白石小春・肉とタレ
……普通、風呂上がりの人間を誘うか?
目の前で網に肉を並べている女を見つめながら、心の中で悪態をつく。
髪の毛からはシャンプーの香りが漂っている。しかし、それも今や完全に無駄だった。肉が焼ける匂いが容赦なく私の体に染み込んでいく。
深夜の個室焼肉。
私は今、瑠依の夕食に強制的に参加させられていた。
「んーっ! やばっ、今日の肉マジで当たりだわ」
目の前に座る茶髪ロングの美女は私の不満など微塵も気にしていない様子で、歓喜の声を上げた。
誰もが振り返るような容姿を持ちながら、彼女の目の前には、およそその風貌には似つかわしくない量の肉の皿が積み上げられている。
彼女が肉を口に運ぶその所作を見ていると、流石にこちらも腹が減る。「本当、美味しそうに食べるなぁ」、と呆れ半分、感心半分で私は烏龍茶を口にした。
肉の焼ける音を聞きながら、私はここ数日ずっと頭の中をぐるぐると巡っていた、ある思考の糸口を口にしてみることにした。
こんな油と煙にまみれた場所で話すことではないかもしれないけれど、目の前でひたすらに肉と向き合う彼女を見ていると、なぜか聞いてみたくなったのだ。
「瑠依。ちょっと難しい話するんだけどさ」
私の言葉に瑠依は大きな目を瞬かせ「ん?」と小首を傾げた。
「肉とタレ、どっちが大事だと思う?」
シンプルな二択。
けれど、瑠依は一秒も迷うことなく、箸の先で網の上の肉を指し示した。
「えー。肉」
「……なんでそう思ったの?」
「シャトーブリアンにしかこの味は出せません。てか、全然難しい話じゃなくない?」
確かに彼女の言う通りだ。今まさに彼女が味わっている極上の肉は、安い肉に極上のタレを揉み込んだところで再現できるものではない。素材の持つポテンシャルだ。
でも、私が聞きたいのは料理の構造そのものの話ではなかった。
「肉とタレ、役者と演出……。似てるなぁって」
私がグラスを置きながらそう呟くと、瑠依はようやく私が「焼肉の話」をしていないことに気づいたようだった。彼女は肉をひっくり返す手を止める。
「確かに。でも、なんでそんなこと考えたの?」
「昔出た作品見たんだけど、カメラも脚本も微妙で。でも評価は良かったんだよね」
数日前の夜。私はたまたま自分が数年前に主演を務めた映画を見返していた。
当時は無我夢中で気づかなかったけれど、ある程度経験を積んだ今の視点で見ると、その作品の粗はあまりにも目立っていた。感情のピークに達するシーンで寄り切れないカメラ、物語を進行させるためだけの不自然な台詞、間延びした編集。お世辞にも良いとは言えなかった。
けれどレビューサイトには星4.5の評価が並び、コメント欄には「白石小春の演技に圧倒された」「小春ちゃんの泣き顔が美しすぎる」という言葉ばかりが溢れていたのだ。
作品が評価されるのは喜ばしいことのはずだ。けれど、私の心の中には冷や水を浴びせられたような空虚さが広がっていた。
「だって小春が出てるしね」
瑠依がからかうようなトーンで言う。世間が私に向ける手放しの称賛を、彼女なりに代弁してくれたのだろう。
「……でもさ」
私は網の上で脂を弾けさせる肉を見つめながら、小さく笑った。
「タレがどれだけ頑張っても、肉が腐ってたら終わりなんだよね」
演出という名のタレが絶品でも、素材である役者の芝居という肉が腐っていれば、作品という料理は絶対に成立しないのだ。
「まあ、それはそう」
瑠依は相槌を打ちながら、小皿に盛られたナムルをつまんだ。
「逆に、肉が良すぎても困る」
「……え?」
私の言葉に瑠依が怪訝そうに眉をひそめる。完全に動きが止まっていた。無理もない。さっき「肉が大事」と即答した彼女からすれば、意味不明なことだろう。
「シャトーブリアンってさ。極端な話、塩だけでも美味しいじゃん?」
「うん」
「だから、タレも付け合わせも全部殺しちゃう時あるんだよね」
それがあの映画を見返して私が感じた空虚さの正体だった。
