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午前二時、同居人は包丁で白い壁を一分間切りつけた。翌朝、本人は「夢遊病なんてない」と言った

作者: 熾星
掲載日:2026/10/10

 

 一週間ほど前から、午前二時になると、この部屋で妙なことが起きるようになった。


 中でもいちばん不気味だった夜、同居人は寝間着のままリビングに立ち、右手に包丁を握っていた。ベランダ側の白い壁に向かって何度も刃を振り、時折、切っ先が壁を擦って耳障りな音を立てる。それでも本人には聞こえていないらしく、同じ動きを一分近く続けていた。


 翌朝、昨夜のことを覚えているか、それとなく尋ねた。


 同居人はしばらく呆けたような顔をしていた。


「瀬尾さん、何の話ですか? 俺、夢遊病なんてないですよ」


 おかしいのが彼なのか、それとも俺なのか。


 確かめるため、その日のうちに小型の見守りカメラを用意した。


 午前二時。


 同居人の部屋のドアは閉じたままだった。


 その直後、玄関からかすかな金属音がした。


 モニターを見つめていると、外側から鍵が回った。


 黒いキャップを深くかぶった見知らぬ男が、合鍵で俺たちの部屋に入ってきた。



 1



 俺は瀬尾遼一、三十六歳。霞野県にある久瀬医科大学の法医学教室で働いている。


 仕事柄、事故死も自殺も、その裏にある人間関係も嫌というほど見てきた。そのせいか、人との距離には昔から慎重だ。仕事以外の付き合いは多くないし、宅配やデリバリーにも余計な個人情報は残さない。長いこと一人暮らしを続けていた。


 三か月前、それまで住んでいたマンションの更新時期が来た。家賃と管理費が上がるうえ、少なくとも半年は久瀬市を離れられない。短期間のために新しく長期契約を結ぶ気にもなれず、部屋探しのサイトを眺めていた。


 そこで見つけたのが、「森川悠斗」という男の同居人募集だった。


 物件は栄町コーポラス。周辺の再開発に合わせ、半年ほど先に取り壊される予定の古い集合住宅だ。残りの入居期間が短いぶん、家賃は周辺相場よりかなり安かった。


 内見に行ったとき、森川君はすでにそこで暮らしていた。


 色あせたTシャツに、少し猫背気味の細い身体。話し方は控えめで、数秒目が合うとすぐ視線を外した。人付き合いは得意ではなさそうだったが、受け答えは丁寧で、室内もきれいに片づいていた。


 前に住んでいたのは親戚筋の牧野重雄という男だと、森川君は説明した。


「三か月前に亡くなったんです」


 それだけ言って、一度視線を落とした。


「遺品整理でこっちに来たんですけど、俺の職場も近くて」


 建物は半年ほどで取り壊される。


 それまでなら住み続けても構わないと大家に言われたらしい。


「ただ、俺一人で家賃を払うにはちょっときつくて。退去すると、もう自由に部屋へ入れなくなるし……荷物もまだ残ってるんで」


 最後の部分だけ、少し言いにくそうに笑った。


「半年だけなら、誰かと住むのもありかなって」


 当時は何も引っかからなかった。


 大家と管理会社にも確認し、同居人を増やすための手続きを済ませた。


 そうして俺は、森川君との生活を始めた。


 最初の一か月は何も起きなかった。


 彼は生活時間も一定で、掃除もする。俺たちは友人というほど親しくはなく、帰宅後に台所で顔を合わせれば少し話す程度だった。


 気になることがあるとすれば、リビングの壁だった。


 ベランダ側の一角だけ、ときどき湿った建材のような臭いがする。古いシーリング材と、雨の日のコンクリートを混ぜたような臭いだ。壁の一部だけ塗り直した跡があり、森川君に聞くと、親戚が生前に漏水修理をしたのだと言った。


