ハッピー・バースデー
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ベッドの上ではっと目を覚まして、涙したところで笑われた。
「んだよ、なんだ? 先輩殿はどうしちまったっていうんだ?」相棒はスマホを眺めながら笑い、閲覧しているのはニュースだろう、「あんま笑わせんなよ。おまえはいつもクールで尊大な先輩でいてくれ」と告げてきた。
私は苦笑しながら上半身を起こし、パーラメントの先に火を灯した。
なんの夢を見ていたのかなんて、もう覚えていない。
「世はもう夏休み」
「ああ、そうだな。そういやそうだ」
「ちょっとついてきなよ。北海道に連れてってあげる」
「んなの、興味ねーんだけど?」
「とにかく来なよ。損はさせないから」
「飛行機、嫌いなんだよ」
「そんなの初めて聞いた」
「そりゃそうだ。初めて言ったんだからな」
相棒は朗らかに笑った。
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釧路、網走、旭川、富良野、美瑛、あちこち回った。事あるごとに不機嫌そうな顔をして、「どれもつまんねーな」と言って寄越した相棒である。「それ、ニッポンの観光資源そのものにケチをつけてるようなもんだよ」、「国交省観光庁。奴さんらは鉄砲より強いのか?」、「脳筋馬鹿」、「存じ上げておりますよ、先輩殿」。
レンタカーは後輩が動かしている。ブレーキの具合とか減速のタイミングとかは気になるものの、まあ、大方、うまくやってはくれている。
札幌へと戻る、高速の道すがら。
「楽しかったでしょ? 眼福になった感じはするでしょ?」
「いや、やっぱつまんなかったな」
「あー、空気を読みなよ」
相棒はいかにも不機嫌そうに肩をすくめ、ステアリングを左に切る。右に行ったり左に行ったりでしつこく追い越しをかけるあたりは私に似ている。べつに急がなくてもいいのに。根がせっかちなのだ。
「まあ、勉強にはなったな」
「どういうこと?」
「おまえのルーツを知ることができた。おまえ、阿保みたいな田舎で思春期を過ごしたんだな。軽蔑はしねーけど、つまんねー奴だとは思ったよ」
私はアシストグリップを、左手で握った。
相棒がぐおんぐおんとアクセルを踏んだせいだ。
「それってひどいね。文句を列挙したいんだけど?」
「うっせぇ、馬鹿。黙ってろ、バーカ」
私はこいつになにをしたんだろうと思う。
少なくとも、えらく気に障ることはしていないつもりだ。
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レンタカーを空港のそばで返却したのち、手続きを終え、飛行機に乗った。行きと同じくエコノミークラスだった。こんなところで金をケチらなくてもいいのになって考えたのだけれど、相棒はそんなことは気にしない。ただの移動手段なら金なんてかけなくていい。そういった考えの持ち主だ。――ま、そうでないときも、事あるごとにあるのだけれど。
やがて羽田に着き、私たちは別れた。寝る寝ないでいつもおたがいの家を忙しなく行き来してはいるのだけれど、自宅に帰ろうとすると、途中から路線はべつだ。羽田から京急で出て、「じゃあね」とだけ別れを告げると、「ああ」とだけ返ってきた。冷たいなぁと思った。でもまあ、そんな瞬間もあるだろう。私は抱かれたくないし、あいつだって抱きたくないときもあるはずだ。私のセーフハウスがある場所は……内緒だ。高い建物だから目立つし、いっぽうで私はこれでいいと考えている。
夜に差しかかった時間帯。
相棒から電話があった。
「何用だ、相棒」
『ちょっと感傷的になった部分があってな』
「あれま、たとえそう感じても、言葉にする男じゃないと思ってたけど?」
『これからそっちに行く。いいか?』
「いいけど、ほんと、なんのつもり?」
『おまえ、マジで心当たりがねーのかよ』
「ないけど?」
『待ってろ。俺がおまえにあらためて、植えつけてやる』
だからなにを?
