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ショート・ケーキのない喫茶店

作者: 碧カミライ

最近、連載の方の筆が止まってしまっているため気分転換に短編小説を書いてみました。

初短編(しかも普段書かないような話)なので色々不備があるかもしれませんがご了承ください。

田中由美(たなかゆみ)は特にこれと言った当てもなく散歩していた。彼女が歩いている道の街路樹は葉を黄色く染め、秋の朗らかな日に照らされ金色に輝いていたが彼女の目に留まることはなかった。彼女は気持ちを落ち着かせるべく、母に勧められたように懐かしい街中を歩いていたにもかかわらず。

彼女は一人、実家に帰省していた。…というのも彼女の夫である田中一(たなかはじめ)の不倫が発覚したのである。しかもその相手とは自分と付き合う前から関りがあったらしく、自分と結婚してからも月に一度程度のペースで付き合っていたそうだ。彼女はその相手とかつては付き合っていたと伝えられていた。普段の夫は小心者でなかなか、好きとも言ってくれなければ自分から手をつなごうともしてくれなかったが、「今はもう別れた」「今は由美しか愛してない」なんて酒を飲んではすぐに酔っては言っていた。夫は酒に頼らないと好きとも言えないのである。…でもまさか、その酒のせいで今度は離婚に繋がりそうになるとは思ってもいなかっただろう。


私はそのことが明らかになった当日中に有無を言わさずに大阪から福岡にある実家に帰った。実家に着いたころには酔いがさめ、机に置かれた置手紙を見たのだろう。夫からの着信が止まらないがすべて無視し、鞄の奥底に入れている。一時間近くはすぐに焦る夫と同じように震え続けたスマホは今はどんなに美しい景色を見ても、何も感じない私と同じようにしんと静まり返っていた。

忘れようと思えば思うほど、強く思われる夫の存在に辟易しつつ、登下校の時間以外は閑散としている中学時代の通学路を歩いていると、『秋のモンブラン 限定販売!』と書かれたのぼりがある喫茶店が目に留まった。

(こんなところに喫茶店があったっけ)

と思いつつ、外から中の様子を見てみると今どき珍しい昭和レトロな喫茶店でカウンター席と窓のそばにあるテーブル席しかない小さな店だった。雰囲気から推測すると随分昔からありそうだが、こんなところに喫茶店があった記憶がない。店の入り口の近くには『喫茶 モカ』と書かれた小さな看板があり、その隣には先ほど見たのと同じモンブランに関して書かれているポスターが貼られていた。そんなことをしていると無性にケーキが食べたくなってきた。最近、ダイエットをしていたためにろくに甘いものを食べていないこともあり、その欲望はどんどんと膨れ上がった。ガトーショコラ、チーズケーキ、ミルクレープ…といろいろ膨らんだが、やがて一つのケーキにまとまった。

私はメニューがないか調べたが残念ながら見当たらなかった。しかし、モンブランとホットケーキが売られているのは確認できたのだから『あれ』もおそらくあるだろう。私は『あれ』を食べるべくやや重たいドアにつけられた鈴を鳴らしながら喫茶店に入った。


「いらっしゃい」

店主と思しき腰の低そうなおばあさんは聞き取りやすい声であいさつする

「お好きな席へどうぞ」とのことなので私は一番奥のカウンター席に座った。私のほかには高校生ぐらいの少年が二つ隣に座っているだけだった。平日の10時だしこんなものか。私は鞄を机の上に置き、席に座ってメニュー表を見たが

(…ない!?)

おかしい。たしかにデザートのページがありそこには大々的にモンブランの宣伝がされていて、その隅の方に抹茶ケーキやチョコレートケーキ、同じく店の前で確認できたホットケーキはあるにもかかわらず、最も人気で、おいしくて、愛されているあいつがいない。私はメニューに書き忘れているのではないかと思いおばあさんに聞いてみる。

「すみません。ショート・ケーキはないのですか?」

おばあさんは冷や水の入ったコップを置く手を止め、申し訳なさそうに言った。

「いやー最近イチゴがだめで、売ってないのよ。ごめんねぇ」

言われてみればイチゴのケーキが一つもなかった。チョコレートケーキの写真にもイチゴがついていない。…しまった。それなら確認してから入ればよかった。

しかし、席に座ったにもかかわらず何も頼まずに店を出るわけにもいかなく思い、少し残念だがチョコレートケーキを注文することにする。

「コーヒーは何がいい?」

おばあさんはメニューの最後のページを見せながら聞く。そこにはいろいろな種類のコーヒーの名前が書かれているが、私にはそれらが異国語のように思えた。

「…おすすめは?」

「チョコレートケーキならこれがおすすめかな」

「じゃあそれで」

私はおばさんが店の奥に行ったのを確認して軽く息を吐く。まさかここまで本格的とは思ってもいなかった。料理を待つ間に店内を見渡しつつ、カウンターに座る少年を見る。少年は眼鏡をかけ、何かを読みながら時々右手を動かしてケーキを食べていた。今日は平日なので学校があるはずだが、少年はのんびりしていた。しばらくすると、私の机にチョコレートケーキとホットコーヒーが置かれた。私はとりあえず机に置いてある牛乳とこれまた珍しい角砂糖を一つコーヒーに入れて、一口飲んでみたが