 古い建物なら、そんなこともある。


 そのときは、それ以上気にしなかった。


 異変が始まったのは、一週間前だ。


 その夜は自宅で資料をまとめていて、気づけば日付が変わっていた。喉が渇き、台所へ行こうと寝室のドアを少し開けたところで、手が止まった。


 リビングは暗い。


 その中央に森川君が立っていた。


 いつもの灰色の部屋着姿だったが、右手には台所の包丁を持っている。


 寝ぼけているのかと思った。


 だが彼は、まっすぐ例の白い壁へ向かった。包丁を振り上げ、何度も壁に向かって振り下ろす。切っ先は時折表面を掠め、乾いた音を立てた。


 何か見えないものを追い払っているようにも見えた。


 あるいは、壁の向こうに何かあるか確かめているようにも。


 俺はドアの陰から動かなかった。


 一分ほどして、森川君はやめた。


 包丁を食卓に置き、そのまま自室へ戻っていく。


 妙に自然な足取りだった。


 翌朝、俺はほとんど眠れないまま食卓についた。


 森川君は味噌汁を飲んでいた。


「森川君、最近ちゃんと眠れてる?」


 顔を上げる。


「普通ですよ。どうかしました?」


「夢をよく見るとか、寝たあと勝手に起きて歩くとか」


 一瞬きょとんとしてから、彼は笑った。


「夢遊病ですか? ないですよ。俺、昔から寝ると全然起きないんで。目覚ましも聞こえないことあるくらいです」


 あまりにも自然だった。


 前の晩に自分の目で見ていなければ、仕事で疲れて幻でも見たのかと疑ったかもしれない。


 その日の帰り、小型の見守りカメラを買った。


 テレビ台の脇にある観葉植物の陰へ置けば、玄関と森川君の部屋のドアが同時に映る。


 夜は眠らず、パソコンで映像を見続けた。


 時刻が午前二時に近づいても、森川君の部屋は閉じたままだった。ドアも開かない。物音もしない。


 やはり、あの日だけだったのか。


 そう思ってパソコンを閉じかけたとき、玄関から小さな音がした。


 カチリ。


 画面の中で、外から鍵が回る。


 ゆっくりドアが開き、一人の男が滑り込んできた。


 黒いキャップを目深にかぶり、顔のほとんどが影に隠れている。照明もつけず、靴箱にも触れない。金目の物を探す素振りもなかった。


 男は迷わず、あの白い壁の前へ行った。


 そこで立ち止まり、じっと壁を見上げた。


 五分近く、まったく動かなかった。


 泥棒ではない。


 合鍵で他人の部屋へ入り、何も盗らずに壁を見つめ続ける泥棒など聞いたことがない。


 やがて男は来た道を戻った。玄関をそっと閉め、外からまた鍵を掛ける。


 録画を保存しようとした、そのときだった。


 テレビ台のそばを通り過ぎた男が、ぴたりと止まった。


 ゆっくり顔を横へ向ける。


 帽子の下は見えない。


 それでも、視線だけはこちらを向いていると分かった。


 男はカメラを見ていた。


 そしてほんの一瞬、笑ったように見えた。



 2



 翌朝、部屋を出ると森川君はもう朝食を作っていた。


「瀬尾さん、おはようございます。卵、一個多く焼いたんですけど食べます?」


 いつもと同じ声だった。


 適当に返事をして水を取りに行きながら、昨夜の男が立っていた壁を見る。


 白いだけの、何の変哲もない壁だ。


 コンセントを確認するふりをしてしゃがむと、床との境目に細かな白い粉が落ちていた。指先でつまむと、まだ少し湿気を含んでいる。


 古い埃ではない。


 新しく剥がれたパテか、壁材の粉だった。


「何見てるんです?」


 森川君が皿を持って近づいてきた。


「また少し湿気てるみたいだ」


 粉をティッシュで拭い、そのままポケットへ入れた。


 立ち上がってから、すぐにはその場を離れなかった。


「森川君、昨日もよく眠れた?」


「はい」


「何も聞こえなかった?」


 ほんの一瞬だけ、表情が止まった。


「何も」


「玄関が開く音がした気がするんだけど」


 笑みが消える。


「玄関?」


「鍵をこじ開けた感じじゃなかった」


