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推しの破滅を回避したいだけなのに、推しが毎日可愛くて殺されそうです ~愛されたがりの公爵様は、私の前でだけ面倒くさい~

作者: みやこ
掲載日:2026/10/28



「ねえ、リリア。今日の僕、可愛くない?」


「可愛いです」


「昨日より?」


「昨日より可愛いです」


「じゃあ、どうして僕を置いて帰ろうとするの?」


銀髪の美青年が、私の袖をきゅっと掴んだ。


長い睫毛に縁取られた紫色の瞳が、じわりと潤む。


「僕のこと、もう嫌いになった?」


「なってません!」


「本当?」


「本当です!」


「じゃあ、結婚しよう」


「どうしてそうなるんですか!?」


彼はにっこり笑った。


「嫌いじゃないなら、いいでしょう?」


よくない。


全然よくない。


だって、この人。


私の大好きだった乙女ゲームで、王都を炎に包んで滅ぼす予定の、ラスボスなんですけど!?


◇


私が前世の記憶を取り戻したのは、十六歳の春だった。


王都の仕立て屋で、母の注文したドレスを受け取っていたときのことである。


「お嬢様、あちらをご覧になって。ヴァレンタイン公爵家のご子息ですわ」


店員の声に振り返った私は、危うくドレスを落としかけた。


そこにいたのは、銀色の髪をした十二歳ほどの少年だった。


白い肌。紫水晶のような瞳。人形めいた整った顔。


そして、やけに凝った服装。


淡い藤色の上着には銀糸の刺繍。胸元には大粒の宝石。白い手袋には小さな真珠の飾り。


少年は鏡の前で、店員に怒っていた。


「このリボン、昨日頼んだものと違う」


「も、申し訳ございません」


「僕は青紫を頼んだんだ。これは菫色だろう?」


「ですが、よくお似合いで……」


「似合うのは知ってるよ。僕は何を着ても似合うもの」


なんという自信。


「でも、僕が欲しいのは青紫なの。やり直して」


店員が困り果てている。


私はその顔を知っていた。


その声も、その傲慢な物言いも。


乙女ゲーム『花冠の聖女と七つの誓い』。


私が前世で、三百時間以上遊んだゲーム。


その隠しルートに登場する、悲劇の美少年。


セシル・ヴァレンタイン。


のちに『銀月の魔王』と呼ばれ、王都を滅ぼす男。


そして。


私が人生で一番愛した、推しキャラだった。


「……セシル様?」


思わず名前を呼んでしまった。


少年がこちらを見る。


「何?」


「あ、いえ、その……」


まずい。


前世の記憶が一気に押し寄せて、頭が混乱している。


セシルは十二歳で母親を亡くす。


父親は後妻を迎え、義弟が生まれると、セシルを邪魔者扱いするようになる。


愛されたくて、彼は必死に努力する。


美しい服を着る。


礼儀作法を覚える。


剣術も魔術も学ぶ。


誰より優秀になろうとする。


けれど、父親は一度も彼を褒めない。


そして十八歳のとき、婚約者に捨てられる。


『あなたはいつも、自分が愛されることばかり考えているのね』


そう言われた彼は、最後の希望を失う。


そこから先は、地獄だった。


魔術が暴走し、屋敷が燃える。


父親も義母も義弟も死ぬ。


セシルは王都を追われ、やがて魔王となる。


ゲーム本編では討伐対象。


隠しルートでは救済可能。


ただし、救済エンドにたどり着く条件が異常に厳しかった。


私は攻略サイトを見ながら何十回もやり直し、ようやく彼を救った。


そのとき、画面の向こうのセシルは泣きながら笑った。


『僕を好きになってくれて、ありがとう』


あの一枚絵。


あの台詞。


私は思い出すだけで泣ける。


そして今、そのセシルが目の前にいる。


十二歳。


母親を亡くして、まだ三か月。


父親に無視され始めたばかり。


つまり。


まだ間に合う。


「セシル様!」


「だから、何?」


「そのリボン、とても素敵です!」


私は叫んだ。


少年が眉をひそめる。


「……これが?」


「はい! でも、おっしゃるとおり青紫のほうが、セシル様の瞳に似合うと思います!」


彼の瞳が、わずかに見開かれた。


「君、わかるの?」


「もちろんです! セシル様は銀髪なので、青みの強い色を合わせると、とても上品に見えます!」


「……ふうん」


セシルは私を上から下まで眺めた。


私は地味な茶髪に、地味な顔。


男爵家の娘なので、ドレスも地味だ。


「君、服の趣味は悪くないね」


「ありがとうございます!」


「でも、その髪飾りは駄目」


「えっ」


「緑は似合わない。君なら珊瑚色のほうがいい」


そう言うと、彼は店員に命じた。


「珊瑚色の髪飾りを持ってきて」


「セシル様?」


「僕が選んであげる」


彼は得意げに顎を上げた。


「光栄に思ってね」


……生意気!


