ウチの極悪義弟が戸惑っているようです
「はじめまして! ところで、復讐からは何も生まれないと思わない?」
「えっ」
出会い頭に放たれた私の言葉に、我が義弟ルシアンは大きな瞳をまん丸くした。
無理もあるまい。初めて出会った義姉にいきなり復讐について意見を求められたら、普通の十歳児は戸惑うことだろう。正直自分でも、これはどうかと思う。
だが遠慮はしていられない。こちとら死活問題なのだ。
「報復は報復を呼ぶだけだよね。だからまずは立ち止まって、目の前の幸せを噛みしめてみることが大切だと私は思うんだ。――ってことでよろしく、ルシアン。仲良くしようや」
「はあ……」
「こらミレーヌ! また変な言葉遣いをして!」
横からお母様に、おでこをぱちんと叩かれる。いたい。なにも叩かなくたっていいのに。
「本当に困った子ね」とお母様はため息をつくと、ルシアンに優しく微笑んだ。
「ごめんなさいね、ルシアン。この通り、ミレーヌってちょっと変わっているの。でものんびりしていてとっても優しい子なのよ。きっとあなたのいいお姉さんになってくれるわ」
「は、はい。奥様」
「奥様、じゃないぞ。お母様だ。君は今日からこのアルノー侯爵家の長男なんだから」
お父様は優しく言い聞かせるように口を挟むと、ぺこりと一礼しようとしたルシアンの頭を、がしがしと豪快に撫で回す。
ああ、お父様。その子危ない奴だから取り扱いには気をつけて――と言いたいのをぐっと堪えて、私は無理やり笑顔を作った。
いかんいかん。こちらの警戒をルシアンに悟られてはならない。
私はこれから命を懸けて、この天使のような美少年を更生していかねばならないのだから。
◇
――あれは今から半年ほど前のこと。
午後のティータイムを優雅に楽しんでいたところ、私は大好物のマカロンを喉にむぎゅっと詰まらせた。助けを求めたくとも声が出せず、苦しみもがくこと約三分。目の前で走馬灯がビュンビュンと流れ始めたところで、私は妙なことに気がついた。
走馬灯の中に、見覚えのない記憶が混じっているのである。
その記憶の中では、私は青春をオタ活とブラジリアン柔術に捧げる日本の女子高生だった。尊敬する武道家はエ◯オ・グレイシー。腕を折られても闘志は折れず。
そんな私がハマっていた作品が『裏切りの薔薇は夜に散らして』――通称〝バラちらし〟と呼ばれる大作少女漫画だ。
物語は、教会に住まう孤児のヒロインが、悪名高きベラミス伯爵の実の娘であると判明するところから始まる。
一夜にして貴族令嬢の仲間入りをしたヒロインは、野心家の父に脅迫されて、王族に取り入るべく王子王女が通う学院へと編入することに。庶民派根性満載な彼女は、当然のごとく貴族たちから陰湿ないじめを受けることになるのだが、持ち前の明るさと行動力で次々と困難を打ち破り、段々と周囲から一目置かれる存在となっていく――
というのが、この作品の大まかな粗筋だ。
このベタなストーリーと、可愛い絵柄に見合わぬドロドロの愛憎劇が人気を呼び、バラちらしは空前の大ヒットを記録することになった。
ただこの漫画、少女漫画のわりにやたら長い。私は連載初期からこの作品を追いかけていたけれど、単行本の既刊が二十を超えても物語が収束する気配はなく、次から次へと濃ゆい登場人物ばかりが増えていく。そのせいで単行本に掲載された人物相関図もどんどんと複雑化していき、最新巻ではさながら曼荼羅アートのようになっていた。
そんなあっちこっちに感情の矢印が飛びまくる物語の中で、ひときわ異彩を放っていたのが〝学院の首席〟ルシアン・ベルナーだ。
柔らかに流れる金髪に、どこか物憂げなすみれ色の瞳。まるで絵画から抜け出してきたような美貌の持ち主である彼は、物語初期からヒロインを気遣い、時には助けてくれる、優しいスパダリ系キャラだった。
おまけに、『幼い頃に実の両親を失い、貴族の養子になった』という悲しい過去を持つせいか、華やかな容姿にはどこか影があって、それが一層彼の魅力を高めていた。
ヒロインもそんなルシアンに惹かれ、二人は数多の障害を乗り越えたあと相思相愛の関係となる。結婚の約束も交わして、最新巻でついにゴールインするものかと思われたのだが――
そこで終わらないのが〝バラちらし〟である。
なんとこのルシアン、とんでもない極悪非道キャラだったのだ。
ルシアンの実の父親は、王宮に仕える優秀な役人だった。しかしある時、彼は身に覚えのない罪を着せられた挙句、不審な死を遂げてしまう。そして母親も、夫の後を追うようにわずか数週間後に他界。
たった一人残されたルシアンは、孤児として遠戚の家を転々としたのち、最終的にアルノー侯爵家に引き取られる――というのが、彼の過去の真相だった。
この事件の黒幕が、ヒロインの父・ベラミス伯爵なのである。
ここまで聞くと「ルシアンかわいそうなだけじゃん」と思われるかもしれないが、そうとも言っていられない。
父が陥れられたことを知った幼いルシアンは、ベラミス伯爵に復讐することを強く誓った。そしていざアルノー侯爵に引き取られると、恩人である養父一家を次々と暗殺し、まんまとアルノー侯爵家を乗っ取ってしまうのである。その手際はまるで悪魔の子ダ◯アン。
そうして高位貴族という地位を手に入れたルシアンは、何食わぬ顔で学院に進学し、ベラミス伯爵の娘であるヒロインに近づいたのだった。
そんな彼は、ヒロインの心を手に入れるが否や冷酷な本性を現し、彼女を傷つけベラミス伯爵を亡き者にしようと画策する。
これまで甘い言葉を囁き続けてきた彼が、打ちひしがれたヒロインを見下ろしながら「一生そこで這いずっていろ」と吐き捨てた時には、全バラちらしファンが戦慄したものだ。
SNSでは#まじかよルシアン なるワードがトレンド入りを果たし、この衝撃に耐えきれず、会社や学校を休む人まで現れた。その中には『ショックなはずなのに、なぜかルシアンの罵倒にドキドキしてきた』と妙な性癖を目覚めさせる人までいた。
私は幸薄いツンデレ王子推しだったから傷は浅かったが、ルシアン推しの人々はさぞかし心を砕かれたことだろう。
おのれルシアン。作品世界の外にまで被害を拡大させるとは。
しかもその直後、作者急病のためバラちらしは長期休載となり、私は続きを読むことのないまま、国際試合遠征中の飛行機事故で命を落としてしまうのだった。
――とここまで記憶を遡ったところで、やっと私は理解した。
これは前世の私の記憶だ。
そして今世の私は、ミレーヌ・アルノー。アルノー侯爵家の一人娘である。
つまり、前世で女子高生だった私は、死後バラちらしの世界に転生し、極悪ルシアンに将来サツガイされる予定の侯爵家令嬢になってしまったのだ!
