第一話
二〇一〇年八月。
アメリカ合衆国バージニア州。
ラングレーの別称で知られる中央情報局。地下一階、組織図には載っていない長官直轄組織である内務調査室では、半年前に政権与党から送り込まれたばかりの室長、フランク・ニューイが苦虫を噛み潰した顔で部下からの報告を聞いていた。
(口の中に苦虫でも飼っているみたいだな)
報告を上げている極東エリア統括のパトリック・ゴードンは、着任以来しかめっ面しか見せないニューイにげんなりていたが、気持ちは分からなくもない。
長年続けてきた極秘の『エボリューション』計画。
投入した金額に見合う成果が出ておらず、半ば塩漬けになっていた研究に打ち切りの決定がなされたのが三日前。皮肉なことにその直後、初の成果が確認されたのだ。
「情報の確度は?」
ほんの少し塩を混ぜてドリップしたコーヒーをすすりながら、ニューイはゴードンを見据えた。
ゴードンの前にも同じコーヒーが置かれているが、申し訳程度に口を付けただけでカップの中身はほとんど減っていない。たっぷりのミルクと砂糖で酸っぱさを誤魔化した、サーバーで煮詰まったコーヒーを二十年以上愛飲しているゴードンは、前世紀の遺物のような海軍式コーヒーなど真っ平だった。
「HundredPercent。ただし、彼以外の個体が全て不完全だったことや、彼の周辺で特異事項が報告されていないことを考慮すると、まだ覚醒していないか、想定したほどの進化幅がなかったか……。しかし、能力はともかく無事に成長しているとしたら初めてのケースです」
あらゆる分野の異才から採取した遺伝子情報を切り貼りして組み替える、大豆やコーンでさえ躊躇われるような実験だったと聞いていた。遺伝子組み換えを行った受精卵を母体の子宮に移し妊娠を図る。母体はみな、適合のみで選定された三十歳以下の訳あり女性だった。
倫理的な問題は別として、生まれるだけでなく十二歳まで成長するなど、報告を上げているゴードン自身信じられなかった。
「二十年以上の時間と五十億ドルを投入して、半年間自発呼吸を保てた個体は一体もいなかったと聞いている。それがどうして今頃、しかも遠く離れたサンフランシスコのダウンタウンで見つかったのかね?」
薄汚れた教会で隠し撮りされたと思われる男児の写真を、ニューイが指し示した。
「室長が着任される前のことで恐縮ですが、十三年前に行方不明となった母体がいたのはご存じですか?」
「行方不明? そんな話は聞いていないぞ」
ニューイの口調に非難の棘が加わった。
「引き継ぎ事項に関しては、私はなんとも……。彼女がその母体です」
言葉の棘を受け流したゴードンは、テーブルに広げたファイルのページを捲ると続けた。
「アイ・ヒイラギ、当時三十二歳。研究所で発生したボヤ騒ぎに乗じて脱走したようです。妊娠二十週目に入り、担当医から母性の芽生えについて注意喚起がなされた直後でした」
「ただのプラットフォームが母性だと? 胎児とは血の繋がりのない単なる受け皿、しかも母体はみな犯罪者だろう」
侮蔑を込めた物言いにどうしようもない嫌悪感を抱いたゴードンだったが、感情を顔に出す愚は犯さない。
「ミズ・ヒイラギは、二十歳の頃に生まれたばかりの我が子を亡くしているようです。そのせいもあって胎児に執着したのではないでしょうか」
「君のくだらない考えなど聞いていない。それで、この女は捕まえたのかね?」
「残念ながら、脱走から一年半後に遺体で発見されました。発見時の状況から、おそらく自殺と思われます。我々の追跡から逃れられないと悟って、一歳まで育てた我が子をどこかに預けた後に、自ら死を選ぶことで追跡を断ち切ったのではないかと。これは私のくだらない考えですが」
「死んでいるのなら女のことはどうでもいい。それより、どうやってその子を発見したのかね?」
ゴードンの嫌みをあっさりと無視し、ニューイは男児の写真を顎で示した。
「DNAに組み込まれていた、検知用のマーカーがヒットしました」
ゴードンはファイルのページを進めた。