第10話 輪作農業
翌朝、王宮の回廊はまだ薄暗かった。
夜会の余韻が残る王都は、香水と酒の匂いを引きずったまま眠りに沈み、しかし王族の朝だけはいつも通りに始まる。 政治は眠らない。貴族は怠けるが、国家は怠けない。
エルミナ・ヴァレリオスは窓辺に立ち、王都の外へ視線を投げていた。 空は鈍色で、雲が低い。
隣に控えるノエルが、静かに言った。
「北東の農村部、視察の許可が下りました」
「当然ね」
エルミナは振り返らない。
「飢餓の噂が出ているのに、貴族が宴会をしている」 「その矛盾を放置するほど、私は退屈ではない」
フィオナが鎧の継ぎ目を整えながら、勢いよく頷いた。
「任せてください! 護衛は完璧に――」
ガチャ、と金具が外れた。
フィオナは固まった。
ノエルが無表情で金具を拾い、差し出す。
「……完璧、とは」
フィオナは顔を赤くした。
「ち、違う! これは装備の点検をしてただけだ!」
エルミナは微笑む。
「いいわ。あなたの不完全さは、逆に安心する」
フィオナはなぜかショックを受けた顔をした。
馬車は午前のうちに出た。 王都を離れるほど、道は荒れる。 舗装された石畳は土に変わり、整った家並みは粗末な木造に変わる。
貴族が「地方」と呼ぶ場所は、つまり「切り捨てた場所」だった。
村に着くころには、空気の匂いが違っていた。 王都の香油の匂いではない。 湿った土と、家畜と、汗の匂い。
村は痩せていた。 畑は広いが、作物は貧弱で、土は固い。 人の顔色も悪い。
村人たちは王女の馬車を見て、慌てて頭を下げた。
「お、おおお王女殿下!?」 「なぜ、このような場所に……!」
村長らしき男が駆け寄ってくる。 手は荒れ、背中は曲がり、だが目だけは生きていた。
エルミナは馬車を降り、裾を汚さぬよう歩く。
貴族なら、まず臭いと言うだろう。 貴族なら、まず「不衛生」と言うだろう。 貴族なら、まず「管理が悪い」と言うだろう。
エルミナは違った。
「村長。案内して」 「畑を見たい」
村長は驚いた顔で頷く。
「は、はい! もちろんでございます!」
村の畑は、確かにひどかった。 耕しが浅い。水路が雑。肥料が足りない。 何より、人が疲れすぎている。
労働が重いのに、収穫が少ない。 その循環が、村全体を貧しくしていた。
エルミナは畑の土を手に取り、指で砕く。
(……この国は、原始的すぎる) (この程度の飢えで崩れる構造は、美しくない)
ノエルが小さく呟く。
「土が固いです」
「ええ。耕し方が間違っている」
村人たちがざわついた。
「え……?」 「殿下が、畑のことを……?」
フィオナが口を開けて呆然としている。
「王女殿下、土の硬さとかわかるんですか……?」
エルミナは頷いた。
「当然。国が生きるか死ぬかは、農作で決まる」
村長が恐る恐る聞く。
「殿下……畑が悪いのは分かっております。しかし、我らには手が……」 「肥料も、道具も……」
エルミナは、村の農具を見た。 木の鍬。古びた鎌。使い潰した鋤。 壊れた道具を修理する金もない。
彼女は村人の目を見た。
「道具は増やせない。でも、やり方は変えられる」
村人たちの目が揺れる。
期待と疑念。 王族が「やり方を教える」など聞いたことがない。
貴族は奪う。 王族は命令する。 それが常識だ。
エルミナは静かに続けた。
「まず、畝を作る」 「畑を平らにしない。盛り上げるの」
村人たちは互いの顔を見た。
「畝……?」 「畑を盛る?」
エルミナは指先で地面に線を引き、畝の形を描いた。
「水が溜まると根が腐る。逆に乾けば枯れる」 「畝を作れば、水を管理できる」 「雨が多い年でも耐えられる」
村長の目が見開かれる。
「……なるほど」
エルミナは続けた。
「次に、作物を一種類だけ作らない」 「麦だけでは飢える。豆を混ぜる」
村人が言った。
「しかし豆など、売れません」
エルミナは首を傾げる。
「売るために作るの?」 「生きるためでしょう」
村人たちが沈黙する。
エルミナは穏やかに言った。
「豆は土を豊かにする」 「豆を植えた畑は、翌年の麦が増える」
ノエルが小さく呟いた。
「……輪作」
エルミナは微笑んだ。
「理解が早いわね、ノエル」
フィオナがぽかんとしながら言う。
「え、えっと……輪作って何ですか?」
ノエルは淡々と答える。
「同じ畑で、毎年同じ作物を作らないこと」 「土が死ぬから」
フィオナは「へぇ……」と感心している。
エルミナはさらに、村の水路を見た。
