第19話 神の贈り物
テロ事件が終わった翌日。
学園は「平穏」という名の混乱に包まれていた。
生徒たちは笑い、教師たちは疲れ切り、貴族たちは口を閉ざす。 死者が出なかったのは奇跡だが、奇跡は人を安心させる代わりに、油断を生む。
そして何より――噂が育つ。
「王女殿下が戦場の中心で冷静だったらしい」
「いや、罠で敵を全滅させたって」
「殿下って、本当に同じ一年生なのか?」
廊下を歩くだけで、視線が突き刺さった。
エルミナは表情を崩さないまま、軽くため息を吐いた。
(面倒ね)
名声は武器だが、武器は目立つ。 目立てば狙われる。
隣を歩くノエルが小声で言った。
「殿下、視線が多すぎます」
「慣れなさい。王族は動物園の檻の中みたいなものよ」
ノエルは眉をひそめた。
「例えがひどいです」
「正確よ」
そして少し後ろで、ルシアがわざとらしく肩をすくめた。
「でも王女様、人気者だねぇ~。みんな怖がってるけど」
「人気ではないわ。恐怖よ」
ルシアは笑った。
「それ、普通に最悪じゃない?」
「最悪の方が支配しやすい」
ルシアが「うわぁ……」という顔をする。
この反応は、いつも通り。 いつも通りで――何もおかしくない。
エルミナは、ほんの一瞬だけルシアの横顔を見た。
(……本当に?)
昨日の事件の最中、ルシアは確かに怯えていた。 泣きそうだった。 必死に震えていた。
だが、恐怖というのは演技にもなる。
エルミナは笑みを作った。
「ルシア、今日も元気ね」
「当たり前だよ! 生き残ったんだから!」
「そうね」
生き残った。
それだけで十分価値がある。
だが同時に、生き残った者には疑いがつきまとう。
エルミナはそれを誰より理解していた。
教室に入ると、空気が変わった。
会話が止まる。 視線が集まる。 息を呑む音すら聞こえる。
エルミナはその中心を当然のように歩き、自分の席に座った。
ノエルも後ろに立つ。 ルシアはエルミナの隣の席に座り、頬杖をついた。
「ねえ王女様、もう学園辞めて城に帰った方がいいんじゃない?」
「嫌よ。ここは面白い」
「面白いって……人が死にかけたんだよ?」
エルミナは視線を前に向けたまま、淡々と言う。
「死ななかったじゃない」
ルシアは口を開けたまま固まり、次の瞬間に叫んだ。
「王女様、倫理観が死んでる!!」
教室が小さくざわついた。
そのざわめきが、少しだけ和らぐ。 緊張が緩む。
ルシアのツッコミは、学園にとって救いなのだろう。 王女を「怪物」として固めず、ただの「変な奴」に落とす。
――そういう役割を、自然にこなしている。
エルミナはふと考えた。
(彼女は、自然にやりすぎる)
いや、考えるのは後だ。
その時、教室の扉が開いた。
教師が入ってくる――かと思ったが、違った。
見慣れない制服。 髪は黒く、瞳も黒い。 背は高く、体格は鍛えられているが、どこか落ち着きがない。
そして、何より。
その男は、教室に入った瞬間から明らかに困っていた。
「……えっと、ここで合ってるのか?」
教室中が静まり返る。
教師が慌てて続いて入ってきた。
「静粛に! 本日は隣国より、特別な来訪者が来ている!」
教師は咳払いをして、誇らしげに言った。
「紹介する。隣国『リューゲル王国』より派遣された――異界召喚の勇者だ!」
教室が爆発したようにざわめいた。
「ゆ、勇者!?」
「本物!?」
「異世界の……!」
勇者と呼ばれた男は、居心地悪そうに頭を掻いた。
「いや……そんな大したもんじゃ……」
(うぶ)
エルミナは一瞬で判断した。
(これは使える)
勇者という存在は強力だ。 だが同時に、政治の道具でもある。
そして道具は、素直な方がいい。
教師が続ける。
「彼は今後、学園に短期滞在し、我々の魔法体系や戦術を学ぶ!」
教室は興奮の坩堝だった。
女子生徒たちがざわめき、男子生徒たちが嫉妬の視線を向ける。
勇者はその反応に困り果て、視線をさまよわせた。
そして――
その視線が、エルミナの方へ止まった。
勇者の目がわずかに見開かれる。
まるで「見つけた」と言わんばかりに。
エルミナは、心の中で笑った。
(なるほど。目的は私)
教師が言う。
「勇者殿、何か一言」
勇者は慌てて前に出た。
「えっと……俺は……『サカモト・ユウト』です」
妙に変な響きの名前。 異世界の名前だろう。
「この世界のことはまだよく分からないけど……その、迷惑かけないように頑張ります」
拍手が起きる。 だがそれは、熱狂というより期待だった。
期待は人を縛る鎖だ。
エルミナはそれを理解している。 だからこそ、勇者の表情が少しだけ哀れに見えた。
その瞬間、ルシアが小声で言った。
「……あれ、普通にいい人っぽくない?」
「そう見えるわね」
「うぶそう」
「うぶね」
ルシアはニヤリと笑った。
「王女様が一番好きなタイプだ」
エルミナは即答した。
「道具として最高」
ルシアが盛大に机を叩いた。
「やっぱり!!」
---
授業が終わった昼休み。
エルミナが廊下を歩いていると、背後から足音が追ってきた。