でも可愛い!


私は心の中で転げ回った。


◇


それから、私はセシルのいる仕立て屋に通うようになった。


もちろん、毎日買い物ができるほど裕福ではない。


だから母の古いドレスを直したり、端切れを買ったり、髪飾りを作ったりした。


すると、ある日。


「リリア」


セシルが私を呼び止めた。


「はい?」


「最近、僕に会いに来てるでしょう」


ぎくり。


「そ、そんなことは」


「嘘。僕が来る曜日を覚えてるもの」


「……」


「僕のこと、好きなの?」


十二歳の少年が、あまりにも堂々と尋ねる。


私は思わず笑った。


「はい。大好きです!」


セシルが固まった。


耳が赤くなる。


「……そ、そう」


「世界で一番好きです!」


「そ、そこまで言わなくても」


「いいえ! 言わせてください!」


私は拳を握った。


「セシル様は世界一可愛くて、世界一美しくて、世界一努力家で、世界一幸せになるべき方です!」


「……」


「だから絶対に幸せになってください!」


セシルは黙った。


しばらくして、小さな声で言った。


「……変な人」


そして、ぷいっと横を向く。


「でも、明日も来ていいよ」


「はい!」


「明日は新しい上着を着てくるから」


「楽しみです!」


「……絶対、褒めてね」


その声があまりに小さかったので、私は胸が苦しくなった。


ゲームでは描かれなかった十二歳のセシル。


彼はこんなふうに、誰かの褒め言葉を待っていたのだ。


◇


セシルと知り合って半年。


私は重大な問題に直面していた。


セシルが、ものすごく面倒くさい。


「リリア、今日はどっちがいい?」


公爵家の応接室。


彼は二着の上着を持っていた。


白と薄紫。


「白でしょうか」


「……どうして?」


「銀髪が映えますから」


「薄紫は?」


「そちらも素敵です」


「じゃあ、どっち?」


「白です」


「……薄紫は似合わない?」


「似合います!」


「でも白のほうがいいんでしょう?」


「はい」


「……わかった」


セシルは薄紫の上着を抱きしめた。


「これ、捨てる」


「捨てないでください!!」


私は慌てて止めた。


「薄紫も素敵です! ただ今日は白が似合うと思っただけです!」


「本当?」


「本当です!」


「じゃあ明日は薄紫を着る」


「はい!」


「明日も来てくれる?」


「……」


なるほど。


そういうことか。


私はようやく気づいた。


この少年。


服の相談をしているふりをして、私が明日も来るか確認している。


「セシル様」


「何?」


「明日も来ますよ」


彼の顔がぱっと明るくなった。


「本当?」


「はい」


「じゃあ、明後日は?」


「来ます」


「その次は?」


「……来ます」


「その次の次は?」


「セシル様」


「何?」


「一週間分、予定を決めましょうか」


セシルは少し考えてから、にっこり笑った。


「一か月分がいい」


欲張り!!


