戦後論の変遷を通して見る21世紀日本史の概略
香野仁一、「本朝史報」2402年三月号より抜粋
昭平時代~令和初期に至るまで太平洋戦争での敗北が日本史の始まりであるとする『戦後神話』は21世紀前半の国民の精神世界において、れっきとした歴史認識の根幹をなしている。
『戦後』がいつまでか? という議論は、絶えず昭平時代の人々を悩ました。
古くは1956年七月十七日の「もはや戦後ではない」宣言から始まり、「今こそが戦後の終わりである」とするような意見がたびたび現れ民衆の注目を集めはしたが、長らく日本人は『戦後』という言葉に固執し続けた。東日本大震災や新型コロナにより、『災後』のような新語が作られることもあったが、結局『戦後』に代替する単語とはなりえなかった。
戦後とは、単に時代の区分を指し示すのみならず、政治体制を示す言葉であったのだから。
そして昭平時代――一般的には、1948年から2018年までの七十年間を指す――にあっては、戦前とは基本的に大日本帝国が存在した期間を指した。日清戦争や日露戦争、日中戦争といった戦争があるにも関わらず、太平洋戦争が続いていた時代すらその言葉は包含していた。内戦が起きるその時までの日本国民にとっては、基本的に戦前と戦後によって時代は区分される、という世界観が一般的だったのである。そして渡辺政権時代の人間にとっても、民主共和国を生きる我々にとっても、それは多くの矛盾や欺瞞をはらみつつも、長く経済発展と安定を享受した、ともすれば理想化もされる、古き良き時代とも見なされがちだ。
まだまだ昭平時代の延長線上にあった令和初期は、内戦からの渡辺王朝以後に始まる前の社会構造が残存していた最後の時代だった。
だが少子化の進行や医療体制の崩壊などによって、このような安定した時代にもついに終焉が訪れる。高度に発展したインターネットやSNSによって個人・民族間の衝突が顕在化、次第に社会の矛盾が露呈していき、2030年代からは、悪意が激しくぶつかりあう「豺狼の時代」が始まる。これが高度経済成長以来の社会体制の崩壊の起点となる。
これによって昭平時代の延長線上にあった社会はほとんど崩壊してしまった。2023年様々な分野の企業の複合体として創設され、民間軍事会社として頭角を現し、政治や経済のあらゆる分野を掌握した特殊鉄鋼株式会社により政府は有名無実の機構と化していたが、特鉄が半ば崩壊した追認することによってむき出しの弱肉強食思想が席巻したのである。
そのような社会を忌み嫌う風潮は無論あったが、ではどのような社会が理想なのかという問題についても、市民の意見は一致しなかった。それでも、少数派に対する排外感情はしきりに高まっていた。
2044年八月四日、名古屋に居住するインド系移民とパキスタン系移民の間で抗争が起こり、双方が敵意を加速させた挙句銃撃戦を展開するに至った『名古屋事件』を起点に日本人の移民への敵意は頂点に達する。
明らかに、国民はかつて存在した正しい秩序を希求するようになっていた。
これが数十年前であればかつての大日本帝国の懐古になったはずだが、そもそも過去を羨望するという発想にすらたどり着けなかった。
国民には思想が欠乏していた。歴史や文化に対する敬意や関心も地に落ちていた。愛国心を持とうにも、自国への知識がないものだから、結局国内外の少数派への排外的な言動を繰り返す他なかった。
新聞やテレビから戦争体験者の証言が消え失せた。代わって、高度経済成長期やバブルの時代がどれだけ良かったか懐旧する記事で新聞や雑誌のページが埋め尽くされた。
核武装を唱える政治家が喝采を受けた。
SNSでは挨拶の代わりに異民族への侮辱的な言辞にとって変わった。数十年前なら高度な福祉や手術で助かったはずの命が助からなくなった。
自力救済が当然になり、平均寿命は急激に短くなった。インターネットやSNSが国家や政治家の歪な思想を伝えるための拡散装置に堕した。
この際社会変化を乗り越えるための知恵を出してくれたであろう政治や芸術を担った人間はその二十年間で次々と命を落とした。いまだ見たことのない社会変化にどう対応すればいいか、明確な答えの出せる者は誰もいなかった。