「オボェ!」
奇跡的にマカロンの喀出に成功した私は、必死に酸素を取り込みながら、このお先真っ暗な状況をどうすべきか必死に考えた。
ルシアンの家族の死を阻止する? いいや、現時点ですでに彼らは殺され他界している。救うことはできない。
じゃあここから逃げ出す? それもだめ。大好きなお父様とお母様を残して逃げることなんて絶対できない。
ではルシアンの引き取りを反対する? ……これも怖い。もし私が反対したせいでルシアンの引き取りが流れたと本人に知られたら、私は彼の恨みを買うことになる。あの邪悪な方向に極振りした人間に、敵認定されたくない。それに超がつくほどのお人好しであるお父様が、哀れなルシアンを放っておけるとも思えない。
……私だって、みなしごとなった彼を放置するのは気がひけるし。
ならば残された手段はたった一つ。
私の手で、ルシアンの復讐を止めるのだ。
いかに極悪キャラであろうと、今のルシアンは十歳。さすがに現段階では、心が闇に染まっていることもあるまい。更生の余地は、きっとある。
私が彼を愉快なハッピーキャラに仕立て上げ、凄惨な未来を回避するのだ。
◇
ルシアンが我が家に来てから一週間。
お父様はルシアンのために新しい家庭教師を雇い、彼に英才教育を施そうとしていた。
なんでもルシアンの父親はお父様の学生時代の同級生で、たいへん頭脳明晰な人だったらしい。彼の子ならばきっと優秀であるに違いないと、お父様はルシアンに期待しているのだ。
その予想は大正解である。
バラちらし本編でも、ルシアンは王立学院の不動の首席として名を馳せていた。だがその裏で、彼の策謀に絡め取られて破滅した人の数は数知れず。
ルシアンの類稀なる優秀な頭脳のせいで、多くの人が不幸のどん底に落とされてしまうのだ。
……ならば、その頭脳を台無しにしてやればどうか。
彼の勉強を邪魔して邪魔して邪魔しまくって、彼から知識を奪ってしまうのだ。その代わりに娯楽を与え、思考力を妄想力へと変換させれば、やがて彼は無害なお馬鹿ちゃんになることだろう。
ついでに、間食もたんまり与えるつもりだ。
諸説あるが、人間の脂肪の蓄積量は十二歳までの食生活で決まると言われている。幼い頃に食べたものが、のちのちの人生における体型を決め打つのだ。
つまり今のうちからルシアンを肥やしておけば、将来彼がデブキャラに育つ可能性が非常に高くなるのである。
バラちらし本編では、ルシアンは美貌を駆使して人々を籠絡し、自分の手駒としていた。だがこれで、彼の美貌に惑わされ、操られる人もいなくなるはず。
お馬鹿なデブキャラなんて、少女漫画の世界ではマスコット以外の何物でもないからね!
「ねえルシアン。今日はお勉強なんてしないで、私とあそぼ!」
ルシアンアホの子計画一日目。私は朝の身支度を終えるなり、ルシアンの部屋へと特攻した。まだ一日が始まったばかりだというのに、彼はすでに机に向かって本を開いていて、私に気づくと困ったように眉を下げた。
「遊び……ですか。でも、宿題がまだ終わっておりません」
「宿題なんて気にしなくていいよ。それより外に行こう。うち、犬猫をいっぱい飼っているの。みんなにあなたのことを紹介してあげる!」
「でも」
「外が嫌ならゲームをするのでもいいわ。チェスもリバーシもカードもあるよ。おすすめは私自作の、ゴキ◯リポーカーで――」
「申し訳ございません、お姉様。お誘いは嬉しいのですが、僕は勉強をしないと。こうすることでしか、拾っていただいた恩義に報いることができませんので……」
まるでクレーム対応をするサラリーマンがごとくルシアンは深々と頭を下げ、本に視線を戻してしまう。
え。この子、本当に十歳? しっかりしているわー……。
ただでさえ、天使のような見た目なのに。愛らしい姿を萎ませる姿はなんとも健気で、思わず胸がキュンとした。
本当にこの子が、あの極悪ルシアンに成長するのだろうか。それともこの先の未来に、彼に残酷な復讐計画を決意させるような出来事が待ち受けていたりするのだろうか。
とにかく、こんな可愛い子が将来修羅の道を歩むことになるのかと思うと、胸が痛む。
……って、いかん。危うく流されるところだった。
ルシアンをアホにしなければ、一家全員亡き者にされてしまう。家族の命が、私の腕にかかっているのだ。
ここは心を鬼にして、ルシアンの足を引っ張らないと!
