推しの破滅を回避したいだけなのに、推しが毎日可愛くて殺されそうです ~愛されたがりの公爵様は、私の前でだけ面倒くさい~
「ねえ、リリア。今日の僕、可愛くない?」
「可愛いです」
「昨日より?」
「昨日より可愛いです」
「じゃあ、どうして僕を置いて帰ろうとするの?」
銀髪の美青年が、私の袖をきゅっと掴んだ。
長い睫毛に縁取られた紫色の瞳が、じわりと潤む。
「僕のこと、もう嫌いになった?」
「なってません!」
「本当?」
「本当です!」
「じゃあ、結婚しよう」
「どうしてそうなるんですか!?」
彼はにっこり笑った。
「嫌いじゃないなら、いいでしょう?」
よくない。
全然よくない。
だって、この人。
私の大好きだった乙女ゲームで、王都を炎に包んで滅ぼす予定の、ラスボスなんですけど!?
◇
私が前世の記憶を取り戻したのは、十六歳の春だった。
王都の仕立て屋で、母の注文したドレスを受け取っていたときのことである。
「お嬢様、あちらをご覧になって。ヴァレンタイン公爵家のご子息ですわ」
店員の声に振り返った私は、危うくドレスを落としかけた。
そこにいたのは、銀色の髪をした十二歳ほどの少年だった。
白い肌。紫水晶のような瞳。人形めいた整った顔。
そして、やけに凝った服装。
淡い藤色の上着には銀糸の刺繍。胸元には大粒の宝石。白い手袋には小さな真珠の飾り。
少年は鏡の前で、店員に怒っていた。
「このリボン、昨日頼んだものと違う」
「も、申し訳ございません」
「僕は青紫を頼んだんだ。これは菫色だろう?」
「ですが、よくお似合いで……」
「似合うのは知ってるよ。僕は何を着ても似合うもの」
なんという自信。
「でも、僕が欲しいのは青紫なの。やり直して」
店員が困り果てている。
私はその顔を知っていた。
その声も、その傲慢な物言いも。
乙女ゲーム『花冠の聖女と七つの誓い』。
私が前世で、三百時間以上遊んだゲーム。
その隠しルートに登場する、悲劇の美少年。
セシル・ヴァレンタイン。
のちに『銀月の魔王』と呼ばれ、王都を滅ぼす男。
そして。
私が人生で一番愛した、推しキャラだった。
「……セシル様?」
思わず名前を呼んでしまった。
少年がこちらを見る。
「何?」
「あ、いえ、その……」
まずい。
前世の記憶が一気に押し寄せて、頭が混乱している。
セシルは十二歳で母親を亡くす。
父親は後妻を迎え、義弟が生まれると、セシルを邪魔者扱いするようになる。
愛されたくて、彼は必死に努力する。
美しい服を着る。
礼儀作法を覚える。
剣術も魔術も学ぶ。
誰より優秀になろうとする。
けれど、父親は一度も彼を褒めない。
そして十八歳のとき、婚約者に捨てられる。
『あなたはいつも、自分が愛されることばかり考えているのね』
そう言われた彼は、最後の希望を失う。
そこから先は、地獄だった。
魔術が暴走し、屋敷が燃える。
父親も義母も義弟も死ぬ。
セシルは王都を追われ、やがて魔王となる。
ゲーム本編では討伐対象。
隠しルートでは救済可能。
ただし、救済エンドにたどり着く条件が異常に厳しかった。
私は攻略サイトを見ながら何十回もやり直し、ようやく彼を救った。
そのとき、画面の向こうのセシルは泣きながら笑った。
『僕を好きになってくれて、ありがとう』
あの一枚絵。
あの台詞。
私は思い出すだけで泣ける。
そして今、そのセシルが目の前にいる。
十二歳。
母親を亡くして、まだ三か月。
父親に無視され始めたばかり。
つまり。
まだ間に合う。
「セシル様!」
「だから、何?」
「そのリボン、とても素敵です!」
私は叫んだ。
少年が眉をひそめる。
「……これが?」
「はい! でも、おっしゃるとおり青紫のほうが、セシル様の瞳に似合うと思います!」
彼の瞳が、わずかに見開かれた。
「君、わかるの?」
「もちろんです! セシル様は銀髪なので、青みの強い色を合わせると、とても上品に見えます!」
「……ふうん」
セシルは私を上から下まで眺めた。
私は地味な茶髪に、地味な顔。
男爵家の娘なので、ドレスも地味だ。
「君、服の趣味は悪くないね」
「ありがとうございます!」
「でも、その髪飾りは駄目」
「えっ」
「緑は似合わない。君なら珊瑚色のほうがいい」
そう言うと、彼は店員に命じた。
「珊瑚色の髪飾りを持ってきて」
「セシル様?」
「僕が選んであげる」
彼は得意げに顎を上げた。
「光栄に思ってね」
……生意気!
