第4章
柳と藍が結ばれた冬は、やはり寒さ厳しく山は雪を被り、人々暮らしにも多大な影響を与えるかと思われたが、雪解け水が山頂近くから流れ下流に達する頃には、厳しい自然も生き物たちへの恵みへと姿を変えた。
藍の父である烏天狗は若い二人に苦言を呈したが、母の取りなしと藍の気性を考えると折れざるを得なくなり、春になり田畑が潤う頃には、二人はようやく、ささやかだが穏やかな日を過ごせるようになった。
夏の緑あふれる木々の隙間から川遊びをする子供の姿を山から見て、柳は目を細める。
「楽しそうだな」
今年22歳になった柳は、珍しく歯が見える位に口を開けて、隣に立つ15歳の藍に笑いかけた。すでに貫禄を身につけているが、時折、童心に帰ったかのような表情をする。
「降りて、子供たちと水浴びします?」
そうだな、と柳は一度顎に手をやり、それから藍の修験者装束の衿をつまんだ。
「藍の体が見られるなら、考えてもいい」
いたずらをする子供のような顔をした柳の腹を、藍は笑いながら肘で小突いた。
険しく連なる山々は、天狗達だけのものでは勿論なく、また他のもののけ達が闊歩しているのを妨げて良いものではない。明らかに人間と相容れぬ異形のものとは異なり、人間に近しい容貌を持つからこそ、自分は自然の中で共存するための鎹だと、柳は思っていた。
「雪女は降りて来なかったな」
藍は、頷いた。雪女がいったいどこにいるのか、誰もわからない。
「ひょっとしたら、人間を真似て人里で所帯を持っているのでは…」
柳は首をふる。
「かつてはそのような話も聞いた。しかし」
村を見ると、そこには幸せそうな人々の姿が見える。
「それなら父さんは、尚更無念ではないだろうか…」
天狗の長が雪女に惑わされ、命を落としたのは揺るがぬ事実だが、その経緯や逢瀬をはっきり知るものはいない。ただ、雪深い山で、雪女の住みかと言われる山の北側、険しい岸壁を滑り落ちたかのように、大天狗の白い羽が無惨に散乱していた。
「父さんは、飛ばなかったのだろうか」
いくら吹雪とはいえ、大天狗の羽ならいくらか体を隠せる場所までたどり着けたのではないか。しかし、どこかで生きているのではという望みが断たれたのは、柳の体に受け継がれていた何かがふつりと消滅したことでわかった。
これは他の烏天狗にはわからず、それこそ、直系にしかいない天狗の力を絶やすわけにいかないと、一族が躍起になる最大の理由でもある。
「長のことです。何か理由があるのでしょう」
柳は、藍を抱きよせた。
「藍」
はい、とじきに16歳になる少女は、静かに返事をして自分の腕も彼の腰に回す。
「雪が降ったら、俺は雪女に会いにいく」
はい、と藍は柳の厚い胸板に顔を埋めながら答えた。低い声と鼓動が体を直に伝わってくる。
「俺が帰ってこない場合は、山を頼む」
絞り出すように、柳が言った。飛び出た喉仏が上下し、唾を飲み込んだのは決意を口にした緊張の現れだ。他の者の前では決して見せない弱さを藍は小さな体で受け止め、はっきりと返事をした。
「それは難しいかと思いますわ」
「…なに?」
思わず柳は藍の体を少し離し、顔を凝視した。やもすると間抜けに見える表情だが、藍も微笑みながら優しい声音で言う。
「あなたが命を賭すなら、私も一緒に、黄泉まで伴をする覚悟です。お忘れですか?」
柳は参った、という表情をしたあと、一度目を瞑る。再度藍を見る目は、長であり夫である意思の強いものだ。わかった、と頷き低く藍に言い渡す。
「無茶はするな」
諾、と藍も頷いた。
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紅葉が散り徐々に寒風が山を抜けるようになると、村は冬支度で忙しない雰囲気に覆われる。
初雪が降ったのが1週間程前だ。これから次第に雪が降る間隔は短くなり、やがて連日辺りは白いものが舞い続けるだろう。
だが、雪女が現れるかは誰にもわからない。
「長、何か落ち着かないようですが…」
青年の見た目を有する烏天狗が、隠れ家から夕焼けに染まる山を凝視する柳の傍で、様子を伺っている。
「何でもない。下がっていて良い」
頷く烏天狗は柳と同じ位に見えるが、先代の長に仕えていたうちの1人だ。成人すると見た目の老いが緩やかになり長命になる異形のものは、山が神気を与えて自然に尽くすよう、使命を与えているのではと柳は考えたことがある。
「柳」
藍が庭先に降り立った。黒い羽についた雪を払う。
「数日前に山を越えてきた旅の者が、山小屋で雪女らしきものに出会ったと…」
その言葉が終わらないうちに、柳は羽を広げて飛び上がる。
「…待っ…!!」
気が急いていた。
山小屋は、柳たちが普段過ごすこの山よりややなだらかな、街道寄りの斜面に建てられている。いつの間にか住人はいなくなり、山で獣や植物をとる村人や、多少厳しくとも山を迂回せずに越えてくるものが休むことが多い。そうした中で、雪女と遭遇したという話はぽつりぽつりと村で語られているのだ。
柳と、追いかけた藍が山小屋に着いたときには既に闇が深くなり、すっかり冷えきった囲炉裏端には誰もいなかった。