向かった。ノブに手をかけて、
「ありがとうね、兄ぃ」
肩越しに礼を言い置くと結美は足取りも軽く部屋を出て行った。
「……なんなんだよ、あいつはもう」
残された啓孝は肩を落としてひとりごちた。指で眼鏡のブリッジを押し上げると、口から漏れたのは安堵の息だ。自然と口元もゆるむ。
「ホント、世話の焼ける妹だよ」
ベッドから立ち上がり、啓孝は妹のあとを追って家族の待つ食卓へと向かった。