2035年、戦後九十周年を記念して、これからの世界平和を議論するためのシンポジウムが開かれた。討論が白熱してきた瞬間、ある都議が突然立ち上がり、早口でまくし立てた。
「太平洋戦争は存在しない。それは闇の勢力による国家を弱体化するための忌まわしい方策である」
満洲からの引揚者も出席していた場でのこの発言はネットで炎上したが、同時にくだんの陰謀論の信奉者による擁護が巻き起こった。このようなあからさまな虚偽でさえ全否定されなくなるほど、市民の精神は荒みきっていた。
2045年に百年が経った頃には、もはや戦争を知る人間はほとんどいなくなっていたし、戦争について語ることを禁忌とする気風も喪失していた。もはや国民は緊迫する国際情勢に対して無関心ではいられなくなっていた。そして、状況を収拾させる方策を見つけえないまま、過激な排外主義を加速させていった。その要因は、国内にも甚だ大きく存在した。
市民同士の連帯の消失、貧富の格差。あちこちでスラムが生まれ、治安の良い地域と悪い地域が分かれる。日本語教育を受けられなかった移民が周囲の日本人から断絶した共同体を形成し、あたかも独立国として振舞うようになった。災害の多発で山間部が放棄され、極端な過疎化で地方自治体が有名無実となり、政府による社会成員の把握の困難になったことによって社会の分断が始まり、国民意識の形成を困難にした。日本は統一された国家であるという無意識的な前提に、市民が疑問を覚えた。
民衆の間で急速にアノミーが蔓延した。もはや根本的な破壊なくしては事態を解決することなど不可能だった。
人類の集合意識が次の虐殺を準備しつつあった。
こうして荒廃を極めた社会は、内戦によってとどめをさされた。
2047年、京都にある特殊鉄鋼本社が地球外生命体の研究の途中爆発して、蜷川平助会長(1920年生)が死去した直後、特鋼保安部から離反した渡辺哲雄が、これに対して『救国隊』を名乗り、反旗を翻したことで始まったこの戦争は、西南戦争以来約170年ぶりとなる我が国の内戦であり、日本はその十年間で人口の三割を喪失した。ありとあらゆるミサイルと爆弾を装備したドローン同士が上空でぶつかり合い、ビル街が灰燼に帰した。それはまさに、太平洋戦争の結果次第でありえた本土決戦がついに時代を異にして実現された感があった。
救国隊と特鉄軍の間で過酷を極めた一幕となった広島の戦い(2051年六月~七月)では、各国の芸術家や芸能人が共同声明を出して原爆ドームが戦火に巻き込まれないように嘆願したが、その望みも空しく流れ弾を受けて破損した出来事に際しては、日本国内では驚くほど関心を集めなかった。核兵器への忌避感さえもはや遠い昔になってしまったし、人心の荒廃によってあらゆる悲劇に無感覚になってしまったようだ。
しかし犠牲者は戦闘よりも、むしろ軍隊への物資の挑発が引き起こした飢餓や疫病によるものが遥かに多かった。人間が人間を信用しなくなり、積極的に他者との交流を断つように変化した社会は、そのまま朽ち果てて亡びるしかなかった。我々はその想像を絶する破滅の後を生きている。それを知らずに生きて、死んだ彼らの精神構造を察することなどもはや不可能に近い。
2052年、九州と北海道に割拠していた独立勢力を滅ぼし、哲雄は『救国戦争』の終結を宣言する。
これによって戦後はもはや内戦以降を指す単語になったはずだが、太平洋戦争後を『戦後』と呼ぶ者は存在した。まだ戦争のほとぼりがいまだ冷めない2054年二月、ジャーナリスト立花李倍と山中善逸との間で行われた対談では、話し合いが途中でうまくいかなくなった。立花氏が『戦後』を太平洋戦争以後の意味で使うのに対し、山中氏は救国戦争後の意味で使っていたからである。(1)