浅い溝。泥で詰まっている。 水が流れず、腐っていた。
「水路は直線ではなく、枝分かれさせる」 「村の男手を半分割いて、まず水を生かしなさい」
村長が呻く。
「男手を畑ではなく水路に……」
「畑は逃げない。でも水は逃げる」
エルミナの声は淡々としている。 だが断言には力があった。
村長はゆっくり頷いた。
「……分かりました」
エルミナは村人を集めさせた。 子供も老人も、女も男も。
そして彼女は、一つの言葉を投げた。
「パンがないなら、作ればいい」
村人たちは凍りついた。
「え……?」
それは、貴族が言う冷酷な言葉に似ている。 だが、エルミナの声は違った。
「小麦が少ないなら、増やす方法がある」 「道具がないなら、今ある道具で効率を上げる」 「売れない作物なら、食べればいい」
村人の一人が叫んだ。
「そんな簡単に言っても!」 「俺たちは毎日必死で――」
フィオナが一歩前に出ようとしたが、エルミナが手で止めた。
王女は、その男を見た。
怒りもない。 哀れみもない。
ただ観察。
「必死なのは分かる」 「でも、必死で間違ったことを続けても、結果は変わらない」
男は言葉を失った。
エルミナは続ける。
「あなたたちは努力している」 「だから私は、努力を成果に変える方法を渡す」
その瞬間、村人の空気が変わった。
王族が命令するのではない。 王族が施しをするのでもない。
王族が「方法」を渡す。
それは、理解できないほど異常だった。
だが、異常だからこそ、希望に見えた。
村長が膝をつき、深く頭を下げた。
「……殿下」 「我らは、見捨てられたと思っておりました」
エルミナは微笑んだ。
「見捨ててない」 「まだ使えるから」
ノエルが一瞬だけ視線を上げた。 だが何も言わない。
村人はその言葉の裏を理解しない。 理解しなくていい。
彼らが必要なのは、真実ではなく結果だ。
数日間、エルミナは村に滞在した。 彼女は手を汚さない。 だが指示は細かい。
畝を作らせ、水路を掘り直させ、豆を植えさせ、藁を混ぜた堆肥を作らせた。 昭和の農村なら常識のような工夫。 だがこの世界では、革命だった。
村人たちは驚きながらも動いた。 動けば、少しずつ畑の顔が変わった。
土が柔らかくなり、水が流れ、苗が立つ。
それを見て、村人たちが泣いた。
「……生きられる」 「今年は、生きられるかもしれない」
エルミナはその様子を眺め、心の奥が静かに満たされるのを感じた。
(美しい) (人が、私の言葉ひとつで動く)
夜。 村の外れで一人になったとき、彼女は小さく笑った。
声を殺し、肩を震わせる。
誰にも見られてはいけない。 見られれば、仮面が割れる。
だから闇の中でだけ笑う。
「……ふふ」
翌日、王女が村を発つとき、村人たちは道に並び、深く頭を下げた。
「王女殿下、ありがとうございます!」 「殿下が来てくださらなければ、我らは……!」
エルミナは馬車に乗り込む直前、振り返った。
「成果が出たら、王都に報告を上げなさい」 「数字で」
村長は頷く。
「必ず!」
馬車が走り出す。 村が遠ざかっていく。
フィオナが嬉しそうに言った。
「すごいです、殿下!」 「村の人たち、完全に殿下の味方になりました!」
エルミナは窓の外を見たまま言う。
「味方ではない」 「私が生かしただけ」
フィオナは「え?」と首を傾げたが、ノエルが小さく息を吐いた。
「……殿下らしい」
馬車は森道へ入った。 木々が増え、道は細くなる。 鳥の声が遠く、風の音が近い。
エルミナは、微かに違和感を覚えた。
静かすぎる。
護衛の兵が、馬車の前方で手を上げる。
「停止!」
次の瞬間。
弓の音が鳴った。
ヒュッ――と空気を裂く音。
矢が馬車の側面に突き刺さり、木片が散った。
フィオナが叫ぶ。
「伏せて!」
ノエルがエルミナの前に立つ。 表情は変わらないが、動きは速い。
森の中から、複数の影が現れた。
黒い布で顔を隠した者たち。 剣、短剣、弓。
数は――十を超える。
フィオナが歯を食いしばった。
「……待ち伏せだ!」
エルミナは、馬車の中で静かに微笑んだ。
恐怖はない。 驚きもない。
ただ、確信だけがあった。
(やはり来た) (私が動けば、必ず誰かが焦る)
森の影から、男の声が響く。
「王女殿下」 「ここで死んでもらう」
エルミナは窓の外を見つめたまま、淡々と言った。
「いいわ」 「でも、私を殺すなら――それ相応の覚悟で来なさい」
次の瞬間、襲撃者たちが一斉に距離を詰めた。