「そう。ルシアンは私のお願いより、お勉強の方が大事なのね……」
わざとらしく肩を落として、私は悲哀たっぷりに首を振った。そうすれば、ルシアンは慌ててこちらに視線を戻す。
「えっ。そんなことは」
「……ごめん、わがままを言いすぎちゃったわ。私、弟ができたと思ってはしゃいでいたみたい。あなたと、仲良くしたかったんだけどな……」
ぶつくさ呟きながら、部屋を去ろうとする。すると背後から「お待ちください!」と慌てて声をかけられた。
――計画通り。
振り返るとルシアンが椅子から降りて、おずおずと私に歩み寄って来た。
「え、えっと。本当は、僕もお姉様と仲良くしたかったんです。その……一緒に、遊んでいただけますか」
「もちろんよ!」
がばりとルシアンに抱きついて、そのまま彼の体を抱え上げる。
ふむ、推定26キロ。身長と比べると軽すぎるな。栄養不足か。
「お、お姉様⁉︎」
「さあいっぱい遊ぶわよ! 午後になったら、マカロンを喉に詰まるくらい食べさせてあげる。血糖値をガンガン上げて、インスリンを働かせるのよ」
「インスリン……?」
「気にしないで。こっちの話だから」
首を傾げる義弟の体を抱えたまま、私は自分の部屋へのしのし向かう。
もう逃がさん。余計な勉強をする暇など絶対に与えてやらぬ。この華奢な体に娯楽と贅肉を詰め込んで、まともな策謀が考えつかぬほど、徹底的なアホの子にしてやるのだ。
覚悟しろよ、ルシアン。
◇
「家庭教師の先生が、ルシアンのことを褒めていたわ。今まで色んな生徒を見てきたけれど、こんなに優秀な生徒に出会ったことがないって」
「え」
アホの子計画一ヶ月後。一家揃って囲んだ夕食の席で、お母様が嬉しそうにそう切り出した。
「……優秀? ルシアンが?」
大好物の羊肉に食らいつくのも忘れて、私はぽかんと口を開ける。
それは一体どういうことか。この一ヶ月、私は徹底的にルシアンの勉強の邪魔をしてきた。授業以外の時間で、彼が学ぶ余裕などなかったはずなのに。
「そうなのよ。一度教えたことは絶対に忘れないし、予習復習は完璧で、課題もきっちりこなしているんですって。『すぐに教えることがなくなりそうだ』と先生が感心していらしたわ」
「そんな、大げさです。それに僕の成績が伸びたのは、先生の教え方がお上手だったからです」
相変わらず子供とは思えぬ謙遜を見せて、ルシアンは恥ずかしそうに顔を伏せる。毎日胸焼けするほどマカロンを食わせてやったというのに、赤く染まった彼の頬は、ほっそりとした線を描いていた。
――って、問題はそこではない。
予習復習が完璧? 課題もきっちりこなしている?
そんなはずがない。私にべったり貼り付かれて、ルシアンに自由な時間はほとんど無かった。
むしろ、どんどんお馬鹿になっていなくちゃおかしいのに。
「それについてなんだが」
ごほん、とお父様が咳払いをする。おや、と顔を上げれば、鋭い視線が私の方へと注がれた。
「ミレーヌ。お前は最近、勉強を疎かにしているそうだね。なんでも、授業以外の時間はほとんど遊び呆けているのだとか。最近は与えられた課題もまともにこなせていないとお前の教師から聞いているぞ」
「う。それは」
「余暇を全て削って勉強しろとは言わない。たまには息抜きも必要だろう。だが、自分がアルノー家の一員であることを忘れないように。お前には、貴族として立派な淑女になるという責務があるのだから」
「……はい。ごめんなさい」
くうぅ、怒られた。私だって、遊びたくて遊び呆けていたわけじゃないのに。
しかしルシアンの前でそんな言い訳をするわけにもいかず、私は唇を噛み締めて項垂れる。
ルシアンをアホにするつもりが、私自身がアホの道に足を踏み出しかけてしまうとは。
ミイラ取りがミイラになる、とはこういうことを言うのか。
「あの……お父様。お姉様を、お叱りにならないでください」
正面に腰掛けていたルシアンが、控えめに口を挟む。驚いてそちらを見やれば、彼は華奢な体を縮こめながら、真剣な表情でお父様を見据えていた。
「お姉様は僕のことを気遣って、僕の相手をしてくださっていたのです。これまで色々な家を転々としましたが、こんなに優しくしていただけたのははじめてで……。僕も、いけないと分かっていたのに、ついお姉様に甘えてしまいました」
「まあ、そうなの?」
感嘆の声を上げるのはお母様である。お母様は私とルシアンを眺めて、ほんのりと瞳を潤ませていた。
ルシアンは胸に手を置き、さらに力強く訴える。
「両親が亡くなってから、辛いことばかりが続きました。前にいた場所では、無視をされたり、叩かれたりすることがほとんどで……。だけどお姉様とお会いしてから、急に毎日が楽しくなったんです。だからどうか、お姉様を責めないでください」
「ミレーヌ、ルシアン……」
お父様は厳しい表情を保とうとしているものの、声の震えを抑えきれないようだった。お叱りモードだった空気は一瞬にして感動の色に染められて、給仕する使用人たちまでもがこっそり鼻をすすっている。
な、なんだこの空気。
「……ミレーヌ。お前がそこまでルシアンのことを気遣っていたとは知らなかった」
「え。は、はあ?」
「勉学を疎かにしたことを許すわけにはいかないが……。お前はお前なりに、ルシアンを受け入れようとしてくれていたのだね。私は、嬉しいよ」
「ね、言ったでしょう。ミレーヌは良いお姉さんになるって」
どこか誇らしげにお母様が言えば、ルシアンも「はい」と同調する。
「お姉様はとてもお優しい方です。もちろん、お父様もお母様も……。この家に拾っていただけて、僕、幸せです」
この哀れみを誘う台詞が決め手となった。
すでに私を叱る気は失せたようで、お父様は我が子の成長を喜ぶように上機嫌でワインに口をつける。お母様はとうとうナプキンで目の端を拭い始めた。
ルシアンが、一瞬にしてこの場の空気を作り上げたのだ。
お小言を回避したはずなのに、なぜか強烈な違和感があって、私はそうっとルシアンを盗み見る。
彼は健気で、いじらしくて、非の打ち所がない完璧な笑みを、私に向けていた。
◇
「ルシアン様ってすごく上品だけど、生まれは私たちと同じ平民なんでしょ? しかも父親は不正で干された元役人なんですって」
「らしいわね。はじめはそんな子を引き取るなんて、奥様とお嬢様かわいそーって思ったけど、ご本人を見てそんな考え弾け飛んだわ。『なにこの子⁉︎ 天使⁉︎』って」
「分かるわー。健気で可愛いよねぇ。守ってあげたくなっちゃう」
厨房から、メイドたちの世間話が聞こえてくる。そのどれもが、ルシアンに対して好意的なものだった。
確かに、ルシアンは可愛い。養子であるという自覚を忘れず、常に控え目であろうとする態度は大変いじらしいし、「僕、こんなにおいしいものはじめて食べます」とマカロンを頬張る姿は子リスのようだった。
もしかしたら、この時点でのルシアンはまだ復讐すら考えつかぬほどの〝いい子〟なのかもしれない。
ならば私が気をつけていれば、下手な手を打たなくとも悲劇は回避できるだろう。
――そう思うのに、胸騒ぎがする。
ぬるりと懐に入り込まれたような、そんな不気味な予感がする。
私には、彼が〝大人が望む理想的な子供〟を演じているようにしか見えないのだ……。
そんなことを考えたせいで、自室に戻ってからも、なかなか寝付くことができなかった。
モヤモヤとした思いが胸の中をぐるぐると巡っている。天蓋をぼんやり眺めながら、自然と疑問が口からこぼれた。
「本当にルシアンはいい子なのかな……」
「へえ。今のお姉様には、僕が悪い子に見えるんですか」
すぐ横から声がする。視線をずらせば、ベッドの脇で私を見下ろす、ルシアンの姿があった。
「……ひっ」
ぎゃあああああ!
