第2章
4度ほど季節が巡ったある春の日、藍は久しぶりに柳と会った。
古参の烏天狗が実質的に一族をまとめているとはいえ、柳は長だ。遠巻きにはいつも見ているが、父の、娘と想い人の距離を取らせたいとの思惑より、普段言葉を交わすことはなくなっていた。
「藍」
山の表側、日が当たる斜面に佇み、ふもとを見やる柳を眼下に見つけ、藍は羽を畳み下りてきたのだ。不意な再会に、柳は驚きながらも嬉しそうな顔をした。
19歳になり、白髪は束ねられる位に伸びている。藍は12歳で、黒い艶やかな肩までの髪は変わらず、背丈は母と同じ位になっていた。目線が近くなり、藍の心はざわつく。
柳、といいかけ、一度口をつぐんだ。
「…長」
「柳でいい」
涼やかな目元は更に風格を増したが、藍に向けた笑顔は、かつての優しいままだ。藍も笑って、柳、と呼び直すと、なんだと返すにこやかな声音も変わらない。
藍は安心と切なさを感じたが、表に出さないよう努めて話し掛ける。
「近頃の山は落ち着いてきたと父は言っていますが、本当にそう思われますか?」
年頃になり、言葉遣いも変わった藍に一瞬柳は驚いたが、長として落ちていて返答をする。
「ああ…確かに得体の知れぬもののけ達が山を荒らすことは減った。共存できる者達とは、盟約を結び互いに不可侵の運びとなった。しかし」
柳はそこで、言葉をきった。
「ふもとの村に、よくないものが出るそうだ…」
天狗がいつからかこの地に住まい、山を統べるようになってから、人は空を駆け天候を操る異形の者たちを畏れ敬い、恩恵に預かってきたが、もののけ達が村を脅かしても必要以上に手助けをしないよう心掛けてきた。
だが、年若い長は、苦しむ人々の姿を見て悩む。
「人々の暮らしに手出しは無用です。重々ご存知かと」
柳は、藍を見つめた。藍の言葉は、父の烏天狗に似ているが、その心根は柳に近いものだとお互いによく理解しているからこそ、わざわざ戒めのように口にするのだ。
「では、俺は何故こうしているのだ」
悲しげに、柳は呟いた。
「一族の中で、ひときわ特異な外貌と力とを、俺は備えている。それは、山の神から預かった強大な力を操り、山へ、山と共に生きる者達へ恵みを返す使命を与えられているからでは無いのか」
柳が握っている拳に、力が入るのがわかった。
「父さんが死んだ時も、何もできなかった。この数年間、傀儡のように過ごしている。俺は、なんのために生を受けているのだ、と」
「柳…」
藍は、その苦渋に満ちた横顔を見上げた。
「俺がもし子を為さぬまま命を落としても、違う腹から一族を統べるものは生まれるだろう。生まれなくとも、それにより一族が滅びようと、それは山の摂理だ。だからこそ、今、与えられた本分を全うできないのなら、存在している意味はない」
柳は長を継いでから、既に2度女の烏天狗を娶り、別れている。長老達は非難するが、無用に部下を縛り付けることもできない柳の優しさは藍には痛いほどわかっていた。
「柳…」
藍はほとんど無意識に、柳の手を取った。背は勿論届かないが、並んで少し顔を向けたら互いの目を見られるくらい、近くなっている。柳も藍を見て手を握り返し、そのまま体を引き寄せ抱きしめた。
「藍、俺の片腕になってくれ。俺が迷う時に、傍にいて叱咤してほしい」
妻ではなく、一族を率いる助けとして。
それは、柳と添い遂げるという淡い少女の夢を既に打ち砕かれた藍にとっては、予想外に嬉しい言葉だった。
何よりも、柳に必要とされている事実と、それに報いたいという気持ちが沸き上がる。先代の長が命を落とした時に、自分の無力さに苛まれた藍には、これこそ幼き頃より願っていた形だと実感もしていた。
諾、と藍は頷く。
好いた男の腕の中で、女として生きることを捨てたのだ。
それからの柳は、何か吹っ切れたようでもあった。村人に請われるまま、もののけの脅威から守ってやる。
飢餓や自然の脅威にも、天候を操り助けてやった。見返りは求めずに一見無謀とも思える行動も、藍の如才ない取りなしと的確な助言により、決して一族を危険な目に晒すことはなかった。
何より、長として、大天狗として生を受けたのはやはり必然だったのだろう。揺るぎない精神と同じように、年々鍛え上げられていく何者も跳ね返す強靭な肉体は、烏天狗達の比では無かった。
結果として村人からは畏れだけでなく崇められ、土地神のような扱いを受けることに文句を言うものは少なかった。
再度、柳は女も娶った。
これはやはり柳の意思とは外れるところではあったが、長としての自覚ありきのことだろうか。美しい妻は、藍を部下と見なして歯牙にもかけないが、藍の胸中は複雑であった。
また2回、冬を越え、藍は14になっていた。