第14話 代理を立てたい
夜の王城は、昼より静かだった。
それは平穏という意味ではない。 息を潜めた獣が、眠っているふりをしているだけだ。
回廊の窓から見える街の灯りは、遠く揺れていた。 黄金の装飾に囲まれた城の中から眺めると、あまりにも小さく、弱く、頼りない。
――あれが、この国の心臓。
心臓は、城ではない。 玉座でもない。 貴族院でもない。
街だ。人だ。
エルミナ・ヴァレリオスは、薄い外套を羽織り、部屋の扉を静かに開けた。 鍵は音を立てずに回る。 自室の鍵穴は、彼女が幼い頃に細工を施している。
誰にも気づかれないように。 誰にも疑われないように。
彼女は慎重に廊下へ出た。 足音はほとんど立たない。 王女として歩くときの癖は、ここでは捨てる。
今の彼女は王女ではない。 ただの、夜を歩く影だ。
角を曲がった先に、二人の騎士がいた。 夜警だ。鎧の隙間から眠気が滲み出ている。
エルミナは、彼らの前に姿を見せなかった。 わざわざ顔を見せてしまえば、疑念が生まれる。
疑念は、記憶になる。 記憶は、いつか武器になる。
彼女は暗い小道へ滑り込むように進み、古い階段を降りた。 城の裏側には、誰も知らない抜け道がある。 歴代の王族が「もしもの時」のために用意したものだ。
だが、誰も使わない。 使わないから、忘れられる。
そして忘れられた場所は、最も安全だ。
湿った石の匂い。 冷たい空気。 微かな水滴の音。
地下通路の扉を押し開けると、そこには夜の外気が待っていた。
王城の裏庭。 草は刈り込まれているが、端の方は荒れている。 警備の視線が届きにくい場所。
エルミナはそこから塀を越え、闇に溶けるように街へ降りた。
城下町は、眠っていない。
酒場の笑い声。 馬車の車輪。 露店の片付け。 貧しい家の窓から漏れる灯り。
貴族の社交界が飾り立てた言葉で世界を語るのなら、ここはその言葉の裏側だった。 汗と油と煤が混じった匂い。 泥がこびりついた石畳。
生きるために生きている人間の匂い。
エルミナは、深く息を吸った。
好きだった。
王城の香水の匂いより、よほど。
彼女はフードを深く被り、目立たない道を歩く。 王女の顔は知られている。 だが、夜の街では、顔を隠した者など珍しくもない。
何より――この街の人間は忙しい。
他人の顔をいちいち確認する余裕がない。 それが、救いであり、残酷でもある。
エルミナは目的地を定めていた。
城下の東区。 職人と商人が多く住む区域。
貴族の館のように豪華ではないが、貧民街ほど荒れてもいない。 つまり、国の支柱となる層だ。
学があり、働き、金の流れを理解し、そして貴族を心底嫌っている層。
――ここだ。
彼女は、酒場の前を通り過ぎた。 酔いどれの男が叫び、女が笑い、椅子が倒れる音が響く。
人は、酒を飲むと本音が出る。 だが、本音が出る場所は信用できない。
酒場は、言葉の墓場だ。 叫んで終わり。 笑って終わり。 翌朝には、誰も覚えていない。
エルミナが探しているのは、違う。
声を上げる者ではなく、声を飲み込む者だ。 目立つ者ではなく、周囲が勝手に頼り始める者だ。
彼女は、街角の掲示板に目をやった。
「飢饉への募金」 「税の増額に対する抗議署名」 「貴族の屋敷での雇用募集」
張り紙の字は、整っているものと、乱れているものが混ざっている。 その中に、ひときわ字が美しい紙があった。
――書き手がいる。
字が整っているのは、学がある証拠だ。 だが、それだけではない。 文の組み立てが理性的で、扇動的ではない。
誰かが、街を「まとめよう」としている。
エルミナは、その張り紙の署名を見た。
【エドガー・ヴォルバグ】
名前を見た瞬間、彼女の脳が反応した。
ヴォルバグ。