 森川君を見る。


「普通に鍵で開けてた」


 顔色が変わった。


「そんなはずないですよ」


 声が少し上ずった。


 皿を置き、玄関へ行って鍵を確認する。ドアノブを動かし、ドアスコープから外まで覗き込んだ。


「壊された跡なんてないです。瀬尾さん、最近忙しいんじゃないですか? 法医学って大変でしょうし、寝不足で聞き間違えたとか」


 言葉は落ち着いている。


 だが目は合わなかった。


 不自然だった。


 それ以上は追及せず、自室へ戻って鍵を掛けた。


 前夜の映像を開き、最後の部分をゆっくり再生する。


 見知らぬ男が玄関から出ていった。


 二秒ほど経つ。


 三秒目。


 画面の端で、それまで閉じていた森川君の部屋のドアが音もなく開いた。


 黒い隙間から、片目だけが覗いている。


 視線の先は玄関だった。


 男の気配が完全に消えると、ドアはまた閉じた。


 森川君は眠っていなかった。


 あの男が来たことも知っていた。


 それどころか、最初から待っていた可能性すらある。



 3



 もう、ただの同居人同士の問題ではなかった。


 まず大家へ電話をかけた。


 小野寺文江さんは七十代で、今は息子夫婦と県外で暮らしている。栄町コーポラスの建物自体がかなり古いため、普段の管理はほぼ管理会社に任せているらしい。


 カメラの話はまだ伏せておいた。


「小野寺さん、念のため確認したいんですが、今あの部屋の鍵って何本あるんですか?」


「あなたたちが持っているのが二本でしょう? あとは管理会社に予備が一本あるはずよ。普段は使わないと思うけど」


「牧野さんが自分で合鍵を作っていた可能性は?」


 電話の向こうで少し考える気配がした。


「それはないと思うけど……。牧野さんが亡くなって、森川さんが荷物を整理したときに鍵も引き継いでいたから」


 手が止まった。


「森川君が、牧野さんの遺品整理を?」


「聞いてなかった?」


 小野寺さんの方が驚いていた。


「遠い親戚だって言ってたわよ。牧野さん、三か月前に出先で心臓発作を起こして亡くなったんですって」


「書類は見ましたか?」


「私は見てないの。管理会社には病院のものと、委任状を出したって聞いてるけど」


 小野寺さんは少し迷ったあと、当時受け取ったという書類の写真を送ってくれた。


 牧野重雄が、親戚である森川悠斗に遺品整理や退去に関する手続きを任せる。


 そんな内容の委任状だった。


 下には「牧野重雄」の署名がある。


 画像を保存した。


 電話を切る直前、小野寺さんが思い出したように言った。


「そうそう。あの辺り、再開発の日程がだいたい決まったみたいよ。半年くらいしたら建物も取り壊すから、正式に決まったら管理会社から連絡が行くと思う」


 通話を終え、改めて委任状を見る。


 白い壁。


 牧野重雄。


 森川悠斗。


 午前二時に合鍵で入ってくる男。


 無関係とは思えなかった。


 そのとき、スマートフォンが震えた。


 知らない番号からのSMSだった。


『余計なことをするな』


 名前も何もない。


 昨夜、男がカメラの前で立ち止まったのは偶然ではなかった。


 俺が見ていると分かっていたのだ。



 4



 映像は暗号化した外付けドライブへコピーし、別にクラウドにも保存した。


 その夜は寝室の鍵を掛け、重い椅子までドアの前へ置いた。ベッドにパソコンを置き、イヤホンでリビングの音を拾う。


 午前二時ちょうど。


 また、玄関に鍵が差し込まれた。


 今度は二人だった。


 足音が二つある。一方は重く、もう一方は軽い。


 二人はリビングで立ち止まらず、例の壁へ向かった。


 やがてイヤホン越しに、鈍い音が聞こえ始めた。


 力任せに壊している音ではない。


 小さなハンマーと何か硬い道具を使って、狭い範囲だけを慎重に削っているようだった。時折、厚いビニールを広げるようなガサガサという音も混じる。


 手のひらが汗ばんだ。


 壁の中から、何を取り出そうとしている?


