【10】相対
教室は閑散としていた。
きちんと列をなして並ぶ机。チョークの消しあとが白く残る黒板。後ろのロッカーの上には誰の忘れ物か教科書が一冊置き去りになっている。なんでもない教室の風景はどこか物悲しく、そして奇妙なくらいに静かだ。
窓の外は曇天。薄暗い室内にはふたつの人影があった。
壁にはりつくような格好で立っている啓孝と、その目の前に立ち手を差し出す黒翼を背負う少年。視線で拘束されているのかと思うほど、瞬きもせず向かい合ったまま身じろぎもしない。
先に動いたの啓孝はだった。ふいに身体を緩ませ、押しつけていた背中を壁から離す。いつのまにか顔中に広がっていた怯えの色はなくなっていた。いっさいの感情が抜け落ちた瞳は何も映していない。相対する少年を見る啓孝の目は虚ろだった。
啓孝は不自然なほど緩慢な動作で腕を上げ、目の前の少年に手を伸ばした。
少年の口元に会心の笑みが浮かんだ。もう言葉はいらないとばかりに、口を閉ざし啓孝が自らその手を重ねるのを待っている。
あと数ミリ。啓孝の指先が少年の指に触れかけたときだった。
少年は忌々しげに舌打ちをして素早く後方に飛びのいた。
直後、少年の退いた床に苛烈な圧が叩き込まれる。衝撃に巻き込まれた机やイスが軽々と吹き飛ばされた。
啓孝の身体が糸の切れた操り人形のように膝から崩れ落ちた。両手をついた床の感触に、奈落の底にあった意識が引き上げられる。
「……ァ、」
ひどい目眩がして頭がぐらぐらと揺れている。
気持ち悪い……。
啓孝は口を覆い乱れた呼吸を整えた。血の気が引いて全身がひどく冷たい。四肢が震え、ともすればへしゃりと倒れ込みそうになる身体を必死に支える。胸の奥には悪い夢を見たあとのような重い凝が残っていた。
いったい何が起こったのか。混乱しながら自身に起きたことを振り返ろうとしたとき、脳裏で自分を見つめる瞳が妖しい光を湛えた。啓孝はぐらつく頭を無視して顔を跳ね上げた。
最初に目に入ったのは真っ白な鳥の羽。そして長身の男の背中だった。自分のそれよりもずっと骨太で逞しい肩身と長い手足。確かにそこにいるのに目を逸らした瞬間に消えてしまう独特な気配。出会ってから何度も驚かされた。彼はいつだって突然に現れる。
啓孝は信じられない思いで男の名を呟いた。
「セ、オ……」
かすれた声が耳に届いたか、セオはわずかに振り返り啓孝を見た。
「少し待っていろ。すぐに終わる」
そう告げると彼はすぐ前方に注意を戻した。耳に届いたいつも以上に凪いだ声音は低く、しかし束の間見えた横顔に啓孝は思わず身を竦めていた。いままで感情らしいものなど示さなかった男の瞳の奥に、荒々しい感情が燃えさかっていることに気づいたからだ。
「何がすぐ終わるって? 勝手にボクの領域に入ってきといて簡単に帰れるとか思ってんの?」
聞こえてきたのは苛立ちを露にした少年の声。二の句の継げない啓孝ははっと声のするほうを見やった
セオと相対する形で立つ少年は窓際まで後退していた。腕を組み、啓孝を守るように立ちふさがったセオを睥睨している。
「なんのつもりだ、シェード」
セオは少年をシェードと呼んで鋭く見据えた。
射抜くような視線も少年――シェードはまったく意に介さなかった。ことさら子どもっぽく唇を尖らせて、
「何って、ボクの手駒は全部キミに壊されちゃったからね。新しいのが欲しかったんだよ。もう少しで使える駒が手に入るとこだったのに、どうやってここを突き止めたのさ」
「アキには私の羽根つけていた。すでに敵に接触されていることはわかっていたからな」
「ちぇ。遠隔感知か……。そんな小技もお得意とはね。さすが白のエリート様はただの戦闘バカじゃないってことか」
「こちら側の人間を傷つければどうなるか――。おまえもわかっているだろう」
「別にそんなつもりはないよ。ただボクの代わりに仕事を片付けてもらおうと思っただけさ」
