第7話 前に立つものとしての威厳
黒い影が落ちた。
巨大な翼。 鋭い嘴。 鉤爪のような脚。
飛行系魔物――グリフォン。 学院の結界をすり抜け、獲物を探すように旋回しながら、回廊へ急降下してくる。
悲鳴。
「伏せろ!」 「逃げろぉ!!」
教師も騎士も、指示が遅い。 人間は危機に直面すると、言葉が先に死ぬ。
ルシアは固まっていた。 ノエルは即座に彼女の肩を掴み、壁際へ引き寄せる。
フィオナが剣を抜く。
「殿下! 後ろへ!!」
だが。
エルミナ・ヴァレリオスは、逃げなかった。
むしろ一歩前へ出た。
床に落ちた魔物の影が、彼女の足元を黒く塗りつぶす。
風圧が髪を揺らし、制服の裾がはためく。
生徒たちは信じられない顔で王女を見た。
王女が――前に出た。
その瞬間、エルミナは確信する。
(私は王だ) (守られる側ではない) (守る側に立つことでしか、威厳というものは保てない)
そしてもう一つ。
(私の魔力は平均) (私の筋力も、身体能力も、平均) (つまり、正面から倒せる相手ではない)
冷静だった。
死を賭ける気はない。 英雄ごっこも嫌いだ。
死ねば、計画が止まる。 それは愚かだ。
だが――ここで逃げれば、威厳が死ぬ。
王女という象徴が死ねば、貴族はまた増長する。 学院は再び腐る。
エルミナは目を細め、空中の魔物を見上げた。
狙いは自分。
正確には――群衆の中心にいる、自分。
魔物は本能で理解している。 中心を潰せば、群れは壊れると。
エルミナは静かに唇を動かした。
「……愚かね」
魔物が突っ込んでくる。
大口を開け、爪を伸ばし、翼を畳み、一直線に落ちる。
その速度は、人間の反応を許さない。
だが。
エルミナは知っていた。
学院の回廊には、王家の「安全設備」がある。
誰も知らない。 教師も騎士も知らない。
王家だけが知っている、非常時のための装置。
――ワイヤー。
普段は壁の装飾に紛れ、床の溝に隠され、天井の梁に固定されている。 必要な時だけ、滑車で引き出し、張り巡らせる。
エルミナは、幼い頃からそれを確認していた。
学院に入学する前に、ノエルに命じて整備も済ませてある。
この場で魔物が出ることを予測していたわけではない。
ただ――危機が起きた時、最も確実に生き残るための準備をしていただけだ。
準備をする者だけが、偶然を支配できる。
エルミナは、足を止めたまま、魔物の落下地点を見据える。
ルシアが叫ぶ。
「殿下!!逃げて!!」
その声が、耳に入っても入らない。
ノエルが息を呑む。
フィオナが走り出す。
「殿下ぁぁぁ!!」
魔物の影が、完全にエルミナを覆った。
次の瞬間。
エルミナは、ほんの少しだけ横へ歩いた。
たった一歩。
それだけで、魔物の突撃は空振りする。
魔物は床を爪で抉り、石片を散らしながら滑った。
そして――
張り巡らされた細い銀線に、首が触れた。
ギギギ……と音がした。
最初は気づかない。
だが次の瞬間、魔物の首筋から赤い線が走る。
血が噴き出した。
「ギャアアアアアアアアッ!!」
絶叫。
魔物は暴れた。 翼を振り回し、爪で床を裂き、尾で壁を叩く。
だがワイヤーは切れない。
王家専用の、魔獣用対策鋼。
刃ではない。 ただ張られた糸。
しかし高速で突っ込んだ首には、それが刃になる。
エルミナは魔物の眼を見た。
その眼は怒りでも憎しみでもない。
純粋な恐怖だった。
自分が死ぬことを理解した眼。
エルミナは淡々と言った。
「あなたは、空を飛ぶだけの獣」 「地を這う王を、甘く見た」
魔物は必死に飛び上がろうとする。
だが翼の動きが乱れ、血が喉を塞ぎ、体が傾く。
最後にもう一度だけ暴れ――
ドサリ、と音を立てて床に落ちた。
首が、半分裂けている。
死んだ。
回廊に静寂が落ちた。
生徒も教師も、騎士も、誰も動けない。
数秒後。
フィオナがようやく近づき、信じられない顔で呟く。
「……殿下、今の……」 「どうやって……」
エルミナは振り返らない。
血に濡れた魔物の死体を背に、静かに歩き出す。
そして言った。
「王は、引かない」
ルシアが震える声で呼んだ。
「殿下……!」
エルミナは立ち止まり、ほんの少しだけ首を傾けた。
ルシアの目は、尊敬と恐怖と安心が混ざっていた。
その表情は――
依存が生まれる顔だった。
エルミナは優しく微笑んだ。
「大丈夫」 「私がいる限り、あなたは死なないわ」
ルシアの目に涙が浮かぶ。
ノエルは黙っている。
だが、握った拳がわずかに震えている。
フィオナはようやく理解したように、膝をつきかけた。
王女が―― 王のように振る舞ったのだと。
エルミナは回廊の窓を見上げた。
夕焼け空。
赤い光。
血の色と同じだ。
そして胸の奥で、小さく笑った。
(ふふ……)
誰にも聞こえない笑い。
王女はそれを隠し、平然と歩き去った。
背後に、魔物の死体と、沈黙する学院を残して。