 作業音はかなり長く続いた。


 夜が深くなってから、ようやく止まった。


 玄関が開き、閉じる。


 それでもすぐには部屋を出なかった。


 朝になり、廊下から通勤する住人たちの足音が聞こえ始めてから、ようやく椅子を動かした。


 リビングは一見、昨夜と変わっていない。


 ただし、壁には見覚えのない大きな絵が掛かっていた。


 安っぽい印刷の風景画だった。山と川、木橋、古い民家。古びた旅館の廊下にでも飾ってありそうな柄だ。


 その絵は、昨夜ずっと音がしていた場所をちょうど隠していた。



 5



 朝食の間、俺も森川君もほとんど話さなかった。


 途中で箸を置き、何気ない調子で切り出した。


「そういえば森川君。管理会社から連絡があって、解体前に入居者の資料を整理し直すらしい。同居人の本人確認書類、もう一度必要になるかもしれないって」


 スプーンを持つ手が一瞬止まった。


「またですか?」


「面倒だけどな。免許証、写真で送ってくれる? 俺の分とまとめて出すから」


 すぐには答えなかった。


 数秒して、いつもの穏やかな表情に戻る。


「分かりました。ちょっと待ってください」


 しばらくして、LINEに画像が届いた。


 部屋へ戻り、拡大する。


 名前は森川悠斗。住所も霞野県内だ。


 ぱっと見ただけなら普通の運転免許証に見える。ただ、文字の配置や番号の並び、それに背景模様の一部に微妙な違和感があった。


 俺の専門は身分証の鑑定ではない。


 画像一枚で偽造だと断定できるわけもなかった。


 だが、疑うには十分だった。


 次に、以前森川君が荷物を受け取ったときの伝票を探した。


 さらに、小野寺さんから送られてきた委任状を開く。


 そこにある「牧野重雄」の署名は、部屋に残っていた古い修繕確認書の署名とは似ていなかった。


 むしろ、森川君自身の筆跡に近い。


 いくつかの曲がり方や、払い方に同じ癖がある。


 牧野本人が書いたはずの委任状を、森川君が作ったのではないか。


 午後、大学時代からの友人である倉橋直樹に電話した。


 今は久瀬警察署で刑事をしている。


 免許証の写真と、ここ数日に起きたことを簡単に話した。


「これ、ちょっと調べられないか」


 倉橋は二秒ほど黙った。


「遼一。そういうの、俺が勝手に照会できると思ってないよな?」


「分かってる」


「本当に夜中に合鍵で入られて、脅すようなSMSまで来てるなら、もう自分で調べる段階じゃない。証拠持って署に来い」


 そこで一度言葉を切った。


「それと、その免許証。写真だけじゃ何とも言えないけど、俺も少し変には見える。今夜は森川を刺激するな」


 電話を切った。


 それでも、その時点ではまだ警察へ行かなかった。


 あと一つだけ確認したかった。


 森川悠斗とは誰なのか。


 そして、あの壁の中に何があるのか。



 6



 次の二晩は、不自然なくらい静かだった。


 午前二時になっても、玄関は開かない。


 安心するどころか、かえって気味が悪かった。


 向こうも自分たちが見られていると気づき、こちらの出方を待っているのではないか。


 金曜日は法医学教室に少し長く残り、帰宅したのは午後八時近くだった。


 ドアを開けた瞬間、薄い煙草の臭いがした。


 森川君は煙草を吸わない。


 寝室へ向かう。


 見た目は、朝出たときとほとんど同じだった。机も整っている。ベッドも乱れていない。収納の扉も閉じていた。


 だが、誰かが入っている。


 専門書は出版年順に並べているのに、右端の二冊が逆になっていた。小型の器具ケースの留め具も、普段とは向きが違う。


 そのケースには、標本や模型の細かな処理に使うため、自分で買ったメスやピンセットを入れている。


 ベッドを見る。


 枕の中央に、その中のメスが一本置かれていた。


 刃には汚れ一つない。


 これ以上、分かりやすい警告もなかった。


 マットレスを持ち上げる。


 隠してあった外付けドライブも消えていた。


 クラウドに複製は残っている。


 だが、相手が録画の存在を把握したことは間違いない。


 そのとき、スマートフォンが鳴った。


 森川君からだった。


 出ると、いつもの気弱そうな声ではなかった。


「瀬尾さん。父から伝えてくれって言われました。もう、ここまでにしてください」


 黙って聞く。


「壁の中に、どうしても父が回収しなきゃいけないものがあるんです。それさえ取れたら、俺たちはいなくなります。瀬尾さんにもう関わることもありません」


「それで?」


 少し間があった。


「三日以内に出ていってください」


「出なかったら?」


「今日、枕にあったのはメスですよね」


 声は静かだった。


「次は、置いてあるだけじゃ済まないかもしれません」


 通話はそこで切れた。


 ベッドに座り、メスを見る。


 もう好奇心の問題ではなかった。


 相手は本気で、俺を黙らせようとしている。



 7



 その夜、久瀬警察署へ行った。


 メス、免許証の画像、委任状、壁の粉、保存していた映像。手元にあるものは一通り持っていった。


 倉橋が入口で待っていた。