でも可愛い!
私は心の中で転げ回った。
◇
それから、私はセシルのいる仕立て屋に通うようになった。
もちろん、毎日買い物ができるほど裕福ではない。
だから母の古いドレスを直したり、端切れを買ったり、髪飾りを作ったりした。
すると、ある日。
「リリア」
セシルが私を呼び止めた。
「はい?」
「最近、僕に会いに来てるでしょう」
ぎくり。
「そ、そんなことは」
「嘘。僕が来る曜日を覚えてるもの」
「……」
「僕のこと、好きなの?」
十二歳の少年が、あまりにも堂々と尋ねる。
私は思わず笑った。
「はい。大好きです!」
セシルが固まった。
耳が赤くなる。
「……そ、そう」
「世界で一番好きです!」
「そ、そこまで言わなくても」
「いいえ! 言わせてください!」
私は拳を握った。
「セシル様は世界一可愛くて、世界一美しくて、世界一努力家で、世界一幸せになるべき方です!」
「……」
「だから絶対に幸せになってください!」
セシルは黙った。
しばらくして、小さな声で言った。
「……変な人」
そして、ぷいっと横を向く。
「でも、明日も来ていいよ」
「はい!」
「明日は新しい上着を着てくるから」
「楽しみです!」
「……絶対、褒めてね」
その声があまりに小さかったので、私は胸が苦しくなった。
ゲームでは描かれなかった十二歳のセシル。
彼はこんなふうに、誰かの褒め言葉を待っていたのだ。
◇
セシルと知り合って半年。
私は重大な問題に直面していた。
セシルが、ものすごく面倒くさい。
「リリア、今日はどっちがいい?」
公爵家の応接室。
彼は二着の上着を持っていた。
白と薄紫。
「白でしょうか」
「……どうして?」
「銀髪が映えますから」
「薄紫は?」
「そちらも素敵です」
「じゃあ、どっち?」
「白です」
「……薄紫は似合わない?」
「似合います!」
「でも白のほうがいいんでしょう?」
「はい」
「……わかった」
セシルは薄紫の上着を抱きしめた。
「これ、捨てる」
「捨てないでください!!」
私は慌てて止めた。
「薄紫も素敵です! ただ今日は白が似合うと思っただけです!」
「本当?」
「本当です!」
「じゃあ明日は薄紫を着る」
「はい!」
「明日も来てくれる?」
「……」
なるほど。
そういうことか。
私はようやく気づいた。
この少年。
服の相談をしているふりをして、私が明日も来るか確認している。
「セシル様」
「何?」
「明日も来ますよ」
彼の顔がぱっと明るくなった。
「本当?」
「はい」
「じゃあ、明後日は?」
「来ます」
「その次は?」
「……来ます」
「その次の次は?」
「セシル様」
「何?」
「一週間分、予定を決めましょうか」
セシルは少し考えてから、にっこり笑った。
「一か月分がいい」
欲張り!!
