2話 念願のカフェオープン!
王都を出てから馬車に揺られること三日。
私は大陸の北部に位置するノルガント地方に到着した。目の前に広がるのは、雄大な山々と鏡のように澄んだ湖。
そして、その湖畔にひっそりと佇む、レンガ造りの可愛いお屋敷――亡きお祖母様が遺してくれた別荘だ。
「空気が……美味しい!」
馬車を降りた瞬間、私は思い切り深呼吸をした。排気ガスも、貴族社会のドロドロとした空気もない。あるのは土と緑の匂いだけ。
ここが私の新しい城だ。
「さて、まずは掃除ね!」
長年使われていなかった別荘は埃をかぶっていたけれど、問題はない。
私は腕まくりをして、人差し指を立てた。
「生活魔法、《クリーン・オール》!」
指先から放たれた風の魔力が屋敷中を駆け巡る。
一瞬にして埃は外へ吹き飛び、床はワックスをかけたようにピカピカになり、窓ガラスは曇りひとつない輝きを取り戻した。
これぞ王妃教育の裏でこっそり極めた生活魔法の力。
本来は高位の攻撃魔法に使う魔力を、すべて家事の効率化に注ぎ込む。これこそ最高の贅沢というものだ。
一階の広々としたサロンと湖に面したテラス。ここをカフェのスペースにしよう。
私は前世の知識を活かし、厨房に立って早速お菓子作りを始めた。
この森には、人間よりも多くの『魔獣』や『幻獣』が住んでいると言われている。
私のカフェのコンセプトは、人間だけでなく、森の生き物たちも癒やす「もふもふカフェ」。
看板メニューは、特製のハーブクッキーと、たっぷりのミルクを使ったシフォンケーキだ。
オーブンから甘く香ばしい匂いが漂い始めると、テラスの方で「ガサッ」と何かが動く音がした。
「あら? もう最初のお客様かしら」
焼き上がったクッキーをカゴに入れ、私は胸を躍らせてテラスへ出た。
そこにいたのは――。
「グルルル……」
体長二メートルはあろうかという巨大な銀色の狼だった。鋭い牙、ナイフのような爪。世間一般では『シルバーフェンリル』と呼ばれ、遭遇したら死を覚悟すべき高ランクの魔獣だ。
けれど、私には違って見えた。
陽の光を浴びてキラキラ輝く銀色の毛並み。
ピンと立った大きな耳。そして、私の焼いたクッキーの匂いに鼻をひくつかせている、つぶらな瞳。
「きゃああああ!」
「グゥッ!?」
私が悲鳴を上げると、フェンリルがビクッと身を引いた。
違うの、怖がっているんじゃないの。
「なんて……なんて可愛いのもふもふなのー!!」
私はクッキーのカゴをテーブルに置くやいなや、フェンリルに抱きついた。
ふかふか! さらさら! 最高の手触り!
王城では猫一匹飼うことも許されなかった反動で、私の理性は崩壊していた。
「グルッ!? ガウッ……」
フェンリルが困惑して暴れるが、私は離さない。いや、正確には離れる前に、テーブルの上のクッキーを差し出した。
「これ、食べる? 美味しいよ?」
「……フン、フン」
鼻先で匂いを嗅ぎ、フェンリルはおずおずとクッキーを口にした。
瞬間、その目がカッと見開かれる。
「ワフッ! ハフハフ!」
尻尾がブンブンと音を立てて振られ始めた。
あらあら、可愛い。
「もっとあるわよ。お代わりはいかが?」
「ワオン!」
すっかり餌付けされたフェンリル。
私は勝手に「シル」と名付けた。彼は足元にお腹を出して寝転がった。
私は至福の表情でシルの毛並みをブラッシングする。
鳥のさえずり、風の音、そして巨大狼の寝息。
幸せだ。婚約破棄されて本当によかった。ジェラール殿下、ありがとう。
私は今、人生の絶頂にいます。
そうやってスローライフを満喫していた、その時だった。
カラン、コロン。
入り口のドアベルが鳴った。
シルが弾かれたように起き上がり、低い声で唸り声を上げて警戒態勢に入る。
「お客様? こんな辺境に、人間が来るなんて珍しいわね」
私はエプロンを整え、笑顔で入り口へ向かった。迷子の旅人だろうか。それと、森の調査員だろうか。
美味しいお茶を出してあげよう。
「いらっしゃいませ! 森のカフェへようこ……そ……」
言葉が途切れた。
そこに立っていたのは、長身の男性だった。
扉の枠に頭がつきそうなほどの背丈。
夜空を切り取ったような漆黒の髪に、凍てつく湖のようなアイスブルーの瞳。
仕立ての良い軍服を纏い、腰には剣を帯びている。
その顔立ちは彫刻のように美しいが、同時に触れれば凍りつきそうなほどの冷気を放っていた。
「……ここか」
低く、重厚な声が響く。
私はその人物を知っていた。知らなければモグリだ。アレクシス・フォン・オルディン公爵。
王国の北部を統べる大貴族であり、元王太子の兄。
そして、あまりの冷徹さと無表情さから『歩く吹雪』と恐れられている人物だ。
(なんで!? なんでここに公爵様が!?)
まさか元王太子の婚約者だった私が逃げ出した罪を問うために、わざわざ追ってきたのか。
処刑? 牢獄送り?
せっかく手に入れたスローライフが、開店初日で終了の危機!?
私が青ざめていると、アレクシス様はツカツカと店内に歩み入り、私の目の前で立ち止まった。
その威圧感に、さすがのシルも後ずさりしている。
アレクシス様が口を開く。
私はギュッと目を閉じた。何を言われるの?
「…………店長」
「は、はいっ! 命だけはお助けを!」
「……この店は、会員制か?」
「……はい?」
予想外の言葉に、私は恐る恐る目を開けた。
アレクシス様は無表情のまま、しかしどこか落ち着かない様子で、私の後ろにいるフェンリルを――いや、私の手にある『もふもふ用ブラシ』を凝視していた。
「私も、入会したいのだが」
……はい?