と驚きの絶叫を上げようとすれば、すかさず口元を手のひらで押さえつけられる。
もがあああああ! というくぐもった声だけが、薄闇の中に溶けていった。
「……だめだな、お姉様。夜中に大きな声を出したら、他の人に迷惑じゃないですか。静かにしてください」
「もっが、もががうが!」
「いや何を言っているのかわかりませんて。……まあいいや。手を離すので、騒がないでくださいよ?」
そう言って、ルシアンは宣言通り私の顔から手を離す。
――ここで大騒ぎすることもできたのだけれど。
ルシアンの右手に小ぶりのナイフが握られていることに気がついて、私は静かにベッドから体を起こした。
「……ルシアン。こんな真夜中に、どうしたの」
「お姉様とお話しするために決まっているじゃないですか。駄目でしたか?」
「駄目に決まっているでしょう。いったい、何の用?」
「僕が何の話をしに来たのかは、お姉様もお分かりのはず」
にこ、とルシアンは愛らしい顔に満面の笑みを咲かせる。
作り上げたようなその表情に、夕食の時と同じ悪寒が全身を駆け巡った。
――ああ。もう、出来上がってしまっているんだ。
自分の考えがいかに甘かったか、今になって分かってしまう。
十歳のルシアンならば、まだ暗い感情に染まりきっていないはずと。まだ軌道修正できるはずだと、私は勝手に思い込んでいた。
だけどその認識は甘かった。
ルシアンはとっくに、バラちらし本編の邪悪さを身の内に秘めていたのだ。
「初めてお会いした時。復讐は何も生まないと、お姉様はおっしゃいましたね」
「……………………言ったっけ?」
「とぼけなくて結構です。――まったく、あの時は驚きましたよ。どうしてこの人は、僕が復讐のために生きていることを知っているのだろうって」
うう。やはりあれは悪手だったか。
こんな小さな子供相手ならまだ大丈夫と、高を括った自分が忌まわしい。
「そのあとも、やたら僕を構おうとするし。どこに行くにも後をついてきて、四六時中ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ煩いことこの上ない。邪魔だから失せろと、何度言いかけたことか」
「それは、ごめん……」
「あなたがあまりに愚かなので、復讐の話も何かの間違いかと思いました。……でも、やはり僕の本心に気付いていらしたようですね? 今だって、僕の変わりぶりを見ても、大して驚いた様子をお見せにならないし」
あ、そっか。
私は「ルシアンってこういう奴」という認識があったから、わりと黒ルシアンを見せつけられても受け入れてしまったけれど。
本当なら、ここは「あんなに純真で健気なルシアンが……!」と驚くべき場面だったか。
「気になるな。お姉様はどうして、僕が復讐を計画していると知っていたのです?」
「それは、お父様からあなたの生い立ちを聞いて……」
「それだけではないはず。あなたははじめからずっと、僕のことを警戒していましたよね。もしかしてあなたは、僕がこの家を利用しようとしていたことにも気づいていたのでは?」
穏やかな笑みを湛えたまま、ルシアンがこちらに一歩近づく。彼の右手のナイフが、薄闇の中でぎらりと光った。
「そろそろはっきりさせましょう。あなたの目的は何ですか? 正直に答えてください」
「それは……」
なんと説明すればいいのだろう。あれこれ誤魔化しの言葉を考えては、これは駄目だと横へ押しやる。
そうだ。こんな場面で、言い繕う必要はない。ここははっきり、自分の本心を伝えるべきだ。
「ルシアン。私、あなたの復讐を止めたいの!」
「は……?」
「言ったでしょう。復讐なんて、何も生まない。報復は報復に繋がるだけだよ。だから、無茶な真似はやめて」
ルシアンは顔から表情をすとんと落として、私をじっと見つめていた。
少しはこちらの言葉が届いているのだろうか。もうひと押しと、私は言葉をさらに重ねた。
「お父様もお母様もあなたのことを気に入っている。私たち、きっといい家族になれるわ。だから、そんな復讐なんて考えず、これからのことを考えよう。その方が、あなたのご両親も、きっと喜ぶ――」
「ふざけるな!」
激しい一喝が、私の声を遮った。あまりの剣幕に息を飲んで前を見れば、ルシアンがまっすぐと私を睨みつけていた。
「父さんは、国のために一生懸命働いていた! それなのに、濡れ衣を着せられ殺されたんだ! しかもそのせいで、母さんまでも倒れてしまった。お腹には、僕の兄弟もいたのに……!」
「え……」
叫ぶ彼の悲痛な姿に、私は何も言えなくなる。
……ルシアンは、ご両親だけでなく、兄弟までも失っていたのか。
「それなのに、復讐は何も生まないだと? 報復は報復に繋がるだけだと?」
ナイフを持った手が、ゆらりと持ち上げられる。鋭い刃先が、私を責めるようにまっすぐと突きつけられた。
「親もいて何の苦労もせずにぬくぬくと生きてきた人間が、偉そうに勝手なことを言うな!」
ルシアンの怒りの声が、呆然とする私の胸をぐさりと刺した。