◇


セシルの破滅を防ぐには、まず彼の孤独を減らす必要がある。


私はそう考えた。


ただし、問題があった。


彼の父親、ヴァレンタイン公爵だ。


この男は本当にひどい。


セシルの母親を政略結婚の道具としか思っておらず、妻が亡くなるとすぐに愛人を屋敷へ迎えた。


しかもセシルのことを、亡き妻に似ているという理由で疎んじている。


私は何度か公爵に会ったが、彼が息子を褒めるところを一度も見なかった。


「また服を買ったのか」


ある日、公爵はセシルに言った。


「男のくせに着飾ることばかり覚えて。少しは剣術に励め」


セシルは微笑んだ。


「剣術の試験では首席でした、父上」


「その程度で得意になるな」


「……はい」


「お前の母親も、そうやって見た目ばかり気にしていた」


セシルの指が、膝の上でぎゅっと握られた。


私は我慢できなかった。


「公爵様」


「何だね、男爵令嬢」


「セシル様は、魔術の試験でも首席でした」


「だから?」


「礼儀作法も、歴史も、外国語もです」


「それがどうした」


「……」


私は一度、深呼吸した。


相手は公爵。


こちらは男爵令嬢。


身分差がある。


下手なことを言えば、父の仕事に影響が出るかもしれない。


それでも。


「そんなに優秀な息子がいるのに、一度も褒めないなんて、もったいないですね」


言ってしまった。


公爵の顔が険しくなる。


「何だと?」


「私なら毎日褒めます。朝起きたら褒めますし、ご飯を食べたら褒めますし、試験で首席ならお祭りを開きます」


「馬鹿馬鹿しい」


「はい。私、セシル様のことになると馬鹿になるんです」


公爵は呆れたように鼻を鳴らした。


「帰りたまえ」


「失礼いたします」


私は頭を下げた。


そしてセシルの手を取る。


「行きましょう」


彼は黙ってついてきた。


廊下に出てから、私は言った。


「すみません。余計なことを言いました」


「……ううん」


「お父様に叱られたら、私のせいにしてください」


「……リリア」


「はい?」


「僕、首席だったんだよ」


「知っています」


「全部、頑張ったんだ」


「知っています」


「……本当に?」


「もちろん」


セシルは俯いた。


「……誰も、見てくれなかった」


私は彼の手を握り直した。


「私は見ています」


「……」


「ずっと見ていますよ」


セシルが顔を上げた。


その目から、ぽろりと涙が落ちた。


「……じゃあ」


「はい」


「僕がもっと頑張ったら、もっと好きになってくれる?」


胸が痛かった。


私はしゃがんで、彼と目を合わせた。


「セシル様。頑張らなくても好きですよ」


「……え?」


「首席じゃなくても、服が似合わなくても、失敗しても好きです」


「……嘘」


「嘘じゃありません」


「だって、僕が可愛くなくなったら……」


「可愛くなくても好きです」


「……」


「でも、今のセシル様はとっても可愛いです」


彼は泣きながら笑った。


「……ずるい」


「何がですか?」


「そんなこと言われたら……」


セシルは私に抱きついた。


「……もっと、好きになっちゃうじゃない」


私はその小さな背中を抱きしめた。


絶対に守ろう。


この子だけは、絶対に不幸にしない。


私はそう決めた。


◇


それから四年が過ぎた。


私は二十歳。


セシルは十六歳になった。


そして。


とんでもない美青年に成長した。


「リリア。今日の僕、どう?」


銀色の髪を肩まで伸ばし、白いシャツに黒い上着。


胸元には紫水晶のブローチ。


背もすっかり高くなり、私より頭一つ分以上大きい。


昔は可愛らしい少年だったのに、今では街を歩くだけで女性たちが振り返る。


「とても素敵です」


「可愛い?」


「格好いいです」


「……可愛くない?」


「可愛いです」


「どっち?」


「両方です」


「ふふ」


セシルは満足そうに笑った。


そして当然のように、私の腕に自分の腕を絡める。


「じゃあ、今日は僕とお出かけしよう」


「今日は仕事があるんです」


「……仕事?」


「はい。仕立て屋で新しいドレスの型紙を作る約束が」


「僕より?」


「え?」


「僕より、仕事が大事?」


出た。


面倒くさいやつ。


「セシル様。仕事をしないと生活できません」


「僕が養うよ」


「そういう問題じゃありません」


「じゃあ、僕の屋敷で働けばいい」


「何の仕事をするんですか?」


「僕を褒める仕事」


「そんな仕事ありません!」


「作るよ」


「作らないでください!」


セシルは頬を膨らませた。


「……昔は毎日来てくれたのに」


「昔は私も暇でしたから」


「今は?」


「忙しいです」


「僕は暇だよ」


「勉強してください」


「もう全部終わった」


「剣術は?」


「朝やった」


「魔術は?」


「昨日、宮廷魔術師に勝った」


「……」


そうだった。


この男、才能だけならゲーム最強なのだ。


努力家で、頭がよくて、魔力も桁外れ。


そのくせ、私の前では子犬のように甘えてくる。


「ねえ、リリア」


「はい」


「僕、最近思うんだけど」


「何をですか?」


「君が仕事をするのって、僕に会いたくないからじゃない?」


「違います!」


「本当?」


「本当です!」


「じゃあ、証明して」


「どうやって?」


セシルはにっこり笑った。


「キスして」


「……」


私は固まった。


「……はい?」


「キス」


「な、何を言ってるんですか!?」


「好きなんでしょう?」


「好きですけど!」


「じゃあ、いいじゃない」


「よくありません!」


セシルは不思議そうに首を傾げた。


「どうして?」


「どうしてって……!」


私は言葉に詰まった。


そうだ。


私にとってセシルは推し。


最愛のキャラクター。


幸せになってほしい存在。


でも、彼は現実の人間だ。


しかも十六歳。


私より四歳年下。


「セシル様。そういうことは、将来好きな女性ができたら、その方としてください」


私はできるだけ優しく言った。


すると。


セシルの笑顔が消えた。


「……将来?」


「はい」


「好きな女性?」


「はい」


「……僕、もう好きな人いるけど」


心臓が跳ねた。


えっ。


誰?


まさか、もうヒロインに出会った?


ゲームの開始は二年後のはずなのに!


