第9話 社交界
社交界は、戦場だった。
血も刃もない。 代わりにあるのは、笑顔と香水と、言葉の毒だ。
王都ヴァレリオスの大広間。 天井は高く、金箔の装飾が光を反射し、夜の星のように瞬いている。 楽団の音色は柔らかく、杯の触れ合う音が規則正しく混ざる。
――そして、貴族たちの視線が、同じ一点に集まっていた。
エルミナ・ヴァレリオス。
魔物を討ち取った王女。 学院の「奇跡」。 次期女王候補。
噂が一つの生き物のように広間を泳ぎ、彼女の足元にまとわりついている。
「本当に、あの魔物を?」 「罠だとか……」 「いや、王家の魔力兵装を使ったのでは?」
聞こえるがあながち間違いじゃない。
しかしわざと聞こえる距離で囁く声ほど、浅ましいものはない。
エルミナは、それを一切気に留めない。 彼女の顔に浮かぶ微笑は、完璧だった。
無垢でもなく、挑発でもない。 貴族が最も安心する形の、柔らかな笑み。
隣にはノエルが控えている。 淡い銀髪をまとめ、感情のない眼で周囲を見ていた。 彼女は壁だ。 主の背後に立つ、静かな盾。
フィオナは少し離れた位置にいる。 正装に身を包んでいるが、目だけは戦場の兵士だった。 落ち着きなく周囲を警戒している様子が、逆に微笑ましい。
(フィオナは……まだ騎士として未熟ね) (でも、そういう欠陥は扱いやすい)
エルミナは歩き出した。 狙う相手は決まっている。
敵ではない。 味方でもない。
――情報を持っている者。
最初に声をかけたのは、老いた男爵だった。 名前は忘れた。 覚える価値がない。
「王女殿下。今宵は、まことに麗しく……」
褒め言葉の皮を被った、媚び。
エルミナは軽く頷き、相手の目を見て言う。
「ありがとうございます。男爵」 「ですが、私は麗しさより、国の状態が気になります」
男爵の頬が少し引きつる。
――言葉が硬いと、喧嘩になる。 ――柔らかい言葉で刺せば、相手は自分から血を流す。
エルミナは笑ったまま続けた。
「最近、地方の税収が下がっていると聞きました」 「何かご存じですか?」
男爵は目を泳がせた。
「そ、それは……農村の怠慢でしょう。殿下もご存じの通り、平民というものは――」
エルミナは首を傾けた。
「怠慢、ですか」 「それは不思議ですね。食べなければ死ぬのに」
声は優しい。 だが、意味は冷たい。
男爵は笑って誤魔化す。
「はは……冗談です、殿下。実際には、飢饉が……」
出た。
エルミナの瞳が、ほんの一瞬だけ鋭くなる。
「飢饉?」
「はい。昨年の雨量が不安定で……穀物が不作でして。特に北部が」
北部。
ヴァレリオス王国の穀倉地帯。 そこが不作なら、国の腹は裂ける。
エルミナは微笑みを崩さず、男爵の言葉を受け取った。
「そう。教えてくださって助かりました」 「男爵は、民のことをよく見ていらっしゃるのですね」
男爵は胸を張りかける。
――愚か。
褒められると、己が有能だと錯覚する。 その錯覚が口を軽くする。
「ええ、もちろんですとも。平民など、管理してこそ……」 「しかし殿下、貴族にも苦しい事情がありましてな」
エルミナは頷いた。
「ええ、分かります」 「食糧が足りないのなら、誰かが奪うしかありませんものね」
男爵は笑った。 冗談だと思ったのだ。
エルミナは笑わなかった。 ただ微笑んでいた。
その違いに気づく者はいない。
次に接触したのは、若い伯爵夫人だった。 流行のドレス、薄い香水、優雅な仕草。
その背後にあるのは、噂の網。
「王女殿下、学院の魔物討伐、本当に素晴らしかったですわ」
エルミナは軽く礼をする。
「ありがとうございます。ですが、運が良かっただけです」 「私はただ、生徒を守りたかった」
伯爵夫人の瞳が輝く。
――こういう女は、英雄譚が好きだ。 ――英雄に近づけると思えば、秘密を差し出す。
「殿下……やはり王家の方は違いますわ」 「最近、王都でも物騒な噂が増えていますの」
「物騒な噂?」
「ええ。失踪です。貧民街の方で、若者が消えているとか」 「それに……食料の値段も上がっています」
食料の値段。
飢餓の前兆。
エルミナは、心の中で数字を並べた。 不作、値上げ、失踪、治安悪化。 貴族は民を守らない。 守らないどころか、売る。