不思議に思いそう問おうとしたところで、電話は切れた。
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ぴんぽーんと鳴ったところで、特にインターホンのモニターを確認することなく表に出た。「馬鹿かよ、おまえは」と叱られた。「来客が誰なのか、それくらい見てから表に出てきやがれ」となおも叱られた。
「だって、あんたが来るって言ったんじゃない」
「念には念をって話だ」
「次から気をつける。以上」
「そうしろ、馬鹿」
「そうするけど、その荷物、どうしたの?」
相棒は左手でLサイズのピザを四つも持ち、右手には深紅の薔薇の花束を持っている。「ハッピーバースデー」と言われた瞬間、私の背筋を冷たいものが滑り落ちた。思わず口元を押さえ、しゃがみ込んだ。そういえば、そうだったっけ……。混乱する頭。自分でも忘れてしまうようなことを覚えていてくれた相棒……。涙が止まらなかった。
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ダイニングテーブルより座卓のほうが気の利く場合もある。缶ビールくらいならいつも大量に備蓄してあるので、二人で威勢よく「かんぱーい!」をしたのち、おたがいピザに噛りついた。ときどき、自己の主張がたがいに強いから、仲が悪くなることはある。口を利きたくない瞬間だって訪れる。だけど、基本はこうなんだ。私は相棒が愛おしいし、相棒だって――そうだと祈りたい。
ピザを食べながら――。
「なんかな、しっくりこないんだわ」
「なんの話?」
「オメーは俺を北海道に連れてってくれただけだ。もっとなにかこう、俺に伝えたいことがあるんじゃねーのか?」
勘がいいなって思う。
さすがは元刑事。
「私にも、お花畑で喜んでいた時期があったんだよ。小さな頃に」
「それだけか?」相棒は少し唇をとがらせた。「もっとほかに、なにかあるんじゃねーのか?」
「ないよ」私は笑顔を作った。「私だけがイレギュラーなんだ。わかるかな。たとえばお正月に実家に帰っても、いまなにをやっているのかは、打ち明けることができないの」
相棒はがつがつピザを食べて、ごくごくビールを飲んだ。
「俺も似たようなもんだ」
「そうなの?」
「家族親戚に『そんなの』話して、どうなるよ」
私はあっはっはって笑った。
「あんたは正しい。ほんとうに大切なものは、遠ざけとけって話だよね」
「なあ」
「うん?」
「俺はときどき思うんだよ。おまえはある意味卑下するように言ったけど、女は花畑ではしゃいでたほうがいいんじゃないか、ってな」
「あんたらしいセリフ」私は口元をゆるめ、それから小さくかぶりを振った。「でもね、ちゃんと覚えておきな。その限りじゃない女もいるんだよ」
「そうかよ」
「そうだよ」
「ピザ、うまいか?」
「うん。サイコー」
相棒は煙草をくわえると、席を立った。
「じゃあな。帰るわ」
「泊まっていきなよ」
「そういう気分じゃねーんだわ」
「あるいはセンチになってるの?」
なにも言わずに、相棒は出て行った。
優しいなって思う。
そう、相棒は優しい。
今夜は私に、一人で考える時間をくれたのだ。
相棒が少々疲れたような顔をして電車に乗る姿を想像すると、申し訳ない。
でも、それは相棒が望んだことだから、良しとしようと考える。
あいつは男だ、私は女だ。
そこには絶対的な理の違いがある。
*****
翌日、「本部」で落ち合った。私がエレベーターに乗ろうとしているところで、偶然、出くわしたのだ。黒いネクタイを緩く締めているのは私と同じ。ほんとうに眠そうな顔をしている。だから――。
「あんた、まさか昨日、女を抱いたんじゃないだろうね?」
「いや、昨日はすぐ寝た。北海道疲れじゃねーのかな」
「嘘、言ってないだろうね?」
「言って俺がなに得するんだよ」
相棒は目をつむり、ぺしょぺしょした表情をみせた。
エレベーターが来る、二人して乗る、ボタンは三階。
エレベーターホールに出た。
「おまえ」
「おまえっていう呼称は気に食わないけど」
「だったら、先輩」
「なに?」
「ボスになんか用事でもあんのか? それともなんぞ、呼び出されたのか?」
「たとえ連絡を取り合わなくても、ここで出会えると思った」
「誰とだ?」
「決まってるじゃない。あんたと、だよ」
相棒は口元を緩めると、ウッドデッキのテラスへと向かった。
途中にある自販機で缶コーヒーを二つ買って、一つを投げて寄越す。
熱に満ちたコーヒー味のキスがしたいなと思ったけれど、かなり我慢した。
デッキの柵の上に上半身を預け、相棒はコーヒーをすする。
その隣に立つ私も、すすった。
「昨日」
「昨日?」
「ああ、昨日だ。ガキのおまえが花畑ではしゃいでる夢を見た」
「へぇ。気が利いてるじゃない」
「俺はおまえを守ってやりたいって思った」
「えっ」
「どうあれ女だ。男の俺が守ってやんねーでどうするよ」
こいつらしいなぁと思った。
だから私は相棒の背を右手でどんと叩いてやった。
「お花畑の中でも良かったんだろうけれど、いろいろな選択をしたうえで、私はいま、ここにいる。舐めるなって話だよ」
「自衛軍は楽しかったか?」
「まあ、幾分」
「神崎とは? いい関係だったのか?」
「そう思ってたんだけど、あんたと出会ってから、わからなくなっちゃった」
相棒は意外そうな顔で、私を見た。
「ハッピー、バースデー」
「それは昨日の話だし。昨日祝ってもらったし」
「俺は俺がどう考えてるのか、ときどきわからなくなるよ」
「まさか。あんたでもそうなの?」
「そうだよ。そんな折に俺がなにを頼るのか、見当はつくか?」
「つかないけど」
「煙草だよ」
相棒は今日も前を向いて、うまそうにアメスピを吸う。