軽い。 急いでいる。 緊張している。
そして声。
「あの……すみません!」
振り返ると、そこにいたのは勇者――ユウトだった。
近くには教師も護衛もいない。 単独で来たらしい。
(愚かね)
だが愚かさは扱いやすさでもある。
エルミナは優雅に微笑み、貴族らしい口調で言った。
「何か用かしら?」
ユウトは一瞬、言葉に詰まった。
目の前にいる少女が、噂の王女だと気づいたのだろう。 だが、それでも逃げない。
そこだけは評価できる。
ユウトは咳払いして言った。
「俺……あなたに会いたくて」
ノエルが一歩前に出た。
「殿下に不用意に近づかないでください」
ユウトは慌てて両手を上げた。
「ご、ごめん! 怪しい者じゃない!」
ノエルは冷たい目で言った。
「怪しい者ほどそう言います」
ユウトは泣きそうな顔になった。
「ひどい……」
エルミナは軽く手を上げてノエルを制した。
「いいのよ。話くらい聞くわ」
ユウトはホッと息を吐いた。
そして、言った。
「……テロ事件のこと」
エルミナの目がわずかに細くなる。
「知っているのね」
「隣国にも情報が来た。俺は召喚された立場だから、国の会議にも呼ばれるんだ」
(情報源は隣国の上層部、か)
エルミナは心の中で整理した。
勇者は軍事資産であり、外交カードだ。 会議に同席するのは当然。
つまり、ユウトは知らずに重要情報を握っている。
エルミナは微笑んだ。
「それで?」
ユウトは真剣な顔で言った。
「あなたが、全部止めたって聞いた」
エルミナは首を傾げる。
「過大評価ね。私はただ生き延びただけ」
ユウトは拳を握った。
「でも、俺は……俺は正直、怖いんだ」
エルミナは少しだけ驚いた。
勇者は英雄として祭り上げられる存在だ。 なのに、この男は「怖い」と言った。
ユウトは続けた。
「俺、異世界から突然呼ばれて……戦えって言われて……」
「誰かを救えって言われて……」
「でも、俺は普通の高校生だったんだ」
その言葉は、あまりに生々しかった。
貴族の芝居ではない。 王族の演説でもない。
ただの人間の声。
エルミナは思った。
(壊れやすい)
だからこそ、利用価値がある。
エルミナは優しく言った。
「怖いなら、怖いままでいいわ」
ユウトは目を見開いた。
「え……?」
「怖いのに戦える人間が、一番価値があるの」
ユウトは顔を赤くした。
「それ、褒めてるのか……?」
「褒めているわ。かなり」
ユウトは困ったように笑った。
「……あなた、変わってる」
エルミナは微笑み返す。
「よく言われるわ」
ノエルが小声で言った。
「殿下、勇者を落とす気ですか」
「落とす?」
「人心掌握です」
エルミナは小さく笑った。
「落ちるなら勝手に落ちるでしょう」
ユウトが「え?」という顔をする。
ルシアがいつの間にか後ろにいて、ニヤニヤしながら言った。
「勇者くん、気を付けた方がいいよ」
「王女様、優しい顔してる時が一番危ないから」
ユウトは慌てて言う。
「え、ええ!?」
エルミナはルシアを見て、軽く微笑んだ。
「ルシア、余計なことを言わないで」
ルシアは肩をすくめた。
「だってさー。勇者って素直そうだし」
「王女様に利用されて壊れる未来しか見えない」
エルミナは答えない。
答えないまま、ユウトを見た。
「ユウト。あなたは勇者としてこの国に来た」
「でも私は王女よ」
「私に近づくなら、覚悟しなさい」
ユウトはゴクリと喉を鳴らした。
「……覚悟?」
エルミナは、優雅に笑った。
「あなたの人生が、あなたのものじゃなくなる覚悟」
ユウトの背筋が寒くなる。
だが同時に、彼の瞳には妙な光が宿った。
恐怖と好奇心。
それが混ざった時、人は最も操りやすくなる。
エルミナは確信した。
(落ちた)
ルシアがボソッと言う。
「……やっぱり怖いよこの王女」
その声は小さすぎて、誰にも届かない。
けれどエルミナには届いた。
そして彼女は、ルシアの言葉を心の奥に沈める。
沈めながら、笑った。
(怖いのは、どちらかしらね)
◆◆◆
その夜。
王城の自室で、エルミナは窓辺に立っていた。
月明かりが床に落ちる。 遠くで城下町の灯りが揺れている。
ノエルが背後で言った。
「殿下、勇者は危険です」
「危険だからこそ価値がある」
「ですが、隣国の人間です」
「だからこそ使うのよ。隣国の情報を引き出せる」
エルミナは窓の外を見たまま、静かに言った。
「それに――勇者は民衆が信じる“偶像”」
「偶像は、壊せば国が揺れる」
ノエルは黙った。
エルミナは唇を吊り上げる。
「勇者を味方にするか、敵にするか」
「それを決めるのは、私よ」
そして、誰もいないはずの部屋で。
エルミナは小さく笑った。
「……ふふっ」
その笑いは高く、静かで、狂気のように澄んでいた。
(神が勇者を与えた?)
(違うわ)
(これは神の贈り物じゃない)
(私が奪う道具)
窓の外、遠い闇の向こう。
誰かが、同じ月を見ている気配がした。
それが敵か味方か、まだ分からない。
ただ一つだけ確かなのは――
この国は、確実に壊れていく。
王女の手で。