◇
セシルの破滅を防ぐには、まず彼の孤独を減らす必要がある。
私はそう考えた。
ただし、問題があった。
彼の父親、ヴァレンタイン公爵だ。
この男は本当にひどい。
セシルの母親を政略結婚の道具としか思っておらず、妻が亡くなるとすぐに愛人を屋敷へ迎えた。
しかもセシルのことを、亡き妻に似ているという理由で疎んじている。
私は何度か公爵に会ったが、彼が息子を褒めるところを一度も見なかった。
「また服を買ったのか」
ある日、公爵はセシルに言った。
「男のくせに着飾ることばかり覚えて。少しは剣術に励め」
セシルは微笑んだ。
「剣術の試験では首席でした、父上」
「その程度で得意になるな」
「……はい」
「お前の母親も、そうやって見た目ばかり気にしていた」
セシルの指が、膝の上でぎゅっと握られた。
私は我慢できなかった。
「公爵様」
「何だね、男爵令嬢」
「セシル様は、魔術の試験でも首席でした」
「だから?」
「礼儀作法も、歴史も、外国語もです」
「それがどうした」
「……」
私は一度、深呼吸した。
相手は公爵。
こちらは男爵令嬢。
身分差がある。
下手なことを言えば、父の仕事に影響が出るかもしれない。
それでも。
「そんなに優秀な息子がいるのに、一度も褒めないなんて、もったいないですね」
言ってしまった。
公爵の顔が険しくなる。
「何だと?」
「私なら毎日褒めます。朝起きたら褒めますし、ご飯を食べたら褒めますし、試験で首席ならお祭りを開きます」
「馬鹿馬鹿しい」
「はい。私、セシル様のことになると馬鹿になるんです」
公爵は呆れたように鼻を鳴らした。
「帰りたまえ」
「失礼いたします」
私は頭を下げた。
そしてセシルの手を取る。
「行きましょう」
彼は黙ってついてきた。
廊下に出てから、私は言った。
「すみません。余計なことを言いました」
「……ううん」
「お父様に叱られたら、私のせいにしてください」
「……リリア」
「はい?」
「僕、首席だったんだよ」
「知っています」
「全部、頑張ったんだ」
「知っています」
「……本当に?」
「もちろん」
セシルは俯いた。
「……誰も、見てくれなかった」
私は彼の手を握り直した。
「私は見ています」
「……」
「ずっと見ていますよ」
セシルが顔を上げた。
その目から、ぽろりと涙が落ちた。
「……じゃあ」
「はい」
「僕がもっと頑張ったら、もっと好きになってくれる?」
胸が痛かった。
私はしゃがんで、彼と目を合わせた。
「セシル様。頑張らなくても好きですよ」
「……え?」
「首席じゃなくても、服が似合わなくても、失敗しても好きです」
「……嘘」
「嘘じゃありません」
「だって、僕が可愛くなくなったら……」
「可愛くなくても好きです」
「……」
「でも、今のセシル様はとっても可愛いです」
彼は泣きながら笑った。
「……ずるい」
「何がですか?」
「そんなこと言われたら……」
セシルは私に抱きついた。
「……もっと、好きになっちゃうじゃない」
私はその小さな背中を抱きしめた。
絶対に守ろう。
この子だけは、絶対に不幸にしない。
私はそう決めた。
◇
それから四年が過ぎた。
私は二十歳。
セシルは十六歳になった。
そして。
とんでもない美青年に成長した。
「リリア。今日の僕、どう?」
銀色の髪を肩まで伸ばし、白いシャツに黒い上着。
胸元には紫水晶のブローチ。
背もすっかり高くなり、私より頭一つ分以上大きい。
昔は可愛らしい少年だったのに、今では街を歩くだけで女性たちが振り返る。
「とても素敵です」
「可愛い?」
「格好いいです」
「……可愛くない?」
「可愛いです」
「どっち?」
「両方です」
「ふふ」
セシルは満足そうに笑った。
そして当然のように、私の腕に自分の腕を絡める。
「じゃあ、今日は僕とお出かけしよう」
「今日は仕事があるんです」
「……仕事?」
「はい。仕立て屋で新しいドレスの型紙を作る約束が」
「僕より?」
「え?」
「僕より、仕事が大事?」
出た。
面倒くさいやつ。
「セシル様。仕事をしないと生活できません」
「僕が養うよ」
「そういう問題じゃありません」
「じゃあ、僕の屋敷で働けばいい」
「何の仕事をするんですか?」
「僕を褒める仕事」
「そんな仕事ありません!」
「作るよ」
「作らないでください!」
セシルは頬を膨らませた。
「……昔は毎日来てくれたのに」
「昔は私も暇でしたから」
「今は?」
「忙しいです」
「僕は暇だよ」
「勉強してください」
「もう全部終わった」
「剣術は?」
「朝やった」
「魔術は?」
「昨日、宮廷魔術師に勝った」
「……」
そうだった。
この男、才能だけならゲーム最強なのだ。
努力家で、頭がよくて、魔力も桁外れ。
そのくせ、私の前では子犬のように甘えてくる。
「ねえ、リリア」
「はい」
「僕、最近思うんだけど」
「何をですか?」
「君が仕事をするのって、僕に会いたくないからじゃない?」
「違います!」
「本当?」
「本当です!」
「じゃあ、証明して」
「どうやって?」
セシルはにっこり笑った。
「キスして」
「……」
私は固まった。
「……はい?」
「キス」
「な、何を言ってるんですか!?」
「好きなんでしょう?」
「好きですけど!」
「じゃあ、いいじゃない」
「よくありません!」
セシルは不思議そうに首を傾げた。
「どうして?」
「どうしてって……!」
私は言葉に詰まった。
そうだ。
私にとってセシルは推し。
最愛のキャラクター。
幸せになってほしい存在。
でも、彼は現実の人間だ。
しかも十六歳。
私より四歳年下。
「セシル様。そういうことは、将来好きな女性ができたら、その方としてください」
私はできるだけ優しく言った。
すると。
セシルの笑顔が消えた。
「……将来?」
「はい」
「好きな女性?」
「はい」
「……僕、もう好きな人いるけど」
心臓が跳ねた。
えっ。
誰?