確かにルシアンの言う通りだ。
辛く悲しい思いをしたからこそ、彼は復讐を誓ったのに。私は彼の気持ちを、これっぽっちも考えていなかった。
何が『あなたのご両親もきっと喜ぶ』だ。ルシアンのご両親が、どんな目に遭ったかも詳しく知らなかったくせに。
「……ごめんなさい」
謝罪が口からこぼれた。ルシアンの表情は動かない。
「私、自分のことにいっぱいいっぱいで、あなたの復讐をどう止めるかしか考えていなかった。何も知らない人間に勝手なことを言われたら、腹が立つよね……」
まず私は、ルシアンの気持ちを確かめるべきだったのだ。
なのにそれをせず、一方的な都合と決めつけで、彼の意思を捻じ曲げようと愚かなことをした。
「いまさら媚びるようなことを。命乞いのつもりですか?」
私の言葉など毛ほども心に響かぬようで、ルシアンは鼻で笑ってさらにナイフを近づけてくる。
首を横に振って、私は彼の瞳をまっすぐ見据えた。
「命乞いなんてしないよ。それに、家族が危険に晒される可能性がある以上、あなたを野放しにするつもりもない。だから――」
次の瞬間。
私は突きつけられた刃を横に払うと、そのままルシアンの右手を絡め取り、肩関節をひねり上げた。
「う!」
短い苦鳴と共に、ルシアンはあっさりとナイフを落とす。
素早くそれを拾い上げ、私は刃を頭上に向けて投擲した。そうすれば、ナイフはダーツのように深々と天井に突き立てられる。
「な、なにを」
「ごめん!」
これで終わりではない。ルシアンがナイフに気を取られている隙に、私は彼の体をベッドに引き倒す。そしてそのまま、手足をしゅるっとルシアンに絡みつかせ、腕ひしぎ十字固めをお見舞いした。
見事に極まった私の技は、ルシアンの左肘関節に容赦ない負荷をかける!
「……!」
悲鳴を上げないのは、彼なりのプライドだろうか。
しかしルシアンの小さな体はプルプルと震え、痛みを必死に耐えていることははっきりと感じることができた。
そのままの体勢で、私はそっと切り出す。
「ごめんね、ルシアン。私、あなたの復讐を止めることばかりに気を取られて、あなた自身の気持ちを全く理解しようとしていなかった」
「……!」
「私だって、お父様とお母様を殺されたら、その仇を取ろうとするかも――ううん、絶対する。相手の両膝を砕きその罪を明らかにするまで、ひたすら戦い続けると思うわ。それなのに、あなたには復讐をやめろなんて言っちゃって、本当に身勝手だったね」
「……!」
「でも、自分の復讐のために周囲の人を踏み台にするのは間違っている。いつだって戦いは、研鑽した己の身体で挑むべきよ。だからやっぱり、あなたをこのまま好きにさせることはできない」
「……!」
「……ルシアン? どうして何も言わないの?」
私が敬愛するエ◯オ・グレイシーは、最強の柔術家・木村◯彦との対戦で腕を折られても、決して屈することはなかったという。結局試合には敗北したものの、彼の闘魂は凄まじく、のちのち木村に「勝負への執念は私の完敗だった」と言わしめたほどである。
ルシアンにも、譲れぬものがあるということだろうか。ならば私も木村と同じように、ここは覚悟を持ってルシアンの肘をボキッといくべきか?
いやでも、育ち盛りの腕を骨折させるのは流石になぁ……。
――と思って、仕方なく体を離してやったら、そこでやっとルシアンが声をあげた。
「――あんな状態で、話せるわけがないだろ! この馬鹿!」
「あ、ごめん」
こちらにも言い分はあったが、涙目で叫ばれては何も言い返せない。素直に私は頭を下げた。
「もう、なんなんだよあんたは! 滅茶苦茶にもほどがあるだろ!」
「そんなに痛かった? 泣かないで……」
「泣いてない!」
どう見ても泣いているのに、ぶんぶん首を振ったあと、ルシアンは顔を横に背けてしまう。そんな子供っぽい仕草の中に、初めて彼の〝素〟が見えたような気がした。
「――ねえルシアン。これで分かったでしょう。今のあなたでは、たとえ刃物を使っても私に勝てない。もしあなたが復讐のために誰かを利用しようとするなら、私は持てる技の全てを駆使して、あなたを止めるわ。物理的に」
「物理的に……」
うわ言のように呟いて、ルシアンは自分の肘をさする。やはり痛かったらしい。
「だから、私の目が黒いうちは、下手な真似はできないと心得なさい」
「……」
「どうしたの? もしかして、まだ痛い? ごめん、力をかけ過ぎちゃったかな……」
ルシアンの肘に手を伸ばそうとする。だけど彼は私の手を振り払って、もぞもぞとベッドを下りてしまう。
「ルシアン……?」
「確かに僕は、あんたには勝てない。それは今のでよく分かった」
子供のくせに冷めた口調で、淡々と彼は言った。
「だから出て行く。こっちの真意を知られた以上、もうこの家にはいられないし」
「そんな」
「……今だって、あんたを本気で刺すつもりはなかったんだ。ただ、本当に僕の考えが察知されているのかどうか確かめたかっただけで……」
ルシアンがこちらを振り返る。
