第3章
その年の冬は、雪が多かった。
藍は日が落ちて底冷えを感じる隠れ家の囲炉裏に火をくべ、斜め前に座る柳に酒を注ぐ。柳の、1つに束ねられた白髪が、炎に照らされ橙に染まった。
昼間は威厳を保ち、時として部下すら近寄りがたい雰囲気をまとう大天狗の柳だが、藍と二人になる時は、その鋭い眼光から従来の細く柔和な目元へと変わり、21歳の青年らしさを取り戻している。
藍はというと、14歳という若さながら、相当の場数を踏んだことによる肝の座り具合が、時として母のような安心感を年上の部下へ与えるほどになった。肩までの黒髪はやはり火の色を帯び、ゆらめく。
二人の間に、長年苦楽をともにした者同士の穏やかな空気が流れた。
「藍、6年前を思い出さないか?」
柳が、家を揺らす風の音に耳をすませ、静かに言った。
先代の長、柳の父が亡くなってからも毎年降雪はあったが、不遇により命を落とす村人の話は聞けど、雪女に拐かされた話は聞かなかった。
「…今年は、現れるでしょうか」
「さあな」
藍には、柳の気持ちが手に取るようにわかった。雪女にずっと会いたがっているのも、6年前に何があったのか知りたいのも。
「そう言えば、静かですね。奥様は…」
2年前に娶った相手との間に、やはり子は成していない。離れに誰かがいる気配も感じられないが、すでに休んでいるのだろうか。
「あれは、少し前に帰した。また俺は1人だ」
聞き間違いかと思った。そして、柳が静かに酒を飲む姿を見てながら、次の言葉を待つ。最初に柳が妻を娶ったとき、藍はまだ年端もゆかぬ子どもであったが、今は14歳だ。人間の女子共は、13、4歳から縁組みをするのが普通であり、藍が望むなら柳の妻になるということかと漠然と考えた。
だが、柳は藍が思いもよらない事を言った。
「お前にも、誰かとの縁組みを用意していると聞いた」
「…え?」
「お前の父からだ。そして、俺の伴をさせるのはもう止めるように、と」
藍の父は先代の片腕でもあり、柳にとっては頭が上がらない存在だ。そして母は、今後危険な目に遭わずに過ごすよう娘を諭すだろうし、そうできる相手を既に決めているに違いない。柳には一族を維持するための相手をと、藍には今までとは真逆の女としての生活をというのは、周囲の意見としては至極真っ当だろう。
しかし藍は、それが自分の望むことではないのを知っていた。
「柳には、私ほど信頼をおける者はいないでしょうに」
はっきりと藍は言い、柳が肯定の意を視線で表すのを確かめてから、更に言葉を継いだ。
「かつて父が言っていました。もう少し時期が違っていたら、私を柳にめあわせられたのに、と。しかし、それは子を産むためというだけなら、やはり私と柳も長くは続かなかったでしょう」
事実、柳は妻を変え、独り身になったのはこれが初めてではない。ただ愛情なくあてがわれた女を何年も縛り付けるのは若い柳には苦痛以外の何者でもなかった。
「私は柳と6年間、山で共に過ごした矜持があります。あなたの片腕であるという、自負があります」
藍は、一見すると穏やかに見える垂れた目に強い意思を滲ませ、柳を正面から見つめた。
「では」
柳は、言葉を選んで言う。
「独り身のまま、俺に仕えるか」
「いいえ」
藍は即座に答えた。
「ではどうする」
いや、と柳は言い直した。
「俺は、どうしたら良い」
藍はその、幾らか弱気な物言いに、呆れたように目を少し大きく開けた。
「迷った時に叱咤しろと言われましたが、これも私に決めさせるんですか?」
思わず柳は苦笑し、藍も笑う。
暗い、夜の山に雪が降っている。まだ8つの時、ちょうど今の藍と同じ位の年若い次代の長は、降りしきる雪を見ながら、父親の死と、己に課せられた重責の大きさに涙した。
雪が降る気配をしばし無言で感じながら、二人は同じ過去を思い出していた。
「私を妻になさいませ。長としてではなく、1人の男として、ただ添い遂げる相手として私を選ぶが宜しいでしょう」
今なら、柳が己の無力に涙しても、拭ってやれるだろう。そして彼が望むなら、涙しないようずっと支えてやれるだろうと、藍は思った。
「いずれ山の摂理により命を落とす時は、私も共に参ります」
藍の声は静かだが力強く、柳はそれを黙って聞いていたが、やがて頷いた。
柳がまた酒を一口飲み、藍を見つめて短く言う。
「抱いてもいいか」
藍はすでに、動くことも言葉を発することもしない。返事を待たずに柳は藍の体に手を添え、優しく組み敷いた。
幼い頃から修験者装束に包まれていた体は、いつの間にか丸みを帯びており、柳の体によく馴染んだ。