貴族の姓ではない。 だが響きは強い。 それでいて、どこか古い。
彼女は、笑いそうになった。 しかし笑わない。
ここで笑うのは危険だ。
エルミナは掲示板の周囲を観察した。 誰がこの張り紙を読んでいるか。 どんな反応をしているか。
男が立ち止まり、眉をひそめて読み、ゆっくり頷いた。 女が手を止め、読み、溜息を吐いた。 少年が覗き込み、理解できず首を傾げた。
張り紙は、人を動かしている。 目立たず、静かに。
この署名の主は、派手な革命家ではない。
――それがいい。
派手な革命家は、首を刎ねられる。 静かな改革者は、人々に残る。
エルミナはその名を頭の中で反芻しながら、さらに歩いた。
東区の奥に、古い工房があった。 表札には「木工・家具修理」と書かれている。 夜なのに灯りがついていた。
窓の向こうで、誰かが作業をしている。 槌の音が規則的に響く。
夜に仕事をする男は、生活に追われているか、あるいは――仕事が好きか。
エルミナは、ゆっくりと戸を叩いた。
コン、コン。
音は控えめだったが、室内の槌の音が止まった。
「……誰だ」
低い声がした。 警戒心はあるが、恐怖はない。
エルミナは声を柔らかくした。 王女の声ではなく、ただの少女の声に寄せる。
「夜分にすみません。張り紙を見て、話を聞きたくて」
沈黙。
次に、鍵の外れる音がした。
扉が少しだけ開き、男の片目が覗いた。
顔は皺が深い。 髭は短く整えられている。 目つきは鋭いが、濁っていない。
年は四十代後半から五十代。 筋肉のつき方が職人のそれだ。
男はエルミナの全身を見た。 貴族の装いではないが、質の良さは隠せない。 それに気づいた瞬間、男の目が細くなった。
「……張り紙?」
「はい。署名の方に、話を聞きたいです」
男は扉を開けた。
中は木屑の匂いが充満していた。 作業台には半分作りかけの椅子。 壁には工具が整然と並んでいる。
整っている。
貧しい工房にありがちな散らかりがない。 それは、性格を表している。
男は、エルミナを中へ入れ、扉を閉めた。 そして、ゆっくり言った。
「……嬢ちゃん。こんな夜に、一人で来る場所じゃない」
「承知しています」
即答すると不自然になる。 だが、曖昧にすると舐められる。
エルミナは一拍置いてから、微笑んだ。
「でも、来る価値があると思いました」
男は目を細めた。
「価値?」
エルミナは椅子に座らず、立ったまま言った。
「あなたが書いた張り紙、字が綺麗でした。文章も、煽りじゃない。だから、街の人が読んでいました」
男の顔が一瞬だけ動いた。 驚きではない。 確認だ。
こいつは見ている、と。
男は短く息を吐き、作業台に手をついた。
「俺はただ、署名を集めてるだけだ。上の連中に届くかは分からん」
「届きません」
エルミナは即答した。
男の目が鋭くなる。
「……なんだと」
エルミナは落ち着いて続けた。
「貴族院は、市民の声を『雑音』としか思っていません。署名を提出しても、紙束として燃やされるだけです」
男は黙った。
怒るかと思ったが、怒らない。 この男は感情より現実を優先する。
だからこそ、残酷な言葉が刺さる。
エルミナは、少しだけ首を傾げた。
「それでも続ける理由は?」
男は視線を逸らさずに言った。
「……やらないよりマシだからだ」
「偉い」
エルミナは微笑んだ。
それは賞賛ではない。 確認だ。
この男は、諦めていない。 諦めていないが、無謀ではない。
最適だ。
男はエルミナの顔を覗き込むようにして言った。
「嬢ちゃん、名は?」
エルミナは迷わず嘘をついた。
「エル。旅の途中です」
短い名。 覚えやすい名。 嘘っぽくない嘘。
男はその名を繰り返した。
「エル……」