「その目論見ももはや潰えた。ひとりとなったおまえに勝機はない。異郷で終わりを迎えたくなくば、いますぐ帰還しろ」
セオの言葉にシェードを包んでいた空気が不穏なものへと変化した。
「……ホントむかつくなぁ、おまえ」
シェードはツヤのある黒い翼を大きく上下させた。羽ばたきから強烈なつむじ風が巻き起こる。窓がガタガタと激しく音を鳴らし、カーテンが天井まで捲れ上がった。
それが合図だった。
机とイスが無造作に投げ出されていく中をセオが床を蹴って突進した。手にはいつのまにか一本の剣が握られている。銀青に輝く剣が残光の尾をひいてシェードに迫った。
だがその刃は容易く受け止められた。直前にシェードが出現させた紫苑の紋が斬撃をその勢いごと凌いだのだ。紋はいくつもの円が重なり合い――啓孝にはとうてい理解できない――文字や文様で構成された術式の盾だった。次いでセオが高速で放った二撃三撃もなんなく防いでしまう。
紋の向こうでシェードが不敵な微笑を浮かべた。口早に何事かを紡ぎ出すと、それを見てとったセオが即座にシェードから距離を取った。シェードが懐から何かを取り出し頭上に放り投げる。数は三つ。それは赤く透き通る石の欠片だった。小石ほどの大きさの欠片はそのままシェードの上に浮遊し、毒々しいまでの緋色の光彩を放った。そして目標を捕捉した捕食者のごとく、ひたりとその動きを止めて一拍。紅蓮のつぶてがいっせいに標的に襲い掛かった。
セオは怯むことなく剣を一閃させた。急迫した紅石は鮮やかに両断され、教室の床に落ちて転がった。間髪いれずセオの剣がシェードに向かう。しかしその刃が届く前に切っ先は急転。いくつかの閃光が弾け飛んだ。自らの剣で描いた半円状の軌跡が消えぬうちにセオは大きく後退。剣を構えなおしながら素早く視線を走らせる。辺りには斬って捨てたはずの紅い妖光が数を増して漂っていた。
「あはははっ。びっくりした?」
あけすけな嘲笑が教室に響き渡り、啓孝は詰めていた呼気を短く吐き出した。
目の前で起きていることをすべてを理解することは到底できなかった。それはごく短い時間の中での攻防だった。
刃渡りが優に一メートルを超すような大きな剣。それを疾風迅雷の勢いで振り回すセオ。その攻撃を防いだ紫色の紋といいシェードが赤い石を自在に操るすべはまさに魔法だ。
どちらも相手を攻撃することに躊躇はなかった。常に悠然とした印象しかなかったセオからは想像もつかない。彼の峻烈にしてよどみない剣筋は剣の扱いに慣れた人間のそれである。何から何まで現実のものとは思えない光景だった。
だが粟立つほどの緊張感と、床に点々と滴り落ちた鮮血の生々しさは確かに本物である。死角から急襲したひとつが掠めたのかセオは左頬に傷を負っていた。傷口からにじみ出た赤い雫が輪郭を伝ってまたひとつ足元に落ちる。
片手を腰にあて、シェードは自分をねめつける男を愉快そうに眺めた。
「それはボクの血液から作った特別製だからね。普通の剣で斬ったくらいじゃ壊れないよ。まあ、ボクの駒を増やしてくれるって言うなら止めはないけど?」
重力を無視して空中にたゆたう石のサイズは始めの半分、それ以下の大きさなっていた。しかし個体数はいまや倍以上。シェードの言うとおり、斬れば斬るほど欠片は増えてセオの枷となるだろう。だが負傷してなおセオの表情は微塵も揺らいではいなかった。研ぎ澄ました刃のごとき双眸には静かな闘志が見て取れる。顔の右脇に剣を構え、その剣先はまっすぐシェードの眉間を狙っていた。
セオを横睨む瞳が剣呑に細る。
「……その目、気に入らないな」
不機嫌さを声に乗せてぞんざいに呟いたシェードは、右手を掲げて叫んだ。
「ボクはおまえのみっともなく歪んだ顔が見たいんだよっ」
言下。振り上げた腕がセオに向かって落とされる。それを合図に紅く輝く石礫から雷撃が迸った。