まさか、もうヒロインに出会った?
ゲームの開始は二年後のはずなのに!
「ど、どなたですか!?」
セシルは私をじっと見た。
「……」
「セシル様?」
「……知らない」
「え?」
「リリアなんか、知らない!」
彼は突然、ぷいっと背を向けた。
「もういい!」
そのまま大股で歩いていく。
私は慌てて追いかけた。
「セシル様!?」
「ついてこないで!」
「でも!」
「……」
彼はぴたりと止まった。
ちらりと振り返る。
「……本当についてこないつもり?」
「どっちですか!?」
◇
その夜。
私はベッドの上で頭を抱えていた。
セシルに好きな人ができた。
これは喜ばしいことだ。
彼が誰かを愛せるようになった。
素晴らしい。
推しの成長。
感動。
なのに。
「……なんか、胸が痛い」
私は枕に顔を埋めた。
おかしい。
推しが幸せになるなら、それでいいはずなのに。
ゲームでは、セシルの救済エンドを何度も見た。
ヒロインと結ばれる彼を見て、私は泣いて喜んだ。
でも。
現実のセシルが、知らない女性に微笑むところを想像すると。
「……嫌だな」
思わず呟いた。
自分でも驚いた。
何を考えているんだろう。
私は彼を幸せにするために、ここにいるのに。
翌朝。
私は仕立て屋へ向かった。
すると店の前に、見慣れた馬車が止まっていた。
ヴァレンタイン公爵家の紋章。
嫌な予感。
「リリア!」
店に入った瞬間、セシルが駆け寄ってきた。
昨日の不機嫌はどこへやら。
満面の笑顔である。
「おはよう!」
「お、おはようございます」
「見て!」
彼はくるりと回った。
今日は淡い桃色の上着。
胸元には薔薇の刺繍。
髪には小さな銀の飾り。
「どう?」
「……可愛いです」
「本当?」
「はい」
「昨日より?」
「昨日より可愛いです」
「ふふ」
セシルは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今日はデートしよう」
「仕事です」
「知ってる」
「……」
「だから、ここで待ってる」
彼は椅子に腰かけた。
「仕事が終わるまで」
「……何時間もかかりますよ?」
「いいよ」
「退屈しません?」
「リリアを見てるから」
店員たちが一斉にこちらを見た。
私は顔が熱くなる。
「セシル様!」
「何?」
「そういうこと、軽々しく言わないでください!」
「……嫌だった?」
彼の顔が曇る。
「僕、邪魔?」
「邪魔ではありません!」
「……本当?」
「本当です!」
セシルは少し考えた。
そして、にっこり笑った。
「じゃあ、いいね」
よくない。
この男。
完全に私の扱いを覚えている。
◇
事件が起きたのは、それから一か月後だった。
王宮で開かれた春の舞踏会。
私は仕立て屋の仕事で、衣装の最終調整に呼ばれていた。
貴族たちが華やかな衣装で踊る中、私は裏方として忙しく働いていた。
そんなとき。
「リリア!」
セシルが現れた。
今日は黒い礼服。
銀糸の刺繍が施された上着に、紫水晶の飾り。
まるで夜空に浮かぶ月のようだった。
「セシル様!」
「やっと見つけた」
彼は嬉しそうに近づいてきた。
「探したんだよ」
「今日はお仕事で」
「知ってる。でも、少しだけ」
彼は手を差し出した。
「踊ろう?」
私は慌てた。
「無理です!」
「どうして?」
「私は裏方ですし、身分も……」
「僕がいいって言ってるのに?」
「そういう問題じゃありません!」
セシルは不満そうに唇を尖らせた。
そのとき。
「セシル様」
美しい金髪の令嬢が近づいてきた。
私は息を呑んだ。
彼女を知っている。
ゲームのヒロイン。
聖女候補のエレノア・ローズ。
十八歳。
ゲーム開始時より二年早い。
「お久しぶりです」
エレノアは優雅に微笑んだ。
「今夜はぜひ、私と一曲踊っていただけませんか?」
来た。
ついに来た。
運命の出会い。
私は胸がいっぱいになった。
セシル。
よかったね。
今度こそ、幸せになれるよ。
「セシル様、ぜひ踊ってきてください!」
私は笑顔で言った。
セシルが私を見る。
「……リリア?」
「とても素敵な方ですよ!」
「……」
「きっとお似合いです!」
セシルの顔から、すっと表情が消えた。
「……そう」
冷たい声だった。
「君は、僕が誰と踊ってもいいんだね」
「え?」
「僕が誰を好きになっても、誰と結婚しても、どうでもいいんだ」
「そんなことは……」
「……わかった」
セシルはエレノアに向き直った。
「申し訳ありません。踊る気分ではないので」
そして、私にも背を向けた。
「失礼するよ」
彼は去っていった。
私は呆然と立ち尽くした。
何か。
何か、間違えた?