そして少し笑った。
「……お前、頭がいいな」
エルミナは心の中で、静かに頷いた。
そう言われるのは、嫌いじゃない。
だが、表情は変えない。
「あなたの方がです。街の人に読まれる文章を書くのは、簡単じゃない」
男は椅子を引き、座った。 エルミナにも椅子を勧めた。
彼女は座った。 座ることで、会話は対等になる。
男は言った。
「……俺の名はエドガーだ。張り紙を見たなら知ってるだろう」
「はい」
エルミナは頷く。
「エドガーさん。あなたはこの街で、信頼されていますか?」
男は眉をひそめた。
「……何が言いたい」
エルミナは、淡々と言った。
「私は、貴族を倒したいわけではありません」
男の目が一瞬だけ揺れた。
エルミナは続ける。
「私は、貴族がいなくても国が回る証拠を作りたい」
男は笑わなかった。
代わりに、低い声で言った。
「……無茶だ。国は、貴族が金を握ってる」
「違います」
エルミナは即座に否定した。
「金を回しているのは市民です。貴族は、ただ吸っているだけ」
男は黙った。 否定できない。
エルミナは、机の上に手を置いた。
「私は、市民が市民を代表する形を作りたいんです」
男が眉を寄せる。
「代表?」
「ええ。誰かが必要です。王族でも貴族でもない人間が、国を語る場に立つ必要がある」
男は鼻で笑った。
「そんな奴が立ったら、殺されるぞ」
「殺されません」
「根拠は?」
エルミナは静かに答えた。
「殺される前に、支持を固めればいい」
その言葉に、男は初めて黙り込んだ。
支持。
それは王国の魔法よりも強い武器だ。
エルミナは、男の顔を見た。
疲れた顔。 だが、折れていない目。
この男は、街に根を張っている。 声を荒げない。 けれど人が集まる。
そして年齢がいい。
四十から五十。
若い英雄は、眩しすぎて反感を買う。 老人は、未来を語るのに弱い。
この年代は違う。
働き盛り。 実績を持ち、現実を知り、なお未来を欲しがる。
エルミナは、心の中で確信した。
――見つけた。
男は慎重に言った。
「……嬢ちゃん。お前は何者だ」
エルミナは一瞬だけ迷った。
ここで正体を明かすべきではない。 だが、すべてを隠すと信頼は得られない。
信頼は、相手の恐怖を理解した者にしか与えられない。
エルミナは、言葉を選んだ。
「私は、上の世界に少しだけ近いところにいます」
男の目が細くなる。
「……貴族か」
「違います」
エルミナは即答した。
それは真実だった。 彼女は貴族ではない。
王女だ。
だがその差は、ここでは重要ではない。
男は深く息を吐き、椅子にもたれた。
「嬢ちゃん、危ない遊びをしてるぞ」
「遊びです」
エルミナは、微笑んだ。
「だから危ないんです」
男が黙った。
この少女は、怖い。
そう感じたはずだ。
エルミナは、ゆっくりと言った。
「私は二十歳になるまでに、城下の市民層から支持を集めたい。あなたに、その役をしてほしい」
男の顔が硬直する。
「俺が……?」
「はい」
「無理だ」
「できます」
「理由は?」
エルミナは答えた。
「あなたは、街の人間に嫌われていないからです」
それは最大の武器だ。 嫌われないことは、愛されることより難しい。
男は苦笑した。
「……俺はただの家具職人だぞ」
「だからいいんです」
エルミナは淡々と言った。
「貴族でも軍人でも宗教者でもない。ただ働いてきた男が、民の代表にふさわしい」
男はしばらく黙っていた。 木屑が舞う工房の中で、松明ではなく油灯の光が揺れている。
彼はその灯りを見つめ、静かに言った。
「……嬢ちゃん。俺は、王族が嫌いだ」
エルミナは頷いた。
「当然です」
男は続ける。
「王族も貴族も、上から見下ろすだけだ。税を取り、戦争を起こし、俺たちを飢えさせる」