 映像を何本か見た時点で、表情が変わる。


 しばらくして、刑事課の面談室へ通された。


 担当したのは片桐修一警部補だった。四十代半ばくらいで、話している間もほとんど口を挟まない。確認が必要な日時や場所だけ、短く聞き返してくる。


 森川君が深夜に包丁を持っていたこと。


 午前二時に合鍵で入ってきた男。


 壁際に落ちていた新しい粉。


 男が帰ったあと、森川君が部屋の隙間から玄関を見ていたこと。


 脅迫めいたSMS。


 二人で壁を触っていた夜。


 翌朝、そこを隠すように掛けられていた絵。


 侵入された寝室。


 盗まれたドライブ。


 そして先ほどの電話。


 順番に話した。


 最後にメスを渡す。


「壁の中に何があるのかは分かりません。ただ、あの人たちは、それを回収するためならかなりのことをするつもりです。普通の荷物とは思えません」


 片桐さんがこちらを見る。


「牧野さんが、本当に心臓発作で亡くなったのかも疑っています」


 すぐには返事をしなかった。


 倉橋が映像を保存し、メスは鑑識へ回された。


 片桐さんは記録を何枚か確認してから言った。


「調べます。瀬尾さんは今夜、部屋に戻らないでください」


「壁は?」


「今すぐ壊せる段階じゃありません」


 それだけ答える。


「ただ、もう単なる同居人同士の揉め事ではない。しばらくホテルにいてください」


 警察はすぐに動いた。


 周辺の防犯カメラから、黒いキャップの男が特定された。


 三谷和彦、五十八歳。


 長年、建築や内装関係の仕事をしていた男だった。


 そして「森川悠斗」という名前も偽名だった。


 本名は三谷悠斗。


 三谷和彦の息子だ。


 入居時に提出された本人確認書類には不審な点があり、牧野の委任状も偽造の可能性が高い。管理会社へ提出されていたという病院関係の書類にも、確認できない点が出てきた。


 警察が戸籍や関連記録を洗うと、さらにおかしなことが分かった。


 牧野重雄には妻も子供もいない。


 森川悠斗という親戚との関係も確認できない。


 何より、牧野が三か月前に死亡したという死亡届は出されていなかった。


 搬送先だという病院も見つからない。


 三か月前を境に、牧野の生活の痕跡はぷつりと途絶えていた。



 8



 警察は牧野が最後に接触した人物を洗い、同時に三谷親子の行動も追い始めた。


 片桐さんに言われた通り、俺はホテルへ移った。


 ただ、仕事用のパソコンや印鑑、証明書類など、どうしても必要な物がまだ部屋に残っていた。


 翌日、片桐さんに連絡した。


 一度だけ、昼間に取りに戻りたい。


 そう伝えると、長居しないことと、壁には触れないこと、三谷悠斗を刺激しないことを念押しされた。


 三日目の午後、栄町コーポラスへ戻った。


 玄関を開けると、悠斗がリビングのソファに座っていた。


 テレビもついていない。


 スマートフォンも触っていない。


 最初から俺を待っていたように見えた。


「瀬尾さん……」


「荷物を取りに来ただけだ」


 それだけ言い、自室へ入った。


 必要な物をまとめる。


 途中でリビングを通ったとき、壁の風景画が少し傾いていることに気づいた。


 下には、新しい白い粉が落ちていた。


 また壁を触ったらしい。


 三日以内に出ていけ。


 あの電話が頭に戻る。


 今夜、何かを動かすつもりなのではないか。


 配管点検用のファイバースコープは、警察へ相談する前に買っていた。あの壁の中を、自分の目で確かめられないかと思ったからだ。


 だが、その後すぐに脅迫を受け、久瀬警察署へ行った。片桐さんからも壁には触れるなと言われ、それきり使うつもりはなかった。


 それなのに、風景画の下には新しい白い粉が落ちている。


 三日以内に出ていけ――あの電話の声が頭に戻った。


 今夜、何かを運び出すつもりなのではないか。


 そう考えると、そのまま部屋を出ることができなかった。


 深夜。


 部屋の中が静まり返ってから、工具を出した。


 リビングに人影はない。


 悠斗の部屋も閉まっている。


 風景画を外した。


 裏側の補修部分は、昼間よりもはっきり見えた。


 改めて壁を見ると、単純な薄い間仕切りではないことが分かる。


 古い建物の躯体壁の前に、かなり厚いふかし壁が造られている。もともと配管や点検のための空間があったらしく、その部分だけ室内側へ大きく張り出していた。


 家具や窓際の造りで気づきにくいが、奥行きはかなりある。


 三谷和彦は長く内装の仕事をしていた。


 この構造を知っていれば、人一人を隠せる空間を作ることも不可能ではない。


 補修跡の真ん中は避け、新旧の材料が接する目立たない部分に小さな穴を開けた。


 ファイバースコープの先端だけが通る大きさだ。


 ゆっくり差し込む。


 スマートフォンの画面は真っ暗だった。


 ライトを点ける。


 黒い塊が浮かび上がった。


 厚い防水シートを何重にも巻き、その外側をさらに建築用のビニールで覆っている。継ぎ目は大量のシーリング材で塞がれ、周囲には湿気を吸った黒ずんだ吸着材が積まれていた。


