【01】ある朝、天使が舞い降りて
その日の朝はけたたましい悲鳴からはじまった。
目覚まし時計が鳴り出す五分前。
寝起きに響いたその声に驚いて、啓孝は勢いでベッドから転がり落ちた。
「……っ」
啓孝はむっすりと顔をしかめながら起き上がった。枕元の眼鏡を掴み取って装着。寝巻きのまま廊下へ出ると、右隣の部屋の前に立って軽くノックする。
返事はなかった。
もう一度ノックをして、今度は返事を待たずにドアを開けた。
「入るぞ」
中はまだ遮光カーテンがひかれたままで、薄暗かった。部屋は一目で見渡せる広さしかなく、ベッドの上が不自然に盛り上がっているのもすぐにわかった。どうやら部屋の主が、頭から布団をかぶって座り込んでいるらしい。
「なにやってるんだ、結美?」
声をかけると、ちょっと大げさなくらい布団が震えた。しかし、それ以上の応えはなく啓孝は窓に近寄りカーテンを開け放った。
空は抜けるように青かった。昨夜の雨で隣近所の屋根や道路が湿っている。庭木の葉にもまだ名残の滴が残っていた。
啓孝はまぶしげに目を細めて、ベッドを振り返った。
「さっきの声はなんだったんだ? どうせ変な夢でも見て寝ぼけたんだろうけど、きっと隣近所にも聞こえたぞ」
ため息をつきながら眼鏡のブリッジを押し上げる。すると、もぞもぞと小山が動いて結美がひょこっと顔をのぞかせた。
「あ、兄ぃ……」
妹はなぜか涙声だった。
「なんだよ……?」
そのときになって初めて啓孝は気がついた。結美のからだを覆う布団の膨らみが、明らかに大きいことに。首から下をきっちり覆い隠した布団は、背中側だけが変に山なりになっている。まるで二人羽織でもしているかのようだ。
そう考えて、啓孝の思考がふと逆回転し始めた。
清々しい朝の静寂を切り裂いた悲痛な悲鳴、布団から出てこない妹と頬を濡らす涙の理由――。
ひとつひとつを反芻し、一瞬で弾きだされた答えに啓孝はわなないた。
「おま……結美! その中にいるのは誰だ! いつのまにそんな……っ」
結美はぽかんと啓孝を見返した。そしてすぐその意味を理解して、かっと頬を上気させた。
「や、そんわけないじゃん! 兄ぃのばか! へんたい!」
さっきの涙はどこへいったのか、結美は前のめりになって抗議してきた。
「なに考えてんの、ほんとにもういやらしいな!」
「な……じゃあ、なんなんだよソレは!」
耳を赤くした啓孝がムキになって布団の膨らみを指差すと、結美はうっと言葉につまった。急にしおらしくなって、上目遣いに啓孝をうかがう。
「……お、驚かないでね?」
「は?」
「いいから、驚かないって約束して!」
「……わかった。約束するよ」
よくわからないまま渋々承諾すると、結美は決心したように大きく息を吸い込みいっきに布団を剥ぎとった。
間近で鳥がはばたく音が聞こえて、視界が白いもので埋めつくされた。
妹の背中に隠されていたもの。
それは白い翼だった。鳥の羽のように羽毛で覆われた大きな翼に、窓から差し込む朝日が反射して光の粒が舞っている。頭の上に金の輪っかでもついていれば、絵に描いたような天使のできあがりだ。だが結美はちゃんと生きているし、少なくとも昨日の夜まではこんなものはついていなかった。
ベッドの上を占領するように広げられた二枚の翼は、両手を伸ばした幅よりも大きい。
結美は胸の前でもじもじと両手の指を絡ませながら口を尖らせた。
「うー。驚かないって言ったのに……」
「お、驚かないやつがいるか!」
我に返った啓孝が思わず怒鳴ると、結美のからだと一緒に背中の翼も縮こまった。
「……それ、背中から生えてるのか?」
啓孝は近くに寄って、そっと手を伸ばした。むかし飼っていた手乗りインコの羽よりも、ずっと大きくて柔らかい。だが触れた翼には不思議と温もりを感じなかった。
「う、うん。たぶん。でもね、パジャマはべつに破けたりしてないんだよ。生地を通り抜けてるみたいで……」
結美は身をよじって背中を覗き込もうとしたが、翼が邪魔だったのかすぐに諦めた。左手を右肩にかけ自らを抱きしめるようにして不安げに呟く。
「これ、なんなのかな。なんかの病気? あたし、どうしちゃったんだろ」
瞳を潤ませた結美が啓孝を見上げた。
翼が生える病気なんて聞いたこともない。しかし、だからと言ってこの状況を説明できる言葉などあるはずもなく。啓孝は困惑の二文字を顔に張りつかせた。
「ご心配には及びませんよ」
突然の第三者の声に、二人が部屋の入り口を同時に振り返る。
そこにいた人物を見るなり兄妹は揃って目を奪われた。
――その男は一言で言えば、きれいな顔をした男だった。すっきりした顎のラインや、涼やかな甘さを含んだアーモンド形の瞳、微笑を浮かべる薄い唇が女性的な印象を与える。しかし細身にも見える身体は服の上からでもしっかりした骨格をしているのがわかった。
そして裾の長い妙なデザインをした詰襟の服に身を包んだその男の後ろに、もうひとり。同じ形の色の違う服を着た男がいた。
前の男より頭ひとつ分ほど背が高く、無骨で男らしいがよく見ればこちらも端整な顔立ちをしていることに気づく。無表情だが鋭く切れ上がった目に満ちる強かな眼光と、静かな佇まいはどこか野生の獣を思わせた。
さらにその肩越しに廊下に立つ両親の姿が見えた。休日だから父がこの時間に家にいることはおかしくない。だが口を一文字に引き結んだ父の顔はいつになく険しかった。何かを堪えるように母は口元を両手で隠し、その肩を父に支えられていた。単純にこの事態に驚いているという様子ではない。
「父さん、母さん……?」
状況が把握できず呆然としていると、男のひとりが妹のもとへ近づき片膝をついた。
ベッドの下から稀に見る美形に見上げられ、結美が身を硬くする。
「恐れることはありません。その翼はあなたの生来のものなのですよ」
そう口にした瞬間、男の肩甲骨のあたりがきらきらと輝くのが見えた。そして瞬きをする間にそこに白い翼が出現した。結美と同じ天使の羽だ。
驚きすぎて声も出ない啓孝の脳裏を直感がかすめた。まさかと思い視線を走らせると、片割れの男と目が合った。
男が軽く目を伏せると、まるでこちらの心情を読み取ったかのように、その背にまたしても純白の大きな翼が現れた――。
連載二作目。前作よりも少しはレベルアップしてるといいなぁ……。
月一か隔月で更新していく予定なので、最後まで読んでいただけたらすごく嬉しいです。