エルミナは、その言葉を遮らなかった。
怒りを吐き出させる。 それは心理操作の基本だ。
男が言い終えたところで、エルミナは小さく笑った。
「私も嫌いです」
男が目を見開く。
「……は?」
エルミナは落ち着いて言った。
「王族が王族である限り、民は道具にされる。だから、変えたい」
男は震えた。
この少女の言葉は、危険だった。 だが同時に、甘い毒でもあった。
自分の怒りを肯定してくれる存在。
人はそれに弱い。
男は言った。
「……お前、殺されるぞ」
エルミナは微笑んだ。
「私は死にません。死ぬほど愚かではないので」
その言葉は自信ではなく、事実だった。
男は、長い沈黙のあと、ゆっくりと頷いた。
「……分かった。だが条件がある」
「聞きます」
「俺を表に立たせるなら、民を守れ」
エルミナは、目を細めた。
守る。
それは、優しい言葉だ。 だが、優しい言葉は大抵、嘘になる。
エルミナは、嘘をつかなかった。
「守るのは、あなた自身の仕事です」
男の目が鋭くなる。
エルミナは続けた。
「私は、あなたが守れるように土台を作ります。仕組みを整えます。あなたが立っても殺されないように、空気を作る」
男は、息を呑んだ。
「……お前は、何をする気だ」
エルミナは、軽く首を傾けた。
「世界を壊します」
そして付け足すように、穏やかに言った。
「合法的に」
男の喉が鳴った。
怖い。 だが、拒めない。
彼は理解したのだ。 この少女は本気だと。
エルミナは椅子から立ち上がった。
「エドガーさん。明日から、あなたは少しずつ街の中心に立ってください」
「どうやって?」
エルミナは答えた。
「飢えた者に食を与える話をしてください。税の話をしてください。貴族を罵るのではなく、民ができることを語ってください」
「……できるのか」
「できます」
エルミナは淡々と言った。
「人は怒りで動きます。でも、支持は希望でしか集まりません」
男はゆっくり頷いた。
エルミナは扉に手をかけた。
「二十歳までに、あなたを民の象徴にします」
男は呟いた。
「……お前は何者なんだ、本当に」
エルミナは振り返り、柔らかく笑った。
「ただの、退屈しのぎです」
そして、扉を開けた。
夜風が工房に入り、木屑が舞う。
エルミナは街へ出た。 フードを深く被り、闇へ溶ける。
誰にも気づかれずに、王城へ戻る道を歩く。
胸の奥が、少し熱い。
上手くいく。
確信があった。
――いや、確信ではない。
計算だ。
計算は裏切らない。
王城の塀が見えた頃、エルミナはふと立ち止まった。 周囲に人影はない。 夜警の巡回も遠い。
彼女は、ほんの少しだけ口元を歪める。
「……ふふ」
誰にも聞こえない声。
次の瞬間、堪えきれないように肩が震えた。
「……あは、あはは……」
笑い声は小さい。 だが、確かに狂気の色を帯びている。
彼女は自分の頬を指で押さえ、笑いを飲み込んだ。
――まだ早い。
今はまだ、王女としての仮面を被らなければならない。
エルミナは息を整え、何事もなかったように城へ戻った。
そして思う。
市民に支持される「代表者」。 貴族を無力化する象徴。 王族がいなくても国が回る証明。
それらを作り上げたとき――
兄上は、どんな顔をするだろう。
王子は、この国の「最高権力者」として、民の前で立っていられるのだろうか。
想像するだけで、胸が軽くなる。
エルミナは闇の中で目を細めた。
神が嫌いだった。
だが、もし神がいるのなら。
今この瞬間、神は彼女の計画を止められない。
それが、最高に愉快だった。
王女エルミナ・ヴァレリオスは、静かに歩き続けた。
誰にも気づかれず、 誰にも疑われず、 この国を、民の手で壊すために。