先ほどの刺すような敵意は消え失せて、代わりに強い意思が、彼の小さな顔に宿っていた。
「だが、なんて言われようと、やっぱり僕は父さんの無念を晴らさなくちゃいけないんだ。だから、あんたが僕の邪魔をしようとした時には容赦なく――」
「じゃあしようよ! 復讐!」
「あんた、さっき自分が言ったことを覚えていないのか⁉︎」
私の言葉を聞いて、ルシアンが愕然とする。
その隙をついて、私は彼の右腕をぎゅっと掴んだ。
「前言撤回! 復讐したいというあなたの考えにも一理ある。あなたが自分を磨いて、正々堂々と仇と対決するというなら、私も全力でお手伝いするわ!」
「な――」
「あなたのお父さんなら、私のお父さんも同然よ。一緒に己を高めて、お父さんの無念を晴らしましょう!」
「……」
まるで珍獣と遭遇したかのような面持ちで、ルシアンはしばらく私を見つめていた。だけど不意に、その顔がくしゃりと崩れる。
「どうしてそんな、馬鹿なんだよ……。僕のことなんて、さっさと追い出せばいいだろ」
「追い出す? どうして?」
「だって、あんたが僕を助ける義理も理由もないじゃないか!」
「そう言われても。ここまで聞いて、いまさら知らんぷりなんてできないよ」
と返すと、私はルシアンを布団の中に引き込む。さらに、彼の首に腕を回してぎゅっと抱きしめると、腕の中で「ヒュッ」と緊張を孕んだ吐息が聞こえてきた。
「な――何をするんだよ!」
「何って、寝るのよ。もう子供は寝る時間だもの」
「なら離せ! 寝るなら自分一人で寝ていろよ!」
「やだ。寝ているあいだに家出されるの怖いもん。それにあなた、この一ヶ月ろくに寝ないで勉強していたんでしょう?」
そうでもしないと、あの山のような宿題をこなすことはできないはずだ。彼が太らなかったのも、そうした無茶な生活を続けていたからだろう。
十歳の男の子が復讐のためにここまでするのかと思うと頭が下がるが、こんな不健康なやり方を見過ごすわけにもいかない。
「それじゃだめだよ。成長ホルモンの分泌ピークは午後十時から午前二時。この時間にしっかり睡眠をとらないと、大きくなれないよ。それに睡眠不足は日中のパフォーマンスを著しく低下させるんだから」
「また訳がわからないことを……」
「あきらめて。私、寝ているあいだも技をかけることができるの。もし逃げ出そうとしたら、本気のバックチョーク(※頚部にかける絞め技の一種)をかけるからね。じゃ、おやすみ」
それだけ言って目を閉じると、私の体は勝手にスリープモードに突入する。どこでも、どんな状況でも休息を取れるのが、私の特技なのだ。
想定していた展開とは少々異なるが、自分のやるべきことは分かった。ここはルシアンの気持ちも尊重して、彼の父親の名誉回復に努めるべきだろう。
それをどうやって達成するかは……まあ、明日の朝考えよう。
ルシアンはしばらく脱出を試みていたようだが、私の腕の力がぎゅうっと強まっていくと、やがてあきらめたのか動かなくなった。
「本当に……なんなんだよあんた……」
うつらうつらと薄れゆく意識のなか、彼の声が聞こえる。最後に、「ぐす」と鼻をすするような音が、腕の中で響いたような気がした。
◇
――五年後、アルノー侯爵家広間にて。
「ルシアン! お誕生日、おめでとう!」
そう叫ぶと共に、腕の中の花吹雪をどばっと宙に散らす。
ぱらぱら舞い散る花びらを頭から浴びながら、ルシアンは冷めた表情で首を振った。
「……まったく、何をやっているんですか。これでは後始末が大変になりますよ」
「気にしない気にしない。それより、もっと喜ぼうよ! よっ、十五歳! 花も滴るいい男!」
ルシアンの背中をばしばし叩く。昔はちょっと小突いただけで葉っぱのように飛んで行くほど軟弱だったのに、今の彼はびくともしない。背もこの数年でぐんと伸びて、最近では私を完全に見下ろしてくるようになった。
そのくせ、顔立ちは幼いころと変わらず天使のように美しい。おまけに精悍で、中性的な美貌の中には男らしさもあり、姉の私ですらぼうっと見惚れてしまうことがたまにある。
断言するが、私の知っている〝バラちらしのルシアン〟より、こちらのルシアンの方が数倍格好いい。
――今日は、ルシアンの十五歳の誕生日。
私はこの日を、ずっとずっと待ち望んでいた。
バラちらし公式設定集には、ルシアンは十五歳で王立学院に入学したと書かれていた。そしてその時点で、彼の侯爵家乗っ取りは完了していたはず。
つまり。
本来のシナリオならば、私はルシアンが十五歳になるのを待たずにこの世を去っているはずだったのだ。
だけど私は生きている。生きて、十五歳のルシアンと、仲良く共に暮らしている!
私は死の運命を、乗り越えたのだ!
「まったく大袈裟な。姉さんの方こそもうすぐ十六になるのですから、少しは落ち着きを身につけたほうがいいのでは?」
なんて、ルシアンは生意気なことを言う。だけど、彼が私たち家族に愛着を抱いてくれていることは明白だった。だって、殺されていないし、今もこうして私の弟でいてくれているから!