 そこで、入居したばかりの頃に感じた臭いを思い出した。


 湿気と、接着剤と、新しい建材のような臭い。


 黒い包みは、人間ほどの長さがあった。


 壁の中に押し込まれた、巨大な蛹のようだった。


 手が震える。


 カメラをさらに奥へ進めた。


 下の方で、ビニールの一部が何かに擦れて破れている。


 そこから、灰白色のものが出ていた。


 近づける。


 人間の指だった。


 軟部組織はかなり崩れ、骨の一部が露出している。


 壁の中には、死体がある。


 スコープを引き抜き、スマートフォンを取った。


 片桐さんへ電話しようとした、その瞬間だった。


「警察には連絡しないでください」


 背後から震える声がした。


 振り返る。


 悠斗が立っていた。


 目は真っ赤で、頬には涙が流れている。


「お願いします、瀬尾さん。父は……最初から、こんなことにするつもりじゃなかったんです」


 言い終える前に、玄関で鍵が回った。


 ドアが開く。


 三谷和彦が、重そうな帆布の工具袋を持って入ってきた。


 床の粉を見る。


 俺の手にあるスコープを見る。


 最後に、壁の小さな穴を見る。


 険しい顔が、さらに沈んだ。



 9



 逃げる間もなかった。


 三谷和彦が一気に間合いを詰め、俺のスマートフォンを奪って床へ叩きつけた。


 画面が砕ける。


 後ろから悠斗に抱きつかれた。


 普段の細い身体からは想像できないほど強い。


 二人がかりで食卓の椅子へ押さえ込まれ、工具袋に入っていたナイロンロープで手足を縛られた。口にはテープを貼られた。


 三谷は煙草に火をつけた。


 俺の前へしゃがむ。


 目に狂気はなかった。


 ただ、ひどく疲れていた。


「本当は傷つけたくなかった。あんたが出ていってくれれば、それで済んだんだ」


 そのあと、壁の中にいる男の名前を聞かされた。


 柴崎孝弘。


 十五年前、三谷と一緒に建築関係の仕事を請け負っていた男だという。


 一年働いた末、柴崎は工事代金の大半を持ち逃げした。そのうえ三谷が手抜き工事をしていた、帳簿も怪しいと周囲に吹聴した。


 三谷は柴崎を探し出した。


 その夜は雨だった。


 言い争いが殴り合いになった。


 そして、誤って殺した。


「ちょうどこの建物で内装の仕事をしてた」


 三谷は壁を見る。


「当時、牧野もこの建物に住んでた。俺が死体を隠してるところを、あいつに見られたんだ」


 古い建物の構造を知っていた三谷は、配管用の空間を利用して死体を隠し、壁を厚く作り直したという。


 それで終わるはずだった。


 ところが牧野は警察へ行かなかった。


 その代わり、金を要求した。


「十何年もだ。最初は小さな額だった。そのうち、どんどん増えた」


 三谷は煙草を指に挟んだまま吐き捨てる。


「貯金も、悠斗の学費に残してた金も、あいつに持っていかれた」


 栄町コーポラスの解体が決まり、三谷は焦った。


 重機が入れば、壁の死体は必ず見つかる。


 だから解体前に柴崎の遺体を運び出さなければならない。


「中のものを回収したら、それで終わりだ」


 三谷は立ち上がり、工具袋から重いハンマーを出した。


「あんたにはもう何もしない。俺たちが出たあと、自分でどうにか縄をほどけ。警察へ行きたきゃ、それから行けばいい」


 自分では、逃げ道を残してやっているつもりなのだろう。


 だが話を聞きながら、ずっと違和感があった。


 十五年前の柴崎。


 当時この建物に住んでいたという牧野。


 十年以上続いた恐喝。


 そして、この壁。


 全部がきれいにつながりすぎている。


 三谷がハンマーを振り上げた。


 そのとき、玄関の外を複数の足音が走った。


「警察だ! ハンマーを置け!」


 三谷が振り返る。


 ドアが開き、刑事と制服警察官が一斉に入ってきた。


 ハンマーは振り下ろされる前に取り上げられた。


 悠斗は壁際に立ったまま、逃げようともしなかった。


 あとで聞いた話では、警察は数日前から三谷親子の動きを追っていた。


 俺が部屋へ戻った日も、捜査員は近くで警戒を続けていたらしい。


 その夜、三谷和彦が大型の工具を入れた帆布袋を持って建物へ入ったため、刑事たちはすぐ近くまで来ていた。


 室内から争う音と大きな物音がした。


 そこで踏み込んだ。



 10



 ふかし壁が正式に開けられたとき、俺はすでに現場を離れていた。


 翌日、追加の事情聴取で警察署へ行くと、片桐さんから壁の中に成人男性の遺体があったと聞かされた。


 何重もの防水材とビニールに包まれていた。