◇
翌日から、セシルは私の前に現れなくなった。
一日。
二日。
三日。
四日目。
私は耐えられなくなり、公爵家へ向かった。
門番に名前を告げると、すぐに通された。
セシルの部屋の前に立つ。
「セシル様?」
返事がない。
「リリアです」
沈黙。
「……入ってもいいですか?」
「……駄目」
中から声がした。
「帰って」
私は扉の前に座り込んだ。
「帰りません」
「……」
「セシル様とお話しするまで帰りません」
「……」
「私、何かしましたか?」
しばらくして。
「……リリアは、僕のこと好きなんでしょう?」
「はい」
「世界で一番?」
「はい」
「……じゃあ、どうして他の女の人に譲ろうとするの?」
私は息を止めた。
「……え?」
「僕が誰と踊ってもいいの?」
「それは……」
「僕が誰かと結婚しても?」
「……」
「僕が、君以外の人を好きになっても?」
扉の向こうで、何かが落ちる音がした。
「……僕は嫌だよ」
声が震えていた。
「リリアが他の男と踊るのも、笑うのも、結婚するのも、全部嫌だ」
「……セシル様」
「僕、ずっと頑張ったんだよ」
彼は続けた。
「可愛くなろうと思って、服を選んだ。格好よくなろうと思って、剣術も頑張った。君が褒めてくれるから、何でも頑張れた」
「……」
「でも、どれだけ頑張っても、君は僕を誰かにあげようとする」
私は胸を押さえた。
「……僕じゃ、駄目なの?」
扉の向こうから、嗚咽が聞こえた。
「僕、リリアが好きなのに」
その瞬間。
私はようやく理解した。
セシルが好きなのは。
私だ。
ずっと。
ずっと前から。
「……セシル様」
「……帰って」
「嫌です」
「……」
「開けてください」
「……嫌」
「セシル様」
「……」
「私、あなたに謝らないといけません」
扉の向こうが静かになった。
「私はずっと、セシル様を幸せにしたいと思っていました」
「……」
「でも、あなたが何を望んでいるのか、ちゃんと聞いていませんでした」
私は目を閉じた。
前世の記憶。
ゲームの展開。
攻略ルート。
救済エンド。
私はそればかり見ていた。
目の前にいる、本物のセシルを見ていなかった。
「ごめんなさい」
私は言った。
「あなたの気持ちを、勝手に決めつけていました」
しばらくして。
かちゃり。
扉が開いた。
セシルが立っていた。
銀色の髪は乱れ、目元は赤い。
いつもの完璧な美青年ではなかった。
「……リリア」
「はい」
「……僕、可愛くないでしょう」
「……」
「泣いて、怒って、嫉妬して……こんなの、嫌でしょう?」
私は首を横に振った。
「いいえ」
そして、彼の頬に手を伸ばした。
「可愛いです」
セシルの目が揺れる。
「……嘘」
「本当です」
「……泣いてるのに?」
「はい」
「……面倒くさいのに?」
「はい」
「……僕、すごく嫉妬深いよ」
「知っています」
「……毎日会いたいし、毎日好きって言ってほしいし、他の男を褒めたら嫌だし……」
「知っています」
「……それでも?」
私は微笑んだ。
「大好きです」
セシルの顔がくしゃりと歪んだ。
「……っ」
彼は私を抱きしめた。
強く。
痛いほど強く。
「……じゃあ、僕を選んで」
耳元で、震える声がした。
「誰でもいいんじゃなくて、僕がいいって言って」
私は彼の背中に腕を回した。
「……セシル様がいいです」
「……」
「私も、セシル様が好きです」
彼は泣いた。
子供のように。
声を上げて。
私はその背中を、何度も撫でた。
◇
それから一週間後。
私は大変なことになっていた。
「リリア、これどう?」
「素敵です」
「こっちは?」
「素敵です」
「じゃあ、こっちは?」
「素敵です」
「……全部同じじゃない?」
「全部素敵なんです!」
セシルは鏡の前で、次々と服を着替えていた。
白。
黒。
紫。
青。
赤。
そして桃色。
「リリアはどれが好き?」
「……白でしょうか」