「ど、どなたですか!?」


セシルは私をじっと見た。


「……」


「セシル様?」


「……知らない」


「え?」


「リリアなんか、知らない!」


彼は突然、ぷいっと背を向けた。


「もういい!」


そのまま大股で歩いていく。


私は慌てて追いかけた。


「セシル様!?」


「ついてこないで!」


「でも!」


「……」


彼はぴたりと止まった。


ちらりと振り返る。


「……本当についてこないつもり?」


「どっちですか!?」


◇


その夜。


私はベッドの上で頭を抱えていた。


セシルに好きな人ができた。


これは喜ばしいことだ。


彼が誰かを愛せるようになった。


素晴らしい。


推しの成長。


感動。


なのに。


「……なんか、胸が痛い」


私は枕に顔を埋めた。


おかしい。


推しが幸せになるなら、それでいいはずなのに。


ゲームでは、セシルの救済エンドを何度も見た。


ヒロインと結ばれる彼を見て、私は泣いて喜んだ。


でも。


現実のセシルが、知らない女性に微笑むところを想像すると。


「……嫌だな」


思わず呟いた。


自分でも驚いた。


何を考えているんだろう。


私は彼を幸せにするために、ここにいるのに。


翌朝。


私は仕立て屋へ向かった。


すると店の前に、見慣れた馬車が止まっていた。


ヴァレンタイン公爵家の紋章。


嫌な予感。


「リリア!」


店に入った瞬間、セシルが駆け寄ってきた。


昨日の不機嫌はどこへやら。


満面の笑顔である。


「おはよう!」


「お、おはようございます」


「見て!」


彼はくるりと回った。


今日は淡い桃色の上着。


胸元には薔薇の刺繍。


髪には小さな銀の飾り。


「どう?」


「……可愛いです」


「本当?」


「はい」


「昨日より?」


「昨日より可愛いです」


「ふふ」


セシルは嬉しそうに笑った。


「じゃあ、今日はデートしよう」


「仕事です」


「知ってる」


「……」


「だから、ここで待ってる」


彼は椅子に腰かけた。


「仕事が終わるまで」


「……何時間もかかりますよ?」


「いいよ」


「退屈しません?」


「リリアを見てるから」


店員たちが一斉にこちらを見た。


私は顔が熱くなる。


「セシル様!」


「何?」


「そういうこと、軽々しく言わないでください!」


「……嫌だった?」


彼の顔が曇る。


「僕、邪魔?」


「邪魔ではありません!」


「……本当?」


「本当です!」


セシルは少し考えた。


そして、にっこり笑った。


「じゃあ、いいね」


よくない。


この男。


完全に私の扱いを覚えている。


◇


事件が起きたのは、それから一か月後だった。


王宮で開かれた春の舞踏会。


私は仕立て屋の仕事で、衣装の最終調整に呼ばれていた。


貴族たちが華やかな衣装で踊る中、私は裏方として忙しく働いていた。


そんなとき。


「リリア!」


セシルが現れた。


今日は黒い礼服。


銀糸の刺繍が施された上着に、紫水晶の飾り。


まるで夜空に浮かぶ月のようだった。


「セシル様!」


「やっと見つけた」


彼は嬉しそうに近づいてきた。


「探したんだよ」


「今日はお仕事で」


「知ってる。でも、少しだけ」


彼は手を差し出した。


「踊ろう?」


私は慌てた。


「無理です!」


「どうして?」


「私は裏方ですし、身分も……」


「僕がいいって言ってるのに?」


「そういう問題じゃありません!」


セシルは不満そうに唇を尖らせた。


そのとき。


「セシル様」


美しい金髪の令嬢が近づいてきた。


私は息を呑んだ。


彼女を知っている。


ゲームのヒロイン。


聖女候補のエレノア・ローズ。


十八歳。


ゲーム開始時より二年早い。


「お久しぶりです」


エレノアは優雅に微笑んだ。


「今夜はぜひ、私と一曲踊っていただけませんか?」


来た。


ついに来た。


運命の出会い。


私は胸がいっぱいになった。


セシル。


よかったね。


今度こそ、幸せになれるよ。


「セシル様、ぜひ踊ってきてください!」


私は笑顔で言った。


セシルが私を見る。


「……リリア?」


「とても素敵な方ですよ!」


「……」


「きっとお似合いです!」


セシルの顔から、すっと表情が消えた。


「……そう」


冷たい声だった。


「君は、僕が誰と踊ってもいいんだね」


「え?」


「僕が誰を好きになっても、誰と結婚しても、どうでもいいんだ」


「そんなことは……」


「……わかった」


セシルはエレノアに向き直った。


「申し訳ありません。踊る気分ではないので」


そして、私にも背を向けた。


「失礼するよ」


彼は去っていった。


私は呆然と立ち尽くした。


何か。


何か、間違えた?