立花氏は「これは戦後日本において最大のテロ行為である」と言っていた。これだけの被害を目前にしながらも、民衆まだ太平洋戦争を対比してでしか歴史を語ることができなかった。それくらい過去のトラウマは人々に大きな影を落としていた。いや、現在の出来事であったからこそ、目前の悲惨な出来事を客観的に昔の出来事に対比することなどできはしなかったのだ。しかし、哲雄は演説において救国戦争終結後の現在を『戦後』と表現している。哲雄が今度の戦争についてどのように『戦後』の社会を築くべきか語れば語るほど、人々は自然に哲雄の歴史認識へと意識を転換させていった。
哲雄は、表向きは日本政府の庇護者としてふるまいながら、裏では旧特殊鉄鋼のネットワークを利用して実権を握り、改革を開始した。
哲雄には、先の戦争を国民統合の神話として利用することへの躊躇がなかった。国外に居住していた日本人の帰国を禁止したのは、その一環だ。奴らは戦争からのうのうと逃げて生き延びた卑怯者である、とするようなプロパガンダを流布したからだ。
あの地獄のような極限状態を生き延びた者たちに、戦争から逃げ出した腰抜に対する憎悪で一致団結させるのは容易だったに違いない。哲雄は、憎悪を扇動することで人々を不満から目をそらしてのけたのである。
国内外の脅威に備えるため、すでに既得権益をむさぼるだけの利権集団となっていた自衛隊を解体して、同時にその勢力と特鋼の部隊を合併することで日本軍を設立した。大日本帝国の消滅以来廃れていた日本軍の称号が百二十年ぶりに復活した。
彼が社会を統合し、国家を存続させるために打ち出した理念は『基本的人権の否定』である。国民は国家に尽くすことによって初めて生きる権利を認められる、と定義づけた。そのためには、国民はたった一人の君主に従属せねばならない。位階を同じくする人間同士の連帯などあってはならない。
人間の横の繋がりを断つために、民主主義を否定して全ての政党を解体し、あらゆる権力を一点に集中させた。それだけではなく、明治維新以降続いていた経済界や政界の血筋を粛清し、自分に忠誠を誓う者たちで周辺を固め、渡辺家による世襲独裁を盤石なものにした。自分の親族を地方の『譜代』に任じ、強権を与えて統治させた事実は悪名高いものだ。
戦争終結から十年足らずで、日本はその姿を大きく変えた。
昭平時代の人間にとって、太平洋戦争が歴史上の巨大な断絶であるように、渡辺政権以後を生きる人間にとっては『救国戦争』――生き残った者が悔し紛れにそう呼ぶだけで、実態は、ただ悲惨なだけの内戦に過ぎない――が歴史を二つにわける楔となったのである。
しかし、かつての『戦後』と違って、この『戦後』は自由で民主的な社会をもたらしはしなかった。
あらゆる史家の意見では、太平洋戦争後の旧日本があれほどの復興を成し遂げたのは、あらゆる政治情勢の都合が偶然嚙み合った末の、奇跡の産物であるという。太平洋戦争の際にも国家が受けた被害は甚大なものだったが、それでも社会の根幹に関わる部分はなお健在であったために、人材を活用することができたという。
しかし救国戦争においては、事態はもっと悲惨なものだった。社会の復興に必要なインフラや人的資源が絶望的に不足していたし、国民もほとんど社会を再生する意志を喪失していた。
老若男女問わず一定の人間が一掃されたことで社会には巨大な空白が生じた。国家はもはや崩壊寸前の状態に陥り、いつ国外勢力による侵略を受けてもおかしくなかった。日本人の政治に対する関心は、これまでなかったほどに高かった。国の行く末を憂慮すればするほど、その解決策は、ただ一人の英雄が民を導くという願望に帰していく。この時代に海外に目を向ければ、ロシアやドイツでは内戦が起き、イタリアでは南北半島とシチリアに分裂し、台湾が台湾共和国として生まれ変わり、朝鮮半島ではついに大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が高麗連邦として融和の道を歩むなど、世界の激変期だった。
無数の内憂外患を抱えたうえで国家を統合するには、歴史も伝統も意味をなさない、もはや独裁者のカリスマに依存する他はなかったのである。この点で、渡辺王朝の成立は歴史の意志と言っても良かった。国民は熟慮した結果、哲雄を熱望した。日本を救った哲雄が、いつまでも日本を守り続けてくれるように願った。