「…苦っ」

普段、アイスのボトルコーヒー(微糖)しか飲まない私にとって、これはコーヒーではないなにかであった。私は苦みを抑えるべくフォークを手に取り、全身真っ黒な少し硬めのケーキを口に入れる。…だが

「…苦い」

どうやら甘いチョコレートケーキではなく、大人のビターチョコレートのケーキであった。

そんなわけで想定外の苦さに手が止まっていると、私の机の上に小さな皿が置かれた。その中にはホイップクリームがあった。

「これをつけて食べたら甘くなるよ」

おばあさんの気遣いであった。なんだか情けなく思いつつも、お礼を言い、ホイップクリームをつけて食べるとおいしかった。それと忘れないうちにコーヒーにもう一個角砂糖を入れておいた(それでも足りなかったからあとでもう二個追加することになったが…)

そういえばと思い、カウンターの少年を一瞥すると同じチョコレートケーキをおいしそうに食べながらコーヒーを飲んでいた。しかもその色は出されたときと同じきれいな黒色であった。

「…どうかしましたか?」

少年がケーキを口に入れる直前に突如私に尋ねる。気づかれてしまったようである。

「あっ…いや…。そのチョコレートケーキとコーヒー苦くないのかなと思って…」

正直に話すと少年は子供っぽさが残るような微笑をし

「もうここに何回も来てるのでね、慣れました。というか、この苦さを求めてここに来るんですよ」

なかなか通な奴めと私は思った。私には苦さを求めるということが分からない。ケーキに求めるのは甘さとわずかな酸っぱさである。コーヒーに求めるのはケーキを楽しめる程度の苦さである。

「…解せないですよね。私には純白のべール身にまとい、ケーキ界の王様である甘酸っぱいイチゴが輝くショート・ケーキみたいな甘いケーキが食べたくないときがあるのです」

少年はそれだけ言って視線を再び本に戻し、チョコレートケーキを口にいれた。なぜそこで話を終わらすと思いつつ、ホイップをチョコレートケーキに乗せようとしたときにその手は止まった。


二年前のクリスマスの日に一はショート・ケーキを買ってきた。それもホールのケーキを。子供なんて今も昔もいないから最近、すぐに胃もたれを起こすようになってきた大人二人で食べることになる。

「馬鹿なんじゃないの」

一の買ってきたケーキの箱を開けて私は言った。

「何言ってんだショート・ケーキは由美の大好物じゃないか」

一は笑いながら答える。

「そうだけどさ…」

私がクリスマス用に机いっぱいに並んだ料理を指さすと、「いやー」と言いながら頭をかいた。

「買ってきたのは仕方がないし、残った分は冷蔵庫に入れたらいいか…」

私は大きく息を吐きこれ以上は何も言わないことにした。せっかくの聖夜にこのまま喧嘩に発展したらたまったもんじゃない。


その三日後に一は私にプロポーズをした。その時は酒に酔っていなかったが、その手はいつも以上に震えていて、ポケットから指輪の箱を取り出した時に滑って床に落としたのである。しかも「僕と結婚してください」の12文字を言うのに一分以上かけやがった。言い終わり、一が返事を待っているときには興奮のピークはとっくの前に過ぎていた。


何も知らない幸せだったころの思い出であった。たしかあの時のショート・ケーキはおいしくて、結局二人で全部食べてしまった気がする。次の日にどうなったかは…まあ想像通りである。ショート・ケーキを食べる私を見て夫はいつもの調子で「かわいいな」とか言っていた気がする。…でもそのころもきっと不倫してたのだろう。

途端にポイップクリームをつけるのを躊躇する。あの頃の幻想に縛られているような気がしたのである。

私は再びチョコレートケーキをそのまま口に入れる。…苦い。けれども二口目なので少し慣れたのかマシになった気がした。それに現実と比べたらこの程度どうってこともない。私は出されたものを全て食べ、お会計をするべくレジに向かった。レジにはすでにおばあさんが伝票をうち終えたのだろう、金額が浮かび上がっていた。おつりはレジの隣にある募金箱に入れることにした。ホイップクリームのお礼である。

私が店を出ようとしたとき、入口のすぐそばに『運命の糸』と書かれたポスターが目に留まる。そこにはよくある赤色の糸となぜか緑色の糸が置いてあった。

「緑色?」

私がそう口に出すと後ろでおばあさんは

「それは私の主人が買ってきたものでね。私もよく分からないのよ」

「…ご主人はなかなかに風流人ですね。緑の糸はおそらく(やなぎ)のことでしょう。昔、別れの時に柳を手折って渡す習慣があったそうです。発音が『留』と同じであることから別れずに引き留めておきたい。環にして渡すことから、分かれてもまた会えるという意味があるそうです」

まさかの少年が答えた。おばあさんは「たしかに柳が云々言ってたなぁ」と何か懐かしいものを思い出したようであった。

私は糸を一本取って買った。おばあさんはこんなのただでもいいと言っていたが、半ば強引にお金を置いて店を後にした。


外に出ると時雨が降っていた。鞄から傘を取り出そうとしたが、やめた。私は時雨の中を進む。

住宅街の向こう側にある光芒の示す先に向かって進む。

夫はそのうち場所を突き止めてやってくるだろう。その時にこの緑の糸を渡してやると心に誓いながら進む。

夫は風流なんて知らない。けれども、もし、本当に私のことを思っているならば私の与えた試練もきっと乗り越えてくれるはずだ。

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