◇


翌日から、セシルは私の前に現れなくなった。


一日。


二日。


三日。


四日目。


私は耐えられなくなり、公爵家へ向かった。


門番に名前を告げると、すぐに通された。


セシルの部屋の前に立つ。


「セシル様?」


返事がない。


「リリアです」


沈黙。


「……入ってもいいですか?」


「……駄目」


中から声がした。


「帰って」


私は扉の前に座り込んだ。


「帰りません」


「……」


「セシル様とお話しするまで帰りません」


「……」


「私、何かしましたか?」


しばらくして。


「……リリアは、僕のこと好きなんでしょう?」


「はい」


「世界で一番?」


「はい」


「……じゃあ、どうして他の女の人に譲ろうとするの?」


私は息を止めた。


「……え?」


「僕が誰と踊ってもいいの?」


「それは……」


「僕が誰かと結婚しても?」


「……」


「僕が、君以外の人を好きになっても?」


扉の向こうで、何かが落ちる音がした。


「……僕は嫌だよ」


声が震えていた。


「リリアが他の男と踊るのも、笑うのも、結婚するのも、全部嫌だ」


「……セシル様」


「僕、ずっと頑張ったんだよ」


彼は続けた。


「可愛くなろうと思って、服を選んだ。格好よくなろうと思って、剣術も頑張った。君が褒めてくれるから、何でも頑張れた」


「……」


「でも、どれだけ頑張っても、君は僕を誰かにあげようとする」


私は胸を押さえた。


「……僕じゃ、駄目なの?」


扉の向こうから、嗚咽が聞こえた。


「僕、リリアが好きなのに」


その瞬間。


私はようやく理解した。


セシルが好きなのは。


私だ。


ずっと。


ずっと前から。


「……セシル様」


「……帰って」


「嫌です」


「……」


「開けてください」


「……嫌」


「セシル様」


「……」


「私、あなたに謝らないといけません」


扉の向こうが静かになった。


「私はずっと、セシル様を幸せにしたいと思っていました」


「……」


「でも、あなたが何を望んでいるのか、ちゃんと聞いていませんでした」


私は目を閉じた。


前世の記憶。


ゲームの展開。


攻略ルート。


救済エンド。


私はそればかり見ていた。


目の前にいる、本物のセシルを見ていなかった。


「ごめんなさい」


私は言った。


「あなたの気持ちを、勝手に決めつけていました」


しばらくして。


かちゃり。


扉が開いた。


セシルが立っていた。


銀色の髪は乱れ、目元は赤い。


いつもの完璧な美青年ではなかった。


「……リリア」


「はい」


「……僕、可愛くないでしょう」


「……」


「泣いて、怒って、嫉妬して……こんなの、嫌でしょう?」


私は首を横に振った。


「いいえ」


そして、彼の頬に手を伸ばした。


「可愛いです」


セシルの目が揺れる。


「……嘘」


「本当です」


「……泣いてるのに?」


「はい」


「……面倒くさいのに?」


「はい」


「……僕、すごく嫉妬深いよ」


「知っています」


「……毎日会いたいし、毎日好きって言ってほしいし、他の男を褒めたら嫌だし……」


「知っています」


「……それでも?」


私は微笑んだ。


「大好きです」


セシルの顔がくしゃりと歪んだ。


「……っ」


彼は私を抱きしめた。


強く。


痛いほど強く。


「……じゃあ、僕を選んで」


耳元で、震える声がした。


「誰でもいいんじゃなくて、僕がいいって言って」


私は彼の背中に腕を回した。


「……セシル様がいいです」


「……」


「私も、セシル様が好きです」


彼は泣いた。


子供のように。


声を上げて。


私はその背中を、何度も撫でた。


◇


それから一週間後。


私は大変なことになっていた。


「リリア、これどう?」


「素敵です」


「こっちは?」


「素敵です」


「じゃあ、こっちは?」


「素敵です」


「……全部同じじゃない?」


「全部素敵なんです!」


セシルは鏡の前で、次々と服を着替えていた。


白。


黒。


紫。


青。


赤。


そして桃色。


「リリアはどれが好き?」


「……白でしょうか」