それにこの五年間、ルシアンには幾度もこの家を出ていくタイミングがあったはずだ。なのにそれをせず、私たち家族を傷つけることもなく、彼はここにいる。その事実が、ただただ嬉しい。
「ふふ」
「……気持ち悪いな。何をニヤけているんです」
「いやあ。ルシアンが私たちのことを好いてくれて、嬉しいなぁって」
「ど、どうしてそうなるんですか」
ルシアンの頬がカッと真っ赤に染まっていく。そんな様すら可愛らしくてニヤけていると、広間の扉がガチャリと開いて、お父様とお母様が姿を現した。
「どうした。朝から騒がしいな」
と目を細めながらお父様が言う。するとルシアンは慌てて表情をきりっと引き締めて、軽く頭を下げるのだった。
「父上。母上。おはようございます」
「おはよう、ルシアン。十五歳のお誕生日、おめでとう」
お母様は足早にルシアンに駆け寄って、彼を抱きしめようと両手を広げる。ルシアンは嫌がることもなく、体を屈めてお母様の抱擁を受け入れた。
……お母様には素直なんだよな。私がタッチしようとすると、野良猫みたいに嫌がるくせに。
「ありがとうございます。お陰様で、こうして十五の年を迎えることができました」
「まあ。あなたったら、まだそんな堅苦しいことを言うのね。お姉ちゃんにはいつも甘えているくせに」
「……! そんなことは!」
「こらこら。せっかくの誕生日なのに、そうルシアンをからかうものじゃないぞ」
反論しかけたルシアンの肩に手を置いて、お父様は笑う。そして、ルシアンと――私の顔を交互に見ると、改まった様子で言うのだった。
「さて。今日は二人に大事な話があるんだ。今から、私の執務室に来なさい」
◇
執務室に私とルシアンを招き入れると、お父様は自分の椅子に腰掛けて私たち姉弟に向き直った。
「ルシアン。君は今年から、王立学院への進学を希望していたね」
「……はい。ですが、学費をお支払いいただく必要はありません。僕なら、特待生枠で入学できますから」
誇る様子もなくルシアンは言い切る。確かに彼ならば、学院の特待生枠も余裕で獲得できるだろう。
この五年間、ルシアンは勉学だけでなく、剣術、馬術、社交術など、あらゆるスキルを研鑽し続けてきた。それもこれも、いつかこの国の要職について、過去の不正を暴き、実の父親の汚名を雪ぐためである。
その甲斐あって、いまや彼はバラちらし本編の闇ルシアンも軽く凌ぐほどの逸材となっていた。学校の入学試験など、全科目満点で通せるだろう。
「――いや、学費のことはいいんだ。むしろ特待生枠は、君の実の父親のように、優秀だが金銭的な余裕のない人が受け取るべきだと私は考えている。だから、そう気張らずに試験に臨みなさい」
「ですが」
「君がなんと言おうと、君は私の息子だ。学費程度のことで遠慮などしないでくれ。それより……」
そこでお父様は、視線をルシアンから私の方へとずらした。
……はて。そう言えば、どうしてこの場に私が呼ばれたのだろう。
「ミレーヌ。お前も王立学院に編入して、ルシアンと学校に通うつもりはないか」
「…………はい?」
私が、王立学院に通う? お父様は、どうしてそんなことを言うのだろう。
突然のことすぎて意味も分からず首を傾げていると、隣にいたルシアンが控えめに口を挟んだ。
「父上。学力的に考えて、姉さんに王立学院は厳しいかと。今の女学校だって名門ではありますし、無理に王立学院を目指す必要はないのでは?」
「ああ、その、なんと言うか。学力はそこまで気にしなくてもいいんだ」
「……」
ルシアンがはっとして、口を閉じる。
おお。もしかしてそれは。
「裏口入学ってやつですか?」
「ミレーヌ! そうはっきり言うんじゃない!」
すぐさまお叱りの声が飛んでくる。
……だけどしばらくして、渋面に悩ましげな色を浮かべたかと思うと、お父様は頭を抱えるようにがっくりと項垂れるのだった。
「実は、王家からお前に縁談の打診があったんだ」
「……は」
声を漏らしたのはルシアンである。次に、「どういうことだよ」と言わんばかりに激しい視線を送られるが、意味がわからないのは私も同じだ。
縁談? この私に? 王家が? どういうこっちゃ?
「先日、バードリー家のパーティーに参加しただろう。そこに王妃様もお忍びでいらしていたそうでな。一目見てお前を気に入り、第二王子殿下の相手にどうかとお考えになったそうだ」
「わ、私を気に入った? そんなお気に入られ要素、私にありましたっけ?」
外見的に、それほど特別なものはなかったと思うけど……?
現に、壁に掛けられた鏡に映る私はごくごく平凡な容姿をしているではないか。
肌はむき卵のようにつるつるだし、体は細すぎず太すぎず、均整のとれた肉づきをしている。伸ばした髪は艶やかで、目もぱっちりとしているし――
「あれ? もしかして私、結構可愛い……?」
「調子に乗らないでください」
いつにも増して冷ややかに、ルシアンが私を見下ろす。なんだなんだ。お姉ちゃんが取られると思っていじけているのだろうか。
「父上。それがどうして、姉さんが学院に通うという話になるのですか」
「それが、この話に反対する人間も多くてな。第二王子殿下ご自身も、あまり乗り気ではないらしい」
「なら――」
「しかし王妃様も、『ミレーヌと過ごせば王子も必ず心変わりするに違いない』と頑なに譲らなくて。それで殿下が今年入学予定の王立学院に、とりあえずミレーヌも通わせてから結論を出そうという話になって……」
なんとまあ、勝手な話か。つまり、権威ある学院の場を使って、お見合いをしちゃおうぜというお話である。お父様が渋い顔をするのも当然だ。
そんなお父様を前にしてはルシアンも何も言えないようで、彼は黙って眉間に皺を刻んでいた。
でも――
「分かりました。私、王立学院に編入します!」
「はあ⁉︎」
高らかに宣言すれば、隣から素っ頓狂な声が聞こえるが、構わず私は大きく頷く。
「別に王子殿下と結婚できなくとも、王立学院への進学歴があれば私自身にも箔がつきますし。それに、ルシアンと学校に通うのも楽しそう。ぜひぜひ、行かせてください!」
「姉さん、そんな軽々しく――」
「そうだな。お前一人なら、たとえ王妃様のご不興を買おうともこの話を断っていたところだが」
言葉を切って、お父様はルシアンに微笑みかける。
「ルシアンが一緒ならば、私も安心できる。――ルシアン。どうか、ミレーヌを頼んだぞ」
「……」
信頼の眼差しを向けられて、ルシアンは言葉を詰まらせる。
彼はしばらく何か言いたげに口元を動かしていたが、やがて肩を落とすと「……はい」と答えるのだった。
◇
第二王子ハルバート。王族でありながら華美を嫌い、剣を愛する体育会系のイケメンキャラ。