そして国家は、何としてでも社会の崩壊を食い止めるために、最悪な手段を選ばざるを得なかった。
こうして私たちが今いる日本民主共和国とは真逆の、専制主義による独裁体制が幕を開いた。
近年の研究では、哲雄自身はこのような国民の熱狂を必ずしも快く思ってはいないとする意見が主流になってきたが、少なくとも哲雄が国民の間に滞留していた熱気を利用して短期間の間に堅固な独裁・世襲体制を築いたことは論を待たない。哲雄は日本人の精神的特質を研究し、国民一人一人を一つの集団として統治できるように自分に従順な民衆を作り出した。中国や朝鮮半島から亡命した政治犯を顧問として雇い入れ、独裁体制による支配理論を構築していった。
もはや誰の目にも哲雄による支配の絶対的優位が明らかになった2068年、京都・二条城で当時の内閣総理大臣高坂強一から政府の譲渡を約束する文書を受け取った哲雄は、征夷大将軍を名乗ることで独裁体制を正当化する。ここまでくると、さすがに哲雄を盲目的に支持していた人間の間にも彼の台頭を不安視する者が現れた。しかし、哲雄を信奉する熱狂的な政治集団の妨害により、そのような意見は封殺された。
2070年二月、哲雄の限りない乱暴狼藉に恐怖した皇太子を中心にして、皇室が英国へ亡命する。日本史上未曽有の事態に国民は動揺した。国家の最高権威を喪失したことは哲雄にとっても衝撃であり、憲法に定める天皇の国事行為の施行といった点でも問題が生じるはずだが、彼はこれに対して何と空位となった皇位をそのまま存続させた。それゆえ、あれほど将軍に対する絶対的な崇拝が国民に強制されたにも関わらず、日本国統合の象徴としての天皇は法の上で存在し続けたし、我が民主共和国が成立するまで、一貫して天皇制は有効であり続けたのだ。(2)
この政治体制を選び取った国民を一概に批判し否定するわけにはいかない。
彼の専横を許したのは、当時の各国でもまさに自由や民主主義がないがしろにされ、国家が国民を所有物として扱うような空気感を国民自身が許容していたのもある。
そして、あまり大っぴらに言えないことだが、日本が渡辺王朝による独裁体制から民主共和国に移行できたのは確かに、歴代将軍の徹底した政策により国家を均一性の高い、安定した社会に確定した前提もあったのだ。
何より、渡辺哲雄が全ての問題を解決したわけではない。哲雄はあくまで、日本社会の新しい基盤を用意したに過ぎないからだ。彼が死んだ2084年になっても、いまだ社会は完全な破壊から立ち直ってはいなかった。日本はいまだ国際的な信頼を回復したとは言い難く、戦災孤児が裏社会と結託して、治安を脅かしていた。戦争によって社会から切り離された人間を、管理下に置くことは困難を極めた。
何より内戦で散り散りになった人々が自衛のため集合し、外界からの干渉を拒む集落が形成されたことは、渡辺哲雄にとっても由々しき問題であり、政府による社会の末端まで統制を行き渡らせる取り組みは熾烈を極めた。これらの集落の中には、海外からの移民を中心として、日本語を解さない住民により構成されたものが少なくないからである。日本の文化・経済的な均質性は20世紀に比べると大いに損なわれていた。社会の均一化を至上目的とする渡辺政権の歴史は、それをひたすら打破していく戦いの歴史と言ってもいい。(3)
哲雄の子孫が就任する征夷大将軍を頂点とし、末端の市民までをも連結した社会構造が完成する2120年代になるまで、こういった共同体はなお列島各地に残存し続けた。そういった少しでも独立性のある社会集団を完全に消し去った時、ついに渡辺家の支配が完成したといえる。このように渡辺家は、ひたすら内部に向かって支配を推し進めることに、全力を注いだ。
そして戦争が終わるまでに存在したあらゆるものが次第に消え失せ、代わりに『戦後』の社会を特徴づけるものが次第に出そろっていくに至る。