「ふふ。じゃあ白にする」


彼は満足そうに笑った。


そして、私の隣に座る。


「ねえ」


「はい」


「好き?」


「好きです」


「どれくらい?」


「世界で一番です」


「昨日より?」


「昨日より好きです」


「明日は?」


「もっと好きです」


セシルはにっこり笑った。


「じゃあ、結婚しよう」


「……」


「どうして黙るの?」


「……まだ早いです」


「何が?」


「セシル様は十六歳ですし」


「あと二年で成人するよ」


「私は二十歳です」


「知ってる」


「年上です」


「知ってる」


「……」


「それがどうしたの?」


彼は不思議そうに首を傾げた。


「僕、リリアが四十歳になっても好きだよ」


「……」


「六十歳でも好き」


「……」


「八十歳でも好き」


「……」


「百歳になったら、僕が毎日髪を結ってあげる」


私は思わず笑った。


「百歳まで生きるつもりですか?」


「もちろん」


セシルは当然のように言った。


「リリアと一緒に、長生きするんだ」


胸が、ぎゅっとなった。


この人は。


かつて、十八歳で世界を憎み、二十歳で死ぬはずだった人だ。


それなのに今。


百歳まで生きたいと言っている。


私は泣きそうになった。


「……セシル様」


「何?」


「幸せですか?」


彼は目を丸くした。


そして、ふわりと笑った。


「うん」


迷いのない返事だった。


「すごく幸せ」


私は目を閉じた。


よかった。


本当に、よかった。


すると。


「……でも」


セシルが続けた。


「一つだけ、不満がある」


「何ですか?」


「リリアが、まだ僕と結婚してくれない」


「……」


「ねえ、いつ?」


「……」


「来年?」


「……」


「再来年?」


「……」


「ねえ、リリア」


彼は私の手を握った。


紫色の瞳が、いたずらっぽく輝く。


「僕、待つのは得意じゃないんだ」


そして。


私の指先に、そっと唇を落とした。


「……だから、早く僕のものになってね」


私は真っ赤になった。


「セシル様!!」


彼は楽しそうに笑った。


ああ。


この人は。


本当に。


世界で一番、面倒くさくて可愛い。


◇


ところが。


幸せな日々は、そう簡単には続かなかった。


その年の秋。


ヴァレンタイン公爵が、セシルに婚約を命じたのだ。


相手は、隣国の有力貴族の娘。


政治的な結婚だった。


セシルは当然、拒否した。


「嫌です」


公爵の執務室。


私は偶然、その場に居合わせていた。


「お前に拒否権はない」


「あります」


「何だと?」


「僕はリリアと結婚します」


公爵は鼻で笑った。


「あの男爵家の娘か。馬鹿馬鹿しい」


「馬鹿馬鹿しくありません」


「お前は公爵家の跡取りだ。家の利益を考えろ」


「考えています」


「ならば――」


「僕がリリアと結婚すれば、毎日幸せです」


「……」


「幸せな当主が治める領地は、きっと繁栄します」


公爵のこめかみに青筋が浮かんだ。


「ふざけるな!」


セシルは涼しい顔だった。


「ふざけていません」


「そんな女に入れ込んで、恥を知れ!」


私は息を呑んだ。


ゲームで見た光景。


父親に否定されるセシル。


婚約を強制されるセシル。


そして。


破滅への道。


私は立ち上がった。


「公爵様!」


だが、私より先にセシルが口を開いた。


「父上」


静かな声だった。


「僕は、あなたに愛されたかった」


公爵が黙る。


「だから、ずっと頑張りました」


「……」


「でも、もうやめます」


セシルは微笑んだ。


「僕を愛してくれる人がいるので」


彼は私の手を取った。


「僕は、この人と幸せになります」


その瞬間。


公爵が机を叩いた。


「ならば勘当だ!」


私は凍りついた。


勘当。


ゲームでも、ここが転機だった。


セシルは家を追われ、絶望し、魔術を暴走させる。


私は慌てて彼を見た。


「セシル様!」


けれど。


彼は笑っていた。


「そうですか」


あまりにもあっさりした返事。


「では、失礼します」


セシルは一礼した。


そして私の手を引き、部屋を出た。