そんな彼は、はじめヒロインに対して激しい拒絶を示すものの、徐々に明るくめげない彼女に惹かれていくようになる。
しかし彼の想いも虚しく、ヒロインはルシアンを選ぶことに。
「早くあいつのところに行けよ」とヒロインの背中を押しながら、心の内で(はじめから……俺が君に微笑んでいれば、君は俺を選んでくれたのだろうか)と後悔を噛みしめるシーンでは、さすがの私もキュン死にしかけた。
……はい、正直に言います。
第二王子殿下は、私の最推しでした。
「姉さんは、王家を乗っ取るおつもりですか」
お父様の執務室を出たところで、ルシアンがぼそっと訊ねてきた。その声は責めるように低く鋭い。
向けてくる視線も、なんだかじっとりしている。
「乗っ取るなんて人聞きの悪い。でも、悪い話じゃないと思っているよ。ルシアンはそう思わない?」
「思いません。大体、王子に気に入られるために学院に入学するなんて、どうかしています! 僕以外の男とろくに話したこともないくせに、自分が王子を籠絡できると本気でお考えなのですか」
「え。できるわけないでしょ。それに私、王族なんて堅苦しいとこお嫁に行きたくないし」
「は……?」
ルシアンの大きな目が点になる。この子も表情豊かになったなあ。
「でも、王立学院に通わせてもらえるなら、それもいいかなって。実は前から、ルシアンと同じ学校に通いたいとは思っていたんだよね」
「……別に学校まで同じにしなくとも、家で嫌というほど顔を合わせるじゃないですか」
「だって、ルシアンはお父さんの名誉を挽回するために、これから頑張っていくつもりでしょう? その手伝いをするためには、私がそばにいた方がいいじゃない」
「……」
ぴた、と廊下の途中でルシアンが足を止めた。どうしたのかと振り返れば、戸惑うような、困ったような瞳でじっと見つめられる。
「あなたは、そんなことを考えてこの話を受けたのですか」
「そうだよ。だって子どもの頃、約束したもの」
私の説得で、ルシアンは無茶な手段を思い止まってくれた。――彼自身がアルノー侯爵家を乗っ取った方が、復讐には都合がよかったはずなのに。
そうしてこの世界のシナリオは、私の知るバラちらしから大きく変わってしまった。
本来ならば既に死んでいるはずの私が、今こうして生きている。
さらには第二王子の嫁候補となり、ルシアンと共に王立学院に通うことになった。
一年後には、ヒロインが学院に編入して、バラちらしの本編がスタートすることになるだろう。今のルシアンが、彼女を利用して何かするとは思えないけれど……ここまで物語を変えてしまった以上、「後はお好きにどうぞ」なんて無責任なことは言えない。
ルシアンのためにも、彼のそばでこの先の未来を見届けなければ!
――そんなこちらの決意も知らずに、ルシアンは苦笑を混じらせ、やれやれと両肩をすくめた。
「……本当に、あなたはどうしようもない人ですね」
「あ、そういうこと言う? あんまり生意気だと、また関節技決めちゃうよ」
冗談のつもりで、ルシアンの服を掴もうと腕を伸ばした。だけど、指先が触れたところでルシアンは体を引いて、私の手をひらりと躱す。
私は宙を掴んで前のめりになり、そのままルシアンの胸にぼすんと倒れこんでしまうのだった。
「わ、ごめん」
「まったく。そのジュージュツとかいう妙な技も、学院では封印してくださいよ」
「努力は……します。でも、ルシアンも成長したねえ。本気じゃなかったとは言え、私の組み手を躱すなんて」
「僕も鍛えていますから」
確かに彼の言う通り、ぶつかったルシアンの胸板は厚くてなかなか頑丈だった。もう、五年前のもやしルシアンはどこにもいない。きっと今の彼相手では、私も簡単に勝つことはできないだろう。
そう考えると少し寂しくなって、つい悔しさ混じりの言葉が口をついてしまう。
「でも、ここまで鍛えなくてもよかったんじゃない? べつに、喧嘩をしにいくわけじゃないんだし」
「……そういうわけにもいきません。目的のためには、どうしても強さが必要だったので」
「目的?」
不安が胸を掠める。ルシアンの目的となると、彼のお父さんのことしか思いつかない。でも、この件については暴力的な手段を取らないと、ずっと昔に約束を交わしたはずだ。
それなのに、彼はまだ危険な方法を諦めていないのだろうか。
思わずルシアンの顔を見上げると、こちらの心配を見透かしたように、彼は穏やかに微笑んだ。
「ご心配なく。父のことに関しては、危険な手段を取るつもりも、この家の方々に迷惑をかけるつもりもありません。――関節技は、もう懲り懲りですからね」
言いながら、彼はわざとらしく左腕を曲げ伸ばしする。冗談めかしてはいるが、その言葉自体に嘘はないように聞こえた。
「そう。……なら、よかった。でもそれなら、どうして強さが必要なの? ルシアンは政治家志望でしょう」
学院にも男子には剣術の授業が必修であると聞くが、あくまで最低限の技術を学ぶためのものである。優秀な成績を修めるためには、こうした武芸も疎かにはできないが、わざわざ鍛え込む必要があるほど重要だとも思えない。
私の問いに、ルシアンはすぐに答えず逡巡するように顔を伏せた。
だが、ふとした瞬間、彼の口元に悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「知りたいですか」
がしりと両肩を掴まれる。反射的に身を捩るが、彼の力が予想以上に強くて逃れることができなかった。
「……ルシアン?」
「この五年間。僕は二つの目的のために、ずっと努力を重ねてきました。一つは、父の名誉を挽回するため。そして、もう一つは――」
すみれ色の瞳が、私の姿をくっきりと映す。とたんに私の体は、蛇に睨まれたように動かなくなってしまう。
掴まれた肩が、焼けるように熱い。
「……」
しかし、幾ら待てども続きの言葉が聞こえてこない。ルシアンは、ただただじいっと私の顔を凝視して、やがてゆっくりと首を横に振るのだった。
「……まあ、今はやめておきましょう」
「え」
「少し焦りすぎました。今の話は忘れてください。いずれ必ずお話ししますから」
勝手に話を畳んで、ルシアンはさっさと私から手を離してしまう。
彼は一体、何を言うつもりだったのだろう。気になるけれど、追及できぬ空気があって、私は疑問を口の中に押し込めた。
「ですが、これだけは覚えていてください」
歩き出そうとしたところで、思いついたようにルシアンがこちらを振り返る。
「僕はもう一つの目的のためなら、どんな手段も厭いません。たとえ周囲になんと言われようと……絶対に、やり遂げてみせます」
「う……うん?」
状況を飲み込めぬ私は、頷くことしかできない。
だけど、目の前で笑う彼は、妖しく、艶やかで――
そして身震いするほど、悪い顔をしていたのだった。