 ただし、腐敗の程度から見ても十五年前の遺体ではない。


 司法解剖が行われることになった。


 三谷和彦は最初の取調べでも、俺に聞かせた話を変えなかった。


 死者は柴崎孝弘。


 十五年前、工事代金をめぐる争いで殺してしまった。


 当時この建物に住んでいた牧野重雄が、死体を隠す現場を目撃した。


 それを材料に、長年金を要求され続けた。


 そして建物の解体が決まったため、息子を偽名で部屋に残し、少しずつ壁を開けて遺体を移そうとしていた。


 森川君――いや、悠斗の夢遊病も芝居だった。


 新しく入った俺が邪魔になり、気味の悪い出来事を起こして追い出そうとした。


 包丁を持って壁の前に立つ。


 午前二時に父親が合鍵で入ってくる。


 怖くなって俺が出ていけば、それでよかった。


 ところが俺は出ていかなかった。


 カメラまで置いた。


 そこまで聞けば、筋は通っていた。


 それでも片桐さんの顔は晴れなかった。


 聴取を終えて帰ろうとしたところで呼び止められた。


「瀬尾さん、少しいいですか」


 片桐さんの机には二種類の資料が置かれていた。


 一つは柴崎孝弘の古い失踪記録。


 十五年前、工事代金をめぐってトラブルになったあと、確かに行方が分からなくなっている。


 もう一つは牧野重雄の住民記録と、栄町コーポラスの過去の賃貸資料だった。


 片桐さんが一つの日付を指した。


「三谷は、十五年前には牧野がこの建物に住んでいたと言っています」


「はい」


「でも、違う」


 紙をこちらへ向ける。


「牧野が栄町コーポラスへ入居したのは十年前です。十五年前は霞野県の反対側に住んでいた。この建物で働いていた記録も、ここに住む親族がいた形跡もありません」


 何も言えなかった。


 五年ずれている。


 十五年前、牧野はこの建物にいなかった。


 三谷の供述に、埋めようのない穴が開いた。


 片桐さんは資料を持って立ち上がった。


「もう一度、話を聞きます」


 四十分ほどして戻ってきたとき、ネクタイは緩み、表情はさらに険しくなっていた。


 三谷は供述を変えたという。


 取調室で最後に繰り返したのは、三つの言葉だった。


「柴崎は殺してない」


「壁の中にいるのも柴崎じゃない」


「俺が殺したのは牧野だ」


 壁の中にいたのは、三か月前から消息を絶っていた牧野重雄だった。



 11



 二度目の供述によって、別の話が見えてきた。


 十五年前、三谷和彦と柴崎孝弘の間に工事代金をめぐる大きな揉め事があったのは事実だった。


 殴り合いにもなっている。


 だが柴崎は死んでいない。


 金の一部を持って姿を消し、そのまま行方不明になった。


 三谷はずっと、その過去がいつか掘り返されることを恐れていた。


 牧野が握っていた弱みは、柴崎とは別の件だった。


 十年以上前、三谷は霞野県内の別の建築工事に関わっていた。


 利益を増やすため、規格に合わない資材を使い、一部の検査記録の書き換えにも関与した。


 その現場で施工管理に携わっていたのが牧野だった。


 牧野は当時の写真や資材の記録、三谷の署名が入った書類を手元に残していた。


 表に出れば、三谷は仕事を失うだけでは済まなかった。過去の工事まで遡って責任を問われる可能性があった。


 牧野は告発しなかった。


 代わりに金を要求した。


 最初は大した額ではなかったが、一年、二年と続くうちに要求は膨らんでいった。三谷の蓄えは、そうして少しずつ削られていった。


 三か月前。


 牧野はまた金を求めた。


 今度は、悠斗の名前まで出した。


 払わないなら、すでに働いている息子のところへ行く。


 その夜、三谷は牧野の部屋を訪ねた。


 言い争いになった。


 牧野は何度も悠斗の名前を口にした。


 三谷はテーブルにあった金属製の灰皿をつかんだ。


 最初の一撃でも、牧野はまだ動いていた。二度目で床へ倒れた。その時点でやめることもできたはずだが、三谷はもう一度、灰皿を振り下ろした。


 牧野は死んだ。


 三谷は警察へ連絡しなかった。


「牧野が出先の病院で心臓発作を起こして死亡した」という話自体が、父子の作り話だった。


 三谷はその夜、長い時間を牧野の部屋で過ごした。


 建築と内装の仕事を何十年もしてきた男だ。


 リビング側の壁の構造も知っていた。


 そこには古い配管と点検用の空間が残っている。


 三谷は遺体を何重もの防水シートと厚いビニールで包み、継ぎ目を完全に塞いだ。周囲には吸湿材や臭いを抑える材料も入れた。


 そのうえで室内側に厚いふかし壁を造り、空間ごと閉じ込めた。


 俺が入居当初に感じていた、湿気と接着剤が混じったような臭い。