廊下に出てから、私は叫んだ。


「セシル様!?」


「何?」


「勘当されましたよ!?」


「うん」


「公爵家の跡取りじゃなくなるんですよ!?」


「うん」


「……いいんですか!?」


セシルはきょとんとした。


「何が?」


「だって……!」


彼は私の手を持ち上げた。


指先に、軽く口づける。


「リリアがいるでしょう?」


「……」


「僕、もう一人じゃないもの」


その笑顔を見て。


私は、とうとう泣いてしまった。


「……セシル様」


「えっ、どうしたの?」


「……よかった」


「リリア?」


「本当に、よかった……!」


セシルは慌てた。


「泣かないで! 僕、何か悪いことした?」


「違います!」


「じゃあ、どうして?」


「……嬉しくて」


彼は少し考えた。


そして、にっこり笑った。


「じゃあ、もっと嬉しくしてあげる」


「……え?」


「結婚しよう」


「……」


「ね?」


「……」


「今すぐ」


「今すぐ!?」


セシルは満面の笑顔だった。


「うん!」


私は思わず叫んだ。


「この状況で求婚しますか!?」


「だって、今が一番いいと思ったんだもの」


「何がですか!?」


「僕、今すごく幸せだから」


彼は私を抱きしめた。


「リリアと一緒なら、何も怖くない」


その言葉に、私は負けた。


完全に。


降参だった。


「……わかりました」


セシルが固まった。


「……え?」


「結婚、しましょう」


「……」


「私でよければ」


次の瞬間。


「――やったあ!!」


セシルが私を抱き上げた。


「リリア! 大好き!!」


「きゃあ!?」


「結婚! 結婚だよ!!」


「わかりましたから、下ろしてください!」


「嫌!」


「セシル様!」


「もう絶対に離さない!」


彼は私を抱えたまま、廊下を走り出した。


「みんな! 聞いて!!」


「セシル様!?」


「僕、結婚する!!」


使用人たちが一斉に振り返る。


セシルは満面の笑顔で叫んだ。


「世界で一番可愛いリリアと!!」


私は顔を覆った。


恥ずかしい。


恥ずかしすぎる。


でも。


幸せだった。


◇


結婚式は、翌年の春に行われた。


セシルは十七歳。


私は二十一歳。


彼は公爵家を出たあと、宮廷魔術師として働き始めた。


才能は本物だった。


あっという間に王宮で頭角を現し、若くして魔術研究所の責任者に抜擢された。


そして。


驚くほど稼ぐようになった。


「リリア、見て!」


ある日、彼は大量の宝石を持って帰ってきた。


「……何ですか、これ」


「結婚祝い!」


「多すぎません!?」


「全部リリアに似合うと思って」


机の上には、首飾り、指輪、耳飾り。


色とりどりの宝石が山のように積まれていた。


「セシル様! こんなに買ってどうするんですか!」


「毎日つけて」


「無理です!」


「じゃあ、僕が選んであげる」


彼は楽しそうに笑った。


「今日はこれ。明日はこれ。明後日は……」


「セシル様!」


「何?」


「お金は大事に使ってください!」


彼は不思議そうに首を傾げた。


「でも、リリアが可愛くなるなら、いい使い方でしょう?」


「……」


私は頭を抱えた。


この人。


本当に。


どうしようもない。


◇


そして、結婚式当日。


私は純白のドレスを着ていた。


セシルが半年かけてデザインしたものだ。


繊細なレース。


銀糸の刺繍。


小さな真珠。


そして、胸元には紫水晶。


「……綺麗」


鏡の前で、私は呟いた。


すると、背後から声がした。


「でしょう?」


振り返ると、セシルが立っていた。


白い礼服。


銀色の髪。


紫色の瞳。


まるで絵本の王子様だった。


「セシル様!」


「ふふ。似合うと思ったんだ」


彼は私の手を取った。


「世界で一番綺麗だよ」


「……ありがとうございます」


「でも」


セシルは少し不満そうに唇を尖らせた。


「僕のことも褒めて」


「……」


「今日の僕、どう?」


私は笑った。


「世界で一番、格好いいです」


セシルの顔がぱっと輝いた。


「本当?」


「本当です」


「可愛い?」


「可愛いです」


「昨日より?」