飢えた者は盗む。 盗めない者は死ぬ。 死体は増え、疫病が出る。
そして貴族は言う。
――「平民が勝手に死んだ」と。
エルミナは伯爵夫人に微笑む。
「教えてくださってありがとう」 「あなたは、とても賢い方ですね」
伯爵夫人は頬を染めた。
「まあ……殿下ったら」
愚かだ。 賢いと言われて、賢くなった気でいる。
だが、その愚かさは便利だった。
さらに、別の貴族の輪へ。
話題は勇者だった。
「異世界の勇者様は、今は西の国にいるそうですよ」 「召喚されたのは確実らしい」 「王族の護衛として囲われているとか」
エルミナは、耳だけで聞く。 口は、別の話をする。
「勇者様……素敵ですね」 「きっと、民の希望になります」
その言葉に貴族たちは頷く。
希望。 救い。 英雄。
それらは貴族が最も好む麻薬だ。
希望を与えておけば、現実を見なくて済む。 救いを語っておけば、責任を取らなくて済む。
勇者という存在は、政治的に便利すぎる。
(召喚された異世界人) (軍事力として囲われる) (民衆の支持を集める) (王家の権威を補強する)
そして、制御不能になれば粛清される。
それが王族の常識だ。
エルミナは、勇者の情報を一つずつ拾っていく。 誰が召喚を主導したか。 どこの国が囲ったか。 勇者の性格はどうか。
そのすべてが、将来の盤面になる。
その時、背後から声がした。
「殿下は、噂を拾うのがお上手ですね」
低く、穏やかな声。 しかし軽薄ではない。
振り返ると、そこにいたのは学院の先輩――レオンハルトだった。 整った顔立ち、貴族らしい銀の髪。 立ち姿は余裕があり、周囲の女たちの視線を自然に集めている。
ネームド。
そして、危険な匂い。
エルミナは表情を変えず、礼をする。
「先輩。今宵はお会いできて光栄です」
レオンハルトは笑う。
「学院では英雄、社交界では淑女」 「殿下は二つの顔を使い分けるのですね」
褒め言葉に見せかけた探り。
エルミナは微笑み返す。
「王族は、いつも見られる立場ですから」 「自然と身につきます」
喧嘩は売らない。 だが、下にも出ない。
同格の礼儀。 それが貴族社会で最も強い。
レオンハルトは杯を揺らしながら言った。
「飢餓の噂、聞きましたか?」
エルミナは頷く。
「北部の不作ですね」 「王都の価格も上がっている」
レオンハルトの目が細くなる。
「殿下は……本当に、数字を見ていますね」 「多くの貴族は、見ないふりをするのに」
エルミナは答えない。 答える必要がない。
レオンハルトは続けた。
「今、国は静かに崩れています」 「崩れるとき、誰が笑うか……」
その言葉は、偶然ではない。 この男は、世界の歪みを理解している。
だから危険だ。
エルミナは微笑み、視線を少しだけ逸らした。
「笑う人がいるなら、泣く人もいるでしょうね」
レオンハルトは一瞬、沈黙した。
そして、愉快そうに口角を上げた。
「殿下は……優しい」
その評価は間違っている。 だが訂正しない。
誤解は武器になる。
エルミナは会話を切り上げるように言った。
「今夜は、勉強になります」 「貴族の方々は、情報の宝庫ですね」
「宝庫、ですか」
レオンハルトが笑った。
「宝庫を開ける鍵を持っているのは、殿下だけでしょう」
その言葉に、エルミナの胸の奥が少しだけ熱くなる。
自分が上に立っている。 盤面を支配している。
それが、快感だった。
だが顔には出さない。
代わりに、柔らかく礼をした。
「では、私は次のご挨拶へ」
エルミナは歩き去る。
背後で、レオンハルトの視線が突き刺さるのを感じながら。
ノエルが小さく言った。
「……危険です」
エルミナは答えない。 ただ、微笑んだ。
危険な駒ほど、価値がある。
大広間の端。 王族席へ向かう途中、エルミナはふと窓の外を見た。
王都の灯りは美しい。 だがその下で、飢えた者が増えている。
そして、その飢えを利用する者がいる。
王国は腐っている。 腐っているから、壊す価値がある。
エルミナは、誰にも聞こえないほど小さく息を吐いた。
(……面白くなってきた)
その夜、彼女は社交界の中心で完璧に立ち回りながら、 静かに情報を集め続けた。
喧嘩を売らず。 敵を作らず。 味方を増やし。
――そのすべてを、破壊のために。