「ふふ。じゃあ白にする」
彼は満足そうに笑った。
そして、私の隣に座る。
「ねえ」
「はい」
「好き?」
「好きです」
「どれくらい?」
「世界で一番です」
「昨日より?」
「昨日より好きです」
「明日は?」
「もっと好きです」
セシルはにっこり笑った。
「じゃあ、結婚しよう」
「……」
「どうして黙るの?」
「……まだ早いです」
「何が?」
「セシル様は十六歳ですし」
「あと二年で成人するよ」
「私は二十歳です」
「知ってる」
「年上です」
「知ってる」
「……」
「それがどうしたの?」
彼は不思議そうに首を傾げた。
「僕、リリアが四十歳になっても好きだよ」
「……」
「六十歳でも好き」
「……」
「八十歳でも好き」
「……」
「百歳になったら、僕が毎日髪を結ってあげる」
私は思わず笑った。
「百歳まで生きるつもりですか?」
「もちろん」
セシルは当然のように言った。
「リリアと一緒に、長生きするんだ」
胸が、ぎゅっとなった。
この人は。
かつて、十八歳で世界を憎み、二十歳で死ぬはずだった人だ。
それなのに今。
百歳まで生きたいと言っている。
私は泣きそうになった。
「……セシル様」
「何?」
「幸せですか?」
彼は目を丸くした。
そして、ふわりと笑った。
「うん」
迷いのない返事だった。
「すごく幸せ」
私は目を閉じた。
よかった。
本当に、よかった。
すると。
「……でも」
セシルが続けた。
「一つだけ、不満がある」
「何ですか?」
「リリアが、まだ僕と結婚してくれない」
「……」
「ねえ、いつ?」
「……」
「来年?」
「……」
「再来年?」
「……」
「ねえ、リリア」
彼は私の手を握った。
紫色の瞳が、いたずらっぽく輝く。
「僕、待つのは得意じゃないんだ」
そして。
私の指先に、そっと唇を落とした。
「……だから、早く僕のものになってね」
私は真っ赤になった。
「セシル様!!」
彼は楽しそうに笑った。
ああ。
この人は。
本当に。
世界で一番、面倒くさくて可愛い。
◇
ところが。
幸せな日々は、そう簡単には続かなかった。
その年の秋。
ヴァレンタイン公爵が、セシルに婚約を命じたのだ。
相手は、隣国の有力貴族の娘。
政治的な結婚だった。
セシルは当然、拒否した。
「嫌です」
公爵の執務室。
私は偶然、その場に居合わせていた。
「お前に拒否権はない」
「あります」
「何だと?」
「僕はリリアと結婚します」
公爵は鼻で笑った。
「あの男爵家の娘か。馬鹿馬鹿しい」
「馬鹿馬鹿しくありません」
「お前は公爵家の跡取りだ。家の利益を考えろ」
「考えています」
「ならば――」
「僕がリリアと結婚すれば、毎日幸せです」
「……」
「幸せな当主が治める領地は、きっと繁栄します」
公爵のこめかみに青筋が浮かんだ。
「ふざけるな!」
セシルは涼しい顔だった。
「ふざけていません」
「そんな女に入れ込んで、恥を知れ!」
私は息を呑んだ。
ゲームで見た光景。
父親に否定されるセシル。
婚約を強制されるセシル。
そして。
破滅への道。
私は立ち上がった。
「公爵様!」
だが、私より先にセシルが口を開いた。
「父上」
静かな声だった。
「僕は、あなたに愛されたかった」
公爵が黙る。
「だから、ずっと頑張りました」
「……」
「でも、もうやめます」
セシルは微笑んだ。
「僕を愛してくれる人がいるので」
彼は私の手を取った。
「僕は、この人と幸せになります」
その瞬間。
公爵が机を叩いた。
「ならば勘当だ!」
私は凍りついた。
勘当。
ゲームでも、ここが転機だった。
セシルは家を追われ、絶望し、魔術を暴走させる。
私は慌てて彼を見た。
「セシル様!」
けれど。
彼は笑っていた。
「そうですか」
あまりにもあっさりした返事。
「では、失礼します」
セシルは一礼した。
そして私の手を引き、部屋を出た。
廊下に出てから、私は叫んだ。