「昨日より可愛いです」


「明日は?」


「もっと可愛いです」


セシルは満足そうに笑った。


そして、私の額にキスをした。


「……ねえ、リリア」


「はい」


「僕、ずっと怖かったんだ」


彼は静かに言った。


「いつか君がいなくなるんじゃないかって」


「……」


「僕が可愛くなくなったら、嫌われるんじゃないかって」


私は彼の手を握った。


「……セシル様」


「でも、今は少しだけ信じられる」


彼は微笑んだ。


「君は、僕がどんなに面倒くさくても、好きでいてくれるって」


「もちろんです」


「……本当?」


「本当です」


「……じゃあ」


セシルは私の手を、自分の頬に当てた。


「一生、僕を好きでいてね」


私は微笑んだ。


「はい」


彼は幸せそうに目を細めた。


「……約束だよ」


そして。


私たちは、結婚した。


◇


それから、十年が過ぎた。


セシルは二十七歳。


私は三十一歳。


彼は王国一の魔術師となり、国王からも厚い信頼を寄せられるようになった。


そして。


相変わらず、面倒くさかった。


「リリア!」


ある朝。


私は台所で朝食を作っていた。


すると、セシルが駆け込んできた。


「大変!」


「どうしました!?」


「白髪が!」


「……」


「白髪が一本あった!!」


私は手を止めた。


「……セシル様」


「どうしよう! 僕、老けちゃう!」


「……」


「リリアに嫌われる!」


私はため息をついた。


「セシル様」


「何!?」


「私は、白髪があっても好きですよ」


「……本当?」


「本当です」


「……皺ができても?」


「好きです」


「……太っても?」


「好きです」


「……禿げても?」


「好きです」


セシルはしばらく考えた。


そして。


「……でも、僕は嫌だ」


「何でですか!?」


「リリアには、いつまでも格好いい僕を見てほしいもの」


彼は鏡を取り出した。


「今日から美容魔術を研究する」


「仕事してください!」


「これも仕事だよ!」


「違います!」


私は呆れながら笑った。


すると、セシルが私の腰に腕を回した。


「ねえ、リリア」


「はい」


「好き?」


「好きです」


「世界で一番?」


「世界で一番です」


「昨日より?」


「昨日より好きです」


「明日は?」


「もっと好きです」


彼は嬉しそうに笑った。


「ふふ」


そして、私の頬にキスをした。


「僕もだよ」


私は目を閉じた。


前世で、画面の向こうにいた推し。


不幸な未来を背負った、美しい少年。


愛されるために必死で努力し、誰にも愛されないまま壊れてしまうはずだった人。


その彼が今。


私の隣で笑っている。


少し面倒くさくて。


とても甘えん坊で。


嫉妬深くて。


でも、誰より優しくて。


そして。


誰より、私を愛してくれる。


「……セシル様」


「何?」


「幸せですか?」


彼は目を丸くした。


そして、十年前と同じように笑った。


「うん」


迷いのない返事。


「すごく幸せ」


私は微笑んだ。


「私もです」


すると。


「……でも」


セシルが続けた。


「一つだけ、不満がある」


「……何ですか?」


「リリアが、最近あんまり僕を褒めてくれない」


「毎日褒めてます!」


「昔はもっと褒めてくれた」


「今も褒めてます!」


「……じゃあ、今すぐ褒めて」


私は笑った。


「世界で一番、可愛いです」


セシルは満足そうに笑った。


「ふふ」


そして。


私を抱きしめながら、耳元で囁いた。


「……ねえ、リリア」


「はい」


「明日も、明後日も、百年後も」


彼は私の手を握った。


「ずっと、僕だけを見ていてね」


私は微笑んだ。


「もちろんです」


セシルは幸せそうに笑った。


「……約束だよ」


その笑顔を見ながら、私は思った。


ああ。


やっぱり。


私の推しは、世界で一番可愛い。


そして。


世界で一番、面倒くさい。


でも。


そんな彼が、私は大好きなのだ。


――おしまい。


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