これにはセオの顔色も変わった。瞬時に構えを解き転がるように身体を投げる。すばやく身を返して立ち上がると、そこにまた雷鳴と雷光。石ひとつ分の威力は小さいが、束になれば教室の床板を穿つほどの威力がある。相手は羽虫のように飛び回る小さな石の欠片だ。狙いを定めるのも困難な上に、どこから攻撃されるかもわからない。常に全方向に神経を集中させなければならないのだ。セオも防戦一方にならざるをえなかった。
「ほらほらどうしたのさ。逃げてるばかりじゃボクは倒せないよ? すぐに終わらせるんじゃなかったの?」
愉しげに目を細めて。シェードは高みからあざ笑う。
キンっと硬質な音が響く。床に叩きつけられた欠片は、息づくように明滅しすぐに宙へ舞い戻る。セオはすでに全身傷だらけになっていた。露出している顔や手はもちろん、身を包む衣服もところどころ切り裂かれ焦げあとのようなものまである。だが致命傷といえるものはひとつもない。彼は不規則な攻撃にも俊敏に対応し、無駄のない体さばきでダメージを最小に抑えていた。そしてセオはただ防御に徹していたわけではなかった。攻撃を回避しつつ反攻に転じる隙をずっと窺っていたのである。
紅い稲妻をすり抜けたセオは、手近にあったイスを掴みシェードに投げつけた。
「な……っ」
予期せぬ行動に目を剥くシェード。とっさに唇を動かし身を守るための式を構築する。
セオが待っていたのはその瞬間。シェードの意識が石の制御から外れるときだった。セオは左手を剣の腹に添わせ素早く先端に向かって滑らせた。そのあとを追って剣身に複雑な文様が走り、青みを深めた長剣が使い手の顔を淡く照らし出す。セオはすかさず足もとから剣を斜めに斬り上げた。放たれた苛烈な剣圧は爪牙と化して、先に投げていたイスを砕いてシェードの防壁紋に直撃。光刃が弾け、さざ波のような揺らぎが紋全体に広がった。セオはその揺らぎを見逃さず一気に駆け出した。
今度はシェードの顔色が変わる番だった。熟れた柘榴の果肉のごとき紅石が彼の意を映しセオに迫る。だがセオの足は止まらない。深紅の光芒を伴って石片がセオの四肢を貫く。「セオっ!」啓孝の叫び声と、ダメージを無視して肉薄したセオの剣が防壁を突き砕くのはほとんど同時だった。場違いなほど高く澄んだ音が鳴り響く。切っ先はそのままシェードを切り裂き血煙を上げた。
二人の視線が火花を散らしてかち合ったのは一瞬。セオが弾かれたようにその場から飛び退き、その足もとを雷鎚が撃ち抜いた。
再び両者の間に距離ができた。だが今度はどちらもすぐには動かない――否、動けなかった。
肩膝をつきながらも剣を退かないセオ。傷口を押さえ肩を大きく上下させるシェード。無言でにらみ合うどちらもが血塗れでひどい有様だ。
「……許さない」
搾り出されたシェードの声はかすれていた。傷の痛みか抑えきれない感情のせいか身体もかすかに震えている。
「この借りは必ず返す。おまえのその澄ました顔を、ぐちゃぐちゃに歪ませてやるから……っ」
憎悪に濡れた瞳を眇めながら、シェードは赤く染まった右手を掲げ何かを握りつぶすような仕草をした。すると彼の周囲に浮いていた紅石が突然、強烈な光を発した。
「うわっ」
啓孝は思わず顔をそむけ、セオも反射的に目を庇い直視を避ける。強い光は瞬く間に教室をのみ込んだ。天井や焦げあとの残る床、投げ出されたイスや壊れた机も。啓孝たちを取り囲むすべてを塗りつぶして白一色になった空間に亀裂が生じる。そこから次々とひび割れが広がりやがて世界は音もなく瓦解した。
なんとか三ヶ月空きは回避できました。
長々と苦手なバトルターンに蹴躓いておりました。
どうして書けないものをわざわざネタに入れてしまうんでしょうか。
嫌なら書かなくてもすむうようにすればいいのに。自分がわかりません。
次は来月末の更新目指してがんばります。