「セシル様!?」
「何?」
「勘当されましたよ!?」
「うん」
「公爵家の跡取りじゃなくなるんですよ!?」
「うん」
「……いいんですか!?」
セシルはきょとんとした。
「何が?」
「だって……!」
彼は私の手を持ち上げた。
指先に、軽く口づける。
「リリアがいるでしょう?」
「……」
「僕、もう一人じゃないもの」
その笑顔を見て。
私は、とうとう泣いてしまった。
「……セシル様」
「えっ、どうしたの?」
「……よかった」
「リリア?」
「本当に、よかった……!」
セシルは慌てた。
「泣かないで! 僕、何か悪いことした?」
「違います!」
「じゃあ、どうして?」
「……嬉しくて」
彼は少し考えた。
そして、にっこり笑った。
「じゃあ、もっと嬉しくしてあげる」
「……え?」
「結婚しよう」
「……」
「ね?」
「……」
「今すぐ」
「今すぐ!?」
セシルは満面の笑顔だった。
「うん!」
私は思わず叫んだ。
「この状況で求婚しますか!?」
「だって、今が一番いいと思ったんだもの」
「何がですか!?」
「僕、今すごく幸せだから」
彼は私を抱きしめた。
「リリアと一緒なら、何も怖くない」
その言葉に、私は負けた。
完全に。
降参だった。
「……わかりました」
セシルが固まった。
「……え?」
「結婚、しましょう」
「……」
「私でよければ」
次の瞬間。
「――やったあ!!」
セシルが私を抱き上げた。
「リリア! 大好き!!」
「きゃあ!?」
「結婚! 結婚だよ!!」
「わかりましたから、下ろしてください!」
「嫌!」
「セシル様!」
「もう絶対に離さない!」
彼は私を抱えたまま、廊下を走り出した。
「みんな! 聞いて!!」
「セシル様!?」
「僕、結婚する!!」
使用人たちが一斉に振り返る。
セシルは満面の笑顔で叫んだ。
「世界で一番可愛いリリアと!!」
私は顔を覆った。
恥ずかしい。
恥ずかしすぎる。
でも。
幸せだった。
◇
結婚式は、翌年の春に行われた。
セシルは十七歳。
私は二十一歳。
彼は公爵家を出たあと、宮廷魔術師として働き始めた。
才能は本物だった。
あっという間に王宮で頭角を現し、若くして魔術研究所の責任者に抜擢された。
そして。
驚くほど稼ぐようになった。
「リリア、見て!」
ある日、彼は大量の宝石を持って帰ってきた。
「……何ですか、これ」
「結婚祝い!」
「多すぎません!?」
「全部リリアに似合うと思って」
机の上には、首飾り、指輪、耳飾り。
色とりどりの宝石が山のように積まれていた。
「セシル様! こんなに買ってどうするんですか!」
「毎日つけて」
「無理です!」
「じゃあ、僕が選んであげる」
彼は楽しそうに笑った。
「今日はこれ。明日はこれ。明後日は……」
「セシル様!」
「何?」
「お金は大事に使ってください!」
彼は不思議そうに首を傾げた。
「でも、リリアが可愛くなるなら、いい使い方でしょう?」
「……」
私は頭を抱えた。
この人。
本当に。
どうしようもない。
◇
そして、結婚式当日。
私は純白のドレスを着ていた。
セシルが半年かけてデザインしたものだ。
繊細なレース。
銀糸の刺繍。
小さな真珠。
そして、胸元には紫水晶。
「……綺麗」
鏡の前で、私は呟いた。
すると、背後から声がした。
「でしょう?」
振り返ると、セシルが立っていた。
白い礼服。
銀色の髪。
紫色の瞳。
まるで絵本の王子様だった。
「セシル様!」
「ふふ。似合うと思ったんだ」
彼は私の手を取った。
「世界で一番綺麗だよ」
「……ありがとうございます」
「でも」
セシルは少し不満そうに唇を尖らせた。
「僕のことも褒めて」
「……」
「今日の僕、どう?」
私は笑った。
「世界で一番、格好いいです」
セシルの顔がぱっと輝いた。
「本当?」
「本当です」
「可愛い?」
「可愛いです」
「昨日より?」