私が映像作品としての粗をすべて覆い隠してしまっていた。観客は私の演技という「塩だけで美味しい肉」に満足してしまい、脚本の綻びやカメラワークの拙さという「タレの不味さ」に気づかなかったのだ。
それは果たして、芸術として正しい姿なのだろうか。
私は作品を生かすためにそこにいるはずなのに、結果として作品という器そのものを殺してしまっているのではないか。そんな恐怖が、ここ数日ずっと胸の奥にへばりついていたのだ。
無煙ロースターに吸い込まれていく白い煙の向こうで、瑠依は真顔のまま私をじっと見つめていた。
また瑠依に変なことを言ってしまった。
せっかく美味しいお肉を食べているのに、こんな湿っぽくて面倒くさい話なんて聞かされたくないだろう。
なんでこんな意味の分からないことを、よりによって深夜の焼肉屋で考えているのだろう。自分の不器用さと、常に役者の業に囚われている息苦しさに、自己嫌悪の波が押し寄せてくる。
謝って、適当に話を誤魔化そう。そう思って息を吸い込んだ時だった。
「……いや」
瑠依は数秒考え込んだ後、焼き上がったばかりのシャトーブリアンをタレに突っ込みながら言った。
「タレもめちゃくちゃ大事だと思うけど」
「ん?」
「どんな高い肉でも、ずっと塩だけだと飽きるし」
そう言って、瑠依はタレが滴る肉を白米の山にバウンドさせ、白米ごと一気に頬張った。幸せそうに咀嚼する彼女の頬が膨らむ。
「てか、小春が一人で全部美味いだけなら、誰も作品なんか見返さなくない?」
「……」
「一回見て『小春すげー、塩味うめー』で終わり。でもさ」
瑠依はお茶を一口飲んでから私をまっすぐに見据えた。
「結局、肉とタレと米が揃ってるから『また食いたい』になるんでしょ」
その言葉は鋭く私の胸の奥を射抜いた。
肉と、タレと、米。
役者の芝居と、監督の演出と、それを待ち望む観客。
どれか一つが突出しているだけではダメなのだ。「もう一度観たい」「何度もこの世界に浸りたい」と思わせる真の名作は、常にその三位一体の調和の中でしか生まれない。
私が私の芝居だけで作品を成立させたと思っていたあの映画も、もしかしたら、稚拙ながらも必死に私を映そうとしたカメラワークや、不器用な台詞の中に込められた誰かの熱意という「タレ」があったからこそ、観客の心という「米」に行き届き、評価されたのかもしれない。
「……結局さ」
瑠依は新しい肉を網に置きながら、面倒くさそうに言った。
「小春は考えすぎなんだよ」
「そうかな」
「うん。肉が美味かったら嬉しいし、タレが美味かったらもっと嬉しい。それだけじゃん」
ジュウッ、と新鮮な脂が網の上で弾ける。
「私は、小春が出てる映画なら絶対観るし」
「……」
「でも演出良かったら、もっとテンション上がる」
瑠依は完璧な焼き加減に仕上がった一枚の肉を、私の空っぽの皿に無造作に放り込んだ。
「だから全部美味ければ最強。はい終了」
あまりにも雑な結論だった。
芸術論も演技論もすべてを「美味ければ最強」の一言で叩き切る。シャトーブリアンと白米の力を借りた彼女の哲学は、私が夜な夜なひとりでこねくり回していた理屈など、鼻で笑って吹き飛ばすほどの説得力を持っていた。
私は数秒ぽかんとしてから、思わず吹き出した。
「なにそれ」
「焼肉に哲学持ち込む方が悪い」
瑠依はふんと鼻を鳴らし、再び自分の目の前にある肉の山へと戦闘態勢に入った。
絡まった糸が解ける感覚。それもそうか。
私は軽く笑った。
「……いただきます」
私は小さく呟いてから、瑠依が放り込んでくれた肉を箸で掴んだ。
少しだけタレをつけて口に運ぶ。
香ばしさと溢れ出す肉の旨み。それに負けないくらい濃厚で、計算し尽くされたタレの甘みと酸味が完璧なハーモニーを奏でた。
「……うま」
「でしょ? ほら、肉食って元気出せ」
煙の向こうで瑠依が笑う。
風呂上がりのすっぴんのまま、深夜に極上のシャトーブリアンをタレまみれにして胃に流し込む。
女優としては最低の夜の過ごし方かもしれない。けれど、私には何よりも意味のある時間だった。