時代が下り、やがて戦前の歴史を実際に知っている人間が消えていくと、国民はもはや哲雄の存在しなかった日本の姿を想像できなくなっていった。国家の政局から、日々の生活の一挙手一投足に至るまで、哲雄の存在感があった。昭平時代には太平洋戦争が全民族共通の神話であったが、渡辺時代には内戦が全民族共通の神話だった。内戦でどんな戦いがあり、どんな人間がどんな英雄的活躍を果たしたか、教科書の中で詳しく描かれたし各地の戦跡では英雄たちの戦いぶりが勇壮な絵画として展示された。誰もがその悲惨で誇りある歴史の上に立つ者としてのアイデンティティを刻み込まれたのである。
こうして国民の価値観は、昭平時代とは全く違うものとなった。渡辺将軍による教育の薫陶の結果、国民は哲雄に支配される前の生活を全く想像できなくなっていた。
だがそれでも、歴史上の繋がりはあるという理由で、基本的にその時代が『古き良きもの』として捉えられるようになる。
第二代将軍哲幸の統治が安定してきた頃から、ドラマや映画の中で、1950-1960年代の、学生運動などを舞台にした作品が多数制作されるようになる。高度経済成長やバブルといった栄華からはほど遠い世情においては、明日がどうなるか分からなかったその時代の方が国民の共感を得やすかったのだろう。旧北朝鮮へ帰還した人々を襲った葛藤や苦悩を描いた『籍』(2096年、安達芳吉監督)は今でも名作とされている。時には平成時代を舞台にした時代劇が出たこともある。だが、それらはいずれもかつての時代の価値観ではなく、それを制作した時代の価値観に沿って作られたものだ。そこで描かれる世界はみな渡辺政権の気風を反映したものであり、実際の昭平時代とはかけ離れている。(4)
だがそうでもしないと検閲を潜り抜けられないくらい、渡辺王朝の意志は絶対だった。哲雄の遺訓にも「あらゆる芸術は国家の支配に益するものでなければならない」とあるように、基本的に政府の定めた方針に従った作品しか公開を許されなかったのである。
渡辺政権の正統性を疑う言論は必ず弾圧され、アニメや漫画への表現規制も著しいものがあったから、文化人たちは過去の歴史に仮託して現在の世情を風刺するより他はなかった。このあたりの事情は、江戸時代、人々が言論弾圧を避けて歴史物語で今を語ろうとする風潮があったことを想起させる。
この頃になって太平洋戦争は『過去の歴史』として完全に切り離されたと言っていい。戦後が内戦後を意味する言葉として完全に置換されたのは、22世紀に入ってからである。そして昭平時代はこの民主共和国の時代に入ってもなお、人々の郷愁を誘う歴史であり続けている。
(1)弟は「皇将顕彰記念塔」内部のステンドグラス連作で有名な画家の立花江蓮(2014-2108)。
(2)民主共和国建国時にも、ブラジルに居住していた皇胤を呼び寄せ、もう一度立憲君主制を回復すべきであるとする意見があったものの、当事者が日本への移住を拒否したため、結局共和国として成立したという経緯がある。
(3)内戦後の社会で、海外からの移民から国民の遺伝子にもたらされた影響が極めて大きい。2090年に京都府が実施した人口調査では、京都市の人口の四割以上が海外移民の子孫であったことが判明している。また、北海道大学による2212年から2216年の調査では、昭平時代の日本人と当時の日本人のゲノム情報にかなりの差異があることが判明した。
このような現象は人口減少によるボトルネック、海外からの移住者の流入による遺伝子の撹乱という二つの出来事が考えられる。
(4)こうして作られた映像作品には、時代考証が疑わしいものが多々ある。たとえば2245年に人気を博したドラマ「オリオン座の下で」はリーマンショックが起きた2008年を舞台にしながら、2010年に発表された歌「ヘビーローテーション」が店の中で流れるシーンが存在する。実際に昭平時代に制作された映画やドラマは、政府の検閲によって見ることのできない作品が多かったから、想像で補うしかない場面が多かった。
渡辺時代のドラマや映画で描かれた、実像とかけ離れた昭平時代像の受容については室生京之進「創られた昭平時代」(将国書堂、2296年)に詳しい。