「昨日より可愛いです」
「明日は?」
「もっと可愛いです」
セシルは満足そうに笑った。
そして、私の額にキスをした。
「……ねえ、リリア」
「はい」
「僕、ずっと怖かったんだ」
彼は静かに言った。
「いつか君がいなくなるんじゃないかって」
「……」
「僕が可愛くなくなったら、嫌われるんじゃないかって」
私は彼の手を握った。
「……セシル様」
「でも、今は少しだけ信じられる」
彼は微笑んだ。
「君は、僕がどんなに面倒くさくても、好きでいてくれるって」
「もちろんです」
「……本当?」
「本当です」
「……じゃあ」
セシルは私の手を、自分の頬に当てた。
「一生、僕を好きでいてね」
私は微笑んだ。
「はい」
彼は幸せそうに目を細めた。
「……約束だよ」
そして。
私たちは、結婚した。
◇
それから、十年が過ぎた。
セシルは二十七歳。
私は三十一歳。
彼は王国一の魔術師となり、国王からも厚い信頼を寄せられるようになった。
そして。
相変わらず、面倒くさかった。
「リリア!」
ある朝。
私は台所で朝食を作っていた。
すると、セシルが駆け込んできた。
「大変!」
「どうしました!?」
「白髪が!」
「……」
「白髪が一本あった!!」
私は手を止めた。
「……セシル様」
「どうしよう! 僕、老けちゃう!」
「……」
「リリアに嫌われる!」
私はため息をついた。
「セシル様」
「何!?」
「私は、白髪があっても好きですよ」
「……本当?」
「本当です」
「……皺ができても?」
「好きです」
「……太っても?」
「好きです」
「……禿げても?」
「好きです」
セシルはしばらく考えた。
そして。
「……でも、僕は嫌だ」
「何でですか!?」
「リリアには、いつまでも格好いい僕を見てほしいもの」
彼は鏡を取り出した。
「今日から美容魔術を研究する」
「仕事してください!」
「これも仕事だよ!」
「違います!」
私は呆れながら笑った。
すると、セシルが私の腰に腕を回した。
「ねえ、リリア」
「はい」
「好き?」
「好きです」
「世界で一番?」
「世界で一番です」
「昨日より?」
「昨日より好きです」
「明日は?」
「もっと好きです」
彼は嬉しそうに笑った。
「ふふ」
そして、私の頬にキスをした。
「僕もだよ」
私は目を閉じた。
前世で、画面の向こうにいた推し。
不幸な未来を背負った、美しい少年。
愛されるために必死で努力し、誰にも愛されないまま壊れてしまうはずだった人。
その彼が今。
私の隣で笑っている。
少し面倒くさくて。
とても甘えん坊で。
嫉妬深くて。
でも、誰より優しくて。
そして。
誰より、私を愛してくれる。
「……セシル様」
「何?」
「幸せですか?」
彼は目を丸くした。
そして、十年前と同じように笑った。
「うん」
迷いのない返事。
「すごく幸せ」
私は微笑んだ。
「私もです」
すると。
「……でも」
セシルが続けた。
「一つだけ、不満がある」
「……何ですか?」
「リリアが、最近あんまり僕を褒めてくれない」
「毎日褒めてます!」
「昔はもっと褒めてくれた」
「今も褒めてます!」
「……じゃあ、今すぐ褒めて」
私は笑った。
「世界で一番、可愛いです」
セシルは満足そうに笑った。
「ふふ」
そして。
私を抱きしめながら、耳元で囁いた。
「……ねえ、リリア」
「はい」
「明日も、明後日も、百年後も」
彼は私の手を握った。
「ずっと、僕だけを見ていてね」
私は微笑んだ。
「もちろんです」
セシルは幸せそうに笑った。
「……約束だよ」
その笑顔を見ながら、私は思った。
ああ。
やっぱり。
私の推しは、世界で一番可愛い。
そして。
世界で一番、面倒くさい。
でも。
そんな彼が、私は大好きなのだ。
――おしまい。
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