第1章
幼い藍は、雪女を見たことが無かった。
数年、また数十年ごとに巡ってくる雪の多い冬に、雪女は山の奥から降りてくる。なぜわざわざ降りてくるのか、と藍は吹雪を避けるために身を潜めている、山の横穴の中で柳に聞いた。
「さあな。寒いから人恋しいのかもな」
「ひとこいしい?」
「誰かとくっついて、温まりたいってことだよ」
寒風が吹きこみ、小さな烏天狗は、自分の修験者装束の衿を合わせた。
藍より7つ年上の柳は、いずれ一族をまとめるために小さい頃から厳しく育てられていた。白い、耳が隠れるほどの髪は風に煽られ平素より無造作に乱れており、藍の豊かな肩まである黒髪とは対照的だ。
15才で既に達観した物言いをする修験者姿の柳の手を、8才の藍は優しくさする。まだ体の線は細く少年のようなのに、手は力強く節くれて、しかし寒風に当たり赤くなっていた。
「もう寒くない?」
柳は笑う。普段きりっとした目元がなくなるくらい柔和な表情をするのは、藍といるときくらいだ。すでに背丈は6尺に届くほどの柳が見下ろすと、胸より下に、藍の心配そうな顔が見えた。
大丈夫、と礼を言い、柳はこの、幼い同士の頭を撫でる。
「藍、気をつけろ。そろそろ雪が激しくなる」
人間と他のもののけのいざこざに、天狗達が間に入る必要はない。村人は、雪山でいなくなった息子を、夫を、探して欲しいと天狗に手を合わせるが、それは仕方のないことなのだ。少なくとも、自ら雪深い山に入った者達の意志の結果であった。
だが、その年は少し様相が違った。巻き込まれたのは、柳の父である大天狗だ。山を統べる天狗の長が、一介のもののけが起こしたものとはいえ吹雪に負けるとは誰も思わなかったが、心身共に鍛練を常としていた長が雪女に惑わされたとは、それこそ一族のものには信じがたいことであった。
吹きすさぶ雪に目をこらしながら、藍は問う。
「柳、長はどこ?」
藍は、長の片腕ともいえる烏天狗の娘で、長とも柳とも繋がりが深い。幼い頃から聡明で美しいこの娘は、しばしば父に帯同し、山のもののけが跳梁跋扈する様をその目で見てきた。山を、仲間を脅かす異形のものと密かに対峙し、いくばくの犠牲を払いながらも山の安寧を保てるよう尽力してきた藍の父は、長から絶対的な信頼を寄せられている。
柳は、まだ若輩のため、しばしば藍と同じく最前線より離れたところで待機するのを余儀なくされていた。母はすでにおらず、少なくとも烏天狗とは一線を画す特異な容姿を持つ柳は、一族をおさめる跡継ぎとして、迂闊にもののけの手にかかり命を落としてはならないときつく言われていた。
歯痒かったが、ここで無分別に突入するのは尊敬する父の望むことではなかった。
「藍、長は」
柳は、自分の袖を掴む幼い少女に答えた。
父を、他人行儀に呼ぶようになったのはいつからだろう。母が死んだ頃からだろうか。柳は躊躇ったのちに、久しく口にしていない呼び方を使う。
「父さんは」
吹雪は、激しさを増している。二人がいる横穴にも雪は吹き込み、柳は小さな藍の体が飛ばされぬよう、肩を抱く。装束越しでも伝わる掌の震えを抑えるように、藍はそこに自分の小さな手をそっと重ねた。
山を向いたまま答えた柳の声音は、明瞭だった。
「父さんは、死んだ」
山を覆う雪と同じくらい白い髪は、その目元を隠している。藍は手を伸ばしたが柳の頬には届かず、涙は拭われる前に雪と同化して消えた。
きっと、今後山をまとめねばならぬ柳が人前で泣くのはこれが最後だろう。
しかし隣にいながらも、見上げねばならぬほどの傷心の体を包み癒すには藍はまだ小さく、その事実は少女の心にも微かな無念と気概を生じさせるには十分すぎるものであった。
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数日続いた吹雪が止むと、烏天狗たちは山の表側にある隠れ家に集まり会合を開いた。
長の遺体は、見つからなかったのだ。
雪女に連れていかれたか、凍りついて砕けたか。いずれにしろすでに存在しないのは、持ち主を失い舞い戻ってきた羽団扇を見るまでもなく、息子である柳が本能によりそれを断言したからである。
そしてその事実は、同時に柳の肩にかかる重責を表すものだ。
「柳、頼むな」
藍の父の言葉は新しい長に全幅の信頼を寄せるものでは決してなく、青二才への牽制であることは明らかだ。柳もまた父の跡を継ぐことが何よりの供養であると自覚しているが、若さ故に、無謀な行動に走らないと約束はできない。一族内で図らずも利害は一致し、柳は古参の烏天狗達の監視下に置かれた。
そして数ヵ月の後、人間でいうところの妻にあたる、妙齢の女をあてがわれた柳は、幼い藍にとって最早気軽に話せる相手ではなくなっていた。
藍よ、と、隠れ家の簡素な部屋に正座をし、父である烏天狗は向かいに座る娘へ言う。
「このような事態にならなければ、お前と柳を添わせることが出来たかもしれん」
正面で父を見上げる藍は、自身の両膝にきっちり握った拳を置き、口元を真一文字に閉じている。
「わかるな」
父の言葉は、有無を言わさぬものであった。
藍は拳を緩め、膝より手のひら分ほど先に、静かに両手の指を揃えて付いた。上体を倒し、両の親指と人差し指で畳に象った空洞に、額を静める。
今はただ、諾と言うしかないのは藍が何よりわかっているのだ。 母のすすり泣きは、静かな屋敷には悲しいほど響いたが、藍は泣かなかった。