 あれも、この作業の痕跡だった。


 翌日から、悠斗が「森川悠斗」と名乗った。


 本人確認書類を偽造し、牧野の委任状も作った。


 親戚の牧野は出先で亡くなった。


 自分は遺品整理のために来た。


 大家と管理会社にはそう説明し、病院関係の書類まで偽造していた。


 建物は半年後には解体される。


 残りの契約期間も短い。


 表面上、必要な書類は揃っていたため、最初の段階では細かなところまで疑われなかった。


 悠斗は牧野が住んでいた部屋にそのまま残った。


 ただ、家賃を一人で払い続ける余裕はなかった。


 かといって退去すれば、父子は好きなときに壁へ近づけなくなる。


 そこで短期間だけ同居人を入れ、家賃を分担することにした。


 昼は外で働き、半年後には出ていく。


 そんな相手なら問題ないと考えたらしい。


 父子が想定していたのは、昼間は仕事で留守にし、半年後には黙って出ていく、ごく普通の会社員だったのだろう。


 ところが、そこへ応募してきたのが、よりによって法医学教室で働く俺だった。


 あとになって悠斗は、それが「最初の計算違いだった」と話したという。



 12



 悠斗は最初から、父親ほど腹が据わっていたわけではない。


 俺を追い出すため、父子が最初に考えたのは、怪奇現象を装うことだった。午前二時になると、悠斗が包丁を持って暗いリビングに立ち、壁に向かってわざと異様な動きを繰り返す。


 そんな姿を一度でも見れば、普通の同居人なら気味悪がって出ていく。二人はそう考えていたらしい。


 だが、俺は出ていかなかった。


 翌朝、夢遊病なのかと本人に聞いただけだった。


 そこで今度は三谷和彦本人が部屋へ入るようになった。


 父子が用意していた合鍵を使い、夜中にふかし壁の状態を確かめる。


 その後の作業も、毎回ほぼ午前二時だった。


 後日、悠斗は警察に、別に午前二時でなければならない理由はなかったと話したそうだ。


 父親が、その時間にこだわった。


 牧野が殺されたとみられる時間も、午前二時前後だった。


 片桐さんはその事実だけを教えてくれた。


 三谷がなぜ何度も同じ時間に戻ったのか、説明はしなかった。


 俺も、答えを決める気はない。


 ただ、今でも午前二時に鍵の回る音を思い出すと、あの夜のことを考える。


 人間の身体は壁の中へ隠せても、ある時間だけは、同じようには隠せないのかもしれない。


 三谷親子の逮捕後、壁から見つかった遺体は、歯科記録などから牧野重雄と確認された。


 柴崎孝弘の古い失踪についても、改めて捜査された。


 俺が最後に警察で話を聞いた時点では、三谷が柴崎を殺害した証拠は出ていなかった。


 十五年前の殺人話は、実在する失踪者を利用した偽の筋書きだったのだ。


 もし警察が壁の死体を柴崎だと思えば、捜査は十五年前の失踪へ向かう。


 三谷はそれを狙っていた。


 そして悠斗は、最初から父親が牧野を殺したことを知っていた。


 怖くなかったわけではない。


 途中でやめたいと思ったこともあったのだろう。


 俺が死体を見つけたときには、泣きながら警察へ連絡しないでくれと頼んだ。


 それでも、選ぶ場面が来るたびに父親の側へ戻った。


 偽名で部屋に残り、夢遊病を装って俺を追い出そうとし、行動を見張り、保存していたドライブを持ち去った。


 最後には、俺を椅子に縛るところまで行った。


 怖かったのだと思う。


 けれど、それで止まることはなかった。


 警察に呼ばれる回数も減った頃、俺は栄町コーポラスを引き払った。


 捜索も入り、一度封鎖された部屋に、もう一度住もうとは思わなかった。


 引っ越しの日、建物の下から一度だけ見上げた。


 リビングの窓は暗い。


 外から見れば、他の部屋と何の違いもなかった。


 数か月後、栄町一帯の解体工事が始まった。


 ニュースでほんの数秒、映像を見た。


 工事用の囲いが立ち、重機が古い住宅地へ入っていく。


 栄町コーポラスも、その中にあった。


 鉄筋とコンクリートが崩れ、かつて牧野の遺体を隠していた壁も、最後には瓦礫の中へ消えた。


 それでも街は変わらない。


 朝の電車は混み、店は時間通りに開き、深夜のコンビニは明るいままだ。


 ただ、夜中に目を覚ましたときだけは、今でも無意識にスマートフォンを見る。


 午前二時ちょうど。


 そんな表示を見ると、耳の奥で、あの音がする。


 カチリ。


 玄関の向こうで、誰かがゆっくり鍵を回す音が。





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